八重洲

東京都中央区の地名
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八重洲(やえす)は、東京都中央区地名。広義では東京駅の東側一帯を指す地域名で、駅西側一帯の「丸の内」と対比される。現行行政地名としては八重洲一丁目と八重洲二丁目が設置されている。郵便番号は一丁目が103-0028[2]、二丁目が104-0028[3]

八重洲
東京駅八重洲口から見る八重洲通り
東京駅八重洲口から見る八重洲通り
八重洲の位置(東京23区内)
八重洲
八重洲
八重洲の位置
北緯35度40分47.45秒 東経139度46分10.78秒 / 北緯35.6798472度 東経139.7696611度 / 35.6798472; 139.7696611
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Chuo, Tokyo.svg 中央区
地域 日本橋地域(一丁目)
京橋地域(二丁目)
人口
2019年(令和元年)9月1日現在)[1]
 • 合計 73人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
103-0028(一丁目)[2]
104-0028(二丁目)[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 品川

「八重洲」という地名は1600年に来日したオランダ人航海者ヤン・ヨーステンに由来するとされるが、江戸時代には江戸城の内堀沿いを指す名称であり、明治以後昭和初年までは現在の千代田区丸の内二丁目の一部が「八重洲町」と呼ばれていた。地名の「移動」には、現在の東京駅八重洲口付近で外濠川(おおむね現在の外堀通り)に架かっていた八重洲橋という橋の存在と、東京駅の出入口が関わっており、昭和初期に東京駅東口が「八重洲口」、駅前の幹線道路が「八重洲通り」と呼ばれるようになった。行政地名として中央区に「八重洲」が設置されたのは第二次世界大戦後の1954年である。本項歴史節においては現在の八重洲地域に加え、かつて「八重洲」と呼ばれた地域についても記述する。

地理編集

 
東京駅八重洲口の外観(2014年撮影)。東京駅舎はすべて千代田区丸の内に属する。

行政地名の八重洲は、中央区の西部に位置する、南北方向に長い長方形状の区画である。西はおおむね外堀通り付近(旧江戸城外濠)を境界として千代田区丸の内大手町と隣接する(後述)。北は日本橋川を隔てて日本橋本石町、北東角(西河岸橋上の一点)で日本橋室町と接する。西河岸橋から八重洲仲通り~柳通りと名称の変わる一連の道路が東の境界となっており、日本橋京橋と接する。また、南では東京高速道路(旧京橋川)付近を境界として銀座と隣接する。一丁目と二丁目があり、ほぼ中央を走る八重洲通りを挟んで北側が一丁目、南側が二丁目である。

中央区(八重洲)と千代田区(丸の内・大手町)の境界線は、外堀通りの線形とは一致しておらず、外堀通りの西側を通る。この境界線はかつて外濠の中央に引かれていた区界を引き継ぐものであるが、外濠埋め立て後に駅の拡張や直線的な道路の整備が行われたためである。外堀通り以西で中央区八重洲に属する場所について、住居表示による街区表示では八重洲一丁目10番・11番街区が設定されているが、これらは実際の住所としては使われていない。

東京駅では西側の出口(皇居方面)を「丸の内口」、東側の出口(日本橋方面)を「八重洲口」と称することから、駅西側一帯が「丸の内」、東側一帯が「八重洲」と通称されている。ただし、行政上の千代田区丸の内と中央区八重洲の境界は、東京駅八重洲口駅前よりもやや東にあるため、東京駅の駅舎・プラットフォーム等の施設はもとより、八重洲口駅前に位置するグラントウキョウ丸の内トラストシティなどのビル群も千代田区丸の内一丁目に所在する。また上述のように、外堀通りのやや西側に区界が走っているために、鉄鋼ビルディングは区界をまたいで建てられている。

八重洲は中央区では唯一、旧日本橋区と旧京橋区にまたがる町名であり、一丁目が旧日本橋区、二丁目が旧京橋区である。一丁目と二丁目で郵便番号が異なっているのはその名残であり(一丁目は日本橋郵便局、二丁目は晴海郵便局がそれぞれ集配を担当する)、税務署(一丁目は日本橋税務署、二丁目は京橋税務署の管轄)や消防署(一丁目は日本橋消防署、二丁目は京橋消防署の管轄)の管轄も分かれている。

