中山恭子
中山 恭子(なかやま きょうこ、1940年〈昭和15年〉1月26日[1] ‐ )は、日本の政治家、大蔵・財務官僚。靖国神社崇敬奉賛会会長。
中山 恭子 なかやま きょうこ | |
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2000年代前半撮影 | |
生年月日 | 1940年1月26日(84歳)[1] |
出生地 | 日本・東京府 |
出身校 | 東京大学文学部仏文学科 |
前職 | 国家公務員(大蔵省・財務省) |
現職 | 靖国神社崇敬奉賛会会長 |
所属政党 |
(自由民主党→) (たちあがれ日本→) (太陽の党→) (日本維新の会→) (次世代の党→) (日本のこころを大切にする党→) (日本のこころ→) (旧希望の党→) 希望の党 |
称号 |
文学士(東京大学・1963年) 旭日重光章 |
配偶者 | 中山成彬(元衆議院議員) |
子女 | 中山隆介(宮内庁長官官房主計課長→内閣情報調査室室員) |
内閣 | 福田康夫改造内閣 |
在任期間 | 2008年8月2日 - 2008年9月24日 |
内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当) | |
内閣 |
第1次安倍内閣 第1次安倍改造内閣 福田康夫内閣 麻生内閣 |
在任期間 |
2006年9月26日 - 2008年8月2日 2008年9月27日 - 2009年9月16日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 2007年7月29日 - 2019年7月28日 |
その他の職歴 | |
日本のこころ代表 (2017年2月7日 - 2017年9月25日) | |
日本のこころを大切にする党代表 (2015年12月21日 - 2017年2月7日) | |
次世代の党代表 (2015年10月1日 - 2015年12月21日) |
内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画)(福田康夫改造内閣)、拉致問題担当大臣(福田康夫改造内閣)、公文書管理担当大臣(福田康夫改造内閣)、内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)(第1次安倍内閣・第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣・麻生内閣)、参議院議員(2期)、日本のこころ代表、日本のこころを大切にする党代表、次世代の党代表、日本維新の会政策調査会拉致問題対策委員長 、たちあがれ日本参議院幹事長代理などを歴任[2]。この他、内閣官房参与、在ウズベキスタン特命全権大使、国際交流基金常務理事、大蔵省大臣官房参事官兼審議官、大蔵省四国財務局長などを務めた[2]。
概要
編集官界での活動
編集群馬県立前橋女子高等学校を卒業後、東京大学文学部仏文学科を卒業[1]。大学卒業後、一年間の研究生活を送る。一時外務省に勤務したが、東京大学法学部へ学士入学する。1965年、国家公務員採用上級甲種試験(経済職)に合格し翌年中退、大蔵省(現:財務省)入省(関税局国際課に配属[3])。
国際通貨基金 (IMF) 派遣職員、大蔵省大臣官房調査企画課、大臣官房企画官、東京税関成田税関支署長を経て、1989年6月に理財局国有財産第二課長に就任[4]。1991年6月には四国財務局長に就任[5]。大臣官房参事官兼大臣官房審議官を最後に1993年9月退官[4]。大蔵省に在職中に、女性として初めて税関支署長、本省課長、財務局長、審議官を務めた[4]。
退官後の活動
編集国際交流基金常務理事を経て、1999年7月、特命全権大使(在ウズベキスタンおよび在タジキスタン)に就任[6]。その直後の1999年8月23日、隣国キルギスの南西部オシェ州で日本人鉱山技師4人を含む7人がIMU(ウズベキスタン・イスラム運動)と見られるウズベキスタン反政府武装グループに拉致されるキルギス日本人誘拐事件が発生する。キルギス政府に交渉を一任せよとの外務省の方針に背き、救出劇の先頭に立った。武装グループに対して影響力を持つタジキスタン政府や関係者を通じて交渉・説得を行い、人質の解放に成功する[注釈 1]。
大使退任直後の2002年9月26日拉致被害者家族担当の内閣官房参与へ就任、翌10月15日北朝鮮に拉致被害者5人を出迎えた。それ以降も拉致問題に尽力し、2004年9月29日に任務を果たしたとして辞任[7]。
2006年9月26日、第1次安倍内閣の内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に任命。同時期に政府に設置された拉致問題対策本部の事務局長に就任[6]。
政界への転身
編集2007年7月に第21回参議院議員通常選挙へ自由民主党から比例区で立候補し、385,909票を獲得して党内得票数第3位で初当選した。同年8月27日に発足した第1次安倍改造内閣で留任、同年9月7日に拉致問題対策本部事務局長職を離任した。同年9月26日に発足した福田内閣でも内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。11月15日、町村派に入会。
