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国体(こくたい)とは、国家の状態、くにがらのこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと[1]。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系天皇日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという[2]

国体論は、幕末水戸学によって打ち立てられ[3]明治帝国憲法教育勅語により定式化された[4]。国体の観念は近代日本を呪縛した。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された[3]

概要編集

もともと国体という語は国家の形態や体面を意味していたが、幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を打ち立てた[3]。水戸学の構想は日本全国に広まり、国体論が一つの思想として独立した。国体論は、明治維新の後の過渡期を経て、帝国憲法教育勅語により定式化された[4]

昭和になると、国体論は日本国民の思想を規制するのに猛威をふるった。治安維持法で国体変革を罪と定め、その最高刑を緊急勅令死刑に引き上げた。その背景には、日本の国体を否認するマルクス主義に対する恐怖と敵意があった[5]満州事変以降に日本が軍国化に向かうと、国体の観念は国民精神を動員するためのキーワードとなった。美濃部達吉の天皇機関説が生け贄となり、政府は国体明徴声明を出し、天皇機関説を神聖なる国体に反するものと見なし、これを厳に切って除くと声明した[6]文部省は『国体の本義』を刊行し、臣民が天皇に絶対服従すべきこと等を説いた[7]。国体論は日本の敗戦の際にも威力を示し、日本政府は国体の護持を唯一の条件として降伏した。戦後は民主主義に取って替わられ、国体という語は過去の言葉になった[8]

国体の語義編集

「国体」は旧字体で「國體」と書き、「」という字は一政体の下に属する土地人民などの意、「」という字は、からだ、てあし、もちまえ、すがた、かたち、かた、きまり、などの意である[9]

国体という語は、古くから漢籍に見え、『管子』君子篇において国家を組織する骨子という意味で用いられ、『春秋穀梁伝』において国を支える器という意味で用いられたが、これらは本項でいう国体とは関係がない[10]。その後、漢書に国体の語が見え、これは国の性情、または国の体面という意味であり、本項でいう国体にやや近いといえる。このほか後漢書晋書旧唐書宋史続資治通鑑綱目などに表れる用例も似たような意味である[11]

日本において国体という語が多用されるのは近世になってからであるが、古典籍においてもその語は散見される。ただしその用例と意味は近代のものと異なる[12]。国体の語が日本の古典に現れるのは、延喜式所載の出雲国造神賀詞に「出雲臣等が遠祖天穂比命を国体見に遣時に」とあるのが初見であるといわれる[13]。国体は古訓でこれをクニカタと訓じた。また日本書紀の斉明天皇紀に「国体勢」という語句が見え、これをクニノアリカタと訓じた。諸書を対照すると、国体も国体勢も元は地形の意味であったのが転じて国状の意味に用いられたようである[14]。次いで『大鏡異本陰書』や『古事談』に国体の語が見える。これは万葉集にある国柄の語と同義であって、ともにクニガラと訓じ、国風や国姿などの意味に通じる[15]

日本の近世には国体の語がしばしば文書に表れる。そのうち世に知られたもので最古の例は、元禄2年(1689)序、正徳6年(1717)刊の栗山潜鋒『保建大記』である[16]。この間の元禄11年(1698)の森尚謙『儼塾集』に邦体という語が見える。その後、国体の意義を論じたものに、谷秦山新井白石荻生徂徠松宮観山高山健貞賀茂真淵山岡浚明林子平中井竹山村田春海平山行蔵本居宣長平田篤胤会沢正志斎青山延于佐藤信淵鶴峯戌申江川英龍大槻磐渓安積艮斎藤田東湖などがいる[17]

1853年(嘉永6年)黒船来航以降、国体という語は内治外交上重要なものとして用いられ、詔勅・宣命・その他公文書にも多く見られるようになる[17]。たとえば黒船来航の年の7月、前水戸藩徳川斉昭が幕府に建言した意見十箇条には、夷賊を退治しないばかりか万が一にもその要求を聞き入れるようでは「御国体に相済み申しまじく」(国体にあいすみません)と記し、同月伊達慶邦が幕府に提出した書に「本朝は万国に卓絶、神代の昔より皇統連綿」、「和漢古今、稀なる御治盛の御国体に御座候」とある。同年8月、孝明天皇が石清水放生会で攘夷を祈る宣命に「四海いよいよ静謐に、国体いよいよ安穏に、護り幸い給えと恐み恐みも申し給わくと申す」と宣い、そのほか同9月の神宮例幣使、安政元年(1854)11月の賀茂臨時祭、安政5年(1858)4月の賀茂祭、6月の伊勢公卿勅使発遣、および石清水八幡宮・賀茂社臨時奉幣などの宣命に国体の語を用いた。文久2年(1862)5月に幕府へ下した勅で「国政は旧により大概は関東〔幕府〕に委ねる。外夷の事の如きに至りては則ち我が国の一大重事なり。その国体に係るは、みな朕に問うて後に議を定めよ」と命じ、元治元年(1864)、将軍徳川家茂へ下した宸翰には「嘉永六年癸丑、洋夷猖獗来港し、国体あやうきこと云うべからず」とある。以上、幕末の公文書に表れた国体の語の例である[18]

明治維新後、国体の語が公文書にあらわることがますます多くなり、とくに詔勅に国体の語をしばしば用いる。たとえば慶応4年(1868)5月、奥羽士民を告諭するためのに「政権一途、人心一定するにあらざれば何を以て国体を持し紀綱を振わんや」、「その間、かならず大義を明らかにし国体を弁ずる者あらん」とある。この詔では国体の文字の右にコクタイ、左にミクニブリという振り仮名が付されている[19]。次いで明治2年(1869)2月に薩長両藩主を徴する勅に「およそ国体を正し、強暴に備え、公義を立て、民安を慮り」とあり、同年9月の刑律改撰の勅に「我が大八洲の国体を創立する、邃古は措いて論ぜず、神武以降二千余年、寛恕の政、もって下を率い、忠厚の俗、もって上を奉ず」とあり、同月に服制更改の勅諭に「風俗なるもの移換、もって時の宜しきに随い、国体なるもの不抜、その勢を制す」「朕、いま断然その服制を更め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す」とあり、明治15年(1882年)1月の軍人勅諭に「かつは我が国体にもとり、かつは我が祖宗の御制にそむき奉り」云々とある[20]

以上のように、国体のという語は近世以降頻繁に用いられたが、その意味は必ずしも一定したものではなく、多くは国風、国情、国の体面、国の名分、国の基礎、国の特性などの意味に用いられた[21]

帝国学士院『帝室制度史』第1巻国体総説によれば、1938年当時用いられた国体という語の意義は教育勅語を基礎としなければならず、この意義における国体は、日本に万世一系の天皇が君臨し、皇統連綿・天壌無窮に君徳が四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味するという[2]

古代中世の国体観念編集

国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が神国であること、皇統が連続して一系であること等である[22]

古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において祭政一致により国を治めていたことも神国思想より起る。そのほか日本書紀神功皇后三韓征伐の条で、攻め寄せる日本兵を見た新羅王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また大化の改新にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ神祇官を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである[23]

神国思想は万世一系の思想につながる[24]。たとえば、道鏡が皇位を望んだとき、和気清麻呂宇佐八幡宮の神託を受けて帰り、「我が国は開闢以来、君臣定まり、臣をもって君と為すことは未だあらざるなり。天の日嗣は必ず皇嗣を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」と奏したというのが、この万世一系思想の現れである。また大化2年(646)に中大兄皇子が詔に奉答して「天に双日なく、国に二王なし。これ故に天の下に兼ね併せて万民を使うべきは、ただ天皇のみ」と言上したとされるのは、天皇の神聖に対する理解を表明したものといわれる[25]

貞観11年(869)12月14日、新羅の船が襲来した知らせを受けて、その撃退を祈る伊勢神宮への告文に「日本朝は、いわゆる神明の国なり。神明の助け護り賜わば何の兵寇か近く来るべき」とあり、同29日の石清水八幡宮への告文にも「我が朝の神国と畏れ憚り来たれる」とあり、神明を信じて疑わない[26]。平安貴族の日記である小右記玉葉に「我が国は神国なり」との文言がある。軍記物語である保元物語に「我が国は辺地粟散の界といえども神国たるによりて」とあり、源平盛衰記に「日本はこれ神国なり。伊弉諾伊弉冉尊の御子孫、国の政を助け給う」とあり、また同書で平重盛が父の清盛を諌めるとき「日本はこれ神国なり。神は非礼を受け給わず」と述べたという。これは創作話であったとしても、物語の著者が重盛に仮託して自分の思想を述べたものである。そのほか諸書や和歌に「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神の御国」などの語が見える。貞永年間に始めて武家法制が定められると第一に神社を崇敬すべきことを掲げている。蒙古襲来の際にも、文永7年正月の蒙古に送る牒文案に「皇土を以て永く神国と号す」とある。蒙古の軍船が嵐で沈んだことについて、日本国民はこれを神明の加護によるものだと信じたという[27]

鎌倉時代の末、虎関師錬は著書『元亨釈書』において、日本は皇統連綿として万世に替わることがないと論じた[25]。これは日本の国体の依って定まる所を明らかにしたものだという[28]

南北朝時代、南朝方の公家北畠親房は『神皇正統記』を著し、同書の始めに「大日本は神国なり。天祖、初めて基(もとい)を開き、日神、永く流れを伝え給う。我が国のみこの事あり、異朝にはその類いなし。それゆえ神国というなり」と述べて日本が神国であることを明示し、さらに進んで万世一系の国体を論じて「ただ我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓におきても、おのずから傍らに伝え給いしすら、なお正に返える道ありてぞ保ちましましける」といい、「これ、しかしながら神明の御誓い新たにして余国に異なるべき謂われなり」と結ぶ。神道については「この国は神国なれば神道に違いては一日も日月を戴きまじく謂われなり」と論じた[29]

中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された[30]

近世前期の国体思想編集

近世の初め、天下人豊臣秀吉徳川家康は外国宛書簡で神国思想を表明する[30]

神国思想や自国優越思想、すなわち日本の国体が特異であるという点について、これを学者が詳細に議論するようになったのは徳川幕府が開かれてからである。その理由は、学問が発達し、日本古代の建国の体制が明らかになったことが一般的理由であるが、さらに、儒家がやたらと唐土を尊び日本を卑下する態度に対して反発がおこったこと、また、江戸の幕府が繁栄しているのと対照的に京都の朝廷が衰微していたので感情的に尊王の思潮が湧いたこと等が理由となった。特に京都在住の学者の間にその傾向があった[31]

儒学編集

藤原惺窩(1561-1619)は日本近世儒学の先駆けとなった[32]。『千代もと草』には次のように記される。天照大神は日本の主であるが、その神宮は茅葺であり、食事は黒米である。家居を飾らず珍しい物を食べずに天下万民を憐れむ。神武天皇以来、この掟を守って道を行ったため、後白河法皇まで代々子孫に天下を伝えて栄えた、と。また、神道については、万民を憐み慈悲を施すことを極意とする点において神道も儒教も同じであるという[33]。以上のように論じる『千代もと草』は藤原惺窩が著作したとされるが、これは疑わしい。もともと匿名の著者による『心学五倫書』という書物が慶安3年(1650)までに成立し、それとほぼ同じ内容の書物が元禄4年(1691)に藤原惺窩の著作『仮名性理』として刊行され、それが天明8年(1788)に『千代もと草』と改題されたという事情がある。こうした事情がある『千代もと草』は近世思想史上重要な書物である[34]

林羅山(1583-1657)[35]藤原惺窩に学び、日本儒学の棟梁になった。その著『本朝神社考』で、仏教を憎み、神仏習合を排斥した。また韻文で「倭賦」を作って神国日本の霊秀を詠じた[36]

山鹿素行(1622-1685)[37]は林羅山に学び別に一家を立てた。兵法家として知られるが本人は儒者を自任した[38]。幕府の忌憚に触れ赤穂に配流された。配流中の寛文9年(1669)に『中朝事実』を著した[39]。同書では、日本の政教の淵源を説き、天照大神の天孫降臨の神勅によって皇統の無窮が永久に定まったことを述べ、また、日本が神国である所以を論じた。この書は日本を中朝、中華、中国と称した初めての例であった。山鹿素行はまた『配所残筆』を著して、他国と異なり優秀である日本の国体の淵源を説いた[40]

熊沢蕃山(1619-1691)[41]陽明学者として皇国の尊厳を高唱した。著書『集義外書』で「日本は辺土なれども太陽の出たまう国にして人の気質もっとも霊なり」といい、また著書『集義和書』で、仁義礼知信や智仁勇の論が日本にないようにみえるが、日本においては三種の神器を不言の経典となし、これらの諸徳の教えは全てこの神器によって表象されているのだと論じた。蕃山はまた、日本の皇祖は呉の太伯の後裔であるとの説を立てたが、この説は後に批判された。蕃山の著とされる『三輪物語』には「本朝は三界の根源にして神明をもって元祖とす。神明は宇宙の宗廟なり。我が国開闢の初め天地と共に神明あらわれ給えり。故に国を神国といい道を神道という。」「千界の源、万国の本は、我が国なり。」「我が朝の皇統を至尊と仰ぎ奉ることは本よりの義なり。」と記された[42]

神道流編集

吉川惟足(1616-1690)[43]吉田神道を受けて吉川流神道一派を立てた。吉田兼倶『神道大意』について講じ、神国日本が万国に秀でているとして、外教を崇める者を非難して「これ日本が万国の根本の国なり」、「神明最初出現の国という心にて神国というぞ」、「我が国に生まれて神の子孫たる人、神国の粟を食みながら、他邦の道をあがめ、わが先祖の道を知らざるは、たとい万巻の書をそらんずるとも一文不通の盲人というべし。もっとも憐哀すべきかな」と述べた[44]

度会延佳(1615-1690)[45]伊勢神道の復興し、『陽復記』を著して主に神儒習合というべき神道説を展開した。唐土の易、陰陽、理気の学を日本の神道と合わせた[46]。度会延経は父延佳の度会神道を継いで家業を興したが主に考証に専念したため神道論や国体論を残さなかった。度会延経の門人の喜早清在は『陽復記衍義』を著して、我が国が国常立尊・天照大神に始まり神武天皇の166代の今日に至るまで他姓を交えず神器を伝えたことは世に比類がないと論じた[47]度会常典も『神国問答』を著して、我が国が神国である所以、他国に優れている所以を論じた[48]。ついで度会常彰は元文2年(1737)12月『神道弁明』を公にし、日本の国体の成立の君先民後、すなわち「彼は民ありて後に主を立て、この国は農民あらざるの前に既に以て主たり」とし、皇統の天壌無窮を論じた[49]。そして延享5年(1748)に著した『日本国風』巻一に「神国」と題して、日本が神国である所以について、大祖・国常立尊より綿々として今上天皇に至るまで伝えてきた皇統が神胤であり、また国民も全て神孫であることによって説明した。さらに神国と称された所以について、和歌や国史や家伝文書等に現れた神国という語、または神国という観念が現れた場合を考証して説明した。「神国妄謂太伯徐福後」の項に、偏った儒者が妄りに、日本を夏康少康の子孫であるとする魏書の説を用い、または秦の徐福の後裔であるという説や、呉の太伯の子孫であるという説を採るのを攻撃し、一つ一つ史実を考証してそれらの説を否定した[50]

崎門流と前期水戸学編集

山崎闇斎(1619-1682)[51]僧侶をやめて朱子学に入り、さらに神道を修めた。皇国のために万丈の気を吐いたという。闇斎に関しては先哲叢談に載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎が弟子たちに向かって問題を出した。孔子と孟子が日本に攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子は誰も答えられない。闇斎の答えは、孔孟と戦ってこれを捕虜とし、もって国恩に報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎の人となりをうまく表した逸話であり、闇斎の学問はここに立脚する。闇斎の学統には儒学と神道があるが、どちらも国体の尊厳を高唱した点において同じである[52]

山崎闇斎が創始した垂加神道に関係して、日本が神国たる所以や皇統が神聖なる所以を述べて、国体の尊厳を説く者は少なくない。たとえば高屋近文『神道啓蒙』、大山為起『唯一論』、伴部安祟『神道問答一名和漢問答』、若林強斎『神道大意』一巻、尾張藩徳川義直『神祇宝典』自序などがある[53]

浅見絅斎(1652-1712)[54]は、山崎闇斎門下の著名人であり、『靖献遺言』を著し、勤王を鼓吹した。「関東の地を踏まず、諸侯に仕えず」と誓い、「もし時を得ば義兵を挙げて王室をたすくべし」ということで同書を著したという。これをみずから講じた『靖献遺言講義』では、当時の儒者がいたずらに唐土を尊び自国を卑しむのを攻撃し、皇国を尊ぶべき所以を説いた[55]。また、ある人が天皇に拝謁したと聞いて、皇統の無窮を讃して「天照大神の御血脈、今に絶えず継がせられ候えば、実に人間の種にてはこれなく候、神明に拝せらるる如く思わるる由、さこそ有るべきことに候、我が国の万国に優れて自讃するに勝れたるは、ただこの事に候」(雑話筆記)いった[56]。また『中国弁』という書では、「中国」と「夷狄」という呼称は、唐土から言うのと日本から言うのとでは主客が逆になり、どちらも自国を「中国」と称し、相手を「夷狄」と呼ぶべきであると論じた[57]。また湯武放伐(革命思想)について、同門の佐藤直方がこれを是認したのに対し、浅見絅斎はこれに反対し、「ただ一つの目的は君臣父子の大倫より外これ無く候」と論じた[58]。なお、山崎闇斎門下の浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎の3人を崎門の三傑という[59]

水戸黄門徳川光圀(1628-1701)[60]は若いころ伯夷伝を読んで発奮し、修史を志したという。水戸学なるものは光圀の修史のために勃興したものであった。光圀は山崎闇斎流の崎門学者を水戸に招聘した。崎門学者は闇斎流の学統を水戸に移植した。水戸学は闇斎流の国粋思想に負う所が少なくない[61]。近世国体論の中心というべき水戸学の起源は山崎闇斎にあるといわれる[59]

栗山潜鋒(1671-1706)[62]は、山崎闇斎門下の桑名松雲の門下であり『保建大記』を著した。同書の序に皇統の万世一系を唱えて「天壌無窮」「百王歴々一姓綿々」と記した。同書の本文では、たとえば次の出来事について論じた[57]。それは平安時代末期のこと、明州の刺史(地方長官)が日本の朝廷に供物を献じたが、その送り状が無礼であった[63]。天皇に宛てて「日本国王に賜う」と書いてあったのである[64]。大外記清原頼業は受け取りを拒むべきだと進言したが、後白河法皇は聞き入れなかった。この出来事について栗山潜鋒は以下のように論じる。

  • 華と夷は入れ替わることがある。華が夷の礼を用いれば夷であり、夷が華に進めば華である。これが古制である。
  • 地球は丸いのだから天地の間は何処でも中心である。どの国も中国を自称して構わない。
  • 日本は自国を神国と為し、海内を天下と為し、外国を夷とも蕃と為す。職員令は外人を掌るのを玄蕃と謂い、姓氏録は秦漢の末裔を諸蕃に収める。北畠親房は彼が我を東夷と為すのなら我は彼を西蕃と為すのだと言った。
  • 近ごろは、文学が庶民に堕ちて公卿に振るわない。古典を憎んで顧みない。元や明を中華と呼び、自分を東夷と称する。万世父母の国を他人のように思い、歴代天皇の立派な制度を蔑ろにしている。
  • むかしの主から贈られてきた信書に「皇帝倭皇に問う」とあったとき廷臣はその無礼を疑った。ましてや一州の刺史が上書の儀を失ったのである。当然、清原頼業に従い、受け取りを拒むべきであった。信書を受け取り返書を送ったことは国体を内外に示すところではない。以上[63]

ここに出て来る国体という語は近世最初の用例の一つだという[65]

谷秦山(1663-1718)[66]は闇斎門下の浅見絅斎に学び、別に山崎闇斎の垂加神道をついだ。栗山潜鋒『保建大記』をもって神道を大根とし孔孟を羽翼とした名分上の良書とみなして講釈し、これを門人が記録して『保建大記打聞』と称した。その中で、三種の神器と皇位の関係が不可分であることを論じ、寿永の乱(源平合戦)のとき平家が安徳天皇をつれて西国に落ちたあと後鳥羽天皇が神器のないまま即位したことを、あってはならないものとして攻撃した。この論は後の明治末年の南北朝正閏問題で重視された神器論に通じるものがある[67]

三宅観瀾(1674-1718)[68]は闇斎門下の浅見絅斎の門下であり、徳川光圀に招聘され、その国史篇修総裁となった。水戸の国体論は観瀾に負うところが大きい。その著『中興鑑言』はもっぱら日本の国体の由来を論じたものであり、そのうち論徳の章において三種の神器と国家と皇道の関係について詳しく説いた。純粋な古道をもって皇道の本領であるとし、仏意も儒意もどちらも斥けた[67]

徳川綱條が養父光圀の後を継いで水戸藩主であった時、『大日本史が成った。大日本史の序文に次のようにある。神武天皇が基礎を始めて二千余年、神孫にして神聖なる歴代天皇が承け継ぎ、姦賊の皇位を狙う心を生まず、神器は日月とともに永く照らす。ああ何と盛んなことか。その原因をつきつめると、歴代天皇の仁徳恩沢が民心を固結し国基を盤石にすることに由来する、と。また、水戸の彰考館総裁(修史責任者)安積澹泊は自著『列祖成績』に序して尊王の大義を説いた[69]

そのほか近世前期の国体思想編集

西川如見(1648-1724)[70]は蘭学によって地理学を修め、『日本水土考』を著し、日本列島の地理上の優位性や日本の神国たる所以を論じた。蘭学者が西洋を崇め自国を卑しむ傾向がある中で、西川如見だけは蘭学者でありながら自国尊重の念を失わなかった。その論は後の平田国学に影響を及ぼした。西川如見は『日本水土考』で次のように述べる。

  • 我が国は万国の東の頭にあって朝日が最初に照らす地である。日本という国号は当たっている。
  • 日本が神国であることは水土自然の理であろう。日本は清陽中正の水土である。このため神明はここに集まる。
  • この国の四季は中正である。万国は広大であるが、我が国のように四季の正しい国は多くない。
  • 国土は広くもなく狭くもない。人事風俗民情は均一であって治まりやすい。このため日本の皇統は開闢より現在まで不変である。このことは万国の中でも日本でしかない。これも水土の神妙でなかろうか。
  • 日本水土の要害は万国でも最上である。浦安の大城に住み、千矛の武器を備えて、天地無窮である。
  • その民は神明の子孫であり、その道は神明の遺訓である。
  • 清浄潔白を愛し質素朴実を楽しむのは即ち仁勇の道にして知性が自然と充足する。これは自然の神徳である。貴いではないか。以上[71]

