ドミトリー・ウスチノフ

ドミトリー・フョードロヴィッチ・ウスチノフロシア語: Дмитрий Федорович Устинов、Dmitri Fyodorovich Ustinov、1908年10月30日 - 1984年12月20日)は、ソビエト連邦政治家ブレジネフアンドロポフチェルネンコ時代のソ連国防大臣ソ連第一副首相、国防工業大臣、ソ連共産党政治局員同党書記局員を歴任。

ドミトリー・ウスチノフ
Дмитрий Устинов
Dmitry Ustinov (colorized, low resolution).jpg
生年月日 1908年10月30日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サマーラ
没年月日 (1984-12-20) 1984年12月20日(76歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic (1954–1991).svg ロシア共和国 モスクワ
所属政党 КПСС.svg ソビエト連邦共産党
称号 Hero of Socialist Labor medal.svg Золотая Звезда Героя Советского Союза.svg Rank insignia of маршал Советского Союза.svg
サイン Автограф Маршала Советского Союза Д.Ф. Устинова.png

在任期間 1976年7月30日 - 1984年12月20日
閣僚会議議長 アレクセイ・コスイギン
ニコライ・チーホノフ

ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
閣僚会議第一副議長
在任期間 1963年3月13日 - 1965年3月26日
閣僚会議議長 ニキータ・フルシチョフ
アレクセイ・コスイギン

その他の職歴
КПСС.svg ソ連共産党政治局員
1976年3月5日 - 1984年12月20日
КПСС.svg ソ連共産党書記局員
1965年3月26日 - 1976年10月26日
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ドミトリー・ウスチノフ
Дмитрий Устинов
所属組織 Red Army flag.svg 赤軍
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦軍
軍歴 1941年-1984年
最終階級 Rank insignia of маршал Советского Союза.svg ソ連邦元帥
(職業軍人ではない)
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半世紀にわたり、ソ連軍需産業の育成と運営にあたり、冷戦時代のソ連をアメリカと並ぶ軍事大国に押し上げるのに巨大な役割を果たした。

生い立ちから独ソ戦まで編集

ロシア帝国ヴォルガ河畔の町、サマーラの労働者の家庭に生まれるが、内戦が起因し若くして両親を亡くす。1927年共産党入党。製紙工場で機械工として働くなど、いくつかの職場を経て、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の軍事機械大学に入学する。設計技師を資格を取得する。卒業後、レニングラード市の軍事工場「ボリシェビーク」に就職。1937年に同工場の企業長となる。

1941年6月独ソ戦の直前に32歳でヨシフ・スターリンによりソ連軍需工業人民委員に抜擢される。ドイツ軍によりレニングラードが包囲された際、ソ連の軍需産業を攻撃から守るため、数週間でウラル地方への軍需産業の疎開を実現した他、兵器の大増産に抜群の事務能力を発揮して、ソ連軍の反攻作戦に多大な貢献をし、「社会主義労働英雄」と、文官ながらソ連軍技師・技手勤務大将の称号を授与された。

中央政界での出世編集

1952年ウスチノフはソ連共産党中央委員会委員となる。1953年のスターリン死去後、軍需省と航空産業省が統合されて国防工業省が創設された際には、新たに国防工業相に任命され、ニキータ・フルシチョフの下で引き続きソ連軍産複合体を統括することとなった。1957年ロケット、兵器、原子力産業担当の閣僚会議副議長(副首相)となる。ミサイルやロケットの開発を推進した。1961年ユーリ・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行を成功させた功により、再度「社会主義労働英雄」の称号を得た。1963年閣僚会議第一副議長(第一副首相)となり、軍需の他、民間工業も担当した。

 
ザーパド81で空挺部隊とともに写真に映るウスチノフ(中央)

1964年フルシチョフが失脚しレオニード・ブレジネフが最高指導者となると、再び軍事工業部門に復帰する。1965年政治局員候補に選出。1966年4月、第23回党大会でソ連共産党中央委員会書記(国防産業担当)に就任し、これを1976年10月まで務め、軍、軍事工業、特定の治安機関を指揮した。また、戦略爆撃機大陸間弾道ミサイルシステムの開発も担当し、アメリカに拮抗する核戦力を構築した。1976年3月には党政治局員となった。同年4月26日、国防相のアンドレイ・グレチコ元帥が在職中に死去すると、後を継ぎ文民初のソ連国防相に就任し、あわせて4月29日には上級大将に昇進。次いで7月30日ソ連邦元帥の称号を授与された。ウスチノフはニコライ・オガルコフ参謀総長らソ連軍将軍と共に、ソ連軍の発展と近代化を推し進めた。そして1979年に彼は「ソ連軍は、党と国民から求められる任務を遂行することができるハイレベルな段階にある。」と自信を持って断言した。