由来編集

 
八重洲通り(日本橋3丁目交差点)にあるヤン・ヨーステン記念碑(2007年撮影)。
 
北側(和田倉門)から望む馬場先濠。江戸時代には馬場先濠外側の河岸が「八代洲(八重洲)河岸」と呼ばれていた。奥に見える明治生命館は江戸時代に八代洲河岸定火消屋敷があった場所で、明治期には八重洲町一丁目となった。

「八重洲」の語源編集

「八重洲」という地名は、1600年(慶長5年)に帆船リーフデ号の乗組員として日本に漂着したオランダ人ヤン・ヨーステン(1556年? - 1623年)の名に由来する[5][6][7]、というのが一般的な説明である。ヤン・ヨーステンは徳川家康に召し出されて国際情勢顧問や通訳として活躍、また朱印船貿易家としても活動した[5]。その名は「ヤンヨウス」「ヤヨウス」等と呼ばれ「耶揚子[8]:123(耶楊子)」などの漢字があてられた。彼が徳川家康から与えられた屋敷の周辺を「やよす河岸」等と呼ぶようになったのが、地名としての「八重洲」の起こりであるとされている[9]。江戸時代には「八重洲河岸」「八代洲河岸」のほか、「耶揚子河岸」(『御府内備考』)、「八代曾河岸」(『江戸名所図会』『江戸砂子』)などさまざまな漢字表記があった。

ただし、江戸時代に「やよす河岸」と呼ばれていたのは、和田倉門から馬場先門周辺にかけての江戸城内濠(馬場先濠)沿い(現在の千代田区丸の内日比谷通り沿い)である[注釈 1]。つまり、「東京駅の西側が丸の内、東側が八重洲」という現代の印象に反して、「八重洲」はもともと「東京駅の西側」の「丸の内」に含まれる地域にあった地名であった。「八重洲」が「東京駅の東側」の地域名として定着し、「丸の内」の対と見なされるには、外濠に架かっていた八重洲橋という橋の存在と、東京駅の歴史が関わる(#歴史節参照)。

「八重洲」の地名のルーツとなったヤン・ヨーステンを記念するものとして、八重洲通りの中央分離帯(日本橋3丁目交差点)に「ヤン・ヨーステン記念碑」と「平和の鐘」(1989年、日蘭修好380周年記念として建立)、八重洲地下街に「ヤン・ヨーステン記念像」がある。また、丸の内側の丸ビル横に「リーフデ号」のブロンズ像がある。

「八重洲」の考証史編集

「八重洲」という地名は江戸城内濠沿いにあったヤン・ヨーステンの屋敷に由来するという説明は、古く江戸時代の地誌類で唱えられており、通説とされる。ただし、ヤン・ヨーステンの屋敷が実際に内濠付近にあったことを確認できる一次史料・古地図類はなく、現代の辞事典類には断定を保留するものもある[注釈 2]

この地名が外国人に与えられた屋敷に由来するという説明の早い例は、1683年頃に成立した戸田茂睡仮名草子紫の一本(むらさきのひともと)』に見られる。この作品では、和田倉門前が「やようす河岸」と呼ばれていることを述べ、以下のように説明する。

和田倉御門の前を彌與三が河岸と云、昔彌與三(やようす)、八官、安針(あんじん)とて、三人の唐人下りしに屋敷を下さるゝ、其所を今彌與三河岸、八官町、安針町と云。 — 『紫の一本』巻上、「御城廻り」。
『戸田茂睡全集』(国書刊行会、1915年)p.215(国立国会図書館デジタルコレクション

