カレル・ゴット

チェコの歌手・俳優

カレル・ゴットチェコ語: Karel Gott1939年7月14日 - 2019年10月1日[5][6])はチェコの歌手、アマチュア画家。 チェコスロバキアおよびチェコ共和国で最も成功した歌手といわれている[7][8]チェコ・ナイチンゲール英語版で42回(直近では2017年)、国内最高の男性歌手に選ばれた。

カレル・ゴット
Karel Gott
2018年のカレル・ゴット
基本情報
別名 プラハの黄金の歌声[1]
(チェコ語: Zlatý hlas z Prahy)
シナトラ[2]
(チェコ語: Sinatra Východu)
Divine Charlie[3]
(チェコ語: Božský Kája)
生誕 (1939-07-14) 1939年7月14日
ベーメン・メーレン保護領プルゼニ
死没 (2019-10-01) 2019年10月1日(80歳没)
 チェコプラハ
ジャンル ポップスロックンロールスウィングジャズブルースカントリーロックオペラオペレッタミュージカルクラシックトラディショナルブラスミュージック
職業 歌手俳優ソングライター画家
活動期間 1958年2019年
レーベル スプラフォン[4]ポリドールエレクトローラメロディアAmiga
公式サイト https://www.karelgott.com/

ドイツ語圏においても大きな成功を収めた。「プラハの黄金の歌声」 (the Golden Voice of Prague) とも呼ばれ[7][9]ドイツでは"金の音叉"賞英語版を3回受賞した (1982年、1984年、1995年) 。

60年以上にわたるキャリアの中で100枚以上のアルバムと100枚のコンピレーションアルバムを発表し[7] 、世界で推定5000万〜1億枚、ドイツ語市場では2300万枚、チェコスロバキアおよびチェコスロバキアでは約1500万枚を売り上げた[10]

若年期 編集

ゴットはベーメン・メーレン保護領(現在のチェコ共和国)のプルゼニ[注 1]で生まれ[8] 、6歳からはプラハに住んでいた。プラハ工芸美術大学英語版(UMPRUM)で芸術を学ぶことを志していたが、入試に失敗 。電気技師として訓練を受け働き始めたが 、プラハの音楽シーン、特にジャズに興味を持っていた 。ベースやギターに取り組んだこともあったが、最終的には歌に専念し、独学で学び始めた。

1950年代にはアマチュア歌手として活動し始め、コンクールにもしばしば参加した[9]

活動初期 編集

1958年、プラハ・スラヴォニック・ハウスで開催されたアマチュアの歌唱コンテスト "Looking for New Talent"[8] に参加したが、不調に終わった。しかし、同年にヴルタヴァ・プラハ・カフェにおいて演奏枠を初めて獲得した[7][9]

1960年、プロの歌手として活動をすることを決心、プラハ音楽院にてコンスタンティン・カレーニンのもとでオペラを学んだ[9][8]。カレーニンはロシアのオペラ歌手、フョードル・シャリアピンの弟子である。カレーニンはゴットが最近の音楽トレンドに対して関心を示していることを知り、イタリアの古典作品だけでなく、ポピュラー音楽に関しても教えた 。同時期に、カレル・クラウトガルトナーチェコ語版が指揮するチェコスロバキア放送ジャズオーケストラとともにポーランドへの演奏旅行を行った。これがゴットにとって初めての海外旅行だった。

1962年、最初のシングルがスプラフォンより発売された。このシングルにはジャズ・シンガーのヴラスタ・プルーホヴァー英語版とのデュエット、 "Až nám bude dvakrát tolik" (私たちが2倍の年齢になったとき)が収録された[9] 。同年、ゴットはゴールデン・ナイチンゲール英語版に初登場し、全国投票で3票を獲得して49位となった。