荻生徂徠(1666-1728)[72]に始まる江戸の物門流の人々の国体論は、自国尊重論とは正反対であった。荻生徂徠本人の国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷と称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない[73]。徂徠門下の太宰春台もまた唐土の聖人の道を崇拝し、日本を夷狄の国とするものであって、儒教輸入以前の日本の国体や道徳を取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した[74]。同門の山県周南もまた、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた[75]。以上のような物門流の極端な唐土崇拝は、一部の儒者の反発を招き、また後年に流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった[76]

石田梅岩(1685-1744)[77]は、心学の徒であり、『都鄙問答』において日本の皇統が神孫であって唐土とは尊卑が異なることを論じて「我が朝には大神宮の御末を継がせたまい御位に立たせ給う。よって天照皇大神宮を宗廟とあがめ奉り、一天の君の御先祖にてわたらせたまえば、下、万民に至るまで参宮といいて、ことごとく参拝するなり。唐土にはこの例なし」と述べた[78]

竹内式部(1712-1768)[79]宝暦事件の張本人として討幕運動の先駆けをなした。『奉公心得書』というものを記して、天皇を神孫とあおぎ君臣の分をまもるべきことを説いて曰く、「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず天照大神の御末なれば、直に神孫と申し奉り」、「この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各々品物の才能を尽くして御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり。故にこの君に背く者あれば親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、わが国の大義なり」と[80]

山県大弐(1725-1767)[81]は山崎闇斎門下の三宅尚斎の門下の加々美桜塢の門下(つまり山崎闇斎の曾孫弟子)であり、その著『柳子新論』において日本の優越と皇統の不可侵を論じた。のち幕末尊王討幕論の先駆者として山県大弐とともに人口に膾炙した[82]

平賀源内(1728-1780)[83]戯作者であるが、儒学者のシナ崇拝に反発して近世後期に流行する自国尊重論を先取りし、戯作『風流志道軒伝』にて次のように説いた[84]

井戸で育ったかえる学者が、めった〔やたら〕にから贔屓びいきになって、我が生まれた日本を東夷と称し、天照大神は太伯たいはくに違いないと、附会ふかいの説(こじつけ説)を言い散らし、文武の道を表にかざり、チンプンカンプンの屁をひっても、知行ちぎょうの米(給与米)を周の升(古代シナの小さい枡)で計り切って渡されなば、その時かえって聖人を恨むべし。誰やらが制札せいさつ(法律)の多きを見て国の治まらざるを知りたりと云うがごとく、乱れて後に教えは出来、やまいありて後に医薬あり。唐の風俗は、日本と違って天子が渡り者と同様にて、気に入らねば取り替えて、天下てんかは一人の天下にあらず天下の天下なりと、減らず口を言い散らして、主の天下をひったくる不埒千万ふらちせんばんなる国ゆえ、聖人出でて教え給う。日本は自然に仁義を守る国ゆえ、聖人出でずしても太平たいへいをなす。[84]

中井竹山(1730-1804)[85]は大阪在住の朱子学者であるが、世間の儒学者流が漢土を尊び自国を卑しめるのを攻撃し、特に荻生徂徠に始まる物門流の態度を非難した。その著『非徴』は荻生徂徠の『論語徴』を攻撃する目的で書かれたものである。また、松平定信の諮詢に答えて『草茅危言』を著し、その第1巻に「王室」の章を設けて、百王不易は四海万国に超越する美事であるが、朝廷が衰微したのは崇神佞仏のため祈祷供養に散財したことが原因であると論じた[86]

近世後期の国体論編集

近世も後期になると国体論が盛り上がる。儒学と対立する国学が勃興し、復古思想を根拠にして国粋主義を唱える。水戸学も徳川斉昭を中心に発達し、国体という語も普及する。国学者と儒学者の間で和漢の国体に関する論争が盛んになり、国体について論議するものがあらわれる[87]

復古国学編集

復古国学は、いわゆる迷信に陥った諸派神道説の不純を斥け、純正な古道なるものを解明しようとすることがその原動力であったが、一面において外国を尊び自国を卑しむ物門流儒者に対する反発が復古国学の気運を助長した。復古国学は契沖荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤によって大成されたとされるが、契沖と荷田春満は古語の研究に専念し、いわゆる古道の探求は賀茂真淵から始まる[88]

賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』を著し、古道に関する見識を纏め、シナの国柄が卑しいことを説き、これに比べて日本の優秀な点を示した[88]。その大要で次のようにいう。

  • シナは良い人に天子の位を譲るというが、殷の末にのような悪王が出たのはどういうわけか。その後も賤しい人が出世して君を殺し帝を自称すれば、世人みな頭を垂れて従い仕える。四方の国を夷などと呼んで卑しめるが、その夷とされる国から出身しての帝となった時は誰もが額づいて従った。
  • 我が国は、天地の心のままに治まり、儒のような空虚な小理屈を言わなくても古くから代々栄えた。儒教が渡来してから天武の大乱(壬申の乱)がおき、それから奈良の宮(平城京)で衣冠や制度が雅になったが、邪心が多くなった。
  • およそ荒山荒野に自然に道ができるように、世の中にも自然に神代の道が広がって、自然に国にできた道の栄えは、皇いよいよ栄え益すものを、かえすがえすも儒の道こそ国を乱すのみ。
  • 唐国は心悪しき国であるので、深く教えても表面は善き様子であっても結局は大きな悪事をなして世を乱す。
  • 我が国は心の素直な国であるので、少ない教えでもよく守る。天地のままに行うことなので教えなくても宜しいのである。
  • 仏教の因果応報の教えというのは事実のように思われるかもしれないが、戦国の頃に一人も殺さないものは平民となり、人を少し殺したのは旗本侍となり、やや多く殺したのは大名となり、さらに一層多く殺したのは一国の主となった。これのどこが因果応報か。我が国固有の武勇の心を鈍らせたのは仏教である。以上[89]

賀茂真淵の学統を継ぐ者は数十名おり、村田春海小山田与清栗田土満などがいる。その中で出藍は本居宣長である[90]

本居宣長(1730-1801)のライフワークは古事記の研究である。その結果を大成した『古事記伝』には宣長の国体観・神道観が随所に散見される。これを一つに纏めたものが、明和8年(1771)に著した『直日霊』一巻である。同書では国体について次のように言う[91]

皇大御国すめらおおみくにかけまくも可畏かしこ神御祖かむみおや天照大御神あまてらすおおみかみ御生おうまれましまするおおくににして、大御神おおみかみ大御手おおみてあましるし捧持ささげもちして万千秋よろずちあき秋長あきながわが皇子みこ所知しろしめさんくになりと言依ことよさしたまえりしまにまに、天雲あまぐも向伏むかぶすかぎり、谷蟆たにぐくさわたるきわみ、すめら御孫みまごのみことおおおすくにさだまりて、天下あめのしたにはあらぶるかみもなく、まつろわぬひともなく、千万ちよろず御世みよ御末みすえ御代みよまでの天皇命すめらみことはしも、大御神おおみかみ御子みことましましてあまかみ御心みこころおお御心みこころとして、神代かみよいまへだてなく、かむながら安国やすくにたいらけく所知看しろしみしける大御国おおみくにになもありければいにしえの大御世おおみよにはみちという言挙ことあげもさらになかりき

以上の意味は次の通りである。皇国は、神祖天照大神の生まれた国であり、天照大神が天璽を手に持って、万千秋の秋長に我が皇子の所知する国であるよと命じたままに、天雲の棚引く彼方から、ヒキガエルの渡る極地まで、皇孫の食国と定まり、天下に荒神もなく、不服の人もなく、千万世の末代まで天皇は神の子であって、天神の心を心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平らかに所知する国であればこそ、古世に道という言葉を挙げることもなかった、と[91]

本居宣長はこういって日本の国柄の尊ぶべきことを説き、これと比べて異国はどうかというと、君主が定まらず邪神が荒ぶるから、人心が悪く習俗が乱れ、国を取れば誰でも直ちに君主となる。上は下に奪われないように構え、下も上の隙をみて奪おうとするから、昔から国は治まりがたい。その治まりがたい国を治めようと努めるから、聖人なるものや仁義礼譲孝悌忠信の教えなどが生まれるのである。聖人の道なるものは、国を治めるために作ったものなのに、かえって国を乱すのである。我が国は古くから、こんな余計な教えがなくとも、下々は乱れることなく、天下は穏やかに治まって、皇統は長久に伝わってきた。その後、書籍が渡来して、漢国のやり方を習うにつけ、それと区別するために皇国の古道を神道と名付けた。時代を経るとますます漢国のやり方を学ぶことが盛んになり、ついに天下の政事までもが漢国のようになり、国が乱れるようになった、というのである。本居宣長によれば、天照大神の仰せのとおりに皇孫が天下を所知し皇位が永遠に動かないことこそ、この道が異国の道より優れて正しく高く貴い証拠であるという[92]

また本居宣長は『玉くしげ』を著して、日本が異国に優越する理由を天壌無窮の神勅が実現していることに求め、次のように説いた[93]

さてまた本朝の皇統は、すなわちこの世を照らします天照大御神の御末にましまして、かの天壌無窮の神勅のごとく万々歳の末の代までも動させたまうことなく、天地のあらん限り伝わらせたまう御事、まず道の体本なり。この事かくのごとく、かの神勅のしるし有りて現に違わせたまわざるをもって、神代の古伝説の虚偽ならざるを知るべく、異国の及ぶところにあらざることをも知るべし。[93]

夏目甕麿(1773-1822)[94]は本居宣長の門人であり、文化6年(1809)『古野の若菜』を著し、シナの禅譲の道が皇国の道に相容れないことを述べ、儒教は人の所行を主とし、仏教や老子は人の心を旨とし、皇国は人の素性を宗とする点で違いがあると論じた[95]

本居大平は本居宣長の養子であり、その学問の正統を継いだ。文政10年(1827)に『古学要』を著して、その中で、日本は異国に対して上位にあり、互いに排斥するものでないと論じ、次のように述べた[95]。曰く、御国(日本)は万国の祖国であり君である。異国は臣である。人身にたとえれば御国は頭で異国は手足であり、人間関係にたとえれば御国は祖先であり異国は族類縁者であり、食い物にたとえれば御国は五穀(主食)で異国は野菜海魚(おかず)の如きものである。そうであるので、先祖がいて族類縁者がいなければ整わないように、頭があっても手足がなければ足らないように、五穀があって野菜海魚がなければ足らないように、異国はみな御国を助け備わりとなるべきものなので、決して憎むべきものではなく相睦ぶべきものである、と[96]

平田篤胤(1776-1843)は、本居宣長の没後の門人を自称し、その思想をさらに極端にし、内を尊び外を卑しみ、儒教仏教を排斥し、古道を鼓吹することに熱狂した。著書は百余部・数千巻あり、講演したものを含め、すべて皇国の尊厳を闡明するとともに、異国を攻撃し異教を排斥するものばかりである。なかでも日本の古道を闡明し国体の尊厳を説いたものは文化6年(1809)に講演した『古道大意』である。

古道大意』では、まず神国日本が万国に比類なき尊い国であるとして次のように言う[97]

我が国は天神の殊なる御恵みによって神の御生まれなされて、よろずの外国等とは天地懸隔な違いで引き比べにならぬ結構な有り難い国で、もっとも神国に相違なく、また我々賤男賤女にいたるまでも神の御末に違いないでござる。

実に御国の人に限りて、すべてこの天地にありとあらゆる万国の人とは、とんと訳が違い、尊く勝れていることは、まずこの御国を神国といい初めたは、もとこの国の人の我れ誉めに申したことではない。まずその濫觴を申さば、万国を開闢なされたるも、みな神世の尊き神々にて、その神たちことごとくこの御国に御出来なされたることなれば、すなわち御国は神の本国なることゆえに、神国と称すは実に宇宙挙げての公論なること、さらに論なきことなり。

これを思うにも皇国は天地のモトで、もろもろの事物、ことごとく万国に優れておる所以もまた、もろもろの外国のものどもの、何もかも皇国に劣るべきことをも、考え知るがよいでござる。

また、日本は小国であるといっても国土の大小は尊卑を分ける基準にならないと論じた。さらに日本が皇統連綿であること、他国に比類ない有り難い国であることと、そうである理由を論じて次のように述べた[98]

神武天皇は大和国橿原宮と申すにおわしまして天の下を御治めあそばし、この天皇様より当今様まで御血脈が連綿と御続きあそばし百二十代と申すまで動きなく御栄えあそばすと申すは実にこの大地にあるとある国々に比類なき有り難い御国で〔略〕。[99] 天照大御神の殊に大切と御斎きあそばさるる三種の神器を天子の御璽として御授けあそばし、また御口づから、豊葦原の瑞穂の国は我が子孫の次々に知ろし召し天地とともに無窮なるべき国ぞと御祝言を仰せられたる、その神勅むなしからず。[100]

さらに西川如見『日本水土考』やケンプル『日本紀行』を引用し、日本の国土の優秀は世界に比類がないと論じ、外国崇拝の蘭学者を批判した[101]。その際に国体という語を次のように用いた。

近頃、はやり初めたるオランダの学問をする輩は、よく外国の様子も知っていながら、その中には心得ちがいをして、またヤミクモに西の極なる国々を贔屓して、〔…〕万国の絵図などを出して、この通り日本は小国じゃなどというて驚かす。〔…〕こりゃ皆、神国の神国たるを知らず、御国の国体にくらいからのことで、まだしもそのおのおのは人の国の世話ばかりをして国体にくらいことは不便ながらもしかたがなけれども、そのおのれが、おぞけ魂を世に広めてあまねく人にまでそう思わせるが憎いでござる。[102]

平田篤胤は別の著書『大道或門』で皇国の尊貴である所以を述べて次のように述べた[103]

  • 天皇の血統は天照大神より連綿であって、神代より千万年の今に至るまで天下の大君である。
  • 君臣の差別は明白に定まっている。天皇より5世までは王を称することを許されており臣下の列ではない。
  • 皇国を神国や君子国と称するのは、皇国の自称ではなく、他国がそう称するのである。
  • 天下を治めることをマツリゴトと唱えるのは神国の風儀である。神慮によって世を治め神祭をもって第一とするために、政事という文字をマツリゴトと訓ずるのである。祭事と政事は元々一つである。これが神国と称する所以である。
  • 皇国は君臣の道が正しく、天子は開闢以来一世である。大いに賞賛すべきである。天照大神の神勅に、子孫万々世に天地とともに長久に天下を治めよという仰せを万人がよく相守るからである。
  • 天照大神の魂は伊勢の内宮にいて、その本体は世界万国を照らす日輪である。皇国はその誕生の本国であって天皇はその子孫であるから、世界万国はことごとく皇国に従うべきである。しかも、皇国は君国であり万国は臣国である証拠は別にあるが、今それを言うのは省略する。以上[103]

矢野玄道は平田篤胤の門人であり、幕末維新期、特に明治初期に皇学派の中心人物として新政に重きをなした。文久3年(1863)に『玉鉾物語』を著して、そのなかの「君臣の道」において、日本が万世一系にして皇統連綿である所以を説いた[96]

八田知紀も同派の皇学者であって弘化2年(1845)に公にした『桃岡雑記』において、皇国の教えは自然の道であって、天照大神の神勅以来、君臣上下の分が定まっていること、また、文武両道一致であることを論じ、これが我が国体の由来する所であると断じ、あわせてシナの国体を批評した[104]

復古国学派の人々と儒学者の間で、主として内外の国体の比較論に関して論争が惹起された[105]

後期水戸学編集

幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を強く打ち出した。水戸学者会沢正志斎の著書『新論』が国体観念を浮上させる画期となった[3]。『新論』の構想は、危機克服の指針を求めていた志士たちの心を捉え、水戸藩を超えて日本全国に流布した。このことは国体論を一つの思想として独立させた[4]

内務省神社局 (1921) によれば、国体論の発達は後期水戸学において絶頂に達した。いわゆる復古国学は、国体尊崇が盛んであったが、儒学排斥に熱心になりすぎて、第三者からみて固陋独断に陥ったところがあった。水戸学にはそういうところがない。その特色は、常に視点を高所に置いて、偏せず捕らわれず、徹頭徹尾に批判的な見地に立ち、内に愛国尊王の精神を抱くというものであるという[50]

水戸学の主要人物は、水戸藩主徳川斉昭を中心として、藤田幽谷会沢正志斎藤田東湖などである[50]

徳川斉昭は天資英邁といわれ、国体に関して自己の見識を持っていた。その見識は、みずから創設した弘道館の趣旨と由来を記した「弘道館記」「弘道館学則」「告志篇」や、天皇に地球儀を献上した時の上表文に見ることができる[106]

「弘道館記」に曰く、上古に神聖が皇位を立て皇統を垂れ、これによって天地は位置し万物は育成する。それが全宇宙に照臨し宇宙内を統御する所以は、今まで「斯道」に依ってきた。「宝祚(皇位)これをもって無窮に、国体これをもって尊厳に、蒼生(人民)これをもって安寧に、蛮夷戎狄(諸外国)これをもって率服(服従)す」。しかしそれでも歴代天皇は満足せず、外国を参照して善を為すことを楽しんだ。すなわち、西土のの治教などを取り入れて皇道に役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降、異端邪説が民を欺き世を迷わし、俗儒曲学が自国を捨て外国に従い、皇化が衰え禍乱が続き、大道が世に明らかにならなくなって久しい、と[106]

「告志篇」では次のように述べた。そもそも日本は神聖の国であって、天祖(天照大神)天孫(歴代天皇)が皇統を垂れ皇位を建ててから、その明徳は遠い太陽とともに照臨し、皇位の隆盛は天壌とともに窮まり無い。君臣父子の常道から衣食住の日用に至るまで全て天祖の恩賚である。万民が永く飢えや寒さを免れ、天下に皇位を狙う非望の萌しが見られなかったのは有り難いことである。しかし数千年の久しさに盛衰あり治乱あり、戦国後期に至って天下の乱は極まった。東照宮(徳川家康)が三河に起って風雨に身を晒し艱難辛苦し、天朝を助け諸侯を鎮めた。二百余年の今に至るまで天下が泰平であり、人民が塗炭の苦しみを免れ、生まれながらに太平の恩沢を浴びていることは、これまた有り難いことである。「されば人たるものは、かりそめにも神国の尊きゆえんと天祖の恩賚とを忘るべからず」。天朝は天祖の日嗣であり、将軍は東照宮の神孫であり、不肖ながら我(徳川斉昭)は藩祖の血脈を伝え、おのおのは自分の先祖の家系を継承する。この点をよくわきまえ、天祖・東照宮の恩に報いんとするならば先君・先祖の恩に報いんと心掛けるほかにない、と述べた[107]

「弘道館記」も「告志篇」も皇統が神聖であって万世に無窮であり、国体の尊厳であって君臣の名分が明らかであることを示し、これを体現するには先祖尊崇を根本義としなければならないと述べた[108]

「弘道館学則」第1条に曰く、弘道館に出入りする者は弘道館記を熟読しその深意を知るべし、「神道」と「聖学」は一致し、忠孝の本はひとつであり、文武はわかれず、学問事業は効果が異ならない、と。また同第2条に曰く、「神道」「聖学」の意味は弘道館記にあるとおりである。すなわち、宝祚の無窮と君臣父子の大倫が天地とともにかわらないのは天下の大道、いわゆる「惟神」である。そして「唐虞三代の治教」は天孫が採用したものであって、これもまた人倫を明にするものである。両者は一致する。学ぶ者は宜しく「神を敬ひ儒を崇び」、もって「忠孝の大訓を遵奉すべし」と[109]

嘉永6年(1853)に徳川斉昭は天皇に地球儀を献上した[110]。その時の上表文に、日本の建国の国是が生々発展にあること、神孫が永遠不変に統治する尊い国体であることを述べている[111]。上表文に次のようにある。

  • 高天原に事始め、遠い皇祖の世々に、天津日嗣の事業として、八坂瓊曲玉のように巧妙に天下を知らし、白銅鏡のように分明に山川海原を観て、遠い国を千尋の栲縄をもって引き寄せ、荒ぶる国を帯剣で平定した跡のように、今「現御神と天下知ろしめす我が天皇の大御代に当たりて」、仁恵は広くあまねく、天益人(天意により増える人民)は手を挙げて楽しみ合った。
  • 思うにスサノオ尊は天壁の立つ極地を廻り、オオムナジ・スクナヒコナの二神は兄弟となって天下の国々を経営した。「しかるときは万国も固より我が神州の枝国とぞ云うべかりける」(つまり諸外国は神国日本から枝分かれした国である)。そうならば万国の有りさまを知らなくてはならない。(よって地球儀を献上する)。以上[110]

藤田幽谷は徳川斉昭に仕えて31人目の彰考館総裁(修史責任者)となり、大義名分を高唱した。寛政3年(1791)18歳の時に『正名論』を著し、皇室が政事の外に超越して万古不易の尊位を保つ所以を論じ、名分を正し名分を厳密にすることが国体の本領であると説いた[111]。具体的には次のようにいう。曰く、天皇は国事に関与せず、単に国王の待遇を受けるだけであるというのはその実質を指している。しかし天に二日なく地に二王なし。よって幕府は王を称するべきではない。幕府は実質的に天下の政を摂している(代行している)から、名分上も摂政を称すべし、と。こうした藤田幽谷の『正名論』は幕府を弁護するものであって当時の時勢が分かる[112]

会沢正志斎は藤田幽谷の門弟であり33人目の彰考館総裁となった[112]。識見高邁であり、公平な見地で国学を批判し儒学を考察し、両者の間に一家の国体説を樹立し、水戸学の国体尊厳説を大成し、近世国体論の極地に達したといわれる[106]。数々の著書があり、そのすべてが国体を論じ名分を説くものである。そのうち国体論として最も有名なものが『新論』である[113]

文政8年(1825)会沢正志斎は『新論』を書きあげ水戸藩主に献上した。現状を厳しく批判したため公刊を許されなかったが、秘かに筆写された。『新論』は冒頭に「国体」と題する上中下3章を設けた[114]。儒学でなく国学でもなく一個として独立した見地に立つ。後に栗田寛がこれを天朝正学と命名した。会沢正志斎は『新論』で皇国の尊貴、皇恩の宏大、これを奉体する国民の思想が人為でなく自然に生じることを説いた[115]。次のように述べる。

  • 神州は太陽の出づる所、元気の始まる所、天日の嗣が代々皇位について永久に変わらない。もとより大地の元首であって万国の綱紀である。まことによろしく天下を照らし皇化を遠近に及ぼす[116]
  • 第一に「国体」について謂う。これは神聖が忠孝をもって国を建て、そして武をとうとび民の命を重ずるに及ぶ[117]
  • 帝王が四海を保ち長久に治め天下を揺るがさないために頼みとすべきところは、万民を威圧して一世を把持することではない。億兆(人民)心を一にして皆その上に親しんで離れるに忍びないと思うところにこそ誠に頼むべきである[118]
  • 俗儒は、名分に暗く、明や清を華夏や中国と称して「国体」を汚辱する。あるいは時勢を追って名義を乱し、天皇を寓公(亡命者)のように見なし、上は歴代天皇の徳化を傷つけ、下は幕府の義理を害する[119]
  • 昔、天祖が始めて国を建て天下を皇孫に伝えるに及び手づから神器を授けて天位を千万世に伝える。天胤の尊厳を犯すべからず。君臣の分が定まる[115]
  • 忠孝が立って天人の大道が明らかに顕われる。忠をもって貴を貴とし、孝をもって親を親とする。億兆は心を一にして、上下は互いに親しむ。これこそが帝王が天下を保つために頼みとすべきところである。そして祖宗が国を建て基を建てる所以の大体である[115]