ともに紹介されている「安針」は、ヤン・ヨーステンとともにリーフデ号乗組員であったウィリアム・アダムス(三浦按針)で、屋敷地が安針町(現在の日本橋室町一丁目、日本橋本町一丁目)になったとされる。八官町(現在の銀座八丁目)の語源とされる「八官」(「ハチクワン」「ハチクハン」などとも)については、中国人とする説、ヤン・ヨーステンと同様にオランダ人とする説、朝鮮人キリシタンの常珍八官(ヨアキム破竹庵)[注釈 3]と結び付ける説など、現代も諸説がある。

以後、江戸中期に成立した地誌『江戸砂子[注釈 4]、江戸時代後期に幕府が編纂した『御府内備考[注釈 5]などでも、この河岸の名が外国人の名に由来するという記述が継承されている。

歴史編集

江戸時代から東京駅開業まで編集

現在の八重洲地域編集

 
17世紀中期の江戸を描いた寛永江戸図。紅葉川は現在の八重洲通りにあたる。

江戸時代、現在の八重洲地域付近の江戸城外濠には、呉服橋と鍛冶橋が架かっていた。呉服橋は呉服橋交差点外堀通り永代通りの交差点)、鍛冶橋は鍛冶橋交差点(外堀通りと鍛冶橋通りの交差点)に名を残す。橋の内側には、呉服橋門と鍛冶橋門(江戸城三十六見附参照)が設けられており、外濠の内側は江戸城外郭(いわゆる「丸の内」)であった。外濠の外側は「城辺(しろべ)河岸」[12]と呼ばれる河岸(かし。河川舟運の物流拠点であるとともに市場にもなった場所)であり、商工業者の集住地であった[13]。材木関係の職人が集住した(上・北・南)槇町、檜物町、桶町、(元・南)大工町[13][14]、あるいは職業に基づく南鍛冶町や北紺屋町[14]などの旧町名は、こうした歴史に由来する。

現在の八重洲一丁目の北縁を画するのは日本橋川である。日本橋川沿岸は河岸地が発達した場所で、現在の八重洲一丁目北端付近は西河岸と呼ばれた。後藤庄三郎屋敷(金座)などがある対岸とを結ぶ一石橋には「迷子しらせ石標」が設けられるなど、賑やかな地であった[13]

外濠の呉服橋門は、門外に幕府呉服司後藤縫殿助の屋敷があったことに由来する(旧町名の呉服町も後藤縫殿助の屋敷があったことに由来する)。なお、江戸時代後期には北町奉行所が呉服橋門内に置かれており、東京駅の八重洲北口付近に解説板がある[注釈 6]

現在の八重洲通りの場所には、江戸時代初期に外濠と楓川(現在の首都高速都心環状線)を結ぶ運河「紅葉川」があった[13][12]。紅葉川は江戸城建設資材を運搬するために開削された運河[注釈 7]であるが、正保年間(1644年-1647年)に西半分にあたる外濠と中橋(東海道に架かっていた橋。現在の日本橋三丁目交差点付近)の間が埋め立てられて火除地とされ、中橋広小路と呼ばれた[12]

現在の八重洲二丁目南部にあった鍛冶橋門の名は、門外に南鍛冶町があったことに由来するという。鍛冶橋門外には狩野探幽が屋敷を拝領し、「鍛冶橋狩野家」を興した。桶町には幕末期に千葉定吉の剣術道場(桶町千葉道場)があった。

現在の八重洲二丁目南端には京橋川で、江戸時代には一帯に大根河岸と呼ばれる青果市場が成立した[17]。大根河岸は明治期に京橋大根河岸市場として認可され[18]築地市場東京市中央卸売市場築地本場)が開設されて市場機能が集約される昭和初期まで青果市場として繁栄した。現代は中央区の道路愛称として「京橋大根河岸通り」の名がある[17]

1872年(明治5年)に郡区町村編制法が施行され、東京府のもとに東京15区が置かれた。この際、現在の八重洲通り以北が日本橋区、以南が京橋区となった(#地名の変遷参照)。

1904年(明治37年)、外濠沿いの道路に東京電気鉄道(通称「外濠線」、のちに市電・都電となる)の路面電車が開通した。新橋駅北口の土橋から、数寄屋橋・鍛治屋橋・呉服橋を経て、北は御茶ノ水に至る路線であった(うち新常盤橋以南を「土橋線」と言った。東京都電車参照)。

