藤倉多祐
藤倉 多祐(ふじくら かずまさ、1957年8月31日 - )は、栃木県足利市丸山町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
白鷗大学足利高等学校軟式野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県足利市丸山町 |
生年月日 | 1957年8月31日(67歳) |
身長 体重 |
170 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト外 |
初出場 | 1980年10月5日 |
最終出場 | 1987年5月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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1983年までの登録名は藤倉 一雅(読み同じ)。学生野球指導においても変更後の藤倉多祐の名義を用いている。父は、元西鉄の藤倉平三郎。
来歴・人物
編集現役時代
編集足利学園高では投手としてプレーし、3年次の1975年には夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で鹿児島商業高に完封勝利するが、3回戦では習志野高のエース小川淳司に完封負けを喫した[1]。高校卒業後は1976年に青山学院大学に進学し、内野手に転向。東都大学リーグでは4年次の1979年に春季二部リーグで優勝し、入替戦で専大を降して5年ぶりの一部昇格を果たす。同年の秋季では1年下のエース吉田幸夫(プリンスホテル)を擁してリーグ3位に入る健闘を見せ、自身もベストナイン(遊撃手)に選出された。
同年オフにドラフト外で阪神タイガースへ入団。同期入団に岡田彰布・北村照文などがおり、強肩俊足の内野手と期待され、新人ながら背番号「3」を与えられる。2年目の1981年にはジュニアオールスターでMVPを獲得し、1983年には自己最多の55試合に出場するが、主に代打・代走としての起用にとどまる。
同年オフに弘田澄男との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍し、1986年と1987年には2年連続イースタン・リーグ首位打者を獲得するなど二軍では活躍するも、一軍ではその実力は発揮できなかった。1988年引退。
現役引退後
編集引退後はロッテで一軍打撃コーチ補佐(1989年)→二軍打撃コーチ補佐(1990年)→二軍守備・走塁コーチ(1991年)→一軍守備・走塁コーチ(1992年 - 1993年)→一軍内野守備・走塁コーチ(1994年)→スカウト(1995年 - 1998年)→二軍内野守備・走塁コーチ(1999年 - 2001年)を務め、スカウト時代は母校の後輩・清水将海らを担当した。
ロッテ退団後、東海学園大学女子ソフトボール部コーチを経て、2005年より出身高校の系列である白鷗大学野球部コーチに就任。その後は浅野啓司と入れ替わって監督に昇格し、一時は総監督となるが、再度監督に復帰。2022年をもって退任し、顧問となった[2]。教え子の大山悠輔は2016年ドラフト1位で阪神に入団し、自身と同じ背番号3を着けた[3]。2024年4月からは白鷗大学足利高の軟式野球部の監督に就任し、初年度から全国高校軟式野球選手権北関東大会の初優勝へ導いた[4]。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1980 | 阪神 | 2 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .333 | .333 | .333 | .667 |
1981 | 15 | 10 | 8 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .125 | .125 | .250 | .375 | |
1982 | 48 | 31 | 29 | 11 | 7 | 1 | 0 | 2 | 14 | 3 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 0 | .241 | .267 | .483 | .749 | |
1983 | 55 | 40 | 32 | 13 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 5 | 0 | 0 | 4 | 0 | .063 | .189 | .094 | .283 | |
1984 | ロッテ | 27 | 13 | 13 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .154 | .154 | .231 | .385 |
1985 | 17 | 12 | 11 | 2 | 3 | 1 | 1 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .273 | .333 | .545 | .879 | |
1986 | 15 | 24 | 23 | 3 | 8 | 0 | 0 | 1 | 11 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | .348 | .375 | .478 | .853 | |
1987 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:8年 | 182 | 135 | 121 | 37 | 24 | 5 | 1 | 3 | 40 | 6 | 7 | 6 | 6 | 0 | 7 | 0 | 1 | 30 | 0 | .198 | .248 | .331 | .579 |
表彰
編集- ジュニアオールスターゲームMVP:1回 (1981年)
記録
編集- 初出場・初先発出場:1980年10月5日、対ヤクルトスワローズ26回戦(阪神甲子園球場)、8番・遊撃手として先発出場
- 初打席・初安打:同上、3回裏に神部年男から
- 初盗塁:1982年7月21日、対中日ドラゴンズ15回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に二盗(投手:牛島和彦、捕手:中尾孝義)
- 初本塁打・初打点:1982年9月29日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、6回表に池内豊の代打として出場、梶間健一からソロ
背番号
編集- 3 (1980年 - 1986年)
- 32 (1987年 - 1988年)
- 87 (1989年 - 1994年、1999年 - 2001年)
登録名
編集- 藤倉 一雅 (ふじくら かずまさ、1980年 - 1983年)
- 藤倉 多祐 (ふじくら かずまさ、1984年 - 1994年、1999年 - 2001年)
脚注
編集- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ 硬式野球部 新監督について 白鷗大学硬式野球部 2023年01月06日
- ^ 倉世古洋平「阪神・大山と「恩師」藤倉多祐さん、そして岡田監督を結ぶ背番号「3」の縁」『Sponichi Annex』2023年9月16日。2024年10月24日閲覧。
- ^ 「白鴎足利、終盤に粘り 高校軟式野球北関東大会、初Vで全国へ 2番手宮田が好救援」『下野新聞デジタルニュース』2024年8月5日。2024年10月24日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 藤倉多祐 - NPB.jp 日本野球機構