矢倉囲い

将棋の囲いの一つ
相矢倉から転送)
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矢倉囲い(金矢倉)

矢倉囲い(やぐらがこい)は、将棋において主に居飛車#相居飛車戦法・相振り飛車戦法で使われる囲い。単に矢倉(やぐら、: Yagura[1], Fortress[2])と呼ばれることが多く、美濃囲い穴熊囲いと並んで代表的な囲いの1つ。矢倉は相掛かり、角換わり、横歩取りと並ぶ相居飛車の四大戦法のひとつ。居飛車で互いに矢倉囲いに組んで戦う戦型のことを相矢倉(あいやぐら)と言い、これも矢倉と略されることが多い。

概要編集

非常に古い戦型で、江戸時代には同じ音の「櫓」の文字を当てており、分家六代目大橋宗英が著した『将棋歩式』などの定跡書でも「先手櫓」「櫓崩し」などと表記していたが、昭和後期には「矢倉」の表記が一般的となった。ただ、升田幸三山口瞳など、昭和前期に将棋を修行した人の著書では「ヤグラ」というカタカナ表記も登場していた。近年ではほとんどが「矢倉」である。語源については、近年では、加藤治郎が「お城の富士見矢倉、物見矢倉に形が似ている所からついたもの」と述べているように、日本の城郭建築のに形が似ていることから名前が付いたと記述する文献が見られるようになった。しかし、享保年間に出た『近代将棋考鑑』には『この駒立やぐらというなり。いにしえ大阪北濱やぐら屋の何がしという人好みてこの駒立を指し申すによつてしかという』と記載されており、「矢倉」の語源の有力な説となっている。

この戦型のオーソドックスさと歴史、格調について米長邦雄は「矢倉は将棋の純文学だ」と述べ、将棋の世界では広まった言葉になっている[* 1][3]。矢倉定跡は矢倉を志向する者たちの想いゆえに、とてつもなく深い考察がなされる。一方で「矢倉は難しい」という声が非常に多く、確かに矢倉は難しくまた類型が多く、覚えることも多いとされており、難しい矢倉であるからこそこれほど多様化し、重厚な姿、美しい手順隆盛の理由はそれだけ多くの将棋指しを魅了してきたからとされている。その結果、どんどん進化して、そして深化し数えきれないほどの形が生まれて指されて時に消えて、そして復活し、91手定跡という驚愕の手順まで誕生している。戦後から平成の時代には大きなシェアを占める、超人気戦法でもある。それだけに金矢倉、銀矢倉など多くの形が生まれた。

通常矢倉囲いとは、(相居飛車の先手番の場合)を8八に、左を7八、右金を6七に、左を7七に移動させたものをいう。相手の飛車先を▲7七銀と受け、そこに▲6七金右と1枚加わった形で、上部に厚いのが特徴である。通常の矢倉を金矢倉(きんやぐら)ということもある。の初期位置に玉が来るため、角をうまく移動させることが必要になる。相矢倉では6八の位置に角が来ることが多いが、4六や5七、2六の位置に来ることもある。後手は7三に持ってくる場合が多い。上部からの攻撃には強い反面、7八の金を守っている駒が玉1枚だけであり、横からの攻撃にはそれほど強くないという特徴がある。ただし6八には金銀3枚の利きが集中しているので、八段の守りが薄いというわけではない。端は金銀の利きが無いためやや弱く、例えば桂香飛角を利かせて一気に攻め立てる雀刺しという戦法がある。

相振り飛車でも用いられるが、その場合右側に矢倉囲いを作ることになる。

2010年代半ばに、矢倉に対する強力な対策としての居角左美濃急戦が登場したことにより、2017年にはプロ棋士の増田康宏が「矢倉は終わりました」と発言する[4]など、長らく将棋界の本流であった矢倉に巨大な変革が見られた。矢倉に代わって雁木角換わりなどほかの戦法が大きく発展する一方で、先手後手双方が玉将を囲いに入れる「相矢倉」の形は脇システムを除き、プロ将棋の最前線ではほぼ見られなくなった。土居矢倉のように戦前に現れた形が再評価されたり、米長流急戦矢倉が先手番の戦法として復権するなどの流れを経て、2020年代初頭には矢倉は相掛かりの一類型ともいえる戦いへと変貌を遂げている[5]

歴史編集

江戸時代の矢倉編集

現存の棋譜では1618年元和4年)8月11日 (旧暦)本因坊算砂大橋宗桂の対局が初出である。算砂が矢倉囲いを用いた[6]