八代洲河岸と麹町区八重洲町編集

 
尾張屋清七版「御曲輪内大名小路絵図」(1849年・嘉永2年)。和田倉門の南側に「八代州川岸」の文字がある。
 
昭和初期の麹町区の町名再編。「八重洲町」が見える。
 
1903年ごろの「一丁倫敦」。馬場先門通りの北側(図の右側)は麹町区八重洲町で、右手前にある角地のビルが三菱第1号館。南側(左側)は当時は有楽町であった(現在は丸の内三丁目)。

徳川家康の江戸入府当時、日比谷から皇居外苑和田倉門付近まで日比谷入江が入り込んでおり、その東側には江戸前島と呼ばれる半島状の地形があった[19]。『慶長記』には、道三河岸とともに八重洲河岸の記載がある[20]:960[注釈 8]河岸(かし)とは荷揚げ場を指し、市場的な役割も果たした場所である[注釈 9]。道三堀(江戸前島の付け根部分、和田倉門から呉服橋門にかけての水路)の開削と周辺の市街地成立が江戸の町割りのはじめとされるが、江戸前島の日比谷入江側に成立した八重洲河岸は、江戸初期の中心的な河岸の一つであり、築城資材を積んだ船が入って江戸城建設の起点となるとともに、経済活動の拠点ともなった[19]。1608年(慶長13年)には、道三河岸と八重洲河岸に奉行所が設置されて町人の見張り番所が置かれた[20]:960

外濠の開削・日比谷入江の埋め立てが進められると、外濠の内側は江戸城内部(御曲輪内)とされた。御曲輪内の町人地は「内町」とも呼ばれたが(寛永江戸図では内濠外側に河岸や町人地が残されている[19])、城下の整備とともに町人は外側へと移転させられていった。八重洲河岸は寛永5年(1628年)に御用地となり、町人には代地が与えられた。八重洲河岸にあった漁師町は京橋付近に移され、新肴町(現在の中央区銀座三丁目)になった[21]:32。弥左衛門町(銀座四丁目)もこの時に八重洲河岸から移転したという。

こうして、現在の東京駅西側にあたる内濠と外濠に挟まれた一帯には大名屋敷江戸藩邸)が立ち並び[10]、中央を走る街路から大名小路と呼ばれる地域となった[11]

万治3年(1660年)、馬場先門近くの「八代洲河岸」には定火消屋敷(幕府直轄の消防組織)の一つが置かれた[注釈 10](現在の明治生命館付近)。浮世絵師の歌川広重は定火消同心安藤家の嫡男として八代洲河岸の定火消屋敷で誕生し[22]、のちに火消同心職を務めた。

この一帯の大名屋敷は、安政の大地震(安政2年=1855年)で被害を受けた上に、幕末期に政治の中心が上方に移った[注釈 11]こともあって荒廃した[10]。大名屋敷は明治維新後に官有地となり、官庁や軍施設が置かれたが、1872年には大火(銀座大火)で焼失を被った[10]

1872年(明治5年)、外濠と内濠にかけて「八重洲町1~2丁目」の町名が設定された[23][22]。この「八重洲町」は現在の丸の内2丁目の南部にあたり、おおむね丸ビル南側の通り(丸の内2ndストリート)以南[注釈 12]馬場先通り以北である。内濠(八重洲河岸)に面した側(馬場先門外)が「八重洲町一丁目」、外濠に面した側(鍛冶橋門内)が「八重洲二丁目」であった。この時期、「丸の内」は八重洲町や、その北隣の永楽町などを含む一帯の通称地名として使用されていた[11]。1878年(明治11年)にこの地域は麹町区に含まれた[22]

1883年(明治16年)測図の「東京図測量原図 : 五千分一 東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍」によれば、内濠側の八重洲町一丁目に陸軍施設(東京鎮台騎兵営・輜重兵営)、外濠側の二丁目に官庁(司法省東京裁判所大審院警視庁)が置かれていた[24]