1963年、ゴットは音楽院を去り、1966年まで個人で歌のレッスンを続けた。

 
1969年8月、ファンにサインを書くゴット。

同年、ゴットは設立されたばかりのセマフォル劇場英語版の場所を提供された。この劇場はチェコスロバキアのポップミュージックシーンの最前線であった[8]。同年、最初のソロシングルである ヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」のチェコ語での録音[9]を発売、続いて "Oči sněhem zaváté" (吹き溜まりの目)[7]を発売し、これが年間のベストセラーとなった。その後まもなく、年間で最も人気であったアーティストに与えられるゴールデン・ナイチンゲールを初めて受賞した。ゴットはチェコ・ナイチンゲールと合わせてこの賞を生涯で42回獲得した。 1965年、セマフォル劇場の同僚であるイジー・シュタイドルチェコ語版ラディスラフ・シュタイドルチェコ語版とともにアポロシアターを設立[8]。この頃にはゴットは大衆によく知られた存在となっており、自らのオーケストラを結成して「二人の巡礼」と「夕方の祈り」プログラムに出演していた 。作曲も始め、オーケストラともにでチェコスロバキア国内および海外でツアーを行った 。同年、最初のアルバム "Karel Gott Sings" をスプラフォンより発売、1966年には "The Golden Voice of Prague" (Artia-Supraphon) を発売した[7][9]

1967年フランスカンヌで開催された音楽産業見本市、MIDEMにおいて演奏を行い、喝采を浴びた[8] 。このイベントの後、ドイツ・グラモフォンのレーベルポリドールと契約。数回の契約更改を繰り返した後、1997年には終身契約となった 。1967年から2000年までの間に、125枚以上のアルバムと72枚のシングルがドイツ語圏に向けてポリドールより発売された 。

1968年ユーロビジョン・ソング・コンテストオーストリア代表として出場、 同年、ラスベガスニュー・フロンティア・ホテル・アンド・カジノ英語版において、6か月にわたり毎晩演奏を行った[9]

1970年代 編集

 
ゴット(左)とヤロミール・カナークチェコ語版

1970年代に入ると、ゴットは国内において成功を収め、テレビにも定期的に出演した。その中には、「スラニー英語版のカレル・ゴット」という10部構成のシリーズがある[7][9]。ゴットの最も成功した市場の1つであるドイツでは、1970年に "Einmal um die ganze Welt" (かつて世界中で)という歌で自身の躍進を祝い、西ドイツ東ドイツの双方で人気を博した。 ドイツにおいては、ZDF-Hitparadeをはじめとするテレビ番組に定期的に出演した[11]

代表作の一つには「みつばちマーヤの冒険」シリーズのテーマ曲がある[7] 。ドイツ語での録音の他に、スロバキア語とチェコ語の吹き替え版向けの録音も行った。 1977年5月3日功労芸術家[9]の称号を授与され[9]、翌年には文化的または社会的人物に授与される「ケルンの黄金の帽子」賞を受賞した。チェコスロバキア社会主義共和国政府を批判する文書である憲章77の発表後、ゴットは政府を支持して反憲章運動に参加した。 1977年にメロディアから発売されたソビエト連邦におけるデビューLPはの売り上げは450万枚を超え、旧ソビエト連邦の国々において今なお人気を保っている[8]

同じく1977年にはオール・バイ・マイセルフのカバーを発表。この曲は1969年1月にソビエト連邦によるチェコスロバキア占領に対する抗議のため焼身自殺をしたヤン・パラフを題材とした "Kam tenkrát šel můj bratr Jan" (私の弟ヤンは今回どこに行ったの)として歌唱された[12][13]。 この歌が録音された1977年にはまだソ連軍が国内に留まっていた。

1970年代の終わりごろになると、カントリー・ミュージッククラシックの作曲など、ポピュラー音楽以外のジャンルにも取り組み始め、1979年のファン・フェア・カントリー・ミュージック・フェスティバルに出演した[9][8]