2008年8月2日に発足した福田康夫改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画担当)として初入閣を果たした。内閣府特命担当大臣のほかにも特命事項として拉致問題担当と公文書管理担当が発令されており、国務大臣として同時に兼任した。しかしおよそ1ヶ月後の内閣総辞職に伴い内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画担当)および拉致問題担当、公文書管理担当を退任。
同年9月24日に発足した麻生内閣では中山の入閣は見送られ、拉致問題担当の特命事項は内閣官房長官の河村建夫が兼任することになった。しかし、拉致問題担当のポストに中山を任命しなかったことに対して内閣総理大臣官邸に批判が殺到したため[8]、中山は内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。
2010年6月18日、夫・成彬が同年7月の第22回参議院議員通常選挙にたちあがれ日本から出馬することになったことを受け、「夫を支援するため」として、自民党に離党届を提出(受理されず除名処分)し[9][10][11]、6月21日に夫と共にたちあがれ日本へ入党した[12]。
2012年11月、たちあがれ日本が太陽の党と改称し、さらに日本維新の会へ合流したことに伴い同党の所属となった。
2013年7月に第23回参議院議員通常選挙へ比例区で立候補し、306,341票を獲得して党内得票数第2位で2回目の当選を果たした。
2014年8月の日本維新の会分党に伴い「次世代の党」に参加。党参議院会長、同党規委員長に就任した。12月に財務局長に就任。
2015年10月1日に次世代の党代表に就任[13]。12月21日、党名を「日本のこころを大切にする党」と改称したが、この党名変更に強く反発した江口克彦が離党した。第24回参議院議員通常選挙において、比例代表に5人、選挙区では北海道・埼玉・千葉・東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・広島・福岡に候補者を擁立し、代表として選挙を戦ったが[PR 1][14]、当選には遠く及ばず全員が落選。中山は惨敗の責任を取る形で、12日に辞表を提出した[15]が、のちに慰留を受けて撤回した[16]。
2016年9月、党代表のまま党政策調査会長を兼任することになり、2017年2月7日には、日本のこころに党名を変更した[17]。
2017年9月、無投票で党代表に再選[18]。同月24日、夫と共に希望の党へ参加する意向を示し[19]、翌25日に日本のこころに離党届を提出し、受理された[20]。同月27日、小池百合子東京都知事を代表とする新党「希望の党」設立会見に、結党メンバーとなる国会議員14人の一人として参加した[21]。2018年5月、希望の党分党に伴い新たに発足した希望の党の顧問に就任[22]。
2019年4月8日、第25回参議院議員通常選挙には出馬せず、政界を引退すると自身のフェイスブックページで表明[23][24]。5月28日、党選挙対策委員長に就任[25]。同年、旭日重光章受章[26][27]。
不祥事
編集公職選挙法違反
編集2009年、夫である中山成彬が第45回衆議院議員総選挙にて宮崎1区から立候補した。成彬は以前引退を表明していたことから、自由民主党宮崎県支部連合会は上杉光弘の擁立を決定しており、両者とも党本部の公認が得られぬまま激しい選挙戦が展開された。恭子は選挙対策総本部長に就任しサポートしたが成彬は落選し、さらに恭子の秘書2名が公職選挙法違反容疑で書類送検された[28][29]。
政策
編集主な所属団体・議員連盟
編集政治資金
編集- 2017年に自らが代表を務めていた「日本のこころ参院比例第2支部」から約2億1千万円を自らの政治団体に移していたことが発覚した。支部は翌日解散した。違法ではないものの、物議を醸した[35]。
評価
編集略歴
編集- 1963年東京大学文学部仏文学科卒業[1][5][37] 3月
- 1966年[1][4][5][37] 4月 大蔵省入省
- 1975年[4][5][37] 6月 国際通貨基金
- 1983年[38] 6月 大臣官房調査企画課長補佐(外国調査) 兼 大臣官房調査企画課海外経済調査官
- 1985年[39][5][37] 6月 大臣官房企画官(大臣官房地方課)
- 1987年[4][5][37] 7月 東京税関成田税関支署長
- 1989年[4][5][37] 6月 理財局国有財産第二課長
- 1991年[1][4][5][37] 6月 四国財務局長
- 1993年[1][4][5][37] 6月 大臣官房審議官(大臣官房担当)
- 1993年[1][5][37] 9月 国際交流基金常務理事
- 1999年[1][4][5][37] 7月 駐ウズベキスタン特命全権大使兼駐タジキスタン大使
- 2002年[1][5][37] 9月 退官 内閣官房参与