1884年(明治17年)、外濠に架かる呉服橋鍛冶橋との間に新たな橋として八重洲橋が架けられた[9][22]。橋の名は、日本橋区京橋区(現在の中央区)から麹町区八重洲町に通じることから付けられた[9][23]

1890年(明治23年)、八重洲町一丁目を含む丸の内一帯の広大な土地が、三菱の岩崎弥之助に払い下げられた(いわゆる「三菱ケ原」「三菱村」である)。1892年(明治25年)、麹町区八重洲町一丁目1番地(現在は丸の内二丁目6番2号)に三菱一号館(建設当時は「第1号館」)が建設されたのを嚆矢として、馬場先門通り(馬場先通り)沿いには赤レンガ造のオフィスビルが並ぶようになり、「一丁倫敦」と呼ばれることになる。

東京駅の開業以後編集

「丸の内口」と「八重洲口」編集

 
松本竣介『橋(東京駅裏)』(1941年)。八重洲橋を描いたとされる[25]。東京駅の八重洲口側は、長らく「東京駅裏」と意識されていた。

1914年大正3年)、東京駅が開業した。この時、駅舎は西側(皇居側)にのみ置かれ、東側には車両基地が設けられたため、八重洲橋は撤去された。

東京駅の改札が西側にしかなかったことから、日本橋などがある東側へ行くには迂回を強いられた[26]1923年(大正12年)の関東大震災後で駅東側の地域も大きな被害を受けたが、震災復興再開発事業の一環として1925年(大正14年)に八重洲橋が再架橋され、東京駅の車両基地の上を跨ぐ跨線橋が作られて丸の内側に直線的に行けるようになった。1929年昭和4年)には東京駅東側に乗車券売場のみの改札口が設けられた。東京駅の改札は当初、西側を「八重洲町口」、東側を「八重洲橋口」と呼んだ。

1929年(昭和4年)には、東京駅周辺の町名が再編成され、東京駅の西側にあった麹町区「八重洲町」が廃されて「丸ノ内二丁目」となった[23][22]。町名再編成の結果、東京駅の西側から「八重洲」の地名が消滅し[22]、東京駅の改札も「八重洲町口」を「丸ノ内口」に、「八重洲橋口」を「八重洲口」と改称した。また、震災復興事業に関連して、日本橋区と京橋区の境界となっていた道路が「幹線7号街路」として拡幅・延伸され、「八重洲通り」と命名された[22]。こうしたことから、東京駅を中心として西側を「丸ノ内」[注釈 13]、東側を「八重洲」とする地理的雰囲気が醸成されていった[22]

なお、麹町区八重洲町一丁目1番地であった土地(三菱一号館の北側)に三菱によって建設されたビル(1926年(大正15年)2月着工、1929年(昭和4年)3月竣工)は、「八重洲ビルヂング」と命名された。このビルは1962年(昭和37年)に「丸ノ内八重洲ビルヂング」と改名されるが、これには「八重洲側」にあるように誤解されるというテナントからの苦情があったためという(丸ノ内八重洲ビルヂングは2006年に解体され、現在は丸の内パークビルディングが建つ)。

戦災と復興編集

太平洋戦争末期、空襲により八重洲口周辺の市街は壊滅的な被害を受けた[26]

戦後、戦災残土(瓦礫)処理のために外濠や京橋川は埋め立てられた。占領当局から戦災残土処理が命令される一方で、必要な機材や燃料は不足しており、濠や川の埋め立ては「手っ取り早い」方法であった[27][28](ただし、戦前から濠や川の埋め立て計画が立案されてはいた[28])。1948年昭和23年)には八重洲橋も姿を消した。埋め立てられた外濠跡を用いて駅の拡張工事が行われた。1948年(昭和23年)11月、八重洲口に新駅舎が建設されたが、6か月後の1949年(昭和24年)4月、失火により焼失した。