会沢正志斎『迪彜篇』に収める国体論は『新論』に次いで広く読まれた。日本が尊い理由の第一は、万国のなかで日本だけが易姓革命がなく皇統連綿として神世から今に至るからであると論じた[120]

  • 万国は、それぞれ自国の君主を仰いで天とする。どの国も自国を貴び外国を賤しいとすることは同じわけだから、自国を尊び他国を夷蛮戎狄と呼ぶことはよくある習わしである。しかし万国はどこでも易姓革命というものがある。国が乱れるときは君主を殺害し、あるときは追放し、あるときは禅譲させ、あるいは世嗣の絶えるときは他姓の者に継がせる。その天とするところがたびたび変わるのだから、その天地というのも小天地であり、その君主というのも小朝廷である。
  • 万国の中でただ神州(日本)のみは天地開闢してから天日嗣が無窮に伝えて一姓綿々としている。庶民が天と仰ぐ皇統は変わらない。その天とするところが偉大であることは宇内に比類がない。今この万民は、天地の間で無双の尊い国に生まれながら、わが「国体」を知らないでいいわけがない。
  • 国の体というのは人の身に五体があるようなものであり、国の体を知らないのは自分の身に五体があるのを知らないのも同然である。
  • 三種の神器のようなめでたい例は異域で聞かないことなので、神州の尊いことは宇内に無双であり、日嗣の君こそ宇内の至尊と称すべきである。以上[120]

会沢正志斎は著書『下学邇道』の中で日本の地理上の位置、皇位の安泰などの点から神国日本の優秀を説いて以下のように述べる[121]

  • 一君二民は天地の道である。世界は広く万国は多いけれど至尊が二つであってはならない。東方は神明の舎、太陽の生ずる所、元気の発する所、季節でいえば春であり、万物の始まる所である。そして神州(日本)は大地の首にある。万国の首として四方に君臨すべきである。ゆえに皇統綿々として君臣の分は一定不変である。このことは万国にない。なぜなら天下の至尊は二つとないからである。一君二民の義に誰も疑問を抱かない。
  • 神州(日本)は万国の元首である。皇統は二つとない。万民は一君を奉ずる。漢土は神州に次ぐが、その君臣は一定不変でありえず、上古から易姓革命があって、一君はただ万民を養うことができれば成功とされる。その他の夷蛮戎狄はどれも国を始めから作り変える。
  • 天地の大道は一君二民の義である。万国の元首は二つとなく、万民一君を奉じる国は二つとなく、天の後胤を絶対に変えてはならなず、他国に易姓革命がある。これは天下の道であり、勢いそうならざるをえない。以上[121]

会沢正志斎『閑聖漫録』に尊王論がある。これによれば、世人は何かと尊王を口にするが王を尊ぶべき理由については漠然として真実を知らない。これは耳学問の弊害であるから今その実事を論じてみせよう、といって、以下の類いを尊王の義とした[122]

  • 東照宮(徳川家康)は政教を天下に施すにあたって、諸侯を率いて京都の朝廷に参じ、君臣の義を正した。皇室は戦国のころ窮乏していたが、東照宮は禁裏を拡張修理して皇室領を増やし、秘籍や宝器で散逸したものを元に戻した。
  • 威公(水戸家初代徳川頼房)は神道を崇敬した。
  • 義公(水戸家二代徳川光圀)は神儒を学んだ。元旦に京都を遙拝し、親王や公卿の礼を正した。大社から村祠まで修理をくわえ由緒をただし正礼をおこなわせ、淫祠をこわして迷信をとりのぞいた。国史を修めては皇統を正閏し、蛮夷内外の名分を厳格にした。礼儀類典を編纂して朝廷に献上した。
  • 以上の類いは全て尊王の義である[122]

会沢正志斎『退食閑話』は弘道館記を和文で解説したものである。皇統の神聖を論じ、国体の尊厳を説き、人倫の大道が元初より具わっていたことを明らかにしたという[123]。弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳、蒼生以之安寧」とあることについて次のように解説した[124]

  • 天照大神三種の神器を授けてから君臣の義は正しく、宝鏡を見るときは我(天照大神)を視るようにせよと命じてから父子の親しみは厚く、忠孝の教えはともに完全である。これによって人心が一定して他に移らず、天皇の位は千万年も変わらない。今日仰ぐところの至尊は即ち天照大神と同体であるので人情風気はおのずと厚く、皇位に野望を抱く者もない。これが宝祚の無窮である理由である[124]
  • 国体の尊厳というのは、海外に多くの国があるけれど天地の間に尊いものは一つしかない道理であるのに、外国において帝王を称する者はたびたび交替する。天朝(日本)の皇統綿々として天壌無窮であることは外国の及ぶところではない。このようなめでたい例についてその基本を考えると、天地の始めから、皇祖の詔勅にある君臣父子の大倫が正しく、人情風気も厚い。このように万国に勝れているので、おのずから国体も尊厳になるのである[125]
  • 蒼生の安寧というのは、古言に惟神(かむながら)と言うように、古くは神聖の教えのままであり君臣父子の大倫が乱れなかったので、外国のような大乱がなかった。しかし、公家が遊楽にふけて神聖の教えが衰え、君臣父子の道も正しくなくなり保元平治の乱がおきて朝廷の権威が衰えてから、戦乱が続いた。やがて東照宮(徳川家康)が禍乱を平らげたおかげで民は戦禍を免れて父母妻子を養って安穏に人生を送ることができるようになった。神聖の教えが正しく、君臣父子の大倫も衰えず、天下の乱も平和に戻った。これによって蒼生(人民)も安寧になったのである[126]

会沢正志斎『江湖負暄』に「建国の大体、万世といえども変えるべからざる事」と題して、国体が変わるべきでない所以、および三種の神器と国体との関係を論じ[127]、また「建国の大体を明らかにして天下の人心を一にする事」と題して、祀典(祭祀の儀式)を修めて民の迷信を絶ち、歴代天皇の祀典を興し、諸国の名祀を再興し、名賢功徳の神も祀典に列する等は建国の体に添うことを論じた[128]

そのほか『正志斎文稿』所収の篇に国体に関する議論がある[129]。以上、会沢正志斎の国体論について内務省神社局 (1921) がまとめたところによれば、その要点は、皇統連綿として上下が正しいこと、三種の神器が尊貴であること、皇国の地位が万国に優越して比類ないことであり、その行論は、一糸の乱れもなく1921年(大正10年)の当時でも加えるべき点は多くないという[130]

藤田東湖は藤田幽谷の子であり会沢正志斎の門に入った。熱烈な尊王愛国の士であり、その有名な「回天詩史」「正気歌」などの詩歌は、神州の光輝や国体の尊厳を絶唱するものである。藤田東湖はまた『弘道館記述義』を著して弘道館記の意義を述べ、日本の国体において皇室は必ず日神の一系であることを論じて次のように言った[131]。曰く、古くは天皇を生じてスメラミコトという。スメラという言葉は統御をいう。ミコトという言葉は尊称である。おそらく宇内を統御する至尊という意味である。天業を称してアマツヒというのは天日である。ツギは継嗣である。これはおそらく日神の後胤でなければ皇緒を継げないことを言う。天日の継嗣は世々神器を奉じて万姓に君臨する。群神の後胤も職を世襲して皇室を輔翼する。これはおそらく神州の基礎を建てる発端である。嗚呼(ああ)、天祖天孫が創業垂統する所以は威厳があって偉大である。宝祚の隆の天壌無窮は偶然ではない、と[132]。藤田東湖はまた会沢正志斎箸『迪彜篇』に序文を寄せて、日本の建国の体はその根底から西土と異なり、その尊厳は確乎として他国と比較にならないことを述べた[133]

豊田松岡も会沢正志斎の門に入り、彰考館総裁になった。藤田東湖の著書『弘道館述義』に序文を寄せて、いわゆる神聖大道の一源なるものを説いた[134]。また藩主に献じた「禦虜策」において、日本国の神聖なる所以、神明の尊厳を民に知らせて邪教の入る隙のないようにすべきことを論じた[135]

吉田松陰編集

吉田松陰は幕末の志士として有名である。陽明学に依拠し、その思想系統を山鹿素行に受け、また山崎闇斎流の影響も受けた。吉田松陰の勤王運動はその国体論に由来するといわれる[136]。その国体に関する精神は幕末志士の間で基盤となって明治維新につながった[137]

吉田松陰は安政3年8月22日に山鹿素行『武教全書』の講義を開始し、その主旨を述べるにあたって皇国の尊厳と士道との関係を論じ、また国々にはそれぞれ特殊の道があり、他国の道を必ずしも日本に用いることができないわけを次のように論じた[138]

国体というは、神州には神州の体あり、異国は異国の体あり。異国の書を読めば、とにかく異国の事のみ美と思い、我が国をば却って賤しみて、異国を羨むように成り行くこと、学者の通患にて、これ神州の体は異国の体と異なるわけを知らぬゆえなり。ゆえに晦菴の小学にて前にいう士道は大抵知れたれど、これは唐人の作りたる書ゆえ、国体を弁ぜずして遙かに読むときは、同じく異国を羨み我が国体を失うように成り行くことを免れざること、先師深く慮りたまう。これ武教小学を作る所以なり。これをもって国体を考うべし。さて、その士道国体はその切要の事なれば、幼年の時より心掛けさすべきこと、これ学の本意にて志士仁人に成るようにとの教誡なり。(武教小学開講主意)[137]

吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。 吉田松陰は安政の大獄により安政6年(1859)10月27日に刑死するが[139]、その年の春に獄中で「坐獄日録」を記し[140]、皇統の一系と臣道との関係について次のように論じた[141]

皇統綿々、千万世に伝わりて変易なきこと偶然にあらずして、即ち皇道の基本もまたここにあるなり。天照大神の神器を天孫瓊々杵尊に伝えたまえるや、宝祚之隆、与天壌無窮の御誓あり。されば漢土天竺の臣道はわれ知らず、我が国においては宝祚もとより無窮なれば、臣道もまた無窮なること深く思いを留むべし。[141]

幕末の南北正閏論編集

南北朝正閏論は幕末に盛んになった。かつて徳川光圀が南北朝の正閏をただしたとき諸学者の様々な議論を呼んだ。ある者は南朝正統論を唱え、ある者は北朝を擁護し、ある者は南北両朝ともに正統とした。特に幕末に及んで議論が盛り上がった[142]山県太華は天保10年に『国史纂論』を公にし、その中で南北朝の正閏を論じ、三種の神器の所在によって皇統の正閏が定まり、その間に疑義を許さないのが国体の根本義であると説いた[143]。速水行道は文久元年『皇統正閏論』の序文において天位の唯一無二であることが国体の本然であるとして南朝の正統を論じた[144]

明治国体論編集

帝国憲法以前編集

慶応3年(1867)9月、前土佐藩山内容堂が大政奉還の事を建白して「天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し至誠をもって万国に接し王政復古の業を立てざるべからざるの一大機会と存じ奉りそうろう」と述べた。当時の政治家は国体を重要なものと思わず、山内容堂は「国体変換」の文字を祐筆福岡孝弟に書かせた。当時事務を所管した福岡孝弟は「国体変換」と言っていた[145]明治維新の始め、福岡孝弟も起草に関わった五箇条の御誓文は、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づき、智識を世界に求めることを誓った[146]

維新の前後においては主に米国英国を先進国としてその文化を仰いだ。米国は日本を開国させた後、日本を新参の弟子かのように指導した。英国は米国と同言語であり、当時はインドを拠点として盛んに東方に進出している時期であった。日本では米英の政治書や修身書が翻訳され、福沢諭吉が英学を根拠に功利主義を掲げて多くの通俗書を著わし実用学を鼓吹した[147]

英米の実用功利主義が一世を風靡する一方で、日本固有文明の精髄とされた国体が全く忘れ去られたわけでもない。そもそも王政復古の原動力は主に復古国学派の勃興によるものであって、明治維新の政治は国体の本領に返るものと称された。平田派国学者で地位を得た者も少なくなかった。たとえば矢野玄道大国正隆福羽美静平田鉄胤六人部是香などである。国体観念の中核というべき神祇は、明治新政の初めにおいて重んじられた[148]

新政府は、太政官七科に神祇科を置き、さらにこれを神祇事務局に改組した。明治2年5月には皇道興隆について天皇から下問する形式により、「祭政一致」「天祖以来固有の皇道復興」「外教に蠱惑せられず」と唱えた[149]。同年7月太政官の上に神祇官を置いて神祇尊崇を示し[148]、同年10月に宣教使を置き[149]、明治3年1月3日(1870年2月2日)に大教宣布の詔を発し[150]、宣教使に「よろしく治教を明らかにし、もって惟神の大道を宣揚すべき」ことを命じた[151]。これは国体を発揮することにほかならないという[149]

大教宣布は、祭政一致や国体強化を目指した国民教化政策であったが[152]、宣教使の員数不足や教義の未確立などから終始不振であった[151]。神祇官は明治4年8月に神祇省に降格され[153]、大教宣布は仏教側の反対などもあって挫折する[152]、仏教各宗は連署して、神官と合同して宣教の任に当たりたいと政府に請願する。政府は明治5年3月に神祇省と宣教使を廃止し、教部省を置き、翌4月に神官と僧侶を合併して教導職を置く。教部省は宣教を掌り、教導職は宣教の任に当たる。神官と僧侶が合同して宣教するにあたっては、その教旨の基準を定める必要があるということで三条教憲が定められる。これは矢野玄道『三条大意』に基づくもので、おそらく矢野玄道ら皇学派の人々がその議に関わったという[153]。三条教憲の各条は次の通りであり、いずれも国体の趣旨に依拠している[154]

  1. 敬神愛国の旨を体すべき事
  2. 天理人道を明らかにすべき事
  3. 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事

三条教憲を宣伝するために著された書籍は数多い。いずれも国体の基本と神祇が不可分であることを説いた。これらの書で「道」「皇道」などの語はおよそ神道という意味に近く、「国体」という語も神道の行われる有りさまを指したものであり、多くは神代の状態を意味した[155]

1873年(明治6年)10月新聞紙条目が発布される。その第10条に「国体を誹し国律を議し、および外法を主張宣説して、国法の妨害を生ぜしむるを禁ず」とあるのは官権が民論に対抗したのである[156]

国体を主題とした書籍として、1874年(明治7年)に田中知邦『建国之体略記』、太田秀敬『国体訓蒙』、1875年(明治8年)に宇喜多小十郎『国体夜話』、石村貞一『国体大意』などがある。いずれも神話を敷衍し、神代の状態を述べたものである[157]

1874年(明治7年)加藤弘之は『国体新論』を発表し、当時日本に流入し始めたフランス流の民権平等説に従って、従来の保守的国体思想に反対した。福沢諭吉の「天は人の下に人を造らず人の下に人を造らず」云々と同じ思想に基づき、さらに激越な論調で国学者の国体観を批判した[158]。具体的には以下の通りである。

  • 従来称する国体野鄙陋劣である[159]
    • 文明開化に至らない国々において、国土は全て君主の私有物であり、人民は全て君主の臣僕であるものと思い、これを国体の正しい姿とすることは、野鄙陋劣の風俗といわざるをえない[160]
    • 君主も人民も人であり、決して異類の者ではないのに、その権利に天地懸隔の差別を立てるのは何事か。こんな野鄙陋劣の国体に生まれた人民こそ不幸の極みである[160]
    • 人民もまた、こんな浅ましい国体をも決して不正であるとは思わず、君主の臣僕となって一心に奉事する。このため多少の虐政があっても国乱の起ることなく泰平に長く続く国もあるが、もとより不正な国体であるので、決して人民の安寧幸福を得るに至らない[160]
    • 日本や漢土などで古来から野鄙陋劣の国体を是認し養成してきたことは実に嘆かわしい。仁徳天皇の「君は民をもって本と為す」と宣う詔勅などは感歎すべきであるが、これによって国体を改正するまでには至らなかった[161]
    • 本邦において国学者流の輩の論説は厭うべきものが多い。国学者流の輩は、愛国に切実なあまり皇統一系を誇るが、惜しいことに国家君民の真理を知らない。結局、国土人民は全て天皇の私有臣僕であるとして、様々な牽強附会(こじつけ)の妄説を唱え、およそ本邦人民は天皇の勅命であれば何でも甘受するのを真誠の臣道であると説き、これらの姿をもって我が国体と目し、これをもって本邦が万国に卓越する所以であるという。その見は野鄙であり、その説は陋劣であり、実に笑うべきものである[162]
    • 本邦が皇統一系であって過去に革命がなく今後も天壌無窮であることは望ましいことだが、そうであっても国土人民を天皇の私有臣僕とするような野鄙陋劣の国体を我が国体とする理は決してない[162]
  • 欧州においても、近古の始めまで国土人民を一君主の私有臣僕とした国体であった[163]
    • 欧州では、近代に人文知識が開けるにしたがい、旧来の陋劣野鄙な国体は次第に廃滅し、現在の公明正大の国体になった[163]
    • 初め英国のみ他の欧州各国に卓越したが、その後その他の国々も英国に倣うようになった[164]
    • プロイセンフリードリヒ2世は、当時各国の国体が天理人性に反し野鄙陋劣であるのを嘆き、公正明大の国体を論説し「われわれ人君は天下を私有し人民を臣僕とする者ではない。国家第一等の高官にすぎない」と言った。フランス王ルイ14世の「朕は天神が現出した者(現人神)である」という暴言と比較してその公私正邪は言うまでもない[165]
  • 欧州の開明論をもって国家君臣の真理を概論し、それによって公明正大なる国体を示そう[159]
    • 国家君民成立の理は、安寧幸福を求める人の天性にある。
    • この理に合う国体はどういうものかというと、国家において人民を主眼と立て、特に人民の安寧幸福を目的と定め、君主と政府はこの目的を遂げるためにこそ存在するということを国家の大主旨とする国体をいう。
    • これに対し国土人民を君主の私有臣僕とした従来の国体は天理人性に背反する。
    • たとえ万世一系の本邦であっても、天皇と政府はこの理に従って職務を尽くす必要がある。以上[164]
  • 国体と政体は異なる。国体は眼目であり、政体は眼目を達する方法である[165]
    • 国体は万国ともに理に背くことは許されないが、政体は必ずしも一つである必要がない。
    • 君主政体でも民主政体でも公正明大の国体を維持育成できればよく、政体の可否はその国の沿革由来と人情風習によって定めればよい。
    • 欧州各国の多くは立憲君主政体を用い、米州各国の多くは立憲民主政体を用いる。
    • 君権無限の政体は君主政府の暴政を生じやすい政体であるので良正の政体といえないが、開化未全の国においてはこの政体でもしばらく必要とせざるをえない。しかし、たとえ君権無限の国であってもその国体は理に反することを許されない。以上[165]

以上のように論じる『国体新論』について、岩倉具視が7年後に回想したところによると、それは島津久光(保守主義者)が左大臣だった時で大いに議論になったが、その時は誰も頓着しなかったという[166]。また内務省神社局 (1921) によれば、『国体新論』は、それまで一般に日本の国体を誇りに思っていた日本国民にとって青天の霹靂であり、あまりに奇抜で過激であったので世に容れられることはなかった。加藤弘之は同書をほどなく撤回し、同一説を二度と発表しなくなった。しかも、国会開設論に反対し、天賦人権説に反駁し、キリスト教を攻撃するなど、『国体新論』の著者とは全く別人のようになったという[167]

1876年明治9年)8月、浦田長民が『大道本義』を著す[168]。浦田長民は伊勢神宮の少宮司であり、神宮大麻の全国配布などに功績を残した[169]。『大道本義』では、一種の神道説を展開し、その中で神祖宏業の遺蹟と皇位尊厳との関係について述べた[168]

1876年明治9年)9月、元老院に憲法起草を命ず[170]。明治天皇は元老院議長熾仁親王を召し、右大臣岩倉具視の侍立のもと、我が建国の体(国体)に基づき広く海外各国の成法を斟酌して国憲(憲法)を起草せよとの勅語を下したのである。元老院では国憲取調委員と国憲取調懸を設けて編纂に努力し、翌月には第一草案を脱稿する。その後再度、稿を改める[171]

1880年(明治13年)12月、元老院が国憲案を天皇に上進する。この国憲起草は日本で初めてのことであり模範とすべきものがなく、全て西洋を模倣したのであって、国体を無視した箇条も少なくなかった。伊藤博文はこの草案を見て、これは各国憲法の焼き直しにすぎないのであって我が国体人情に適したものではないと考え、右大臣岩倉具視に書簡を出してこのことを痛論し、天皇の思し召しをもってこれを未定稿のまま中止させようとした[172]。同月の伊藤博文の奏議に「ただ国会を起してもって君民共治の大局を成就する甚だ望むべきことなりといえども、事いやしくも国体の変換に係る。実に昿古(空前)の大事、決して急躁をもって為すべきにあらず」とある[173]

1881年(明治14年)国会開設の勅諭が発さられる。その事情は次のようであった。これより先、開拓使官有物払下げ事件が起こり、さらにそれが国会開設問題に飛び火して、薩長の専横のために国会が開設されないとして薩長藩閥を非難する声が高まった。薩長の参議が国会開設に慎重であるの対し、参議の中で大隈重信が一人だけ国会早期開設の意見書を奉呈していたことが知れ渡り、人々の期待が大隈に集まった。薩長の人々はこれを大隈の陰謀に起因すると考え、10月11日に大隈を除く参議が大臣らとともに開拓使官有物払下中止と大隈追放と国会開設の三事を明治天皇に奏請した。国会開設の奏議は、自由民権運動に対する明治政府首脳部の反動を示すとともに日本憲法の特色を示している点で重要である。特に文中に「憲法の標準は建国の源流に依るはいうを待たず、願わくは各国の長を採酌するも、しかも我が国体の美を失わず、広く民議を興し公に衆意を集めるも、しかも我が皇室の大権を墜さず、乾綱を総覧し、もって万世不抜の基を定める事」とあるのは注意を要する。明治天皇は奏議を受け入れ、翌12日に国会開設の勅諭を発した[174]

〔前略〕顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖、わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。〔後略〕

来たる明治23年(1890年)を期して国会を開く旨が公布されたので、それまで民撰議会開設を一大標語としてきた民権論者はその気勢をそがれた感じになった[175]

金子堅太郎の回想によれば、1884年明治17年)9月に明治政府内で国体変換について議論が行われ、その経緯は次のようであったという。憲法起草を命じられた伊藤博文が欧州で憲法調査を終えて帰国した後、この月の閣議で初めて憲法制定について意見を述べ、その時「議会を開けば国体は変換する」と説いた。参議佐佐木高行は「国体の変更には我々は不同意である」と言って反対したが、伊藤の雄弁と博識に追い捲られ、閣議は伊藤の意見で決まりそうになった。閣議の後、佐佐木は制度取調局の金子堅太郎に国体の字義を尋ねて以下のような書簡を送った[176]

