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八重洲(やえす)は、東京都中央区地名で、東京駅東側一帯を指すエリア名である。郵便番号は一丁目が103-0028[2]、二丁目が104-0028[3]

八重洲
東京駅八重洲口(グランルーフ)
東京駅八重洲口(グランルーフ)
八重洲の位置(東京23区内)
八重洲
八重洲
八重洲の位置
北緯35度40分47.45秒 東経139度46分10.78秒 / 北緯35.6798472度 東経139.7696611度 / 35.6798472; 139.7696611
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Chuo, Tokyo.svg 中央区
地域 日本橋地域(一丁目)
京橋地域(二丁目)
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 113人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
103-0028(一丁目)[2]
104-0028(二丁目)[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 品川

目次

概要編集

東京駅の東側に位置し、東京駅では西側の出口(皇居方面)を「丸の内口」、東側の出口(日本橋方面)を「八重洲口」と称することから、駅西側一帯を「丸の内」、東側一帯を「八重洲」と通称している。ただし、東京駅の駅舎、プラットフォーム等の施設はすべて千代田区丸の内一丁目に位置し、千代田区丸の内と中央区八重洲の境界は、東京駅八重洲口駅前よりもやや東にある。

八重洲口駅前に位置するグラントウキョウ(ノースタワー、サウスタワー)、シャングリラホテル東京などのビル群の住所はいずれも千代田区丸の内一丁目に属する[5]

地理編集

中央区の西側に位置し、千代田区大手町丸の内)と接している。中央区の町名で唯一、旧日本橋区と旧京橋区にまたがっており、八重洲通りを挟んで、北側の八重洲一丁目は旧日本橋区、南側の八重洲二丁目は旧京橋区だった。丁目毎に、郵便番号が異なる(一丁目は日本橋郵便局、二丁目は晴海郵便局がそれぞれ集配を担当)のもその名残である。税務署消防署の管轄も、一丁目は日本橋税務署で二丁目は京橋税務署と分かれている。

歴史編集

八重洲の地名は、ここに住んでいたオランダ人ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」に由来するという説がある[6]。彼は、1600年(慶長5年)に日本に漂着し、後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍し、家康からこの地に邸を与えられた。明治以前は京橋方面から丸の内に入るには外濠を渡らねばならず、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋が架けられていた。外濠は武家地と町人街を明確に分断していて、現在の東京駅八重洲口付近は、北町奉行所の在所でもあった。

1914年大正3年)、東京駅が開業した。この時、駅舎は丸の内側に置かれ八重洲側は車両基地となったため八重洲橋は撤去された。しかし1925年大正14年)に八重洲橋が再び架橋され、車両基地の上を跨ぐ跨線橋が作られて丸の内側に直線的に行けるようになった。1929年昭和4年)には東京駅東側に乗車券売場のみの改札口が設けられた。太平洋戦争末期、空襲により八重洲口は焼失した。終戦後、すぐに再建されたが今度は失火により焼失した。1948年昭和23年)に東京駅拡張工事とともに濠は埋めたてられ、八重洲橋も姿を消した。埋め立てられた外濠跡には鉄道会館ビルが建設され、大丸東京店が開業した。1968年には6階建てから12階建てに増築され八重洲のランドマークになった。60年代後半には大規模な八重洲地下街が段階的に建設され商業施設が大幅に増えた。

平成以降の八重洲口は、隣接する丸の内に比べ老朽化したビルが目立ち、再開発はあまり進んでいなかったが、「東京ステーションルネッサンス」の一環として再開発事業が進められた。2007年11月、鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービルグラントウキョウが大丸の移転とともに竣工した。その後、鉄道会館ビルは解体され、2013年9月、跡地にペデストリアンデッキ「グランルーフ」が竣工した。駅前広場が整備され、狭かったバス乗り場は大幅に拡張された。鉄道会館ビルの解体により、東京湾側から丸の内側への海風の通り抜けが改善され、ヒートアイランド現象が緩和することが期待されている。

地名の変遷編集

元々の「八重洲」は現在の丸の内に相当する地域のうち、丸ビルと三菱ビルの間に存在する通りの南側を指す地名であった。ヤン・ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在した。「丸の内」は北側の永楽町と併せて江戸城の外濠の内側を指すこれらの上位的な地理的概念として存在した。外堀通りの東側に位置する現在の「八重洲」は外堀のさらに外側(東側)にあることになる。しかし、先述のとおり、「八重洲」は歴史的には外堀の内側、現在の千代田区丸の内に存在した地域である。

現行行政地名としての「八重洲」は、1954年(昭和29年)の町名変更によって成立したもので、現行の八重洲一丁目は旧:日本橋区呉服橋、八重洲二丁目は旧:京橋区槇町である。なお、かつての麹町区(現:千代田区丸の内)にも「八重洲町」があった(後述)。

当初、皇居側を「八重洲町口」と、東側を「八重洲橋口」と呼んだが、1929年(昭和4年)に東京駅周辺の地名が再編成され、東京駅の西側にあった「八重洲町」が廃されて「丸ノ内二丁目」となった結果、「八重洲町口」を「丸ノ内口」に、「八重洲橋口」を「八重洲口」と改称したため、東京駅を中心として西側を「丸ノ内」、東側を「八重洲」とする地理的雰囲気が醸成されていった。(1970年の住居表示実施以降は「丸内」と表記)。一方、中央区の「八重洲」の成立過程は以下のとおりである。現在の八重洲一丁目・八重洲二丁目のうち、北側の八重洲一丁目は旧日本橋区で、かつては呉服町等の町名があったが、1928年(昭和3年)に呉服橋一丁目から呉服橋三丁目となり、1947年(昭和22年)の中央区成立時に「日本橋」を冠称して中央区日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服橋三丁目となった。一方、南側の八重洲二丁目は旧京橋区で、かつては北槇町、南槇町等の町名があったが、1931年(昭和6年)に槇町一丁目から槇町三丁目となり、1947年(昭和22年)の中央区成立時に中央区槇町一丁目から槇町三丁目となった。日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服町三丁目と槇町一丁目から槇町三丁目は、1954年(昭和29年)に「八重洲一丁目から八重洲六丁目」に再編され、これによって名実共に東京駅の西が丸の内、東が八重洲になった。この「八重洲一丁目から八重洲六丁目」は住居表示によって再々編され、八重洲一丁目から八重洲三丁目が八重洲一丁目に変更(1973年実施)、八重洲四丁目から八重洲六丁目が八重洲二丁目に変更(1978年実施)されている[7]

世帯数と人口編集

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
八重洲一丁目 41世帯 75人
八重洲二丁目 34世帯 38人
75世帯 113人

小・中学校の学区編集

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]

丁目 番地 小学校 中学校
八重洲一丁目 全域 中央区立城東小学校 中央区立日本橋中学校
八重洲二丁目 全域 中央区立銀座中学校

地域編集

観光編集

店舗

交通編集

画像一覧編集

脚注編集

  1. ^ a b 町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2017年12月5日). 2017年12月31日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月31日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月31日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
  5. ^ 千代田区丸の内一丁目と中央区八重洲一丁目の境界は、厳密には外堀通りではなく、外堀通りよりわずかに西寄りにあり、鉄鋼ビルディングの中を区境が通っている。住居表示による街区表示では、外堀通り以西に八重洲一丁目10番・11番街区が設定されているが、これらは実際の住所としては使われていない。
  6. ^ ヤン・ヨーステン記念碑
  7. ^ 町名の成立年代は『角川日本地名大辞典 東京都』による。
  8. ^ 区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2017年12月31日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集