- 2004年[4][5][37] 9月 内閣官房参与 辞任
- 2005年[37] 3月 国連改革欧州諸国担当大使(2005年 9月辞任)
- 2005年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授[4][37] 4月
- 2005年香川大学地域マネージメント研究科客員教授[37] 4月
- 2006年[1][37] 9月 内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)
- 2007年[37] 7月 参議院議員(全国比例代表)
- 2008年内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣[1][37]。 8月
- 2008年[1][37] 9月 内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)
家族
編集TV出演
編集- 『日いづる国より』(日本文化チャンネル桜)司会進行
著書
編集- 『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版、2005年)
- 『国想い夢紡ぎ―文化のプラットホーム日本』(万葉舎、2011年)
論文
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 詳細は、平成18年2月27日提出の質問主意書111号「キルギスにおける日本人拉致事件に関する質問主意書」、及び中山による回想録『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版)に詳しい。同じく、内外の関係筋からの聞き取りを行ったジャーナリストであるアハメド・ラシッドによる『聖戦―台頭する中央アジアの急進的イスラム武装勢力』(講談社)、及び当時の情勢の参考として国連職員である川端清隆による『アフガニスタン―国連和平活動と地域紛争』(みすず書房)がある。また、『週刊新潮』(2005年12月1日号)の「『中山恭子』元参与が告発したキルギス人質『八百長解放劇』」に詳しく説明されている。
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編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n 中山 恭子(なかやま きょうこ):参議院 - 2013年11月28日現在
- ^ a b “国会議員情報 中山 恭子(なかやま きょうこ)”. 時事ドットコム (時事通信社) 2022年9月12日閲覧。
- ^ 『大蔵省名鑑』時評社、1990年3月、81頁
- ^ a b c d e f g h i j k l “愛・地球博 河合隼雄連続対談 「知の対話」 ~日本文化はどこへ行くのか~ 開催要項”. 2005年日本国際博覧会公式サイト. (2005年4月16日) 2016年12月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “中山恭子プロフィール”. 首相官邸. 2016年4月3日閲覧。
- ^ a b “拉致問題対策本部事務局長 中山恭子”. 首相官邸. 2016年8月3日閲覧。
- ^ “中山参与が辞任 2人の首相補佐官就任で”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年9月29日) 2013年5月11日閲覧。
- ^ 佐藤勝巳「組閣人事の危うさ――拉致で抗議殺到」『2008.09.26-組閣人事の危うさ―拉致で抗議殺到―』現代コリア研究所、2008年9月26日。[リンク切れ]
- ^ “中山恭子氏が自民離党 夫、たちあがれから出馬で”. 47NEWS. (2010年6月18日). オリジナルの2011年9月24日時点におけるアーカイブ。 2010年6月18日閲覧。
- ^ “中山恭子氏、「たちあがれ」へ 夫・成彬氏支援が目的”. 東京新聞. (2010年6月18日) 2010年6月18日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “中山恭子元拉致担当相が自民離党届”. 産経新聞. (2010年6月18日). オリジナルの2010年6月21日時点におけるアーカイブ。 2010年6月18日閲覧。
- ^ “中山恭子氏入党・成彬氏を公認…たちあがれ日本”. 読売新聞. (2010年6月21日) 2010年6月22日閲覧。
- ^ 和田政宗 次世代の党・新体制発足 子育てと経済政策を重視します! 2015年10月01日 23:09
- ^ “【2016参院選】日本のこころ 東京選挙区に新人、鈴木麻理子氏擁立”. 産経新聞. (2016年5月25日) 2016年6月3日閲覧。
- ^ “こころ 中山代表 議席獲得できず辞表提出”. NHK. (2016年7月13日)
- ^ “こころ、中山代表続投 慰留受け辞表撤回”. 日本経済新聞. 共同通信. (2016年7月23日)