  • 国体とは欧米でも唱えるものなのか。いま国体国体と申すのは何何であるのか。
  • ある人(伊藤博文)曰く、国体とは、一系の天子が千歳連綿、いわゆる天壌無窮に伝えるのみを意味するのではなく、日本国なり日本人なり言語なり風俗なりを意味するのであると言うのを聞いた。これに小生(佐佐木高行)は甚だ疑惑を生じた。
  • 国体の字義は漢語であるので、漢国で何の時から唱えたものか漢学者に聞いてみたが、漢学者のほうが却って心得がないということであった。分けがわからない。
  • 欧米に国体に相当する語はないかと思うし、いま国体国体と申すのは近年のことかとも思う。内密に意見を聞きたい。以上[176]

金子は佐佐木の官邸を訪ねて佐佐木の疑問に答え、さらに意見書をまとめて佐佐木に渡した。金子の意見は次のようであった。

  • 国体は時勢とともに変更するという説は、国体と政体とを混同することに起因する。日本で国体と称するものは日本固有の政治的名称である。たとえば水戸の弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳」というのがそれである。国体は万世一系の皇統が皇位を無窮に継承するという日本特有の政治原則である[177]
  • 欧米でこれと同一の意義を有するものはない。唯一、英国のエドマンド・バークは論説中でフランス革命が「英国の基礎たる政治原則」(ファンダメンタル・ポリチカル・プリンシプル・オフ・イングランド)を破壊すると論じた。この原語こそ日本の国体の意義に近い[177]。英国は君民共治の国柄であり、君民共同して政治をするのが英国の政治の根本、すなわち日本にて国体というものと同じである[178]
  • 欧米の政治学によれば一国の政体は時勢とともに変更することがある。日本においても政体は時勢とともに変更したことがあったが、国体は永久に変更すべきではない[177]

佐佐木は金子の意見をもとに後日の閣議で伊藤に反撃した。伊藤は佐佐木に金子が入れ知恵したことを知り、制度取調局に行って金子に問い質した。「おい金子、君は国会を開いても国体が変更せぬと言ったそうであるが、それは間違っておる。憲法を布けば国体は変更するものなり。国体というのは英語のナショナル・オルガニゼーションである。鉄道を敷けば山の形が変わる。君が洋服を着れば姿が変わる。西洋の文明を輸入すれば日本の言葉も変われば家も変わる。議会を開けば国体も変わるではないか」と言い、金子は「イヤ、それは閣下のが間違っております。欧州の学者のいう政体は御説のとおり変更するけれども、日本にていう国体は決して変更してはなりませぬ」「閣下は万世一系の天皇が統治せらるる国体を改める御考えですか」等と反駁し、互いに譲らず一時間ほど議論したという[179]

帝国憲法と教育勅語編集

国体論は帝国憲法教育勅語により制度と精神の両面で定式化される[4]。帝国憲法は立憲主義を採る一方で、天皇の大権を幅広く定め、日本国民を臣民と位置付ける。教育勅語は臣民の教化をはかり、国体論の経典となる[180]

1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布される。その際の憲法発布勅語は日本の国体についてその根本を尽くしたといえる[181]。憲法発布勅語にいう[182]

朕、国家の隆昌と臣民の慶福とをもって中心の欣栄とし、朕が祖宗に承くるの大権により、現在および将来の臣民に対し、この不磨の大典を宣布す。おもうに、我が祖、我が宗は、我が臣民祖先の協力輔翼により、我が帝国を肇造し、もって無窮に垂れたり。これ我が神聖なる祖宗の威徳と、ならびに臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(とな)い、もってその光輝ある国史の成跡を胎(のこ)したるなり。朕、我が臣民は、すなわち祖の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、その朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、あいともに和衷協同し、ますます我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし、この負担を分つに堪うることを疑わざるなり。

帝国憲法の条文では、大日本帝国は万世一系の天皇が統治し(第1条)、皇位は皇男子孫が継承し(第2条)、天皇は神聖にして侵すべからず(第3条)、天皇は国の元首にして統治権を総攬し憲法の条規によりこれを行う(第4条)と定める。帝国憲法により天皇大権に関することが確定し、これ以後、国体を論じる者は誰でもこの憲法を根拠とする[181]。つまりこの憲法の解釈に託して国体を論じる者が続々と出る[183]

伊藤博文の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』は次のように説く。

  • 天皇の宝祚(皇位)は祖宗に承けて子孫に伝える。国家統治権の存ずる所である。そして、憲法に天皇大権を掲げて条文に明示するが、これは天皇大権が憲法によって新設されることを意味するのではなく、我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なることを示すのである[184]
  • 第1条 大日本帝国は万世一系の天皇が統治する。
    • 神祖(神武天皇)が建国して以来、時世に盛衰治乱もあったが、皇統は一系であり皇位は天壌無窮である。本条に立国の大義を掲げ、日本帝国は一系の皇統とともに終始し、古今永遠に唯一無二で恒常不変であることを示し、君民の関係を万世に明らかにする。
    • 統治は皇位にある。大権を統べて国土臣民を治めるのである。古典にいわゆるシラスとは、統治の意味にほかならず、おそらくは、祖宗(歴代天皇)が天職を重んじ、君主の徳は国土臣民を統治することにあって、一人一家が享受する私事でないことを示したものである。これが憲法の根拠であり基礎である。
    • 国土と人民とは国が成立する所の元質であり、一定の領土は一定の邦国を為し、一定の憲法はその間に行われる。一国は一個人のようなものであり、一国の領土は個人の体躯のようなものである。これによって統一完全の版図を成す。以上[185]
  • 第2条 皇位は皇室典範の定めにより皇男子孫が継承する。
    • 皇位継承の順序については新たに勅定する皇室典範において詳しく定める。これを憲法の条文に掲げずに皇室の家法とするのは、将来の臣民に干渉させないことを示す[186]
  • 第3条 天皇は神聖にして侵すべからず。
    • 天皇は、その天性として神聖であって臣民どもの上にあり、つつしんで仰ぐべきであって干犯すべきでない。ゆえに君主は法律を尊重しなければならず、法律は君主を問責する力をもたない。
    • 天皇は、単に不敬をもってその身体を侵害してはならないだけでなく、さらに批判や評論の対象外とする。以上[187]
  • 第4条 天皇は、国の元首にして、統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行う。
    • 統治の大権は天皇が祖宗に承けて子孫に伝える。立法と行政は何事も天皇がその綱領を総て握る。これは例えば人身に手足や骨々があって神経回路の本源が頭脳にあるようなものである。よって大政の統一は、個人の心が一つであるのと同じである[188]
    • 統治権を総攬するというのは主権の体であり、憲法の条規によりこれを行うというのは主権の用である。体があって用がなければ専制に失い、用があって体がなければ散漫に失う。以上[188]

穂積八束が留学から帰国して早々に帝国大学総長から委嘱をうけ帝国憲法発布の翌々日から帝国大学法科大学にて「帝国憲法の法理」を講演する[189]。帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」について「本条の主意は国体を定むるにあり。国体を定むるとは統治権の主体と客体を定むるということなり。本条の明文によれば統御の主体は万世一系の天皇にあり、しかして統御の客体は大日本帝国にあり」[190]、「万世一系とは公法上いわゆる正統(レヂチメート)たることを決したるなり。我が国体にては初代天皇からの皇統が万世一系の正統の君主であるという意なり。他国の憲法においては王朝(ダイナスチノー)すなわち国王の血統を掲ぐるを通例とすれども、我が邦の憲法には別に朝系を掲ぐるの必要なし。すわなち我が国体の正統は万世一系の天皇であるという主義を表出したまでである」と説く[191]。帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」については「君主は即ち国家なり。国家は統御の主体なり。もしこれに向かって権力を適用する者あらば、国家は則ち国家ならず。権力をもって侵すべからずとは国家固有の性質なり。神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなす所の国体なるがゆえなり」と説く[192]

有賀長雄は帝国憲法の講義において、万世一系という語はおそらく大日本帝国憲法のみであって他国の憲法に存在できないものであり、これこそ日本の国体がシナや西洋の国体と異なることろである、と説く[193]

憲法発布のころから国粋主義が勢いを増す。明治の水戸学者内藤耻叟は1889年(明治22年)10月に『国体発揮』を著し、我が国の体面で他国に真似できないところは、皇室が土地所有の主・人民の祖先・教化の本・衣食の原であることによると述べる。穂積八束は1890年(明治23年)5月に国家学会雑誌で国家(即天皇)全能主義を主張する。また同月、皇学を称する一派は惟神学会を組織し機関誌『随有天神(かむながら)』を発行する[194]。こうした動きと時を同じくして教育勅語が渙発される[195]

1890年(明治23年)10月、明治天皇が教育勅語を下す。先に帝国憲法により法理上から国体の根本を示したのにくわえ、さらに教育上から諭すものであり、ここに道徳的な国是を定め、国体に関して不動の解釈を与えた。教育勅語は明治天皇の意思より出たといっても、その一方で国粋主義流行の結果でもある。またその後の国粋主義を涵養する原動力ともなる。勅語に宣わく「朕おもうに、わが皇祖皇宗、国をはじむること宏遠󠄁に、徳をたつること深厚なり。わが臣民、よく忠に、よく孝に、億兆こころを一にして、世世その美をなせるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」という。ここにおいて教育勅語を基礎として国体を論ずることが盛んになり、勅語衍義などの解説書が続々と発表される[195]

宗教教育衝突問題編集

教育勅語渙発と同じ月、加藤弘之が国家学会雑誌に論文「国家と宗教の関係」を発表する。同論文に以下のようにいう(大意)[196]

神道は仏教や耶蘇(キリスト教)に比べて宗教として最も劣るから、仏教や耶蘇に圧倒されるのは当然である。神道がこのように圧せられるは日本の国体と大いに関係がある。神道は天皇の祖先や人民の功労者を祭るものだからである。 将来、神道が宗教として耶蘇に圧倒されると、皇室の権威に関係するので事態は容易でない。このため、どこまでも従来のどおり神道を宗旨の外に置く必要ある。耶蘇教徒であっても天皇の先祖である神に拝礼することは耶蘇の主義に背くことにならないだろう。

以上のように論じる加藤弘之は、その3年前に「徳育方法案」と題して演説し、神仏儒に耶蘇を併せて小学校の徳育科に施すべしと主張していた。加藤弘之が所論を豹変させることはいつものことであるが、これも時勢の変遷を反映したものと見ることができる。後年にいわゆる「加藤の耶蘇いじめ」はここに発端する[196]

教育勅語を全国の学校に遵奉させることになると、唯一神を信仰するキリスト教徒は天父以外に頭を下げないためこれを喜ばず、キリスト教系の学校において教育勅語の尊重や天皇の御真影への拝礼を拒む者があった。またそれと直接関係なくても、明治国家の教育に反抗し、国体観念と相容れない思想をもつキリスト教徒もいた。1892年(明治25年)10月、井上哲次郎は、キリスト教が教育勅語と国体に背戻するとという意見を語り、翌月その意見を『教育時論』に載せる。これがいわゆる宗教教育衝突問題の発端である[197]

そしてキリスト教徒が騒ぎ始めると、井上哲次郎は「教育と宗教の衝突」という一文を書いて二十数種の雑誌で発表し、さらに増補して単行本とし翌年4月に公刊する[198]。同書で以下のように述べる。

  • 教育勅語は全く国家主義に立脚する。しかし我が国の耶蘇(キリスト)教徒は教育勅語奉戴に反対し御真影拝礼に反対する。耶蘇教は徹底して非国家的であるから、これも当然の帰結である。
  • 耶蘇教は博愛を主旨として家族も他人も区別しない。現世を捨て来世の自己幸福を願う利己的精神であるので父母を重んぜず先祖崇拝も斥ける。神の外は一切平等なので忠君の観念がなく、国家の興亡にも関心がない。このため欧州においても早くもその実力を失ったのである。しかし我が国のキリスト教徒はその事情に無知である。いたずらに我が国体に反することを文明とし、これを信じない者を野蛮ととする。
  • 教育勅語は国家主義を標榜し国体の尊厳を保護しようと欲する。これに耶蘇教が一致することはないだろう。仏教が我が国の精神に同化したように耶蘇教も同化するならば、あながち排斥すべきではない。すでに耶蘇教は我が国体に矛盾せず、また忠君の教えを含むと弁護する者がいるが、牽強附会(こじつけ)でしかない。以上[199]

これに対してキリスト教徒は全力で争い、仏教家も参戦し、学者も教育家も文筆家も皆この問題に口を挟み、単行本だけでもキリスト教を排斥する側が二十数種、これを弁護する側が十数種、その他に新聞・雑誌・講演にこれを論ずるものは数百種にのぼり、喧々諤々として議論が続く。この議論を総じて見ると、排斥側は井上哲次郎の所論を祖述するものであり、弁護側はこれに答えて、聖書にも忠孝を標榜する語が一つ二つあるとか、宗教の分野は政治教育の類いと全く別分野であり両者が衝突することはないとか、キリスト教は非国家主義であるが反国家主義でないとかと弁じる。排斥側がキリスト教の社会上政治上に害を及ぼした例を挙げると、弁護側は西洋文化の輸入、女子教育の向上、学校外の道徳心の涵養などは主にキリスト教のおかげであると応じる。弁護側が非キリスト教徒を旧弊・頑迷・退歩であると蔑むと、排斥側は、理学が進歩し進化論の発達した今日において迷信にすぎないキリスト教を今さら新思想であるともてはやす信徒こそ最も頑迷であると罵る。最後は論敵の人格攻撃に及び、互いに犬糞的応酬をするに至る[200]

  • (排斥側)磯部武者五郎「政教時論」に曰く、キリスト教は我が国体、すなわち我が国家の特性に適合しない。我が国体は万世一系の天皇を奉戴するを唯一の元素とする。キリスト教は唯一ゴッドに奉仕し、未だに天皇を奉ずることを宣明しない。我が皇国の国体では民の守るべき徳義は敬神・尊王・愛国の三つである。キリスト教はこれと両立しない。博愛を主義とし敵を愛すべしと主張するキリスト教は日本魂と合わない。当然排斥すべきである、と[201]
  • (排斥側)中西午郎「宗教教育衝突断案」に曰く、耶蘇教は、全く非国家主義であるとはいえないものの、我が国体と全く並立できない。我が皇統は天孫であり日本国民は同祖であるという天啓的歴史が国民の脳裡を支配し、忠君愛国の感情は万古を経て不滅である。教育勅語はこの国体に基づいて国民教育の方針を示したものなので耶蘇の教義と合わない。耶蘇教は、君父と他人を差別せず、自国と他国を差別しないので、我が国体と相容れない。儒教・仏教や憲法制度は外国由来であり我が国体と多少衝突したが結局同化した。耶蘇教も同化すれば不可でない、と[202]
  • (排斥側)杉浦重剛「教育弁惑」に曰く、欧州諸国が東洋諸国にキリスト教を扶植しようするのは、名を博愛に借りて実は欲のためである。世界同胞主義の博愛は実行不可能である。日本人の一部がこれを迷信するのは心外である。空想に生まれたゴッドは理学の発達と両立しない。我が国体は皇室を最貴最尊と仰ぐ。キリスト教徒がその教義に忠義の旨もあると弁解するのは牽強(こじつけ)である。そうであるなら何故に御真影や教育勅語の礼拝奉信を拒む信徒を除去しないのか。今後キリスト教が我が邦で隆盛するには、勅語に違背する所を除き、理学に疑われる所を掃わらなければならない、と[203]
  • (弁護側)小崎弘道「基督教と国家」に曰く、汝の隣人を愛せよというのがキリスト教の綱領である。人を愛する教えなので国を愛するのはもちろん、国君に対し忠節を尽くす事あるのをその教えの主旨とする[204]
  • (弁護側)植村正久「今日の宗教及徳育論」に曰く、人類を囚えて自国の観念に禁錮するのは陋俗な国家主義国粋論者の迷夢でしかない。キリスト教は神を愛する主義を第一に置き、その制限の下に自己を愛し他人を愛する。愛国も同じである。正義の愛をもって国を愛す。君主に対するときもこれと大同小異である。君主を重んずべきは新約聖書に明文を載せている。キリスト教は決して不忠の道を主張するものではない[205]

仏教徒がキリスト教排斥に加担したことも見過ごせない。キリスト教が日本の国体と相容れないのはそれが世界的であって国家的でないからだとすれば仏教も根本義は世界的である点でキリスト教と同じであるが、仏教徒はキリスト教排斥に加担した。キリスト教徒はこの点を指摘し、たとえば大西祝は、世界的であるために我が国体を破壊すると言うならば仏教はもちろん儒教も哲学も理学も詩歌も同じであるのに何故にキリスト教のみを論難するのか、と高調した。仏教徒は聞こえないふりをしてキリスト教攻撃を続け、さらに進んで仏教は国体と深い関係があると論じるに至った。その代表は井上円了である[206]

井上円了は仏教哲学者であり哲学館(後の東洋大学)を設立した[207]。宗教教育衝突問題以前の1889年(明治22年)9月に『日本政教論』を著して、皇室と仏教が不可分であることを論じた[206]。同書に曰く、仏教は古来皇室と関係深く、また国家鎮護の一助であった。すなわち名実ともに仏教をもって国教に組織したものである。もしこの縁故を廃すれば歴史上の事実を廃することになり「皇室国体の永続を期すること難しかるべし」。歴史上縁起深い寺院を保存し、その宗教を特待しなければならない、と論じた。そこにたまたま宗教教育衝突問題が起こり、井上円了がキリスト教排斥に加担しつつ国体と仏教の関係を説いたものが『日本倫理学案』と『忠孝活論』である。1893年(明治26年)1月著『日本倫理学案』に云う[208]

  • 国が異なれば国体も異なる。その国の独立を継続する限り特有の国体を維持しなければならない。教育も道徳も国体を基に組織しなければならない。上古から中世まで、我邦教育宗教等は、大抵シナ三韓インドから徐々に入って来たが、自然に国風に一変し、国体を維持することを目的するようになった。今後の方針も、あくまで国体を基礎としなければならない。
  • 我邦の国体が万国に卓絶するわけは皇統一系天壌無窮の宝祚を戴くことにある。その原因は次の三か条である。(1)皇室あって後に人民あること、(2)君臣が一つであること。(3)忠孝一致を人倫の大本とすること。
  • 人民はみな皇室の臣下であり同時にその末裔でもある。したがって君臣一家、忠孝一致を知るべし。この美風は単に倫理上の一国の精華であるだけでなく、国家の団結を鞏固にして国務を強大化するのに大いに有利である。以上[209]

同年7月著『忠孝活論』は次のように云う。

  • 我が国体を論じるには客観・主観の両面から観察しなければならない。
    • 客観上、物界にあって我が国が気候温和・地味豊沃・風景秀美であることは世界に比類ない。また人界にあっては上に一系連綿で一種無類の皇室がある。厳然と永存するものであり、禅譲放伐(革命)により立つものと異なる。
    • 主観上、心界にあっては古来一種の霊が大和魂を成す。精誠な忠孝を発育し、これにより一種神聖な国風を形成した。実に我が国は神国というべきである。
  • 皇室は太古純然の気が今日に永続したものであり、すなわち神聖の皇室である。臣民は皇室の分派であって神子皇孫の末裔であり、すなわち神聖の臣民である。そして我が国の忠孝は、臣民の精神界に固有する霊気の発動であり、神聖な皇室から分賦された徳性であるので、この忠孝もまた神聖の忠孝である。以上[210]

井上円了はここで敢えて仏教に言及しないが、その附録に「仏門忠孝一班論」を添え、仏教にも忠孝の原理があると論じ、仏教を国家主義に結びつけている[211]

君主国体説編集

1891年(明治24年)2月、カール・ラートゲン講義録『政治学』が翻訳出版され[212]、君主国体という訳語が用いられる[213]。ラートゲンはドイツ人政治学者であり、1882年(明治15年)から1890年(明治22年)まで御雇い教師として帝国大学で政治学を講じていた。阪谷芳郎の聴講ノートに「Forms of State and Government」という章がある[214]。翻訳書では「国体及政体」と訳された[213]

ラートゲンは「国体及政体」で、理論上・歴史上に国家を分類し、その性質・発達を考究しようとするならば、国体・政体・憲法について、その意義・区別・関係を了解する必要があるとして、次のように講義する[213]

国体とは国家の形式という意味である。国体を定めるというのは、国家統御の主体と客体を定めるという意味である。

君主国体とは、国家統御の主体を君主として、国家と君主がその本体を同じくし、国家統御の客体を国土と国民より成立するものを称する。

民主国体とは、国家統御の主体を国民全体、すなわち国民の総意として、国家統御の客体を国土国民の各個より成立するものを称する。

政体とは政治の形式という意味である。政体を定めるというのは、主権の作用に形式を与えるという意味である。国家がその主権を作用するにあたり、自己の意思によるものを専制政体と称し、既定の憲法によるものを制限政体と称する。

憲法の意義は二種類あり、一つは材料上・性質上の意義、一つは形式上・効力上の意義である。性質上から定義すれば憲法とは主権の本体と作用、すなわち国体と政体を規定する諸原則の全体である。効力上から定義すれば憲法とは主権者が憲法と称する法令の全体である。

憲法学者の穂積八束は当初、君主国体の概念を憲法学で用いることに否定しており、1892年(明治25年)の講義録で「国体の区別は、君主国、共和国、立憲国等の名称をもってする例ありといえども、これ皆政治論上の区別にして、法理に関係なきものなり」と断じ[215]、翌年も繰り返し同じ趣旨を講する[216]

時の文部大臣井上毅は、国民教育の基礎として日本古来の国体と明治の政体との要旨を授ける必要があると考えていた[217]。1893年(明治27年)4月、井上毅は山崎哲蔵という人物に初めて連絡をとり食事に誘う[218]。山崎哲蔵はラートゲン『政治学』の翻訳者であり、君主国体という訳語を生み出していた[213]。井上毅は同年夏に穂積八束に指図して小冊子を執筆させ[217]、そのなかで君主国体についても論じさせる[219]。井上毅はその公刊を計画していたが、その点検を終えたところで病死したため公刊の計画は頓挫する[217]。ただ、穂積八束はこの年の講義から、およそ憲法を論ずるにあたっては国体の如何に注目すべきことを講じ[220]、翌年の講義で憲法学上の君主国体説を明確にする。講義に曰く、国体は主権の所在によって区別され、政体は主権を行使する方法によって区別されるのであり、主権が一人に掌理されるものを君主国体と称し、我が帝国の国体は純粋なる君主国体である、と[221]

日清戦争後の国体論編集

日本国内で保守的国粋主義が台頭しつつあるときに、日清戦争で日本が予想外の大勝を挙げ、日本人が自国の実力を認るようになると、日本のナショナリズムが盛り上がりを見せる。従来は国粋保存といっても漠然としたものであったが、日清戦争後は国粋主義の内容が明瞭になる。このため、この時代を自覚時代と呼ぶ者もいる[222]

