三島由紀夫 > 楯の会 > 三島事件 > 檄 (三島由紀夫)

』(げき)は、三島由紀夫の最後の声明文1970年(昭和45年)11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監室を占拠後(三島事件)、バルコニーから演説する際に撒布されたもの[注釈 1]。原稿用紙にして9枚ほどの長さの10段落の文章で、B4の紙2枚に三島の肉筆でびっしり書かれている[2]。三島の死後、様々な誌面や三島論で引用されることの多い声明文である。

演説中の三島由紀夫
演説中の三島由紀夫
作者 三島由紀夫
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 声明文、檄文、演説
発表形態 1970年11月25日
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーにてクーデター呼びかけ
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示

同書は、当日に市ヶ谷会館にて、ジャーナリスト徳岡孝夫伊達宗克にも封書に同封されて託された[2][3]。三島は、徳岡孝夫と伊達宗克へ託した手紙の中で、「同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます。」と、檄の全文公表を強く希望した[2][3]

『檄』は事件の後、朝日新聞で一部分がカットされた以外は新聞各紙に全文掲載されたが[4][5]、直後にいち早く全文掲載したのは、週刊誌『サンデー毎日』だけだという[6]

翻訳版は、Harris I. Martin訳(英題:An appeal)により『Solidarity』(1971年8月)、『Japan Interpreter』(1971年7月)に掲載された[7]

内容

編集

三島は、自衛隊内での約4年(学生らは3年)の体験入隊を振り返りつつ、〈自衛隊を愛するが故〉に、この〈忘恩的〉と思われるような行為に出たことを述べ、三島自身の見てきた戦後日本の、〈経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの空白状態へ落ち込んでゆく〉姿、〈政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史伝統を涜してゆく〉国となってしまったことを憂い、次のように意見を述べる。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その誠の対象も明確にされなかつた。 — 三島由紀夫「檄」

そして、〈天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る〉という〈日本の軍隊の建軍の本義〉を忘れている現状国家の大本を正し、自衛隊を国軍とすることは現状の議会制度下では困難であり、唯一、1969年(昭和44年)10月21日(国際反戦デー)のデモ鎮圧に向けての自衛隊の治安出動憲法改正の絶好のチャンスであったにもかかわらず、政府は警察力のみによってデモ隊を制圧し、〈敢て「憲法改正」という火中の栗〉を拾わなくても、政体維持可能の自信をつけ、この日を境に〈国を根本問題に対して頬つかぶりをつづける〉ことになったこと、改憲は〈政治プログラム〉から永久に除外され、将来的に護憲のまま誤魔化し続ける国家となってしまったこと、国体を守るべき自衛隊が政治家の欺瞞により、自らを否定する〈護憲の軍隊〉というパラドックスに陥ったことを三島は糾弾する。

さらに、それに対し黙って甘んじている自衛隊員への任務が、〈悲しいかな、最終的には日本からは来ない〉という現状と、〈英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない〉ことを三島は指摘し、〈より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。 武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか〉と疑問を投げかける。また、かつての五・五・三の不平等条約の再現かのような〈国家百年の大計にかかはる核停条約〉に対して〈抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた〉と嘆き、以下のように警告する。

沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。 — 三島由紀夫「檄」

そして最後に、以下のように覚醒を促し、〈われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである〉と自衛隊員に呼びかける。

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。 — 三島由紀夫「檄」

補足

編集

『檄』の原文5段落目の、〈この昭和四十五年十月二十一日といふ日は〉という箇所は、「昭和四十四年」の誤りで、『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』内では、正しい年に修正されている。

『檄』がばら撒かれた時と同時に、要求書が書かれた垂れ幕がバルコニーに掲げられたが、これはキャラコの布地に書かれたものである。11月23日にパレスホテルの519号室で三島が書する際に、その下敷きとして用いられた新聞紙には、うっすらと墨の跡が残っているという[8][注釈 2]

関連肉声資料

編集
  • 『衝撃の記録―1970年11月25日 三島由紀夫』(キャニオン・ドキュメンタリー・シリーズ、1970年12月20日)
  • 『三島由紀夫の死』(朝日ソノラマ 臨時増刊号、1970年12月20日)
    • ソノシート(両面)2枚。盤面色に2種あり。
    • 収録内容:
      • ソノシート{1}は両面に、「衝撃の現場!」(緊迫した現場の状況、事件の顛末を語る自衛隊代表者、現場の状況を説明する警察署長と自衛隊員、楯の会乱入隊員逮捕、三島の霊に敬礼する右翼団体、三島の死を語る石原慎太郎氏)。
      • ソノシート{2}のA面に、「三島由紀夫!」(事件の現場に駆けつけた川端康成氏、楯の会発足の動機を語る三島由紀夫、剣道ボディビルに励むありし日の三島由紀夫、日本語について語る三島由紀夫)。
      • ソノシート{2}のB面に、「三島由紀夫の生と死!」(東大全共闘との討論集会)。
      • 本誌面に、村上兵衛「わが友・三島由紀夫」、三島由紀夫「辞世」と「檄」を掲載。
  • 『嗚呼 三島由紀夫―1970年11月25日』(キャニオン・ドキュメンタリー・シリーズ、1970年11月25日)
  • 『三島由紀夫 最後の絶叫』(週刊サンケイ 三島由紀夫特集・臨時増刊号、1970年12月31日)
  • 『三島由紀夫 最後の絶叫』(アポロン、1970年12月)
  • 『三島由紀夫氏追悼の夕べ』(タイセイ・グローバル社、1971年1月8日)