1979年アフガニスタン戦争開戦を決定する政治局会議に参加。KGB議長のユーリ・アンドロポフと共にアフガニスタンへの軍事介入を強く主張し、同年12月24日にソ連軍がアフガニスタン侵攻を実行するに至る。

実力者として編集

1982年のアンドロポフ、1984年コンスタンティン・チェルネンコ両書記長の選出に力を貸し、ミハイル・スースロフの死後、「クレムリンキングメーカー」とその実力を恐れられた。特にチェルネンコ政権時には、チェルネンコが深刻な健康問題を抱え、且つ軍事問題に関して経験不足であったため、国防相としてその埋め合わせをし、影響力を保持した。一方で、1979年の米ソ首脳会談に同席した際、アメリカ側にぬいぐるみを贈って「厭な目にあわされない限り、平和で大人しいのが、この動物だ」と語るようなエピソードも持つ。

1992年ロシアボリス・エリツィン大統領が公開した文書によると、1983年大韓航空機撃墜事件ではウスチノフがKGB議長のヴィクトル・チェブリコフと共に「007便が米国のスパイ活動に協力していたという主張を裏付けることができないため、ブラックボックスを公開すべきでない」とアンドロポフ書記長に進言したとされる。

晩年編集

1984年11月7日、ウスチノフは赤の広場で行われた10月革命67周年記念パレードに姿を見せず、代わってセルゲイ・ソコロフが国防相代行として部隊の巡閲と記念演説を行った。ウスチノフは10月下旬に肺炎を患い、その間大動脈の緊急手術を受けていた。後に肝機能及び腎機能の低下を引き起こすに至り、最終的には心不全に苦しんだ。

同年12月20日モスクワで死去。76歳没。党や政府の指導者以外の人物が没した場合では珍しく、公式の服喪期間が設けられ、赤の広場で執り行われた国葬はソ連中央テレビで放映された。葬儀では、自身の後継となったソコロフ国防相らが追悼演説を行い、ソ連国歌が演奏される中、遺骨はクレムリンの壁に葬られた。なお2020年現在、ウスチノフがクレムリンの壁に遺骨が葬られた最後の人物である(赤の広場全体では、レーニン廟裏の革命元勲墓に埋葬されたチェルネンコが最後の人物である)。

ウスチノフの死後、レニングラードのバルト海軍工兵大学は「ウスチノフ=バルト海軍工兵大学」と名称を変更し、スラヴァ級ミサイル巡洋艦2番艦は「マーシャル・ウスチノフ」に改名された。イジェフスク市は、ウスチノフを記念して「ウスチノフ市」と改名されたが、ゴルバチョフ就任後の1987年に元の名に戻された。

ウスチノフは生涯を通して何冊かの本を執筆した。その中には「選択された演説と議題」(1979年)、「我が国に奉仕する-共産主義の根源」(1982年)などがある。

逸話編集

  • ミハイル・ゴルバチョフは回想録の中で、ウスチノフを「常に活気に満ち、明るい性格であった」と評している。アンドロポフの死去直後に開かれた後継書記長を選出する政治局会議では、ウスチノフはチェルネンコ支持であったにもかかわらず、後継争いでチェルネンコに敗れたゴルバチョフに対し「頑張れ」「勇気を出せ」と声を掛け、励ましたという。
  • 30年間ウスチノフを支えたソビエト陸軍大佐のイゴール・イラリャノフは、彼を「最たるスターリン主義者」と評した。現にウスチノフは、国防体制の維持のためにスターリンによって育てられた。イラリャノフはまた、ウスチノフを「同世代の人々と同様に大祖国戦争が彼を形成した」と述べた。彼は、ウスチノフには夜遅くまで仕事をし、日中は数時間眠る習慣があったとも語った。
  • 世界の艦船連載記事によると、スターリンが「空母は帝国主義者の持つ侵略兵器だから我が国には不要」と空母を嫌っていたため、スターリン崇拝者の一人であったウスチノフも空母の建造、保有に強く反対した。空母の有効性に気づいていたセルゲイ・ゴルシコフソ連邦海軍元帥が空母建造を計画するもその計画を破棄させた。一方で登場したてのVTOL機を気に入っていたため、スキージャンプ台搭載のVTOL空母の建造を主張した。

関連項目編集

先代:
アンドレイ・グレチコ
  ソビエト連邦国防相
1976年 - 1984年
次代:
セルゲイ・ソコロフ