日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める[223]

1897年(明治29年)9月、穂積八束が『国民教育 憲法大意』を発行する。これは2年前に穂積八束が井上毅の指図を受けて執筆した小冊子であり、日清戦争中に井上毅が病死したことでお蔵入りになっていたものを、この時改めて出版したのである[217]。その第2章「君主国体」で次のように説く[219]

  • 国体は主権の所在により分かれ、政体は統治権の行動の形式により分かれる。特定の一人がその固有の力により国権を総覧し国を統治するものを君主国体と称する。憲法で国家統治の大則を定め、国会・政府・裁判所の統治機関を設け、立法・行政・司法の権を行うものを立憲政体と称する。我が帝国は君主国体にして立憲政体によるものである。
  • 君主は固有の権力によって統治する。憲法の委任によって民衆の代表者として君臨する類いは、君主と称していても純正な君主制ではない。外国の歴史には皇帝を称して主権者でない例が往々にしてある。
  • 君主は国権の全般を総攬する。統治権の本体と作用とを併せ持つということである。その一部を欠くものは君主制の本領ではない。憲法により統治の機関に国権の行使を司らせても主権は君主に存する。なぜならば君主国体における憲法は君主の権力によって制定したものだからである。
  • 欧州で国体を論じる者は、君主は国権を国会と分つとか、あるいは君主は国権の本体であるが行使権をもたないとかいうことをもって立憲君主制の本領となすことがある。これは立憲君主を世襲の大統領と見なすものであって、純正の君主制ではない。
  • 政体は国を統治する形式であるため、時勢に応じて変遷する。政体は憲法によって定まる。
  • 我が国体は建国以来変更したことがない。政体の変更はあったが、常に純正な君主国体の模範を内外に示してきた。明治憲法の制定によりその基礎をますます固くした。
  • 憲法は改正してよい。国体は変更してはならない。国体の変更は帝国の滅亡である。以上[219]

穂積八束は翌年6月に『国民教育 愛国心』を著す。日本の国体と先祖教との関係を説き、国家主義の気炎を揚げ、以下のように説く[224]

  • 日本固有の国体と国民道徳の基礎は祖先教に淵源する。祖先教とは祖先崇拝の大義をいう。日本民族の固有の体制は血統団体である。固有の国民道徳である忠孝友和信愛は、祖先崇拝の大義を源流とし、血統団体の保持を手本とする。堅固な家国の体制は祖先教に基礎があり、これを千古に建て万世に伝えるのは民族の特質であり国体の精華である。
  • 血統はこれを祖先に受け子孫に伝える。その団結は永久である。利害で離合断続するものではない。これを統一するのは祖先の威力である。家にあっては家長が祖先の威力を代表し家族に対し家長権を行い、国にあっては天皇が天祖の威力を代表し国民に対し統治権を行う。
  • 父母を敬愛しこれに従順する至情をそのまま父母の父母に及ぼすべし。我らの祖先の祖先は天祖である。天祖は国民の始祖であり皇室は国民の宗家である。父母を拝すべし。ましてや一家の祖先を拝すべし。さらには一国の始祖を拝すべし。
  • 人は信仰により行動する。限定された人智は宇宙の真理を知覚できないからである。我らの祖先は不死の霊魂があることを確信し、父母の威霊は幽界にあって子孫を保護すると確信してきた。これが先祖崇拝の大義の淵源であり、敬神が国教である所以である。
  • 我らの固有の国体民俗は祖先の祭祀を最も重んじる。先祖崇拝の大義は国民の確信に出る。不朽の国体はこれにより基礎を建て、国民道徳はこれにより深厚である。この民を千古万世に保持するのは、この国体の精華である祖先教の力である。
  • 国は個人の合衆であるという説は国史の事実に反する。国民は家族制によって分属する。家を合わせて国を成し、家籍を国籍の基礎とする。もし祖先教を打破し家族制を廃止することがあれば、皇室の神聖なる理由を侵犯する恐れがある。
  • 国は統治権により保護される民族の団体である。天皇は統治権を天祖に受け皇胤に伝える。皇位は天祖の霊位である。天皇が国民を保護するのは天祖に対する任務である。国民が皇位に忠順であるのは天祖の威霊に服従するのである。
  • 先祖教により構成された血統団体は社会の主力を崇拝する。このため法律の本源であるとともに教義の源泉である。崇拝には理由がある。迷信ではない。
  • 外国の主権は強大であるために服従され、我が国の主権は神聖であるために敬愛される。以上[224]

こうした国家主義的風潮のなかで雑誌『日本主義』が発刊される[225]。これより先、1897年(明治29年)5月に柴田峡治が稲垣乙丙加藤弘之湯本武比古品川弥次郎ら数十名の賛同を得て大日本教会を組織した。その主義は「教育勅語を大経典とし、これを社会全般に普及し、感化の実績を収めんと欲す」ということにあった[226]。大日本教会は1898年(明治30年)5月に機関誌『日本主義』を発刊し、その主義綱領を「日本主義によりて現今我邦における一切の宗教を排撃す。我が国民の性情に反対し、我が建国の精神に背戻し、我が国家の発展を阻害するゆえなり。しかしてこれに代えるに国家主義をもってするなり」、「君臣一家は我が国体の精華なり。これ我が皇祖皇宗の宏遠なる‎丕図(企画)に基づくものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。ゆえに国祖および皇宗は日本国民の宗家として無上の崇敬を披瀝すべき所、日本主義はこれゆえに国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体せんことを務む」とする[225]

木村鷹太郎は日本主義のために最も努力した。その意見は1898年(明治31年)3月に公刊した『日本主義国教論』にあらわれている[225]。同書に以下のようにいう。

  • 日本主義は保守的国粋主義でなく、卑屈な外国崇拝でもない。日本の自我を守って生物学の原則に従い、外来の文物を我に同化し、自我を養い、自主の実現を期するものである。
  • まずは国教を定める。国教とは、国家が目的・主義・理想を定め、国民にその信奉を求め、その教育を努めるものをいう。つまり国民精神の統一である。そして国家が国民の精神を統一しようと思えば、思想・道徳・宗教・嗜好・祭礼節などを統一し、少しでも国家の目的と理想に合わないものは全て禁止する。特に宗教において国家主義の理想を害するローマカトリックギリシャ正教イエズス会などは厳禁する。国家の精神に反する自由は許可しない。
  • この意味においての国教は以下のものを基礎条件とする。
    • 国民性が表れ、国体と和合し、国家的であり、歴史上国体を汚したこともなく、国家的生物原理に適合するもの、
    • 快活にして心身ともに健康であり、希望進歩の念を持ち、厭世悲哀を誘わないもの、
    • 教理上も実践上も国体に従い、皇室と密接なる関係を有し、皇室に中心を置き、皇室を至上と崇めるもの、
    • 精神の高尚優美を貴ぶと同時に、実際を重んじ質実を奨励し実力を養成することを教えるもの、
    • 国民的国家的であるため祖国を愛し、平和を理想としても尚武の精神を有するもの、
    • 健全な精神の美術を生み出し、教育的であって科学に反せず、迷信を唱えないもの、
    • 女子を卑しまず、女子に相当の位置を認めるもの、
    • 日本を世界の中心と考える、国民的自信、大抱負を有するもの。
  • 我が国の歴史は全て以上の理想によって発展してきた。
  • 我らの神とは、我ら国民の祖先とし、国家の至上とし、その徳、その至上権において、我らの理想として崇拝するものである。

以上のような思想を木村鷹太郎が『日本主義』誌上に掲げたところ、すこぶる反響が大きかったという[227]

高山樗牛も雑誌『日本主義』同人であり、木村鷹太郎とともに日本主義のために努力する。高山樗牛はその主張を雑誌『太陽』に続々と発表する。まず『太陽』明治30年6月号に「日本主義を賛す」と題して以下のように主張する[228]

  • 本邦建国の精神と国民の特性をかんがみ、我らの国家の将来のため、ここに日本主義を賛する。日本主義とは国民の特性にもとづく自主独立の精神によって建国当初の抱負を発揮することを目的とする道徳的原理である。
  • 我らは日本主義によって一部の宗教を排撃する。これを国民の性情に反対し、建国の精神に背戻し、国家の発展を阻害するものと見なす。
  • 宗教とは現実に到達できない超自然的理想を思慕する信念である。西洋では宗教が文化に大きな影響を及ぼしたが、我が国ではそうでない。仏教も表面上行われたに過ぎない。
  • 我が国民の思想は本来現世的である。多少幽界を観想することがあっても現世的思想に比べれば言うに足らない。社会的生活を尊び、国民的団結を重んじ君民一家・忠孝無二の道徳を維持するのは現世的国民として皇祖建国の偉大な企図を大成する運命を担う所以である。
  • 宗教は国家の利益と矛盾する。国家は現世に立ち、宗教は来世を尊ぶ。国家は差別を立て、宗教は平等を説く。
  • 国家は人類必然の形式である。人は一人で生息できずに家族を成し、家族だけで生活できずに社会を生じ、社会の上に主権を定めてこれを統御する。要点は民衆最大の幸福を企図することにある。この理想は仏教やキリスト教のような宗教と決して相容れない。これが日本主義を立てる理由である。
  • 君臣一家は我が国体の精華である。これは皇祖皇宗の宏遠な‎企図に基づくものであり、万世にわたり臣子が永く仰ぐべきところである。ゆえに、国祖と皇宗は日本国民の宗家として最上の崇敬を受けるべきであり、日本主義は国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体しようと努める。以上[228]

高山樗牛は続けて「日本主義と哲学」「日本主義に対する世評を慨す」「世界主義と国家主義」「宗教と国家」「基督教徒の妄想」「国家的宗教」「国家至上主義に対する吾人の見解」「国民道徳の危機」等の論文を発表し、日本主義を高唱する。「基督教の逢迎主義」では、キリスト教が国体に迎合しようとするのを笑い、どれほど迎合しても抜本的に改変しない限り日本主義に容れることはできないと説く[229]。また「我国体と新版図」と題して国家主義を論じ、君民一家の国体を次のように主張する[230]

  • 我が国体が世界に冠絶することは、我ら国民が内外に誇るところである。この天下無双の国体は要するに君臣の特殊な関係に由来する。すなわち、国土は皇祖皇宗の創定したところであり、国民は概ね神孫皇族の末裔であり、皆この域内に生息し、一系の皇族に奉仕してきた。皇室は宗家であり、国民は末族である。建国当初の家長制度は二千五百年を経てその範囲を拡張したが、その本来の精神は変わらない。我が国体の特性はこの君民一家という国民的意識に起源する。
  • ある論者は、君民一家の国体について、これを重視すれば新版図の民を包含するのが難しくなると指摘して、これを非難する。この新版図の問題を如何するか。それは権力関係しかない。内に君民一家の鞏固な国体をつくり、その力をもって新版図に臨み、一面に仁恵を施すしかない。以上[230]

高山樗牛はまた「国粋保存主義と日本主義」と題して、明治20年後に起った反動的国粋主義と日本主義との違いについて次のように述べる[231]

  • 国粋保存主義と日本主義は系統が同じだが内容が異なる。日本主義は世界の時局に対処し、国家の独立進歩と国民の安寧幸福を保全するため、適切な国民道徳を立てることにより人心を統一する。
  • 縦は過去の歴史に成功や失敗の跡を訪ね、横は世界の大勢に興亡の理を求め、国体・民性を中心に内外の事物に対し精緻な考察を加え、これにより一国の思想を期する。
  • 日本主義は、国家の独立と国民の幸福を保全するため、国体の維持と民性の満足を二大制約とする。この二大制約を中核として内外の文物に対し公平な研究を試み、その研究結果により取捨選択を行う。以上[231]

湯本武比古も雑誌『日本主義』の同人である。雑誌『日本人』明治31年3月号で発表した論文「日本主義を主張する」は日本主義流行の一面である。曰く、我らは日本主義を主張するといっても敢えてみだりに排外を主張しない。国体の精華すなわち国粋の保存を説くといっても敢えてみだりに自己を過大評価しない。旧来の陋習に恋々とすべきでなく、国家の文明富強を進め皇基を振起すべきため智識を世界に求める。ただし西洋の開化を学ぶのは、開化そのものが目的ではなく建国の精神を発揮するための方便である。我らはこの主意により日本主義を主張し国粋保存を説く。これを従来の偏狭頑固と同一視しないことを望む、と[232]。湯本武比古はさらに「帝国主義」と題して曰く、近ごろ急に帝国主義が台頭したが、その意義には一定の説がない。我が国においては欧州の帝国主義をそのまま用いる必要がない。皇国主義すなわち帝国主義とすれば、憲法発布勅語の旨を奉体すれば間違いない、と[233]

日本主義は、強烈な反響を呼んだが、次のような多少の反対論もあった[234]

  • 姉崎正治いわく、日本主義はその根拠を歴史研究で証明すべきだが、今のところ外形のみを宣揚して内実を示していない、と。
  • 早稲田文学記者いわく、日本主義には、熱誠も無く、理想も無く、人物も無い、と。
  • 中島徳蔵いわく、日本主義は未だ理論的根拠がない、と。
  • 釈雲照は、日本主義の宗教排斥に対して、仏教の立場から反駁した。

当時、日本主義の勢力は強烈であった。例外として久米邦武が1899年(明治32年)2月に、国体論なるものは恋旧心から起った迷想であると断言したこともあったが、世間一般に日本主義的理想をもって国体観を発表したものが多い。たとえば同年の加藤弘之「日支両国の国体の異同」、林甕臣『帝国教典』、1900年(明治33年)鳥尾小弥太『人道要論』、1901年(明治34年)小柳一蔵『人道原論』などがある[235]。同年、湯本武比古と石川岩吉の共著『日本倫理史稿』は建国神話を叙述し「この国体は即ち我が国家主義の倫理思想を胚胎し来たるものなり」と述べる[236]

日露戦争と国体論編集

1904年(明治37年)1月談判破裂して日露戦争始まった。当時としては日本未曾有の大戦争において、愛国の気勢が熾烈を加え、国体を擁護すべき所以が更に盛んに唱道される。たとえば同年6月に日比野寛が教育勅語の解説書として著した『日本臣道論』は、国体に関して次のように論じる。曰く、我ら臣民の忠孝は国体の精華である。国体とは何かというと、国が存在すれば必ず国体を伴い、国家統治の主宰力を掌握する人の数により国体が異なる。我が帝国は君主国体であり、天下の大権は唯一の聖天子が掌握し、万民は皇室を仰いで奉戴する。至忠は我ら臣民の本願であり、至誠は建国の太古より綿々として我が民族が独有するところである。皇室に献身的奉仕をし、忠勇無二であるのは世界史上に異彩を放つ美点である、と[237]

日露戦争の戦局が進んで日本が陸戦や海戦で連勝すると国民の意気が昂ぶり、戦勝の要因を探って国体の優秀に及ぶことが盛んになる。井上哲次郎は1904年(明治37年)12月付けで雑誌『日本人』に「日本が強大である原因」と題して、戦勝が国体と関係の深いことを説いて、(1)日本民族が皇室を中心として鞏固な統一を成していること、(2)日本民族が比較的純粋であること、(3)日本文明が今なお壮健であること、(4)一種の武士道が発達したこと、これは全く皇室を中心とする歴史的発達に淵源すること、(5)二千数百年の長い歴史を有すること、(6)宗教に冷淡であり迷信が極めて少ないこと、(7)世界文明の粋を集めてまとめあげつつあること、を列挙する[238]

日本軍が翌年3月に奉天を陥落させ、5月の日本海海戦に完勝すると、7月には加藤弘之が「吾が立憲的族父統治の政体」と題して講演する。曰く、同じ立憲君主国といっても、欧州諸国と我が国とは異なる。なぜならば、欧州諸国の君主は皆尋常の君主であるが、天皇はこれと違って日本民族の族父であるとともに君主でもあるからだ。我が国は建国以来一帝室が連綿と今日まで続き、しかもこれが日本民族の宗家である。多少は他民族も混合したが、今日は全く日本民族の血統に混じって別民族になっていない。このようにが国は建国から今日まで日本民族の族父たる天皇が君位を保つ国であるので、これを立憲的族父統治国(Die Konstitutionelle Patriarchatie)と称するのを最適とする、と。以上のような加藤の所論は、多くの国体論者が国体の尊厳であって強固な理由として第一に挙げる点である[239]

国体論は不可侵性を強め、20世紀初頭までにほぼ定着する。これに挑戦した北一輝『国体論及び純正社会主義』は発行禁止処分を受ける[240]

1907年(明治40年)8月、加藤弘之が『吾国体と基督教』を著す。これは、日露戦争当初から非戦を唱えたキリスト教徒に論戦を挑むものであり、かつて1889~1890年(明治22~23年)頃に国家主義者とキリスト教徒の間で行われた論争を再び引き起こしたものだが、主客の地位が逆転したところに時勢の変化がある。同書に次のように論じる(大意)。

  • 宗教なるものが全て迷信であることは今さら論じるまでもない。
  • キリスト教も仏教も世界教であって民族教ではないから国家に害がある。人民が世界教を信じれば国家の支配を受ける以外に世界教の支配も受ける。国家は有機体であるから、その分子である国民は万事を国家のために行動すべきなのに、世界教の信者が国家のために身を犠牲にすることはあり得ない。つまり国家主義と合わない。
  • 我が国体は、大父である帝室が万世に統治の大権を掌握して臣民を撫育し、族子である我ら臣民が統治を受けて臣子としての道を尽くすというに過ぎない。これは世界唯一の国体である。皇祖皇祖と大功臣を神として崇拝するのは祖先崇拝である。
  • 仏教が輸入されて神より尊い仏を持ち出したので、国体が滅びてしまうと当時の廃仏論者は嘆いた。仏教が隆盛になると国体を汚すことが少なくなかった。天皇が三宝(仏・法・僧)の奴と称したこと、本地垂迹説を設けて神を仏の後身としたことなどが顕著な例である。ただ仏教は多少日本に同化した。
  • キリスト教は唯一真神なるものを立て、それ以外の崇拝物を全て偶像として排斥する。これが日本の国体と矛盾するのは明らかである。至尊として崇拝すべき天皇の上に唯一真神を戴くなどということは決して国体の許すところではない。以上[241]

以上のようにキリスト教を排撃する加藤弘之に対し、世論は喧々諤々となり、なかでもキリスト教徒は弁難に努めた[242]

  • 海老名弾正プロテスタント牧師[243])曰く、科学主義を称する加藤氏の説が全く我が国体と一致するとは考えられない。御先祖(皇祖)が神として高千穂に天降りしたという事と進化論は矛盾する。加藤氏は進化論者でありながら人君が下等生物の後裔であることに言及しないが、大いに困惑しているに違いない。神こそは人間以上であるから、神に仕える道と君主に仕える道は全く異なる。君主が神の命令に反するならば、断然君主に背いて神に従うべきである、と[244]
  • 山路愛山メソジスト派機関紙主筆経験者[245])いわく、古代より儒教・仏教が我が国に入って来て結局は我が国に利益となった。近来のキリスト教も同様の結果になるだろう。国体が生命であるならば、宗教は衣服のようなものであり、身体の成長にしたがって衣服を様々に変えなくてはならない。国の生命さえ盛んであれば外教が輸入されても憂う必要はない。かえって国の利益となるだろう。古来仏教・キリスト教について随分と反対論があっても我が国体が益々盛大になって存在しているのを見ても明らかである、と[246]
  • 石川喜三郎ロシア正教会神学者[247])曰く、加藤氏は我が皇帝の上に唯一真神を置いて尊崇するのは我が国体に有害であると論じるが、およそ尊崇すべきものは世の中に様々であり、必ずしも上下をいうべきものではない。唯一真神は宗教上においてこそ人格的のように説くが、学理的にいえば唯一実在、実体などと称するものであって、このような非人格的なものを尊崇することが国体に有害であるならば、たとえば科学法則を尊崇することも不都合でないのか[248]
  • 小山東助(キリスト教に傾倒する思想家[249])曰く、国家進化論と題し、日露戦争の大勝利によって国体論が健全な発展を失って無謀な国体論と化してしまった。我が国体の進化は外国の開化も採ることに起因したものなので、外国から世界教を輸入しても国体を憂う道理はない、と[250]
  • 浮田和民熊本バンド)曰く、聖書全般を通じて国体に矛盾する論は少しも無い。加藤氏はキリスト教が国体に大害あると主張するが、キリスト教より儒教のほうが有害である。儒教は禅譲(平和的な王朝交替)を理想とするからである。孟子の民主的傾向が最も有害である。古代において我が国体に合わない儒道や仏動が輸入されたのは、つまるところ我が固有文明だけでは間に合わないからである。我が国には古来祖先崇拝があり、中世以来武士道も盛んになったが、これだけでは足りない。今日の日本の国体は族父統治の時代を過ぎ去っている。台湾人もいればアイヌ人もいるし、さらに朝鮮人も満洲人も日本人になるかもしれない。ならば今日に族父統治論を唱えるのは不都合である、と[251]
  • 亀谷聖馨(仏教学者[252])曰く、仏教が輸入されてから皇室は仏教を重んじ、特に聖武天皇は仏教を廃す時は皇統も廃すぞと宣ったように、国体と仏教の関係は重大であった。伝教大師(最澄)も王城鎮護を標榜して天台宗を開き、その他にも王法為本を教理とし立正安国を眼目とした。こうして仏教は皇室の信仰を得て国体擁護に尽くした、と[253]
  • 井上哲次郎曰く、加藤氏の国体論はあまりに窮屈である。我が国体は神武天皇の時に定まって以降も徐々に進歩発展してきた。国体の形式は一定不変であるが、その内容は複雑な変化を経た。これにより仏教を同化させたのだから、キリスト教を同化させることも出来るはずだ、と[254]

以上のように加藤弘之の『吾国体と基督教』はキリスト教側だけでなく仏教側その他にも反駁された。内務省神社局 (1921) によれば、加藤弘之は国体を擁護するためにキリスト教を攻撃したというよりも、キリスト教を排斥するために国体論を利用した疑いがある。このため、その論を第三者から見ると、国体に権威を加えず、逆に国体に煩累を及ぼした感じがあるという[255]

1908年(明治41年)佐藤鉄太郎(海軍軍人[256])が『帝国国防史論』を著す[257]。同書で国体に論及して曰く「世人あるいは御国体を家族的観念の向上となし、これをシナ思想と同一視する者あり。その根底の不確実にして、しかも浅薄なるは吾輩の嗤うところなり。我が国体は決して家族主義の変化にあらずして、絶対位を中心として確立したる神来の理想的国体なり」と[258]

1909年(明治42年)5月、佐々木高行(元参議工部卿、侯爵)が國學院雑誌において「国体の淵源」と題して、国民が権威を認めるところを国体と見るべしと論じる[259]

明治末期の国体問題編集

日本が日露戦争に勝利したのち国体論が盛り上がる時期にあって、国体の問題に関して国民の思想を刺激する事件がおきる。1910年(明治43年)の大逆事件と1911年(明治44年)南北朝正閏問題である。