戦前、東京駅の乗降客数の割合は 6:4 でオフィスビルが多い丸の内側が多かった。しかし戦後、丸の内側の多くのオフィスビルが連合国軍最高司令官総司令部に接収されたため、追い出された企業の多くが東京駅をはさんだ八重洲に拠点を求めた。このことにより、一時的に八重洲側の乗降客数が逆転、地価も暴騰した[29]

現行行政地名「八重洲」の成立と八重洲口の発展編集

1954年(昭和29年)、日本橋呉服橋、槇町が改称し、八重洲という町名が生まれた[9][23]。これによって名実共に東京駅の西が丸の内、東が八重洲になった。1954年(昭和29年)には新たな八重洲口駅舎(鉄道会館ビル)が竣工、大丸東京店が開業した。

鉄道会館ビルは1968年に6階建てから12階建てに増築され八重洲のランドマークになった。1960年代後半には大規模な八重洲地下街が段階的に建設され商業施設が大幅に増えた。

1968年には外堀通りを通っていた都電土橋線が廃止された。

平成以降の八重洲口は、隣接する丸の内に比べ老朽化したビルが目立ち、再開発はあまり進んでいなかったが、「東京ステーションルネッサンス」の一環として再開発事業が進められた。2007年11月、鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービルグラントウキョウが大丸の移転とともに竣工した。その後、鉄道会館ビルは解体され、2013年9月、跡地にペデストリアンデッキ「グランルーフ」が竣工した。駅前広場が整備され、狭かったバス乗り場は大幅に拡張された。鉄道会館ビルの解体により、東京湾側から丸の内側への海風の通り抜けが改善され、ヒートアイランド現象が緩和することが期待されている。

地名の変遷編集

 
昭和初期の日本橋区の町名再編
 
昭和初期の京橋地域の町名再編
 
中央区の住居表示対照図

現行行政地名としての「八重洲」は、1954年(昭和29年)の町名変更によって成立したものである[30]

現在の八重洲一丁目(旧日本橋区域)編集

八重洲一丁目は旧日本橋区である。1872年時点では以下の町名があった。

  • 西河岸町
  • 呉服町
  • 元大工町
  • 数寄屋町
  • 檜物町
  • 上槇町

1928年(昭和3年)に呉服橋一丁目から呉服橋三丁目となった。

1947年(昭和22年)の中央区成立時に「日本橋」を冠称して中央区日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服橋三丁目となった(旧日本橋区域ではすべての町名に「日本橋」が冠されることになったが、この後に行われる「八重洲」への改名により、現在の八重洲一丁目は旧日本橋区域で「日本橋」がつかない唯一の地域となる[22]。)。

現在の八重洲二丁目(旧京橋区域)編集

八重洲二丁目は旧京橋区である。1872年時点では以下の町名があった。

  • 北槇町
  • 南槇町
  • 桶町
  • 南大工町
  • 南鍛冶町
  • 五郎兵衛町
  • 北紺屋町

1931年(昭和6年)に槇町一丁目から槇町三丁目となった。

1947年(昭和22年)の中央区成立時に中央区槇町一丁目から槇町三丁目となった。

1954年の「八重洲」成立以後編集

日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服町三丁目と槇町一丁目から槇町三丁目は、1954年(昭和29年)に「八重洲一丁目から八重洲六丁目」に改名された。

この「八重洲一丁目から八重洲六丁目」は住居表示によって再々編され、八重洲一丁目から八重洲三丁目が八重洲一丁目に変更(1973年実施)、八重洲四丁目から八重洲六丁目が八重洲二丁目に変更(1978年実施)されている。

世帯数と人口編集

2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
八重洲一丁目 43世帯 75人
八重洲二丁目 26世帯 28人
69世帯 73人

小・中学校の学区編集

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[31]