1980年代・引退ツアー 編集

1980年代に入ると、国外での活動が盛んになった。1981年にはイタリアでミュージカル "In the Track of Bel Canto" が撮影され、そのサウンドトラックに基づいてイタリア語のアルバム "Bella Italia" [9]が発売された。また、ソ連ではソフィーヤ・ロタールとのデュエットも披露された[14]1983年、ドイツの伝統音楽への貢献が認められ、ミュンヘンヘルマン・レンズ・メダルドイツ語版の金メダルを受賞した。1985年4月30日には、優れた芸術的貢献に対し国民芸術家(チェコ語: Národní umělec)の称号を授与された[7]1986年、ポリドールとの契約が20年にわたったことを記念し、レナード・バーンスタインヘルベルト・フォン・カラヤンに次いで3人目のゴールデン・ニードル賞の受賞者となった。1991年3月、ポピュラー・ミュージック・アカデミーの殿堂入りを果たした最初の人物となり、1992年9月8日にはチェコスロバキアでのレコードの売り上げが1300万枚に達したことが認められ、スプラフォン・ダイヤモンド・レコード賞を受賞した[8]

1990年、引退を発表し、長期間にわたる引退ツアーを行った。しかし、ツアーが成功したことにより引退を撤回。1993年フランティシェク・ヤネチェク英語版とともに芸術事務所 "GOJA" を設立し、自身のレコードの発売や活動のマネジメント等を行った[8]

復帰・その後 編集

 
2002年のゴット

1996年、新たに活動再開を表明した後、チェコ・ナイチンゲールチェコ語版を再び獲得[9]。その後は2017年まで1998年2012年を除いて毎年受賞した。 ゴットは多くの国で人気を博し、チェコ国外でも幅広く活躍した。2000年9月29日ニューヨークカーネギーホールでコンサートを行った[8]

2008年、ドイツのラッパーブシドー英語版のアルバム "Heavy Metal Payback" に参加、アルファヴィルの "Forever Young" のカバーである "Fürimmer jung" をデュエットした[15]

2009年チェコ共和国功労勲章英語版を受章した[7]

2001年よりドイツ語詞を担当した作詞家フィリップ・アルプレヒト英語版はゴットに20曲以上の詞を書いた[16]

2014年5月自伝 "Zwischen zwei Welten" (2つの世界の間で)を発表した[10]

亡くなる数ヶ月前の2019年5月に発表した、娘のシャルロット(チェコ語: Charlotte Ella Gottová)とのデュエット "Srdce nehasnou" (心は続く)とそのミュージック・ビデオはゴットの遺作となった。 発売時の時点では健康問題について公開されていなかったが、ゴットの死後、この曲を作曲したソングライターリハルト・クライチョチェコ語版は、短期間で曲を仕上げるよう依頼されていたことを明かした[17]。題名とテーマの他に、歌の始まりと終わりに「時々、神が準備していることがわかる」という歌詞が含まれており、別れを意味していることを示唆している。

私生活 編集

 
2012年、妻のイヴァナ(左)と

前妻との間に娘が2人いる(ドミニカ、ルーシー)。2008年1月に最後の妻となるイヴァナ・マハーチコヴァチェコ語版と結婚し[18]、イヴァナとの間にはシャルロットチェコ語版(2006年4月生まれ)とネリー(2008年5月生まれ)の2人の娘がいる。

1990年代、ゴットは絵画に熱中し始めた。初の個展は1992年にプラハ・キリスト・チャイルド・ギャラリーで開催され、その後はベルリンモスクワミュンヘンケルンウィーンブラチスラヴァでも展示された[9]

健康問題と死 編集

2015年10月、ゴットはリンパ節ガンと診断された。2016年3月18日、ガンを克服したと報道されたが、2019年9月中旬に急性白血病を発症したため、出演をすべてキャンセルし、外来治療を開始した。しかし、10月1日の深夜、ベルトラムカの自宅で家族に見守られながら亡くなった。翌朝にはその死をメディアが報じた。チェコのすべての主要テレビ局はゴットに関する特別報道や記念番組を放送し、チェコ放送ラジオ・インパルスチェコ語版も番組を改変して放送を行った。政府は10月2日の臨時閣議国葬の実施を決定。その翌日、アンドレイ・バビシュ首相は、2010年のオタカル・モテイルチェコ語版の例のように、国葬は国家の名誉のもとの葬儀でなければならないとし、国葬の実施を撤回した[19]ラニー英語版にある大統領府(ラニー城チェコ語版)では大統領旗が半旗とされたが、元儀典長インドルジヒ・フォレイトチェコ語版によると、これは国旗・国章の使用に関する法律を侵すものであったという[19]。告別式は2019年10月11日の午前8時からプラハのジョフィーン宮殿英語版で行われた。チェコやドイツの各地からファンが訪れ、列は5キロにおよび、待ち時間は数時間にもわたった。午前0時には約49000人の弔問者がひつぎに敬意を表し、式を終えた。翌10月12日、招待客に向けてプラハ城内の聖ヴィート大聖堂においてレクイエムおよび国葬が営まれた。同日、国喪も宣言された。レクイエムにはチェコの歌手、俳優、スポーツ選手だけでなく、フラデツ・クラーロヴェー司教であるドミニク・ドゥカ英語版枢機卿、ミロシュ・ゼマン大統領、アンドレイ・バビシュ首相も参列した。