幸徳秋水ら無政府主義者が天皇暗殺を準備したとされる大逆事件は、それまで国民が夢想すらしなかった大不祥事といわれ、その突発に人々は愕然として、識者は日本の国体を宣明にしなければならないと思い立ち、国体に関する研究が更に盛り上がりを見せる。井上哲次郎が設立していた東亜協会を中心に国体研究会を設けたのも大逆事件の影響であったといわれる。国体研究会の講演は機関誌『東亜之光』に連載される[260]

山田孝雄が国体論に手を染めたきっかけは大逆事件であったという。山田孝雄は後に文部省『国体の本義』の起草にも関わる著名な国語学・文法学者である。大逆事件に関する報道が解禁された当日、山田孝雄は「深く心に感ずるところあり」として、即日筆を執り、身体論的国家観にもとづく一書を一週日のうちに完成し、これを『大日本国体概論』と題して出版する[261]。同書に「国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり」という[262]。ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であった。時事新報が「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狂」と表現し、井上哲次郎が「破壊思想の源流」と題して「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」と記し、有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」[263]と同様の比喩を用いた。このように<隠喩としての病>は猛威を振るっていた。国家が有機体として想像される時代にあって、山田孝雄はその空気を吸いながら最初の国体論を書いたのだった[264]

南北朝正閏問題は大逆事件発覚の直後に帝国議会で起こり、国体に関する一大議論を惹起する[265]。南北朝正閏論については、明治時代には大日本史と同じく南朝正統を認めるものが多く、中には南北朝対立説を採るものもあったが特に問題とならずに済んでいた。問題の発端は、国定教科書における南北朝対立に関する編者の所見である[265]文部省は尋常小学校日本歴史に南北両朝を同等に認め、その教師用参考書に「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらざるなり」と明記していた[266]。これが皇統一系の国体に反するという理由で一部の小学校教師を激昂させ、やがて新聞記者を動かし、1911年(明治44年)1月19日発行の読売新聞で報じられる。これを読んだ早稲田大学教師の松平康國牧野謙次郎が善後策を講じ、衆議院議員藤澤元造から帝国議会の質問案として提出することを謀る[267]。藤澤元造は2月16日に質問演説に立つことになるが、政府は百方手を尽くして彼を翻意させ議員辞職に追い込む[266]

ここに世論が興起する。まず水戸市の教育会が運動を起こし、2月18日に同会長菊池謙二郎から文部大臣に建議書を提出する[266]。建議書に「大日本史が南北朝正閏論を唱道せし以来、これに関する国民の倫理思想は一定し、南朝方の将士は当然忠誠の士にして北朝方の将士は佞姦の輩なりと固く信じて疑わざるところなり」、「もし大日本史の正閏論に誤謬ありて、これに準拠せり倫理思想は大害を生ずるものとせば、これを変改するは正当の業なりといども、正閏論は、国体の上より見るも、史実の上より見るも、また教育の上より見るも、錯誤なきのみならず正当の説なり。いやんや明治三十三年十一月十六日大日本史の撰者たる徳川光圀卿に正一位を追贈せられし時、詔をもって光圀が皇統を正閏し人臣を是非せしことを是認して称美し給いしに於いてをや」という[268]

また2月21日には国民党が大逆事件ならびに南北朝正閏論に関する決議案を衆議院に提出する。この決議案では、大逆事件について「彼がごとき狂豎を出し、もって国体の尊厳を汚瀆する」[269]と断じ、さらに国定教科書について「万世一系の皇祚に対し奉り、敢えて濫りに正閏なしとの妄説を容る」ものとして批判する[270]。衆議院では犬養毅が問責演説に立つが、これは秘密会とされる。3月、貴族院では伯爵徳川達孝や男爵高木兼寛が文部大臣に質問を試み、衆議院では国民党代議士村松恒一郎が質問書を提出する[271]。質問書に「政府、既にその非を認めて教科書の改正に着手したる以上、過去一年間忠奸正邪の別を紊り、国民の思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるに対し、内閣はなぜ速やかに処決してその責任を明らかにせざるか」と問責する[272]

この間、大日本国体擁護団なるものが設立され主意書を発表する[273]。3月に国体擁護団は解散し、友声会を結成する。このほか弘道会や丁酉倫理会などがそれぞれ活動し、また新聞雑誌に議論が縦横に出るなどして非常に混乱する。学者も真面目にこの問題を論じるに至り、結局は南朝正統論に決し、責任者である文学博士喜田貞吉を休職処分にし、国定教科書も改訂することになる[274]。5月には史学会より論文集『南北朝正閏論』が出る。6月には文部省が南北朝を吉野朝に改めて教科書を改訂し、問題が決着する[275]。7月には友声会が論文集『正閏断案 国体之擁護』を公刊し、南朝正統を宣揚する。この後も学者たちは、続々と論説を発表し、各種団体を作って南朝正統説を唱える[276]

南北朝正閏論の主な論者として次の学者を挙げることができる。

国体に関連にさせて南北朝を正閏を論じたものとして例えば以下のものがある。いずれも南朝正統説である。

  • 万朝報は「南朝北朝正閏論」という記事を三回連載し、この問題は国体に関することが最も深く、もし皇位が二つあるとすれば国体は国体を為さない、などと論じる[280]
  • 井上哲次郎は「国体上より南朝の正統なるを論ず」という記事などにおいて次のように論じる。曰く、南北朝問題を解決するには国体の立場から見る必要がある。国体は主権の所在により定まる。日本では主権は常に皇位にあり、この国体は万世不易である。しかし過去において一度だけ変がある。すなわち南北朝時代に皇統が二系あったことである。これは史実であるが、国民道徳の立場からはこれを対立と見てはならない。日本では国民道徳の基礎は永遠不変である。なぜならば、国民道徳は国体より出て、国体の基礎は万世一系の皇統であり、この国体が永久不変である以上は国民道徳の基礎も動揺するわけがないからである[281]、と。
  • 姉崎正治は『南北朝問題と国体の大義』を著して、歴史家は社会名教上に及ぼす影響を考慮しなければならず、国体の大本が建国とともに定まっている以上、南北朝問題もこれに準拠して解決すべきであることを説く[275]
  • 松平康国は『正閏断案 国体之擁護』所載の論文「史学の趨勢と国体観」のおいて、歴史教育は国体観念の養成に最も重大に関係するから史家は慎重な用意を要すると論じる[282]

1911年(明治44年)8月、清水梁山という人物が『日本の国体と日蓮上人』を著す。内務省神社局 (1921) によれば同書は「日蓮の国体論なるものを捻出し、牽強附会、もって我が国体と日蓮宗とを結びつけんとせり。その論ずるところ奇怪、ほとんど説くに足らざるものなれど、かくしてまで我が国体と関連を保たんとするところに、当時の思潮を見るべきなり」という[283]

同年12月には高楠順次郎が『国民道徳の根底』を著し、日本の国体と先祖崇拝の関係を説く[283]

1912年(明治45年)、加藤玄智が『我建国思想の本義』を著し、祭政一致の肇国主義が日本の国体であると論じて曰く、日本は祭政一致の国柄であり、建国当初は祭政一致をもって成立した。他にも祭政一致の国は数多いが、どれも国民と神とが一定の契約によって保護・被保護の関係を結ぶものであって、日本のように実際の血縁関係にあるものではない。これが日本の国体が特殊である理由である。そして国民一般は、現在の天皇をその神の延長と見做し、いわゆる現人神と信奉する。これが国体の精華であり、万世に益々国家が栄える理由である、と[284]

同年、丸山正彦(丸山作楽の養子の国学者[285])が『大日本は神国也』を著して、日本は神聖が基を開き、神孫が継承し、ついに金甌無欠の国体を成立させたので、その神祇の威徳を崇敬することは国体を擁護する所以であると論じる[286]

大正デモクラシーと国体論編集

天皇機関説論争と初期民本主義編集

時代が明治から大正へ変わる時において、統治権の主体が天皇であるか国家であるかについて憲法学者の間で論争が起こり、国体に関わる事なので論壇で大問題となる。事の発端は美濃部達吉の『憲法講話』である[287]

美濃部達吉は、大正改元の1年前の1911年(明治44年)夏、文部省が開催した中等教員講習会において憲法の大意を講話し、その講演筆記に多少の修正増補を加え[288]、翌年3月付けで『憲法講話』と題して公刊する[289]。同書では国体について次のように説く。

  • 国体に言を借る変装的専制政治の主張を排斥するとして「専門の学者にして憲法の事を論ずる者の間にすらも、なお言を国体に藉りて、ひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、その絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下に、その実は専制政治を行わんとするの主張を聞くこと稀ならず。〔…〕憲法の根本的精神を明らかにし、一部の人の間に流布する変装的専制政治の主張を排することは、余の最も勉めたる所なりき」と述べる[290]
  • 君主国と民主国を統治権の主体で区別するのは全く誤りだと論じて「国家それ自身が統治権の主体たるもので、君主国も民主国もこの点においては同様であります。君主国と共和国との区別は、もっぱらこの統治権を行う機関が異なるによって生ずるの区別で、決して統治権の主体の如何によるの区別ではない。これを国体と言っても、または政体と言っても、名前は何らでも宜い訳でありますが、ただ国体という語は、従来一般に国家の成り立ちというほどの広い意味に用いられているのが通常で、教育勅語の中にも『これ我が国体の精華にして』云々という語がありますが、これは決して君主国体とかいうようなことを意味しているのでないことは勿論であります。それであるから国体という語を政体と同じ意味に使うことは、混難を惹き起すおそれがあって、むしろ避けた方が正しいであろうと思います。それはいずれにしても君主国と民主国とは統治権の主体の区別であるとするのは全くの誤りであります」という[291]
  • 天皇を統治権の主体とする説は国体に反すると論じて「君主が統治権の主体であるとするのは、かえって我が国体に反し、われわれの団体的自覚に反するの結果となるのであります。〔…〕法律上ある権利を有すというのは、その権利がその人の利益のために存していることを言い表わすのであって、〔…〕もし君主が統治権の主体であると解して、すなわち君主が御一身の利益のために統治権を保有したまうものとするならば、統治権は団体共同の目的のために存するものではなく、ただ君主御自身の目的のためにのみ存するものとなって、君主と国民とは全くその目的を異にするものとなり、したがって国家が一の団体であるとする思想と全く相容れないことになるのであります」という[292]
  • 大臣の輔弼により政治を行うことが日本の国体であると論じて「すべて国務について、君主は国務大臣の輔弼によらなければ大権を行わせらるることが無いために君主は無責任であるのであります。〔…〕我が古来の政体において、藤原氏の時代、武家政治の時代等は勿論、天皇御親政の時代におきましても、その御親政と言うのは、あえて天皇御自身にすべての政治を御専行あらせらるるというのではなく、常に輔弼の大臣が有って、その輔弼によって政治を行わせられたのである。これが実に我が国体の存する所で、これによって国体の尊厳が維持せらるるのであります」という[293]

帝国大学で美濃部達吉の同僚教授である上杉慎吉は、美濃部の天皇機関説を非難し、この説は天皇が統治権の主体であることを否認するものであり、日本の国体を破壊するものであると指摘する[294]。上杉慎吉は穂積八束の学説を継いで君主国体説に依拠するが、かつては国家法人説・天皇機関説を採っており、1905年(明治38年)の著書『帝国憲法』においてその説を述べていた[295]。同書は1910年(明治43年)4月にも版を重ねていたが[296]、1911年(明治44年)12月付けで公刊した『国民教育 帝国憲法講義』では、君主国体説・国家法人説を維持したまま天皇機関説を放棄する[297]。上杉の新説によれば、機関というのは他人の使用人であり他人の手足である。天皇の意思は最高・独立・絶対的・無制限であり、自己固有の性質によるものである。天皇は国家の機関ではない、という[298]。このように上杉が天皇機関説放棄を明らかにした3か月後に美濃部達吉が『憲法講話』を公刊したのであり、美濃部が同書で「変装的専制政治の主張」と批判したのは上杉の国体論であった。上杉の国体論は、天皇が主権者であることを日本の国体と解するものである[299]

上杉慎吉は雑誌『太陽』に論文「国体に関する異説」を載せて美濃部達吉に反撃する。上杉によれば、天皇を主権者とする通説に対し美濃部は異説を唱えており、「断じて異説を排斥するの確乎たる自信あり」という[300]。そして上杉は国体について次のように論じる。天皇は統治者であり被治者は臣民である。主権は独り天皇に属し、臣民はこれに服従する。主客の分義は確定して乱れることがない。臣民は統治せず天皇は服従せず。これが国体の解説である。これは穂積八束の説を粗述したものであり、誰もが認めるところでもあるのに、美濃部は独りこれを排斥する。美濃部は天皇を統治権の主体にあらずとし、国家すなわち人民全体の団体を統治権の主体とする。美濃部は我が国を民主国と見なすのである、と[301]

天皇機関説論争が進行する中、1912年(明治45年/大正元年)7月に明治天皇が崩御する。内務省神社局によれば、日本は国を挙げて悲哀に沈み、慈父を失ったかのように慟哭し、さらに皇室の尊厳に思いを馳せ、ここに皇室を中心とする国体観念に一段の刺激を与えたという[302]。大正時代に入ると、民衆運動が憲政擁護・閥族打破を掲げて桂内閣山本内閣を倒すために行われる。内務省警保局によれば、この民衆運動は最も顕著なデモクラシー的思想の発露であって、国民思想上の画期として観ることができるという[303]

明治天皇崩御の前後、井上哲次郎が『国民道徳概論』を著す。これは美濃部達吉『憲法講話』と同様に、前年(明治44年)夏に文部省が開催した中等教員講習会での講義を基にしている[304]。同書では、国体と国民道徳との関係について、日本の国体は万世一系の天皇を基礎として成立し、国法学では主権の所在をもって国体の性質を決めるが、日本の主権は常に皇位にあり、これが憲法制定とともに益々鞏固になったと述べる。また国体と神道との関係について、神道のうち国体に関係あるのは天壌無窮の神勅であり、この神勅が常に日本国民の精神を中心に引き締めると論じる[305]。同書では民主主義が君主国体を調和できることを説いて次のように述べる[304]

忠君ということに対して、民主というようなことが、段々世に唱道されてきているのであります。中には民本なんという字も使っているが、意味は同じことである。民主主義というようなことは余り大きな声では言わないけれども、何ぞの場合にはそれを言う。しかし民主主義も説きようによっては、君主主義と調和することが出来る。君主というものをチャンと立てて、そうしてこれに対して真心を尽くして仕えるということが人民一般のためになる。すなわち民主主義に合するわけであります。

井上哲次郎は翌年の『東亜之光』2月号でも、民主主義を民本という意味に解釈すれば問題ないとして、次のように述べる[306]

臣民にヨリ多くの権利を与えるようなことがないというと、いかなる椿事を惹き起こすやも分らぬのであります。民主ということは日本の従来の歴史から見て決して如字的に(文字通りに)了解して言うべきではないのみならず、憲法によってまた然りであるけれども、古来「民は惟れ邦の本なり、本固ければ、邦寧し」というように民本という意味に解釈するのは差し支えない。そうして昔より一層臣民の福利を重んずべきである。これは時勢の変化のためである。

天皇機関説論争でも民主主義は争点の一つになる。人民全体の団体を統治権の主体であるとする説について、上杉慎吉がこの説を民主主義として非難したのに対し、美濃部達吉は、この説を唱える者をすべて民主主義者であるかのように思わせるのは酷い中傷である、と弁じたという[301]。そして上杉は1913年(大正2年)『東亜乃光』5号月に「民主主義と民本主義」を発表し[307]、民本主義と民主主義の用語を厳格に区別して、民本主義は人民のために政治することを意味するが、民主主義は文字通り人民主権論を意味しており君主主義と調和できないと論じる。上杉慎吉によれば、デモクラシーという語は民主(人民主権)の意味にも民本(人民のための政治)の意味にも用いられ、西洋君主国でデモクラシーを称するのは民本の意味であるという。ただし、内務省警保局によれば、西洋でデモクラシーという語が上杉慎吉のいうように単に人民のための政治だけを意味することがあるかどうか不明であり、少なくとも西洋君主国で称するデモクラシーはその意味ではないという[308]。 上杉慎吉からの攻撃に対し美濃部達吉は様々に弁ずる。その中では1913年(大正2年)に『東亜之光』の3月号から5月号にかけて掲載した論文「所謂国体論に就いて」が最も詳しい。美濃部達吉は同論文で以下のように言う(大意)[309]

このごろ国体論、特に国体擁護ということが盛んに唱えられている。これは実は反立憲思想に他ならない。すなわち憲法が布かれたのに対し、保守的反動思想を抱く一部の人が国体論に名を借りて世を騒がしているのである。国体についての論争ではなく、立憲思想と反立憲思想の争いである。

一つの論点は、統治権の主体についての学理的な問題である。国法学上、国家は統治権を固有する団体であるとし、したがって統治権の主体は国家自身であるとする見解に対し、彼らは我が国体を破壊するものであるといい、我が国体は君主自身が統治権の主体でなければこれを維持できないという。もう一つの論点は実際の政治に関するものである。政党政治や議院内閣政治を我が国体の容れないところであるとし、特に最近の政治の動揺(大正政変)を国体の危機であるとする。実はこれらの問題は国体と関係がない。

我が国は万世一系の天皇これを統治する国体であり、これは動かしてはならない。問題は天皇が国家を統治するという事の解説に係ることであり、少しも国体に触れない。これを触れたとするのは中傷である。

世の国体論者の中には、日本の国家は外国の国家と全く異なるものと考え、日本の国家にのみ特別の見解を採ろうとする者もいるが、甚だしい誤りである。国家の本質の問題は国体論と無関係である。国体は一国特有であり、国家の本質は各国共通である。ゆえに憲法の明文に拘って国家の本質を解しようとするのも誤りである。

君主は統治権の主体であるという考えは、国家を君主の私有物とみなすものであり、我が国体に容れるものでない。君民が一心同体をなし、和衷協同(心を合わせ互いに協力する)、ともに国家の進運を輔翼し、その間に少しも障りがないことが、我が国体である。

大正初期の国体説編集

大正初期には、国体の主要問題である統治権の問題について議論が沸騰する。これは、天皇機関説論争が国体に関わる事として論壇で大問題となったからである[287]

1913年(大正2年)3月、朝鮮総督寺内正毅(後の首相)題字、加藤弘之序文、加藤房蔵著作により『国体擁護 日本憲政本論』が公刊される[310]。同書に曰く、憲法の擁護とか責任内閣とか憲政有終の美とかいうのは当世通俗の流行語であって、それはつまるところ政党の意向によって天皇の大政を左右しようとするものであり、明らかに国体の破壊であり、憲法違反である、と[311]

同年同月、川面凡児が『国体淵源 日本民族宇宙観』を著す。著者は以前から大日本世界教というものを唱え、日本の神道を基本として在来の宗教を総合統一するという全神教なるものを主張していた。同書によると、我が国体は神代より遺伝する宇宙観に淵源し、天御中主尊の旨を奉じて修身・斉家・治国・平天下を理想とする、という[312]

同年5月、石川岩吉が『国体要義』を著す[311]。著者は国学院大主事と皇典講究所幹事を兼ね、のち昭和に東宮傅育官、宮内省御用掛、国学院大学理事長兼学長に就任する[313]。同書では、国体という語に様々な用法があることを説き、要は、神代の初め、イザナギ・イザナミ両神が国土を修理固成して三貴子(天照大神・ツクヨミ・スサノオ)を得て、天照大神による天孫降臨・天壌無窮の神勅があって、国体の基礎が定まった、と論じる[311]

同年11月、筧克彦が『国家の研究』を著す[314]。著者は東京帝国大学法学部教授でありながら、古神道に基づく「神ながらの道」に帰依し、教室でかしわ手を打つなど奇矯な言動で知られるが、天皇機関説論争に関しては穂積八束らの天皇主権説を国体に反する権力主義として批判した[315]。『国家の研究』では以下のように説く(大意)[314]

皇国は、表現人である神聖な自主者・総攬者(天皇)を戴くことを離れずに成立し存在している一心同体である。この意味をもって君臣の分が定まり、古来動揺することがない。これが皇国の国体である。国体とは建国法により定まっている国家の体裁である。

国体は政体と厳格に区別しなくてはならない。政体とは、建国法より下の憲法などによって定まっている国家の体裁であり、これは社会各般の事情に応じて変遷するものである。今日の立憲制度は憲法により定まっている政体である。政体はますます変化発展する必要があり、国体がますます不動強固になるのは必然である。

皇国が精華である理由は、その国体が健全であるからである。なぜ健全であるかというと、国体は随神(かんながら)道、すなわち古神道の大理想・大信仰に基づくからである。

皇国の国体は、各人の真情に存する和魂(にぎたま)を主義として、荒魂(あらたま)を滅却することにある。皇国の国体は現世の秩序を尊重することを精神とする。皇国の国体はこの博大な和魂と、それが現れた仁忠と離れずに存在する本来の一心同体の発揚を旨とする。本来の一心同体を主体とすることをもって皇国の国柄となす。

同年5月に東郷吉太郎が『御国体及其淵源』を著し、君臣一体、忠愛一本の国体を詳説する[316]

1914年(大正3年)『東亜之光』8月号にFS氏なる人物が「所謂民本主義は無責任的国体」という文を載せる[317]

第一次世界大戦と国体編集

1914年(大正3年)夏、第一次世界大戦が勃発する。これは世界未曾有の大乱であり、その惨禍は思想界に動揺をもたらす。思想の動揺は大戦初期から徐々に始まり、大戦末期に近づくにつれて表面化する[318]。特に大戦末期のロシア革命と米国参戦により、過激思想と米国流のデモクラシーが日本に押し寄せる。ある者はこれを利用しようとし、ある者はこれを排除しようとし、思想界は未曽有の混乱を呈する。しかもこの間、自由思想も国民教育の普及と新聞雑誌の勢力増大により徐々に内発的になってゆく[303]

第一次世界大戦の勃発により欧米においてデモクラシー論が盛んになり、日本もその影響を受けてデモクラシーの論議が増えてゆく。明治末年に民本主義という言葉を造語したといわれる茅原華山は1915年(大正4年)1月『中央公論』誌に「新しき世界 将に生まれんとす」と題し、民衆の政治的・経済的勢力が増大する傾向を紹介する。同年4月『太陽』誌上に織田萬が「戦争とデモクラシーの消長」を説き、千賀鶴太郎が「民主主義と開戦」と題して第一次世界大戦とデモクラシーの関係を述べるなど、デモクラシーの議論が広がっていく[319]。同年10月には鈴木正吾が『新愛国心』を著す。同書に次のように言う[320]