△ 宗桂 持駒 なし
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▲ 算砂 持駒 なし
図は▲7七銀まで
図1-1 矢倉第一号局・算砂対宗桂
△ 算砂 持駒 なし
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▲ 宗古 持駒 なし
図は▲7七銀まで
図1-2 矢倉右香落戦・宗古対算砂
△ 宗古 持駒 歩
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▲ 宗安 持駒 歩
図は▲3七桂まで
図1-3 矢倉角落戦・宗安対宗古

当時は振飛車全盛期であり、雁木 (二枚銀) が最有力戦法として流行した。草創期は、図1-1から片矢倉にしている。これを見る限り、形のうえでは現代と変わってはいないが、将棋の考え方という点では大きな開きがある。ただし振飛車の早囲い (6二銀) も居飛車側の舟囲いも、すでにこのときに考案されていることが知れる。ともあれ矢倉将棋はこの宗桂・算砂戦に端を発し、さまざまな創造と修正の努力を繰り返しつつ、大きな発展をとげて、現代に生きつづけるのである。

ところで、後に駒落戦でも矢倉を採用されている。図1-2は右香車落(元和七年)で、先手引き角は旧型の雁木である。他、図1-3はの角落戦(対局年は不許であるが、角落矢倉の第一号局、1600年代前半とされる)が知られる。

△ 宗看 持駒 なし
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▲ 是安 持駒 なし
図は▲7九角まで
図1-4 矢倉左香落ち戦・是安対宗看
△ 宗銀 持駒 なし
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▲ 印達 持駒 なし
図は▲7八玉まで
図1-5 矢倉対二枚銀戦・印達対宗銀
△ 宗桂 持駒 なし
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▲ 看寿 持駒 なし
図は▲6六歩まで
図1-6 矢倉対二枚銀戦・看寿対宗桂

図1-4は、左香車落 (対局年は不詳、1600年代前半とされる) で、それぞれに矢倉の形が微妙な違いを見せている。

江戸期に死闘を演じた若き英才、大橋宗銀伊藤印達は57番勝負を繰り広げるが、1709年(宝永6年)の57番勝負の第6局が図1-5で(前後逆)ある。10代同士の一戦。当時は雁木と矢倉の対決が最大のテーマであった。先手は7八銀から7七銀としている。矢倉への第一歩で、当時では珍しい着想であった。後手は3二金と立ち、6二銀から5三銀のコースで雁木を目指す。当時に会っては新の矢倉と旧の雁木の対決で、雁木から矢倉の優秀性が認識された注目すべき対戦であったといえる。

次の代は7世名人・伊藤宗看が出現し、さらに新しい実験を試みた。矢倉は形が重く守勢という風潮の中で矢倉を指す将棋師への再評価があったとみられる。宗看時代は5七銀型が常識になっていたが、実戦を重ねて4八銀型に修正されていったのもこの時代である。さらに当時は厚みを重視し、飛車先を切らせる指し方をしていたが、この観念に果敢に挑んでいたのが宗看であり、弟の贈名人である看寿であった。図1-6は1753年(宝暦3年)の御城将棋の対戦で、いつでも飛車先を切る権利をもつことで作戦勝ちになるとみられるが、当時飛車先を切って1歩を手にする利をさほど重視していないことがわかる。

△ 印寿 持駒 なし
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▲ 宗順 持駒 歩
図は▲4五歩まで
図1-7 矢倉四手角戦・宗順対印寿
△ 宗看 持駒 なし
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▲ 宗桂 持駒 歩
図は△5二飛まで
図1-8 矢倉中飛車・宗桂対宗看
△ 孫兵衛 持駒 なし
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▲ 英節 持駒 なし
図は▲2四歩まで
図1-9 飛車先交換・栄節対孫兵衛

図1-7は1774年(宝永3年)の御城将棋、後手の印寿とはのちの八世名人・九代大橋宗桂で、図では6五歩の位取りが出現し、力強いさし方が見られるが、この将棋が四手角の原型とみられ、仕掛けたほうが不利になるとされた。現代の四手角も、千日手になる可能性が強くなって姿を消してゆく。ただし、この四手角が背負う千日手の宿命を克服しようとして、新しい現代流の矢倉戦法が開発されていくわけである。

図1-8は、1811年(文化八年)の御城将棋で、後手は江戸時代で最後の将棋所を勤めた十世名人・六代伊藤宗看である。当時、先代の九世名人・大橋宗英が新しい相掛り戦の研究に取り組み、いっぺんに振飛車がすたれるとともに、矢倉将棋も勝率という点で芳しからず、次代の大橋柳雪と天野宗歩の新研究を待つ情勢であった。矢倉の欠陥は、銀が左右に分かれて中央が手薄になるという認識であった。その矢倉の欠点を衝いたのが、図1-8で見る宗看の5二飛の手であった。「矢倉に中飛車」が、矢倉の隆盛をはばむ決め手となったのである。