ディスコグラフィ 編集

受章歴 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ プルゼニュとも。ドイツ語名のピルゼン (Pilsen)としても知られる。

出典 編集

  1. ^ "Karel Gott Biography", IMDb. Retrieved on 2 October 2019.
  2. ^ Karel Gott: Czech singer dubbed 'Sinatra of the East' dies”. BBC News (2019年10月2日). 2019年10月12日閲覧。
  3. ^ "Smrt Karla Gotta zasáhla Německo, Rakousko i Slovensko", Novinky.cz. Retrieved on 2 October 2019.
  4. ^ Melodie (1999年). “Supraphon”. 2008年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年10月27日閲覧。
  5. ^ チェコの歌手K・ゴットさん死去/共産党体制時代から人気”. 四国新聞社 (2019年10月3日). 2020年10月31日閲覧。
  6. ^ “[https://www.saga-s.co.jp/articles/-/435642 チェコの歌手K・ゴットさん死去 共産党体制時代から人気]”. 佐賀新聞live (2019年10月3日). 2020年8月1日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ a b c d e f g h i j Karel Gott”. Hello Czech Republic. Czech Ministry of Foreign Affairs. 2008年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月10日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l Adam. “Karel Gott: Biography”. www.karelgott.com. 2017年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月10日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Drotárová. “Karel Gott”. www.gott.cz. 2017年4月10日閲覧。
  10. ^ a b “Die Heiterkeit des Seins”. Die Zeit. (2014年5月24日). http://www.zeit.de/2014/21/karel-gott 2014年12月26日閲覧。 
  11. ^ Karel Gott ist gestorben, MDR Kultur. Retrieved on O2 October 2019.
  12. ^ Tesař. “Slyšte, lidé! – Jan Palach v písních”. Radio Proglas. 2019年10月2日閲覧。
  13. ^ Rohál, Robert (2014). Legendy československé populární hudby: 70. a 80. léta. Grada. p. 46. ISBN 8024753642 
  14. ^ PRAŽSKÝ EXPRES. EX PRESS MEDIA spol, s.r.o.. http://www.prague-express.cz/index.php?option=com_content&view=article&id=254:-l-r&catid=6:2009-04-14-13-42-00&Itemid=80. 
  15. ^ Köhler. “Ungewöhnliches Duo: Bushido und Karel Gott”. SchlagerPlanet. 2019年10月2日閲覧。
  16. ^ “Textů pro Karla Gotta jsem napsal asi dvacet říká německý textař Filip Albrecht”. novinky.cz. (2014年1月31日). http://www.novinky.cz/vase-zpravy/praha/3440-22488-textu-pro-karla-gotta-jsem-napsal-asi-dvacet-rika-nemecky-textar-filip-albrecht.html 2014年12月20日閲覧。 
  17. ^ Krajčo věděl o vážném stavu Gotta. Srdce nehasnou musel složit rychle” (2019年10月12日). 2019年10月12日閲覧。
  18. ^ Fraňková (2008年1月8日). “Czech singer Karel Gott married in Las Vegas”. Radio Prague. 2014年11月8日閲覧。
  19. ^ a b Gavriněv, Vojtěch. “Gott nemá mít státní pohřeb, ten je pro prezidenty. Stažení vlajky bylo porušenrím potokolu, říká Forejt”. Seznam Zprávy. 2019年10月3日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集