  • 序文で曰く「日本に民本政治を実現せしめんとする努力の足跡である」と。
  • 「光栄なる謀反人」という節で曰く「我らは危険思想家・謀反人という言葉を、官僚思想に対する危険思想家、官僚政治に対する謀反人という意味に解釈して、躊躇なく承認する」と。
  • 「民本政治へ」という節で曰く「『人民のために人民が作った人民の政府』を実現することによって日本人の真の国民性が出て来る」と。
  • 「革命の行進曲」という章で曰く「鐘が鳴る、鐘が鳴る」、「偶像の断末魔」、「日本人の美しい偶像は時々刻々と破壊せられて行く」と。
  • 著者らが携わる雑誌『第三帝国』でいうところの第三帝国とは「政治的の意味における民本主義である」「デモクラシーが政治の上に現れた帝国である」といい、「そういう帝国を速やかに建設しなければならぬ」、「偶像を片端から壊していかなければならぬ」と主張する。

国体論者は、民本主義の中に日本の国体を害するものがあるかもしれないと恐れ、これに対抗してますます国体を宣明しようとする。ただし従来と異なる新しい国体論が登場したわけではない[318]。当時の主な国体論として、佐藤範雄『世界の大乱と吾帝国』[321]廣池千九郎『伊勢神宮と国体』[322]市村光恵『帝国憲法論』[323]大隈重信『我国体の精髄』[324]千家尊福『国家の祭祀』[325]深作安文『国民道徳要義』[326]などがある。

1916年(大正5年)1月、吉野作造が『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題して百頁を超える長大な論文を掲げて民本主義を鼓吹する[327]。吉野作造は民主主義と民本主義を区別する点で上杉慎吉と同じであるが、上杉の民本主義が単なる善政主義に過ぎないのに対して、吉野の民本主義は善政主義に民意権威主義を加え、民意権威主義の要求として参政権拡張と議院中心主義を主張する。吉野の民本主義論は大きな反響を呼び、上杉慎吉、室伏高信茅原華山植原悦二郎大山郁夫など、いわゆる民本主義論者の反対批評を受ける[328]。このほか津村秀松永井柳太郎安部磯雄小山東助などが民本主義を論じる。これらの中では室伏高信の説が異彩を放つ[329]

1916年(大正5年)7月、内務省神社局塚本清治が地方官会議の席上で「敬神思想の根本及び国体の関係」を説く[330]。その後『国学院雑誌』に国体に関する論説が数々載る。すなわち、同年11月号に植木直一郎が「国体の基本」と題して、日本の国体が特殊である所以を論じる[331]。翌6年1月号に白鳥庫吉が「国体と儒教」と題して、日本の国体と儒教が異同するところを述べ[332]、同月号に市村瓚次郎が「国体と忠孝」を載せる[333]河野省三は同年8月号に「我が国体」を載せ[334]、さらに翌月『国民道徳史論』を著し、その第4章に「我が国体」と題して一層具体的に説明する[335]

ロシア革命と米国参戦の影響編集

1917年(大正6年)春のロシア革命と米国参戦により、デモクラシーの波が日本に押し寄せる[303]。米国ではウィルソン大統領が第一次世界大戦に参戦する理由を「民主主義にとって世界を安全にするために」と演説する[336]。米国が民主主義のために戦うと称したことで日本でも民本主義論がますます盛んになる[337]。また、ロシア革命は世界を震撼させる。日本の新聞雑誌にも革命気分に乗じた記事論説が増える[337]

同年5月、寺内正毅内閣は内閣訓令第1号を発して曰く、欧州戦役の影響は全世界に波及し、その関係するところは単に政治上経済上にどどまらず思想上風教上にも及び、誠に恐るべきものがある。この時にあたって政務の職司にある者は、すべからく立国の大本に鑑み国体の尊崇すべきを思い、国情の異にする海外の事例に左右されずに帝国憲法の根義に考え、自重して適従するところを誤らず、紀律を守り一意に奉公し至誠を君国に尽くし、それによって国民の模範であるべし、と[338]。また、同月、地方官会議において内閣総理大臣が訓示して曰く、近時言論界の風潮は大変に放漫に流れ、好んで危険過激の言論をもてあそび、卑劣猥雑の記事を掲げて国民の思想を誘惑し、そして国体の本義を誤り皇室の尊厳を汚し純朴な風俗を壊す恐れがある。いやしくも国体を破壊し秩序を紊乱し人心を蠱惑するような記事論説は厳重に防ぐ道を講じなければならない。言論界は外国で勃発した政変(ロシア革命)を引援して我が国体に論及するものがある。地方当局者は適宜善導し安寧秩序を保持すべし、と[339]

同年9月寺内内閣は臨時教育会議官制を公布する[340]。これより4年前、教育勅語の趣旨を徹底して学制を改革することが十数年来の懸案であったため、貴族院の建議に基づき、文部大臣管下に教育調査会を始めて設けた。教育調査会は調査を進めたが懸案の解決に至らなかった[341]。1917年(大正6年)教育調査会を改め、内閣総理大臣直属に臨時教育会議を設け、組織を改造し調査に周到を期することになる。その官制は3月のロシア革命直前に立案され、翌月閣議決定されたが、その後6か月の時を経て、9月に上諭案を改めて再び閣議決定を取り直し、異例の上諭を付して公布される[342]。その上諭に曰く、朕、中外の情勢に照らし、国家の将来に考え、内閣に委員会を置き、教育に関する制度を審議させ、その振興を図らせる、と[340]。官制公布の翌月、臨時教育会議について寺内総理大臣が演示して曰く、我が帝国は万世一系の天皇を戴き、君臣の分は早くに定まり、国体の精華は万国に卓越する。ここに教育勅語の趣旨が存する。欧州大戦勃発以来、交戦各国は戦火の間に学制の革新を図り自強の策を講じている。我が帝国も教育を一層盛んにして国体の精華を宣揚し堅実の志操を涵養して自強の方策を確立すべし。もし欧米の学制を模倣することばかり急いで知らず知らずに国体の精華を傷つけることがあれば国家の憂患はこれより大きいことはない、と[341]。臨時教育会議の中心人物は総裁平田東助、副総裁久保田譲、貴族院議員小松原英太郎、同一木喜徳郎、同江木千之、そして文部大臣岡田良平である[343]。いずれも元老山県有朋の直参子分である[344]

1917年(大正6年)10月、内務省警保局長永田秀次郎が私人の資格で「民本主義に対する理解」を発表する。曰く、日本において発達した尊皇愛国の思想は、君民一体、民を本とする(民本)君主主義である。外国のデモクラシーは人民の人民のための人民による政治かもしれないが、これを日本に移し替えれば「民意を暢達せしむる政治」または「万機公論に決する政治」に当たる。前者は我が国建国以来の大精神であり、後者は五箇条の御誓文により我が国で行われている、と[345]

同月、吉野作造が『大学評論』に「民本主義と国体問題」と題して曰く、民本主義は日本の国体に反しないし、君臨すれども統治せずというような英国流も日本の国体に反しない、と[346]

同年11月から12月にかけて浮田和民は雑誌『太陽』に「欧州動乱と民主政治の新傾向」と題して曰く、一国の政治は君主国体でも共和国体でも当然に民本主義でなければならない。国家は国民全体の国家であって君主は国民のための君主である。民主政治とは必ずしも国体政体に関する憲法上の意義を有するものではない。徐々に選挙権を拡張すれば民主政治であるといえる。今後世界各国は国体政体の如何に関わらず人民多数が政治上の勢力であることは疑いない。将来の民主政治は男女協同になる傾向がある、と[347]

この間の同年11月(ロシア暦10月)ロシアで十月革命がおき、マルクス主義政権が世界で初めて誕生する[348]。ロシアは、過激思想に導かれて無秩序に陥り、ほとんど阿鼻叫喚の修羅場と化し、その皇室は悲惨な末路を遂げる[349]。日本でロシア革命の関係により発禁処分を受けたものは1917年中に7件あり、そのうち1件は日本の国体を呪い、ロシアに倣うべしと主張するものであった[350]。大阪朝日新聞はロシアの革命と過激派を推奨する記事を頻りに載せる。早稲田大学では学生が騒擾を起こし早稲田革命などの語を用い、まるでロシア革命を真似たかのような観を呈する。

同年12月尾崎行雄が『立憲勤王論』を著して曰く、皇室の尊栄と国民の幸栄により日本は世界無双である。その原因の一つは「君意民心の一致」にある。君意民心の一致のためには議会を設け民心を聴くとともに、声望ある人物を多数党の中から挙げて行政長官に任命する。政党内閣の主張の根拠はここにある、と。以上のように主張する同書は尾崎行雄の年来の主張の結晶であり、尾崎は今こそ適時であると見て同書を発行したといわれる。同書は世間の注目を惹き、後藤武夫らは反対論を著して、尾崎行雄の論は仮面勤王論であり、実は民主主義を鼓吹するものであって我が国体を誤るものであると批判する[351]

1918年(大正7年)1月、吉野作造が「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題する長大な論文を発表する。吉野作造はこの2年前に民本主義論を提唱してから民主主義論議の中心であったが、この時になって、これまで思想に多少の混乱があり発表の方法も宜しくなかったといって、この論文を『中央公論』誌に掲げたのである。この論文は2年前の論文を確かめるものにすぎないが、要は憲政の本義として参政権拡充主義である民本主義を主張することである。この論文は再び言論界で問題となり、これに対する批評を誘発する[352]。批評の主なものは、北一輝の弟で早稲田大学教授の北昤吉による「吉野博士の民本主義を評す」である。北昤吉の評によると、吉野作造の民本主義論は主権論に触れないようにしていることから、その論は矛盾・曖昧・不徹底・誤謬を含む。主権論を回避すること処女のごとく、参政権拡張主義をもって虎視眈々と天下を志すこと奸雄のごとし、という[353]

1918年(大正7年)2月、井上哲次郎が『増訂国民道徳概論』を出版する。これは1912年出版の『国民道徳概論』を増補改訂したものである。1912年版と1918年版の間の異同をみることで、この6年間で井上哲次郎の国体論がどう変化したかが分かる[354]。国体に関しては次の箇所が注目される。

  • 「第三章 国体と国民道徳」で日本の国体を他国と比較して議論している箇所において、1912年版では「露国などは少し日本と似たところがある。露国は一種特有なる政教一致の国体を成しておる」などと書いて、帝政ロシアの国体と日本の国体の類似性を示唆していたが、1918年版ではロシア革命の勃発を受けたためか、その箇所を全て削除する。その一方で孔子の子孫やローマ法王など代数が長い系譜との比較を増補する。のちの昭和期に日本の国体は隔絶性を高めていくが、第一次世界大戦期においては必ずしも隔絶性を強調しない形で議論されていたことがわかる[355]
  • 「第四章 神道と国体」で天壌無窮の観念を外国のそれと比較している箇所において、1912年版では外国における唯一の例外として始皇帝の例を挙げていたが、1918年版では周王朝ヘブライ人に天壌無窮の観念があった例を追加する。いずれにしても外国における天壌無窮の観念は現実に無窮でなかったので、日本の天壌無窮とは大きく異なると論じる。また神道と国体の関係について、1912年版では神道に真の威力があるとすればそれは国体に関する側であると述べ、神道は宗教として幼稚であると断定していたが、1918年版ではこうした口調をやや弱め、「これまでの神道は幼稚な感があります」、「宗教としては見劣りがする。もっとも今度神道を革新して大に発展せしめたならば、どうなるか分らぬけれども、今までの神道はそう偉いものではない」と書き改める。さらに神道を革新するために、淫祀邪教的な神道はむしろこれを撲滅すべしといって強圧的態度を示す[356]
  • 「第十章 忠孝一本と国民道徳」で民主主義・民本主義と君主主義の関係について論じる箇所において、1912年版では民主主義も民本主義も同じものであると理解し、民主主義は君主主義と調和できると断言していたが、1918年版では重要な改変を行い、民本主義は君主主義と調和できるが民主主義は君主主義と両立できないと主張する。井上哲次郎はこの6年間の大正デモクラシーの進展をみて、1912年版の説明では対応できないと考えたのである[357]

1918年(大正7年)3月、浮田和民が『太陽』誌に「国際上の民主主義と日本の国体」と題して、連合国の戦争目的である民主主義というのは国際上の民主主義であると述べ、これが日本の国体に反しない所以を説く。これは国際上の民主主義を実際的に説いた初めての論説である。以下のように言う[358](大意)。

今後の外交は秘密主義をやめ公開主義でいかなければならない。公開主義の外交はいわゆる民主主義の外交である。

国際上の民主主義というのは、決して各国の内政に干渉し、その国体や政体を変更しようとする主義ではない。英仏の主張は国際上の民族の自由や小国の独立を擁護することを主義とし、これを民主主義と称するのだから、たとえ同盟国中に万世一系の皇室を戴く日本があっても、英仏の主張に少しも矛盾しない。

連合諸国にいわゆる民主主義はドイツ至上主義に反対する立場である。むしろこれを自由主義または民族主義といったほうが穏当で正確であるが、自由主義といっても前代のように消極的なものではなく積極的に人民の意思を成就しようとするものだから民主主義といわなければ世論が満足しない。また民族主義というのは両刃の剣であり、強大民族が弱小民族を強いて屈服させ同化させる意味もあるので、いよいよ国際上に民主主義という語が流行するようになったわけである。

このように民主主義の意味を解すれば、国際上に民主主義の味方であることは決して日本の国体に悪影響を及ぼさない。ましてや民主主義を民本主義と解すれば、それは井上哲次郎の言うように、建国以来の日本の国是である。

浮田和民は翌月にも同誌に「参戦目的と出兵問題」を載せ、日本の参戦目的は国際上の独裁主義を破ることであり、国際上の民主主義のために戦うものにほかならないと説く。この月(1918年4月)は民本主義論が最も賑わった月であり、多くの論者が様々な論説を発表した[359]。その中で例えば稲毛詛風は『雄弁』誌同月号に「外来思想と国民生活」を載せ、民本主義の各種概念と国体の関係を次のように分類する[360]

  • 広義の民本主義
    • 人道的人格主義(普遍的人格主義)… 日本では極めて幼稚であったが是非必要なものである。
    • 個人的人格主義(特殊的人格主義)… 排他的になる弊害があるが、権利思想を承けるものであり、日本国民には必要なものである。
  • 狭義の民本主義(政治上の民本主義)
    • 極端なもの(民主主義)
      • 絶対的民主主義 … 全く外来的であり日本の国体に許容されない。
      • 相対的民主主義 … 皇室の存在を認めるものであるが、人民を主権者とし君主を機関視する点において日本の国体に許容されない。
    • 穏当なもの
      • 政治の目的に関するもの(一般国民福利)… 日本も古来この主義である。
      • 政治の運用方針に関するもの(国民の意向に従う)… 日本では十分に発達していないが、国体に許容されないものではない。ただし為政者が自発的に採用するものであって、民衆が主権者に強制するものであってはならない。

1918年(大正7年)6月、『太陽』誌が臨時増刊号「世界の再造」を刊行する。同号は世運に関する各種問題を集めたものであり、その中では美濃部達吉「近代政治の民主的傾向」が民主主義と国体の関係について論及している[361]。曰く、もし民主主義を法律上の意味に解して国民を法律上の最高統治権者とするならば、明らかに日本の国体と両立しない。これに対して、政治上の意味における民主主義は、少しも日本の国体に抵触するものではなく、むしろ更に国体の尊貴を発揮する所以である。この意味における民主主義、すなわち民政主義は明治維新以来の国是であって、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」というのは最も直截簡明に民政主義を表現したものである、と[362]

1918年(大正7年)8月、白虹事件が起こる[363]。大阪朝日新聞は前年以来ロシアの革命と過激派を称賛する論説を頻りに載せ、またシベリア出兵や米騒動に関して寺内正毅内閣を攻撃していた[363]。8月25日に「日本は今や最後の審判を受くべき時期にあらずや」という記事を載せる[364]。記事中に「白虹日を貫けり」という故事成語を引く[363]。この句は、白虹を武器、日を君主の象徴として、臣下の白刃が君主に危害を加える予兆とされる[365]。同紙は新聞紙法第41条安寧秩序紊乱により起訴され、社長は右翼から暴行を受ける[363]

1918年(大正7年)9月、非立憲的な寺内正毅内閣米騒動の責任をとって崩壊し、立憲政友会原敬内閣が誕生する[366]。同年11月、内務省警保局が『我国に於けるデモクラシーの思潮』を出版する[367]。同書は表紙に「秘」と記される秘密文書である[368]。同書本文は同局事務官安武直夫の私稿を別冊として付ける形式である[369]。警保局名義の序文に曰く、世界は今やデモクラシーを中心に回転している。我が国でも、これに関して論議しない新聞雑誌はない。ほとんど現代思潮の中心を為し、一般人心もその影響を著しく受ける。しかし論説の内容は様々であって、デモクラシー・民本主義の観念を補足することは容易でない。これらの論議や思潮の傾向を窺うための参考として本書を出版する、と[367]

臨時教育会議の周辺編集

寺内内閣倒壊後も審議を続けていた臨時教育会議は、1919年(大正8年)1月に「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」を内閣総理大臣原敬に提出する[370]。また、同月には皇典講究所とその管下の国学院大学が天皇の御沙汰により年々の補助金を賜わることになる[371]。その事情は以下のとおりである。

これより先、臨時教育会議では江木千之委員らがその改革案の趣旨を貫徹させるために国学を振起する必要を感じる。官立大学は国学振起を担う状況にないので、私学の中から探したところ、皇典講究所管下の国学院大学が適切であるということで話がまとまり、その拡張を図ることになる[372]

1918年(大正7年)5月、皇典講究所総裁竹田宮恒久王が令旨の形式をもって皇典講究所と国学院大学の拡張を命じる。令旨に曰く、世界大乱が民心に及ぼす影響が更に甚だしくなりつつある。この時にあたって皇典講究所と国学院大学は設立の趣旨に則り、国体の本義を明らかにし、道義の精神を徹底させ、教育の規模を拡張し、もって国家の柱石たる人材を養成し、斯道のために大成を期さなくてはならない、と。以後の拡張計画はこの令旨に基づくものとされる[373]。同年7月に皇典講究所国学院大学拡張委員会を設け、政府の臨時教育会議からは小松原英太郎が拡張委員長に、江木千之、早川千吉郎が拡張委員に就く[374]

同年10月に臨時教育会議では平沼騏一郎北条時敬・早川千吉郎の3委員が「人心の帰嚮統一に関する建議案」を総会に提出する[375]。提出者は3名とも平沼の主催する無窮会のメンバーである[376]。小松原英太郎と江木千之は賛成者に名を連ねる[375]。江木は実質的な提出者の一人でもあると自称している[377]

同年12月、皇典講究所の組織を改革して理事会を置き、小松原英太郎、江木千之、早川千吉郎らが理事に就く。小松原は皇典講究所長にも選ばれる。そして皇典講究所・国学院大学は拡張趣意書と拡張計画を発表して募金を呼び掛ける。趣意書に曰く「皇典講究所および国学院大学は、尊厳なる国体を講明し、堅実なる国民精神を発揮し、真摯なる方法によって典故文献を研究するを以って目的とする」。「物質的文明に偏したる弊毒は深く民心に浸潤し、国民道徳の頽廃はあまねく思想界の危機たらんとする」。「これ、本所(皇典講究所)ならびに本学(国学院大学)が、大いに内容を改善し、規模を拡張し、ますます本来の意義を発揮して、もって国民精神を振興せんと欲する所以なり」と。また、拡張計画では、第1期事業の「典故文献の講究」について「我が国が世界無比の国体を有すると同時にその典故文献の講究を要すべきもの枚挙にいとまあらず」、「同時に現代思潮もまた調査研究してこれが善導に資する」といい、「講演」について「動揺せる思潮を善導し、目下の危機を救う唯一の方法は、我が世界無比の国体を闡明し、国民の自覚を促すにあり、よってあまねく講演会を開催し、主義宣伝の捷径たらしめんとす」といい、第2期事業の「国法科設置」に「我が国体と民族とに適合する法律の研究は目下の急務なり」という[374]

この間、臨時教育会議の「人心の帰嚮統一に関する建議案」は、主査委員会で整理修正され、その題名を「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」と改め、総会で揉めたあげくに別途修正して可決され、1919年(大正8年)1月に原首相へ提出される[378]。建議に曰く、時局各般の影響により我が思想界の変調は予測できず、誠に憂慮に堪えない。時弊を救わんと欲すれば、国民思想の帰嚮を統一し、その適従するところを定める必要がある。そしてその帰嚮するところは、建国以降扶植培養された本邦固有の文化を基礎とし、時世の進展に伴いその発展大成を期することにある、と[370]。そしてその要目は以下のようにいう[370]

  • 国体の本義を明徴にして、これを中外に顕彰する。
  • わが国固有の醇風美俗を維持し、これに副わない法律制度を改正する。
  • 各国文化の長を採るとともに、いたずらにその模倣にとどまらず、独創的精神を振作する。
  • 建国の精神の正義大道により世界の大勢に処する。
  • 社会の協調を図り、一般国民の生活を安定させる。

このうち「国体の本義を明徴に」云々の要目は当初案の「敬神崇祖の念を普及せしむる」という項目を改めたものである[370]。その内容は建議附属の理由書に詳しい。理由書に次のようにいう[379](大意)。

我が国は建国の初めから君臣の義は確乎として定まる。歴代朝廷の仁恵恩沢が深厚であることは天地のように自然である。

海内一家、億兆人民が仲良く皇室を奉戴し、代々蓄積醸成して、ついに一団として情に厚い美俗を成した。これは他国に類例を見ないものであり、国家組織の善美の極致である。

この国体の本義を明徴にし、これを中外に顕彰するには、すべからくその根本精髄を明確詳細に理解させる必要がある。たとえば以下の事実などについて深く留意させるべきである。

  • 建国がひとえに君徳に由来する事実、
  • 古来王道を治国の大方針として今日に至る事実、
  • 神聖が忠孝をもって国を建て、武をとうとび、民命を重んじた事実、
  • 皇室と臣民の関係は自然の結合に成り、義は君臣にして情は父子のごとく、建国より今日まで一日も動揺しない事実、
  • われら臣民の先祖が赤誠をもって皇室に仕え、子々孫々その意を継承して今日に至り、もって忠孝一本の良俗を成せる事実、
  • 維新の初め、明治天皇が五箇条の御誓文を神明に誓い、皇室みずから進んで立憲政治の発端を啓いた事実、
  • 帝国憲法は、皇祖皇宗が臣民祖先の協力輔翼により肇造した帝国の基礎を固め、民生の慶福を増進させるために天皇の決断をもって統治の大法を継承したものである事実。

この本義を一般国民の徹底し、国体尊崇する念を鞏固確実にすることができれば、断じて思想変調のために大義を誤ること(革命)はない。この本義は海外にも発揮宣揚して世界の道徳文化に貢献しなければならない。

国体尊重の念を鞏固にするには、敬神崇祖(神々を敬い祖先を崇めること)の美風を維持し、一層その普及を図る必要がある。報本反始(祖先の恩に報いるという礼記の言葉)は東洋道徳の優秀な点である。特に敬神崇祖の風習は我が万世不変の国体と密接な関係がある。天祖(天照大神)の遺訓を歴代天皇が奉じて国家に君臨し、皇位の隆盛は天壌無窮である。これは国体の尊厳である所以であり、皇室から臣民に至るまで常に敬神崇祖をもって報本反始の義を大事にするのは当然の事に属する。