- ^ 産経新聞 “党名「日本のこころ」に 党名短縮で浸透狙う”. (2017年2月7日) 2017年2月8日閲覧。
- ^ “日本のこころ、無投票で中山恭子代表を再選”. 産経新聞. (2017年9月13日) 2017年9月14日閲覧。
- ^ “【衆院解散】日本のこころ・中山恭子代表が「小池新党」参加へ 夫の中山成彬元文科相も”. 産経新聞. (2017年9月24日) 2017年9月24日閲覧。
- ^ “日本のこころの中山恭子代表が離党”. 産経新聞. (2017年9月25日) 2017年9月25日閲覧。
- ^ “「日本をリセット」小池氏、国会議員14人会見”. 毎日新聞ニュース. (2017年9月27日) 2017年12月26日閲覧。
- ^ “国民民主党参加者、不参加者、新「希望の党」参加者一覧”. 産経新聞 (2018年5月7日). 2019年5月28日閲覧。
- ^ kyokonakayama1940の投稿(1065680280284766) - Facebook
- ^ “中山恭子元拉致担当相が参院選不出馬を正式表明”. 産経新聞 (2019年4月8日). 2019年4月22日閲覧。
- ^ 『新役員人事に関して|希望の党』(プレスリリース)希望の党、2019年5月28日 。2019年5月28日閲覧。
- ^ 『官報』号外第151号、2019年11月3日
- ^ “秋の叙勲、柄本明さんら4113人 伊達忠一氏に桐花大綬章”. 日本経済新聞 (2019年11月3日). 2023年1月20日閲覧。
- ^ 「衆院選公選法違反容疑、中山恭子氏秘書ら書類送検」『衆院選公選法違反容疑、中山恭子氏秘書ら書類送検:週間ニュース:九州発:YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞、2009年9月19日。 Archived 2012年5月26日, at the Wayback Machine.
- ^ 中山氏派運動員を書類送検、NHK宮崎のニュース 2009年9月19日
- ^ a b c d “2013参院選 比例代表 日本維新の会 中山恭子”. 毎日jp (毎日新聞社) 2014年4月27日閲覧。
- ^ 自民党茨城県連HP
- ^ a b c 俵義文 『日本会議の全貌』 花伝社、2016年
- ^ 成澤宗男・週刊金曜日編 『日本会議と神社本庁』 金曜日、2016年
- ^ ギャンブル依存症対策推進のための超党派勉強会 設立総会 IR議連よりコラボレーション提案 2015-07-29 カジノIRジャパン
- ^ “中山恭子氏、離党日に2億円移転”. 共同通信社. (2018年12月1日) 2018年12月1日閲覧。
- ^ 『正論』2012年3月号 50-91頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “プロフィール”. 公式ホームページ 2015年5月10日閲覧。
- ^ 『職員録 上巻』大蔵省印刷局、1985年発行、503頁
- ^ 『新訂現代日本人名録 第3巻』日外アソシエーツ、2002年1月発行、1262頁
- ^ 文部科学大臣
- ^ 【人事速報】財務省|(株)時評社
関連項目
編集外部リンク
編集- 中山恭子オフィシャルサイト - ウェイバックマシン(2019年10月31日アーカイブ分)
- 中山 恭子 (100005284117379) - Facebook
公職 | ||
---|---|---|
先代 上川陽子 |
特命担当大臣(少子化対策) 第3代:2008年 |
次代 小渕優子 |
先代 上川陽子 |
特命担当大臣(男女共同参画) 第9代:2008年 |
次代 小渕優子 |
先代 |
内閣総理大臣補佐官 (北朝鮮による拉致問題担当) 2006年 - 2009年 |
次代 |
外交職 | ||
先代 小畑紘一 |
在ウズベキスタン日本大使 第3代:1999年 - 2002年 |
次代 河東哲夫 |
党職 | ||
先代 新設 |
希望の党選挙対策委員長 初代:2019年 - 2021年? |
次代 (解散) |
先代 名称変更 |
日本のこころを大切にする党→ 日本のこころ代表 初代:2015年 - 2017年 |
次代 中野正志 |
先代 和田政宗 |
日本のこころを大切にする党→ 日本のこころ政策調査会長 第2代:2016年 - 2017年 |
次代 中野正志 |
先代 名称変更 |
日本のこころを大切にする党→ 日本のこころ参議院会長 初代:2015年 - 2017年 |
次代 空席 |
先代 平沼赳夫 |
次世代の党代表 第2代:2015年 |
次代 名称変更 |
先代 浜田和幸 |
次世代の党選挙対策本部長 第3代:2015年 |
次代 名称変更 |
先代 結党 |
次世代の党参議院会長 初代:2014年 - 2015年 |
次代 名称変更 |
官職 | ||
先代 柿沼敏夫 |
大蔵省四国財務局長 1991年 - 1993年 |
次代 山崎幸夫 |
先代 宝賀寿男 |
大蔵省東京税関成田税関支署長 1987年 - 1989年 |
次代 塚原治 |