脇坂 安照(わきさか やすてる)は、江戸時代中期の大名播磨国龍野藩の第2代藩主。龍野藩脇坂家4代。官位従五位下淡路守

 
脇坂安照
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦4年3月20日1658年4月22日
死没 享保7年9月19日1722年10月28日
改名 甚之助(幼名)、安照、幽水(号)
別名 主殿(通称
戒名 玄要院殿
墓所 京都府京都市右京区花園妙心寺隣花院
官位 従五位下淡路守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣
播磨龍野藩
氏族 脇坂氏
父母 父:脇坂安政、母:今井総十郎の娘・月光院
兄弟 安村安照、世伊、左牟ら
正室:岡部直好の娘
側室:円光院、三沢氏、横地氏
安清、安次郎、久留島通用安利本多重貞照武
養女:京極高之正室
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生涯

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明暦4年(1658年)3月20日、初代藩主・脇坂安政の五男として江戸で誕生する。寛文12年(1672年)6月28日、4代将軍徳川家綱に拝謁する。延宝6年(1678年)9月13日に長兄・安村が病弱を理由に廃嫡されると世子となり、同年12月28日に従五位下・淡路守に叙任する。貞享元年(1684年)11月25日、父の隠居に伴い跡を継いだ。元禄10年(1697年)には伏見宮邦永親王勅使饗応役として接待している。

元禄14年(1701年)、江戸城中で浅野長矩吉良義央に斬りつける赤穂事件が発生すると、この事件の処理に際し、赤穂藩の隣接藩の藩主である安照は浅野家の居城である赤穂城受け取りの正使を務めている。またその後1年半、新しく永井直敬が赤穂藩主として入部してくるまで、赤穂城(赤穂藩領)の在番を務めている[注釈 1]

なお、この赤穂城の在番を務めている間の元禄14年6月25日に、赤穂城で在番の指揮をとっていた龍野藩家老の脇坂民部の日記の『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜(6月24日の夜)、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。このことを言上するため太郎左衛門を龍野へ遣わした」という記述があるように、赤穂城にて在番していた家臣の左次兵衛が乱心して同僚の貞右衛門を斬り殺すという事件が起こっている(脇坂赤穂事件)。同日記に「老中・阿部正武へ明後日(6月27日)早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わす予定」と書かれている。

宝永6年(1709年)11月13日、幽水と号し、長男の安清に家督を譲って隠居した。この時、四男の安利に2000石を分与したため、龍野藩は5万3000石から5万1000石となった。享保7年(1722年)9月19日、同年2月に死去した安清の後を追うように龍野で死去した。享年65。

創作・脚色による巷談

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脇坂安照を演じた人物

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系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 龍野藩の家老など200名によって管理・在番されていた。

出典

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