その後、大橋柳雪が宗英の新感覚を承け継ぎ、それを天野宗歩に伝えていった。

図1-9は、1817年(文化14年)8月、英節時代の柳雪が深野孫兵衛と戦った矢倉戦で、2四歩と大胆に飛車先を切って出たとこである。いまでは当然の手でもあるが、当時は飛車先を切る利を重視しなかった。柳雪は早くもそこに着目して、2四歩と切って出たものである。

将棋の戦いで一歩得の「実利」を作戦としてはっきり認識したのは柳雪であった。

それでもこの時期柳雪以外は顧みず、これを有利と決定づけるのは、次代の棋士、天野宗歩の出現からであった。7八から7七銀及び7九角の着想が新しく、それによって2四歩が可能となった。柳雪が矢倉近代将棋の先駆である。

近代将棋の父と仰がれる宗歩は、傑出した新感覚の持ち主で、著書『精選定跡』は、特に宗歩の将棋理論の集大成といえるが、その先駆として宗英と柳雪があり、二人に先達に学んだことは実戦譜に如実に示されている。

△ 宇兵衛 持駒 角
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▲ 留次郎 持駒 角歩二
図は▲6八金まで
図1-10 天野矢倉の出現・宗歩対宇兵衛
△ 富次郎 持駒 なし
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▲ 蘭雪 持駒 なし
図は△7四歩まで
図1-11 同型矢倉の出現・蘭雪対宗歩
△ 木村 持駒 なし
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▲ 土居 持駒 なし
図は▲4五歩まで
図1-12 土居矢倉の出現・土居対木村

当時、草創期から棋界の主流をなした振り飛車が廃れ、居飛車将棋が主潮をなす土壌のなかで、主役を演じたのは宗歩であり、前代の7八から7七銀を修正し、7八銀-7七角-6八角の手法を用いて飛車先を切って出る。他の将棋師が飛車先を切らずに戦う中で宗歩のみが飛車先を切ったのは、既成概念を取り払って1歩得の利を有利とする大局観からである。

さらに宗歩の名前を不朽にさせるのは、天野矢倉の創造である。図1-10は1837年(天保4年)正月28日、深野宇兵衛との一番。6八に金を構えて矢倉を完成させ、ここから2筋と4筋の歩を切って2歩を持ち、実利とともに序盤の一手の大事さを示す。こうした序盤感覚の鋭さも、近代将棋を開拓した宗歩の功績である。著書『精選定跡』は実戦がそのまま定跡となり、さらに実戦の実験によって修正を加えてより完璧なものとしていった。

角交換の矢倉も宗歩が初めて試みた手で、ほかに、四手角にも新機軸を出した。

図1-11は、1845年(弘化二年)10月20日、市川蘭雪との対戦。相矢倉となり、当然ながら同型をたどってゆく。いまもそうであるが、同型のばあい、どこで後手が手を変えるかが興味の焦点になっている。図1-11から先手は、1六歩と突き、後手の宗歩は同型を避けて、7三銀と変化した。先手の1六歩の手を緩手にしようという着想で、これで一挙に攻めの主導権をにぎろうとした。序盤作戦の鋭さと からさがみうけられる。

昭和初期の矢倉編集

宗歩がすばらしい矢倉の新感覚をみせたのに後続が絶え、幕末から明治・大正期までは相掛かりの全盛時代となった。すでに振り飛車は影をひそめ、つづいて矢倉将棋も全くの低迷期に入った。幕末から明治までは将棋界の衰逸期であったし、当時の人びとは江戸時代の模倣として、相掛り戦一本で戦いつづけている。戦法には時代の世相の反映もあり、流行ということもあるが、この長い期間の矢倉の低迷は、そのまま棋界の衰徴を物語るものであった。ただ将棋師は、いつかは低迷する暗雲をはらいのけて、未知の世界を切り拓いていく。それが、天才児の出現によって大正の盛時を作り上げていったのである。

江戸時代に指されていたころは矢倉はあくまで居飛車戦で行う囲いの一つであって相掛かりからの流れで矢倉に組むケースがほとんどであった。そうしてまれに指されていた矢倉は、明治から戦中まで、ほとんど姿を消していた。