敬神崇祖の風習は我が国不滅の習俗である家族制度と密接な関係がある。皇室が神祇を敬い祭祀を重んじ、われら臣民も父祖の霊位を祀る。これこそ我が家族制度における慎終追遠民徳帰厚(父母を丁重に弔い祖先を大切にすれば民の徳も厚くなるという論語の言葉)の所以である。

敬神崇祖の風習を振興する方策としては、神社の荘厳を維持すること、祭祀の本旨を周知すること、神官神職の地位を向上させることが最も必要である。

国体の本義を明徴するに最も必要な事項は皇典研究のために適切な施策を行うことにある。帝国大学その他適切な学校に皇学講明の方針を確立し、建国の由来を明らかにし、国体の根基精髄を理解させるべきである。

これと同じ月(1919年1月)、臨時教育会議委員の小松原英太郎が皇典講究所長の立場で宮内省に出向き天皇の御沙汰書を拝受する。御沙汰書には「今般その所(皇典講究所)国学院大学規模拡張の趣を聞きこしめされ、思し召しをもって第1期分大正8年度(1919年度)以降10年間年々1万円まで御補助として下賜そうろう事」とされる[371]。 1919年(大正8年)2月、加藤玄智が『我が国体と神道』を著し、主に宗教の立場から見た神道・国体と外国のそれとの違いを論じる[380]。同書に次のようにいう[381](大意)。

余(加藤玄智)の専攻する宗教史・宗教学の方面より、我が国体の成立について新研究を試み、その淵源に溯り、そ大本を闡明しようと思う。

日本において天皇は現人神であり、シナ人のいわゆるまたは上帝、ユダヤ人のいわゆるヤーヴェの位置を占める。

万世一系の天皇を奉戴する特種の国体にあっては、天皇の即位式が西洋諸国の君主の戴冠式と全く趣が異なる。それは、神を代理する僧侶から王冠を戴くのではなく、天皇がみずから神霊を祭祀して即位を告祭し、その後に臣民に広く告示する、これが大嘗祭である。大嘗祭と戴冠式との差異を考えると、我が国体の性質が西洋諸国のそれと比べて隔絶していることが分かる。

1920年(大正9年)東京帝国大学文学部に神道講座が新設され、加藤玄智がその助教授に就く[382]

この間の1919年5月に国体論の論説集『国体論纂』が出る[383]。同年8月に物集高見が『国体新論』を著す[384]

内務省神社局『国体論史』編集

1922年(大正10年)1月、内務省神社局が『国体論史』を出版する[385]。緒言に次のようにいう[386](大意)。

近時、思想界の動揺に際して、危険思想の防圧や思想の善導ということが識者の間で盛んに唱道されている。なかでも我が国体の淵源を明らかにし、国体に関する理解を国民に徹底させることは最も緊要かつ有効な方法である。ここに本局(内務省神社局)は、嘱託の清原文学士(清原貞雄)をして、主に徳川時代以降の国体に関する所論を調査・編述させ、あわせて国体観の問題に開係ある諸種の事実を叙述させた。これによって国民思想の指導の参考資料とするものである。

そして巻末で余論と称して、国体論者に釘を刺す意見を次のように主張する[387](大意)。

我が国のことを何事も嘆美・誇張し、世界無比にして天下に卓絶するものであると説くのは、儀式的な祝辞として述べるにはいいが、我が国体の優秀さを国民に心から納得させるには全く無益であり、外国人から見れば誇大妄想狂にすぎない。

国民を心から納得させるには、科学知識に抵触しない理論の上に立たなければならない。神話は国民の理想・精神として尊重すべきだが、ただ尊重するものでしかない。神話を根拠として国体の尊厳を説くのは危い。神話と矛盾する進化論の知識を注入されている国民はこれを信じないからである。固陋な論者はこれを信じない者を賊子と指弾して攻撃する。そうすれば国民を黙らすのは容易かもしれないが、その心を奪うのは不可能である。

そもそも国体とは「一国が国家として存立する状態なり」と言える。この定義は広すぎるかもしれないが、こう言わなければ国体なる語の内容を言い尽くすことはできない。最狭義に統治権の主体の如何を言うことはもちろん、建国の事情によって定まるとか何とか言うのも、国体という語の内容の一部に過ぎず、我が国体の優秀の理由の一部に過ぎない。

我が国体の優秀とは、上下が仲良く和やかに、うち解け合って一体を成し、しかも整然とした秩序があり、国家として最も強固に存続する状態である。この国体の優秀は我が国の社会の成り立ちに由来する。すなわち、上に国民帰向の中心として有史以前より連綿と継続する皇室があり、下に皇室の支流である国民が皇室を奉戴して、有史以来上下の秩序を替えず、また幸いに外国の侮り(支配)を受ける事もなく、国家が一方向に発展することである。一言でいえば、一つの中心点(皇室)に向かって国民が寄り集まって堅固な国家を成したのである。

ある種の社会主義者の言うように、国内に上下の差別なく一切平等にして、国際間に紛争なく和気あいあいと長閑な世界を作るという理論は空想にすぎない。われらはあくまで国を強固にして、主権に対する絶対服従義務のうちに正当な自由の権利を保持し、国家に対する自己犠牲によって相互の幸福を享有しなければならない。このような国家を形成するには、上に命令者として広く国民を納得させる者の存在することが第一必要条件である。我が皇室は最もこの条件に適合し、しかも今(第1次世界大戦後)の世界において唯一の存在である。

悠久の昔、いわゆる天孫民族の一族が大八島(日本列島)に渡来して夷族を平らげた。神話・伝説によって察すれば、現皇室の祖先が始めからその首長として一族を率いたことは疑いない。宗家の家長を首長と戴く一族は、支族に支族を生じ、徐々に発展して国家を形づくり、都を九州から東に遷して大和を占拠し、ついに今日の大日本帝国の基礎を開いたのである。すなわち我が国は、多くの学者が認めるように一大総合家族というべきものであり、その始めから宗家の家長として全族に臨んだものは、現在の皇室の祖宗である。 全国民が心に不満を抱かずに服従できる首長として、これ以上の者はない。

もし死後の霊魂が不滅であるとすれば、その生前に自分を愛護してくれた父祖が、死んで霊魂になったとしても、その愛護を止めることはないと感じる。また自分が子孫の幸福を切実に願うことから類推しても、父祖の霊魂は必ず自分とその子孫を愛護すると感じる。ここに祖先祟拝の信仰が存在する所以がある。その父祖の霊魂に対する信念は自家の古い祖先に及び、さらに一族共通の祖先に及び、ついに大祖先たる皇祖にも及ぶ。これらを総括したものが、日本の神道の根本である。

ある人は先祖崇拝を報本反始の儀礼に過ぎないという。これは神道を宗教と区別する事を曲解したものであり、神道の内容には儀礼だけでなく信仰もある。もし信仰に欠ける儀礼であれば神道は無力である。国民は祖宗の霊がその子孫や国家人民を保護すると信じるからこそ神道に力がある。祖先の霊の保護の下に一家一族を形成し、さらにこれを総合した宗教、すなわち皇祖皇宗の霊の保護の下に我が国を形づくる。渾然一体の一大有機体であり、そこに万世不動の秩序がある。数千年にわたりこの事に馴らされた国民は、教えなくても父祖を敬愛し、また宗家すなわち皇室を尊奉する。前者を孝といい後者を忠という。学者はこれを忠孝一本と名づける。忠を尽せば孝に適うということである。そうして国家として最も自然的に最も鞏固に存在することが我が国体の特色である。

ある人は、この総合家族制を立国の根本義とすることを批難して、我が帝国が朝鮮・台湾・樺太を加えていることに支障を生ずると論じる。しかし、そはやむを得ないことである。根幹となる大和民族の国家を磐石にすれば、発展とともに段々と附属し来た民族には権威と恩恵をもって臨めばいい。もし新附の民族をも同一範型に容れられる立国根本義を求められないこともないが、総合家族ほど堅固になることは到底ありえない。

天孫降臨の神勅によって我が国体は定まったという人も多いが、それは間違いである。神勅の有無にかかわらず、我が国家の社会的成因が、万世一系の皇位を肯定し、その他を否認するのである。神勅はただその事実を表明したものに過ぎない。神代史は歴史と神話が半々のようなものである。神勅は神話として歴史的事実でないと考える者もいる。しかし、国体論においては神勅が事実であろうが神話であろうが根本問題ではない。神勅が史実であるにせよ、神話すなわち民族的理想の表明であるにせよ、社会的事実は変わらず、国体論は動かない。 帝国憲法も教育勅語も元来存在する事実を顕彰したものであり、これによって国体が定まったわけではない。

統治権の主体について国法学者の間にあれこれ議論がある。一方は統治権の主体を国家とする説(美濃部達吉らの国家主体説)、他方は統治権の主体を天皇とする説(上杉慎吉らの天皇主体説)である。前者(美濃部ら)は国家が国家全体の利益のために存在すると説き、後者(上杉ら)は国家が天皇個人の利益のために存在すると説く。後者(上杉ら)は前者(美濃部ら)の説をもって、天皇の神聖を侵し、国体の尊厳を危くするものであると非難する。しかし、我が国において敢えてこの事を宜明する必要があるのか。規定しなくても国民の大多数は忠魂をもって皇室に尽したいと願い、また歴代天皇は自身を顧みずに国民を憐む。これ我が国体の善美の表れである。しかし冷かな法理によって天皇を神聖視することを強制しようとすること(上杉らの天皇主体説)は、いわゆる贔負の引き倒しであって、皇室に対する国民の忠義の熱情に水をさし、歴代天皇の聖徳を無にするものである。

関東大震災前後編集

1921年(大正10年)5月に日本の共産主義者は上海に渡航して資金を獲得し、その資金をもって帰国して過激な主義運動を開始する。政府はこれを取り締まるため、1922年(大正11年)3月に過激社会運動取締法案を議会に提出する。この法案は、朝憲を紊乱する事項や社会の根本組織を不法に変革する事項について、これを宣伝等した者を罰するものである。これは貴族院で修正のうえ可決されるが、衆議院で審議未了に終わり、廃案になる[388]。日本共産党は同年末にロシアで行われたコミンテルン第4回大会で承認され、ここにコミンテルン日本支部として日本共産党が成立する[389]。通説によるとコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」は「君主制の廃止」を要求しており、この点が翌年3月の石神井臨時党大会で問題視され、綱領草案は審議未了に終わったという。一説には綱領草案に「君主制の廃止」の要求はなく、実際は「完全に民主的な政府」の要求であったとも指摘されている[390]

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災をきっかけに大正デモクラシーは曲がり角を迎える。震災前まで日本国内では大正デモクラシーの民衆運動が高まり、それに反発する右翼が台頭し、現職総理大臣原敬の暗殺や元老山県有朋の死去もあって、天皇制支配体制が揺らいでいた。また国際的にも、ワシントン体制で英米と対立し、中国人や朝鮮人の反日運動を被り、シベリア出兵に失敗するなど、孤立しつつあった。そこに関東大震災が突発する[391]

政府は大地震の翌2日に戒厳を布き、5日に内閣告諭を発して人々の朝鮮人迫害を戒め、7日治安維持令を発して人心の動揺を抑えるが、この間多数の朝鮮人が自警団らに殺傷される。また亀戸事件で社会主義者10人が警護兵に殺害され、16日には甘粕事件無政府主義者大杉栄とその家族が憲兵に殺害される。こうした事件に対する批判は少なく、むしろ軍隊と警察は治安維持と被災者救護を通じて民衆の間で威信を高め、内村鑑三や美濃部達吉ですら軍隊と戒厳に謝意を表わす。財界人の間では天譴論というものが唱えられる。天譴論とは、震災を国民への天罰として捉えるもので、それは国民が贅沢に馴れて勝手気ままに危険思想に染まりつつあることに対する天罰なのだという。政府は11月に天皇の名で国民精神作興ニ関スル詔書を出し、軽佻詭激(軽はずみな過激行為)を戒めるが、この詔書に署名した摂政皇太子裕仁親王は翌月虎ノ門事件で暗殺未遂に遭う。犯人難波大助は主義者であったため、主義者に対する嫌悪感が民衆の間に広まる[391]

治安維持法制定編集

関東大震災の6日後に発せられた治安維持令は、生命身体財産に危害を及ぼす犯罪を扇動した者、安寧秩序を紊乱する目的で治安を害する事項を流布した者、人心を惑乱する目的で流言浮説をなした者を処罰するものである。これは緊急勅令であったが、治安維持に相当の効果があるということで同年12月に帝国議会の承諾を得て恒久化する。治安維持令は1925年治安維持法制定時に廃止されるまで効力を持つ[392]

この間、共産主義その他の急進運動は著しく発展し、ロシア第3インターナショナル(コミンテルン)と通謀して資金提供その他の援助を受け、過激運動を計画し実行しようとする。これに加えて日露間に修好の基本条約が締結されたため、国交が徐々に回復して両国間の往来が頻繁になれば過激運動家が各種の機会を得ることも予想された。日本政府は、従来の法規制は抜け穴が多く罰則も軽いので取り締まりの効果が薄いという理由で治安維持法案を帝国議会に提出する[393]。治安維持法案は第1条に「国体もしくは政体を変革し、または私有財產制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者は、ハ十年以下の懲役または禁錮に処す」「前項の未遂罪はこれを罰す」というものであり、国体とともに政体を挙げていたが、衆議院は政体のことを条文に掲げる必要がないとして「もしくは政体」の文字を削除して法案を可決する[392]。治安維持法公布後に内務省警保局が官報に載せた各条義解によると、国体とその変革というのは次のことを意味する(大意)[394]

国体とは誰が主権者であるかの問題である。我が帝国は万世一系の天皇に統治される君主国体である。国体は歴史にもとづく国民の確信によって定まるものであり、成典(帝国憲法)によって定まるものではない。成典に国体に関する規定があるのは、ただ主権者がみずから既定の国体を宣言したに過ぎない。憲法第1条に大日本帝国は万世一系の天皇これを統治すると定め、第4条に天皇は国の元首にして統治権の総攬者であることを明らかにした。したがって、天皇以外が統治権の総攬者であることはなく、天皇に統治されない国土はなく、天皇以外が天皇に淵源しないで統治権を分担することはない。 治安維持法第1条にいわゆる国体の変革とは、国民の確信である国体の本質に変更を加えることをいうのである。君主国体を変えて共和国体やソビエト組織にしたり、一切の権力を無視して国家の存在を否認したり、要するに統治権の総攬者である天皇の絶対性を変更する色彩のあるものは国体の変革である。そして暴動を要件としない点で内乱罪の予備や陰謀と異なるのである。

井上哲次郎不敬著書事件編集

1925年(大正14年)9月、井上哲次郎が『我が国体と国民道徳』を著す。同書に曰く、我が国体は既に分かり切ったものと思い込んで実はよく知らない者が多く、精神面を度外視して表面だけ考えたり、英国や旧ドイツ帝国や旧ロシア帝国などと同じように考えたり、民主思想と絶対に相容れないものと考えたりする、その誤謬は実に様々である、と述べ、国体は民主思想と矛盾するものではないと語る[395]。井上哲次郎はこれまで万世一系の血統を重視していたが、同書ではポイントを移して王道(仁政)を重視し、民本主義や人道主義が国体に根差すと主張する[396]。これは、大正天皇の病気療養に国体論の不安を見た井上哲次郎が、国体論を再編して国体の正統性について説得的な論拠を提供しようと試みたものと評される[397]

井上哲次郎の『我が国体と国民道徳』は公刊後1年経った1926年(大正15年)9月ごろから頭山満ら国家主義者に猛烈に批判され、翌年1月に発禁処分を受ける[395]。当時の批判は「彼(井上哲次郎)は全く時代思潮の追随者で、彼自身の見識も意見も有るものではない」、「震災前に出版していた国民道徳概論には国体破壊の恐れある言論はほとんどない」のに、『我が国体と国民道徳』については「なるほどこれは怪しからぬ。かれ井上氏は何時の間にこんな物を書くほどに、それも国民道徳と銘を打って、全国の児童の頭に植えつけるような書物に書くほどに悪化したろうか」というものであった[398]。具体的には、三種の神器のうち鏡と剣は模造品であるなどと記した部分があり、これが不敬であるとされたこと[395]、またそれよりむしろドイツ・オーストリア・ロシアの君主国体が倒れたことについて「このように国体というものがガラリガラリと一変して行くのを引き続いて見た」などという記述が問題視されたことが挙げられる[399]。この不敬事件は、井上哲次郎の国体論再編の試みが伝統的国体論から攻撃を受けて挫折したものと評される[400]。井上哲次郎は公職を辞めざるを得なくなり、以後著述に専念する[401]

昭和戦前期の国体論編集

昭和になると、国体論は人々の思想を規制するうえで猛威をふるう。昭和の直前の1925年に制定された治安維持法は国体の変革を目的とした結社を禁止した。その3年後の緊急勅令は国体変革に関する最高刑を死刑に引き上げた。こうした動きの背景には、国体を天皇制として相対化するマルクス主義に対する恐怖と敵意があった[5]。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決で「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」とされた[402]

1927年、新たに結成された立憲民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である立憲政友会鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」と批判した[403]。逆に、政友会内閣が締結した不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。

1928年(昭和3年)井上哲次郎が『新修国民道徳概論』を出版する。これは10年前の『増訂国民道徳概論』のうち第9章について、その表題を「家族制度と社会主義」から「社会改造の諸主義と国民道徳」に改め、その分量を10頁から73頁に増やしたものである。これにより、社会主義、共産主義、過激主義、無政府主義およびサンジカリズム等のような社会改造の諸主義の欠陥弱点を指摘し、第一次大戦後の社会問題と思想問題の論点を補ったという[404]。同章の増補に「万世一系、王道主義の国体にあっては、階級的矛盾など歴史的に存在したことがない」などとあることから、井上哲次郎は明治末期の国体論に後退し、それにより社会改造主義を切り捨てる立場に回帰したと指摘される。一方、民本主義が君主主義と調和しうるという議論を維持しており、王道主義的改造を完全に放棄したわけではないともいわれる。前年の『我が国体と国民道徳』発禁処分は井上哲次郎の社会的影響力を削いだといわれるが、『新修国民道徳概論』は十数度増刷されて昭和戦中期の社会に受け入れられおり、時勢の変化に対応した国民道徳概論の改訂作業は成功したといえる[405]

文部省は国民精神文化研究所を「我が国体、国民精神の原理を闡明にし、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」[406]ために設置する。

1931年満州事変以降に日本が戦時体制に進み始めると、国体の観念は国民の精神を動員するためのキーワードとして日本社会に溢れだす。まず美濃部達吉の天皇機関説が生け贄として標的になる。天皇機関説問題は国体明徴問題ともいわれ、これが1935年に貴族院で政治問題化すると、政党も倒閣のためこの問題を利用する。その勢いに押された政府は、二度の国体明徴声明により、天皇機関説を神聖なる国体に反するものと見なし、これを厳に切って捨てると声明した[6]

1937年文部省は『国体の本義』を刊行し、全国の学校・教化団体・官庁に配布する。同書は、日本の建国に国体の大本が輝いており、日本は一大家族国家であり、臣民は自発的に天皇に絶対服従すべきこと等を強調する[7]

国体論は日本の敗戦の際にも威力を示す。日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、国体の護持をめぐって時間をかけ、それを唯一の条件とすることを自分たちで了解し、ようやく降伏する[8]終戦詔書に次のように言う。

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

戦後の国体を巡る議論編集

戦後は民主主義の呼び声とともに国体の神話性が公然と議論される。これにより国体という語は過去の言葉になる[8]

帝国議会の憲法改正審議において、国体について吉田茂首相は次のように答弁する。曰く「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります。」と。また、金森徳次郎憲法担当国務大臣の次のように答弁する。曰く「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」と[407]

1946年(昭和21年)5月19日食糧メーデーにおいて、日本共産党員の松島松太郎は「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカードを掲げて不敬罪に問われている(プラカード事件)。

2004年に、日本共産党は綱領を改定した。その中では天皇制について「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という方針をうちだしている。

国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌・君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」と答弁する[408]

2000年(平成12年)5月15日、内閣総理大臣森喜朗が「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」と発言し、問題になる。いわゆる神の国発言である。

出典編集

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  295. ^ 君主国体説は上杉 (1905) 117頁に「大日本帝国は唯一の自然人たる天皇を以て統治権の総攬者と為す純粋なる君主国体たり」とあり、国家法人説は同26頁に「国家は一定の土地に固着して統治権力を固有する共同団体であって法律上人格を有するものなり」、天皇機関説は同120-121頁に「天皇を国家の機関と見るの学理は、理論上実験上疑いなきところとして予(上杉)が常に主張するところたり」とある。
  296. ^ 上杉慎吉『帝国憲法』第3版奥付
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  406. ^ 学生思想問題調査委員会答申、1932年5月。
  407. ^ 1946年(昭和21年)6月25日衆議院本会議答弁。
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参考文献編集

その他文献情報編集

概説編集

  • 「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」衆議院憲法調査会事務局(平成15年5月)[3]
  • 「日本における「議院内閣制」のデザイン」斉藤憲司(国立国会図書館調査及び立法考査局 レファレンス2010.11)[4]

思想史編集

  • 「朱子学と近代日本の形成-東亜朱子学の同調と異趣」子安宣邦(台湾東亜文明研究学刊第3巻第1期2006.6)[5]
  • 「日本政治思想」米原謙(MINERVA政治学叢書 ミネルヴァ書房)※第3章 明治維新と「国体」の創造[6][7][8]
  • 「近代日本と国体観念」岡崎正道(岩手大学人文社会科学部、人間・文化・社会 1997.3.28)[9][10]

論考編集

  • 「主権論をめぐる「日本的系譜」の可能性について」田中悟(国際協力論集18 2010.06)[11][12]
  • 「野口米次郎の一九二〇年代後期の指向性」掘まどか(総研大文化科学研究 第4号2008.3.31)[13]
  • 「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」長谷川亮一(千葉大学・博士号授与論文 2006年)[14]
  • 「十五年戦争下の朝鮮・台湾における教員「研修」」中村顕一郎(創価大学文系大学院教育学紀要 平成16年)[15]※院生論文
  • 「太平洋戦争における「終戦」の過程」コンペル・ラドミール(横浜国際経済法学第18巻第3号2010.3)[16]
  • 「司馬遼太郎の夏目漱石観」高橋誠一郎(初出:異文化交流第4号 東海大学外国語教育センター)[17]
  • 「過去との断絶と連続--1945年以降のドイツと日本における過去との取り組み」マンフレート・ヘットリング/ティノ・シェルツ 川喜田敦子 訳(ヨーロッパ研究6 2007年3月 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター)[18][19]
  • 「内務官僚の「中正なる国家」構想」崔鐘吉(筑波大学博士授与論文)※論文要旨のみ[20][21]
  • 「近代日本の国家と家族に関する一考察」加藤千香子(横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学 1996.11.31)[22][23]

関連項目編集