丁目 番地 小学校 中学校
八重洲一丁目 全域 中央区立城東小学校 中央区立日本橋中学校
八重洲二丁目 全域 中央区立銀座中学校

地域編集

教育
企業
施設

観光編集

店舗

交通編集

一般道路編集

南北に延びる道路を西からの順
東西に延びる道路を北からの順

高速道路編集

文化財編集

出身・ゆかりのある人物編集

画像一覧編集

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 江戸時代後期の江戸切絵図では、内濠沿いの道(現在の日比谷通り)に「八代洲河岸(川岸)」の文字が記されている。1849年(嘉永2年)の江戸切絵図「御曲輪内大名小路絵図」)には、和田倉門から馬場先門にかけての内濠(馬場先濠)沿いの道(現在の日比谷通り)に「八代洲川岸」の文字が見られ[10]、同年の別の切絵図(尾張屋清七版「御江戸大名小路絵図」)では馬場先門の南側の濠沿いの道に「八代洲河岸」の文字が記されている[11]
  2. ^ 江戸時代から唱えられ現代でも一般的に知られている由来説明ではあるが、史実としての確実性については疑問を持たれている事例として、有楽町(江戸時代の有楽原)の由来を織田有楽斎の屋敷地に求める説がある。
  3. ^ ルイス・ソテロらフランシスコ会宣教師に江戸における宿所を提供していた人物で、1613年8月16日に殉教した(鳥越の殉教)。
  4. ^ 「八代曾河岸」という項目名で立項されており、和田倉門から馬場先門にかけての堀端を指すとする。
    八代曾河岸(やよそかし)。わたくらより馬場さきの御濠はたを云。むかしは此所に町屋ありし也。慶長の頃ヤンヨウス、ハチクハンなとといふ異国人きたりしに此辺にてヤンヨウスに町屋敷を下されてよりの名といふ。ハチクワンは八官町にて屋敷を下されける也。又冶容子(ヤヨウス)河岸とも書よし、八代洲とも書。 — 『再校江戸砂子名蹟誌』巻一(須原屋伊八板)、「大下馬より南方 并御堀端東南西北」。
    『江戸砂子温故名蹟誌』(国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^
    耶揚子河岸。彌余子、八代洲、八代曾、八重洲とも書せり。皆仮借の文字なり。【紫一本】に云、昔ヤヨウスと云異国人に、此所にて屋敷を賜りしよりの名なりと。案に『慶長日記』に十九年甲寅九月朔日、阿蘭陀人耶揚子虎子二匹を献ずるよしみへたり。駿府政事録』同じ。此人なるべし。 — 『御府内備考』巻之七・御曲輪内之五、「屋敷地名并里俗小名」。
    『大日本地誌大系』第1巻(雄山閣、1929年)p.134(国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 江戸の北町奉行所は慶長6年(1601年)に呉服橋門内に設置され、以後何度か移転しているが、文化3年(1806年)から幕末まで呉服橋門内(現在の呉服橋交差点南西、東京駅日本橋口付近。千代田区丸の内一丁目)に置かれた。「都旧跡 北町奉行所跡」の解説板が、東京駅の八重洲北口付近(丸の内トラストタワーN館東側)にある。
  7. ^ 同様に、日本橋川と京橋川の間には、紅葉川も含め舟入堀と呼ばれる9本の運河群があったとされる。これらの運河は紅葉川に先立って埋め立て・短縮された[15][16]
  8. ^ この記述は江戸における「河岸」の初出ともなっている[20]:960
  9. ^ 郷土史家の菅原健二によれば、江戸において「河岸」とは、町人地に付属した荷揚げ場を指し、市場的な役割も果たした。なお武家地に付属した荷揚げ場は「物揚場」と呼ばれ「河岸」とは区別されたという[19]
  10. ^ 御府内備考』巻之三。[1]
  11. ^ 文久2年(1862年)には2度の火災で江戸城の本丸・二の丸・西の丸御殿が焼失(以後再建されず)。文久3年(1863年)以後、将軍徳川家茂は3度にわたって上洛しており、慶応元年(1865年)の第2次長州征伐で上洛したあと江戸には戻ることなく大坂城で没した。徳川慶喜は将軍在任中に江戸城に入っていない。
  12. ^ 現在の丸の内2丁目北部は永楽町1丁目であった。
  13. ^ 1970年の住居表示実施以降は「丸内」表記となる。

出典編集

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参考文献編集

  • 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。

関連項目編集

外部リンク編集