全集収録

編集
  • 『三島由紀夫全集34巻(評論X)』(新潮社、1976年2月25日)
    • 装幀:杉山寧四六判。背革紙継ぎ装。貼函。
    • 月報:小賀正義「日本人対日本人」。阿部勉「三島隊長の『問題提起(日本国憲法)』」。《評伝・三島由紀夫34》佐伯彰一「三島由紀夫以前(その10)」。《三島由紀夫論9》田中美代子「隠された宇宙」
    • 収録作品:昭和44年2月から昭和46年11月の評論93篇。
    • ※ 同一内容で豪華限定版(装幀:杉山寧。総革装。天金。緑革貼函。段ボール夫婦外函。A5変型版。本文2色刷)が1,000部あり。
  • 『決定版 三島由紀夫全集36巻・評論11』(新潮社、2003年11月10日)
    • 装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
    • 月報:松本徹「十歳の『アラビヤン・ナイト』」。大須賀瑞夫「最後の講演テープ」。[思想の航海術11]田中美代子「悪魔=展望の誤謬」
    • 収録作品:[評論]昭和45年1月から昭和45年11月までの評論70篇。[作文]幼少年時代の作文46篇。[参考作品1]共同執筆8篇。[参考作品2]異稿・断片25篇。[参考作品3]英・独文の翻訳掲載5篇(日本語原稿が見つからないもの)。[参考作品4]アンケート45篇。[参考資料(楯の会)]15篇。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 正午直前ごろ、「楯の会」メンバーの森田必勝小川正洋により撒布された[1][2]
  2. ^ 同月22、23日付の『読売新聞』『産経新聞』『東京新聞』と、24日付の『夕刊フジ』(23日発売)が、下敷きに用いられた。古新聞と化したこれらの各紙は、森田必勝の兄・森田治のもとで保管されている[8]

出典

編集
  1. ^ 「国会を占拠せよ ■第二回公判」(裁判 1972, pp. 59–82)
  2. ^ a b c d 「第十章 十一月二十五日」(徳岡 1999, pp. 238–269)
  3. ^ a b 「昭和四十五年十一月二十五日」(裁判 1972, pp. 13–18)
  4. ^ 「第十三章 1970年11月25日」(豊夫 2006, pp. 103–114)
  5. ^ 「第一章『最後の一年は熱烈に待つた』」(保阪 2001, pp. 57–92)
  6. ^ 「第十一章 死後」(徳岡 1999, pp. 238–269)
  7. ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
  8. ^ a b 「第三章 惜別の時」(彰彦 2015, pp. 137–198)

参考文献

編集
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集36巻 評論11』新潮社、2003年11月。ISBN 978-4106425769 
  • 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡』新潮社、2004年3月。ISBN 978-4106425783 
  • 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820 
  • 安藤武 編『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年4月。NCID BN14429897 
  • 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185 
  • 井上豊夫『果し得ていない約束――三島由紀夫が遺せしもの』コスモの本、2006年10月。ISBN 978-4906380800 
  • 伊達宗克『裁判記録「三島由紀夫事件」』講談社、1972年5月。NCID BN0140450X 
  • 徳岡孝夫『五衰の人――三島由紀夫私記』文藝春秋社文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167449032  - 文春学藝ライブラリーで再刊、2015年10月 。ハードカバー版(文藝春秋)は1996年11月 ISBN 978-4163522302
  • 中村彰彦『三島事件 もう一人の主役――烈士と呼ばれた森田必勝』ワック、2015年11月。ISBN 978-4898317297  - 初刊版は『烈士と呼ばれる男――森田必勝の物語』(文藝春秋、2000年5月。文春文庫、2003年6月)ISBN 978-4163562605ISBN 978-4167567071
  • 長谷川泉; 武田勝彦 編『三島由紀夫事典』明治書院、1976年1月。NCID BN01686605 
  • 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(増補再訂)朝文社、2005年9月。ISBN 978-4886951809  - 再訂の初版は1989年6月 ISBN 978-4886950130。原本の初刊は『資料総集・三島由紀夫』(新人物往来社、1975年6月)NCID BN06124544
  • 保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』角川書店角川文庫〉、2001年4月。ISBN 978-4043556021  - ちくま文庫で再刊、2018年1月。ISBN 978-4480434920 初刊版は『憂国の論理――三島由紀夫と楯の会事件』(講談社、1980年11月)NCID BN0927574X

関連事項

編集

外部リンク

編集