昭和期に入り、土居市太郎名誉名人が、天野矢倉を改良して土居矢倉を創始した。

1940年(昭和十五年)6月25・26・27日の第二期名人戦第三局は、対局場の名を冠して「定山渓の名局」と喧伝されるが、序盤は当時流行の相掛りコースからスタートし、先番の土居は角交換に出て相矢倉模様に局面を導いた。図1-12は天野矢倉の踏襲であり、同時に土居矢倉への創造である。厚みとさばきを特徴とし、敗者の木村義雄十四世名人は「敗局の名局」と讃えるが、名局かどうかよりも、矢倉将棋の復活に寄与したという点で、大きく評価される一局である。

升田・大山時代の矢倉編集

その後、戦後を迎えた当初は、なお戦前派の相掛り戦が主流をなしていた。そのなかで、1947年(昭和二十二年)5月30日、第六期名人戦第六局、塚田正夫八段(当時)と木村義雄名人の対戦は、先手の塚田が角交換に出て天野矢倉に局面を導いた。この木村・塚田戦は相掛り全盛時代から、矢倉将棋復活への貴重な実験であり、新時代への脱皮となる。

矢倉がひとつの囲いから戦法へと昇華するのは戦後で、特に大山康晴が1950年代は「矢倉の大山」とうたわれ、1952年に木村義雄を倒して名人位を奪取した一番の銀矢倉が特に知られる。このころの矢倉戦は5筋を付き合うスタイルでなく、当時の相掛かり戦の延長で、先手▲4六歩、後手△6四歩とどちらかが4筋(6筋)を突く、あるいは4筋と6筋を付き合うパターンであった。

△ 大山 なし
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▲ 塚田 歩
図は△3三角まで
図1-13 相矢倉・塚田対大山戦
△ 木村 なし
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▲ 大山 なし
図は▲5七銀
図1-14 相矢倉・大山対木村戦
△ 升田 なし
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▲ 大山 なし
図は△4四歩
図1-15 相矢倉・升田対大山戦1

矢倉の流行の始まりは、タイトル戦での相次ぐ採用である。図1-13は、1948年(昭和二十三年)四月十日、第七期名人戦第二局、塚田正夫名人と大山康晴八段(いずれも当時)の対戦。先手は矢倉のコースをとり、後手は、3二金。面白い手で、普通は、4二銀から3三銀とするところ。

これで、3二金から4一玉ー3三角として、従来の四手角の手順を三手角に修正し、序盤の一手の「からさ」を追求しようとした。

図1-14は、1950年(昭和二十五年)六月十二、十三日の第九期名人戦第六局の木村・大山戦。矢倉は持久戦という常識を打破し、右銀を前線に繰り出して急戦矢倉が出現した。

昭和二十年の後半に至って、升田幸三九段と大山康晴十五世名人とで相矢倉の戦いがはじまり、数多く現代矢倉に連なる定跡を創作した。そして勝負のたびに新手が出て、その修正の繰り返しによって多種多様な矢倉が実験されるなかで、矢倉戦法は飛躍的に進歩するとともに、「升田の攻勢」「大山の守勢」というパターンも定着した。

△ 升田 なし
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▲ 大山 なし
図は▲2六銀まで
図1-16 相矢倉・升田対大山戦2
△ 升田 なし
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▲ 大山 なし
図は△6四歩まで
図1-17 相矢倉・升田対大山戦3
△ 大山 なし
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▲ 升田 なし
図は△3五歩まで
図1-18 相矢倉・升田対大山戦4

主だったものだけを列記すると、次の通り。

新旧対抗。5筋を突くのが新で、6筋を突くのが旧とし、この戦型で戦いつづけた。

  • 右銀を繰り出す急戦矢倉。
  • 持久戦の相矢倉。
  • ソデ飛車矢倉。図1-15は、1953年(昭和二十八年)四月二十七・二十八日の第十二期名人戦第二局で、後手がソデ飛車に変化した。
  • 矢倉中飛車の流れ。左銀を中央に繰り出す変化。
  • 棒銀型。図1-16は、1954年(昭和二十九年)四月十五,十六日の第十三期名人戦第一局。先手の升田が、2六銀と棒銀に出た。
  • 矢倉中飛車。図1-17は、1954年(昭和二十九年)五月十、十一日の第十三期名人戦第三局。
  • 銀矢倉。図1-18は、1954年(昭和二十九年)六月七,八日の第十三期名人戦第五局。後手の大山が腰掛け銀から組む銀矢倉を愛用するようになった。

升田,大山戦のあと、さらに矢倉が多様化して個性的な形が続出した。

図1-19は、1955年(昭和三十年)四月十九,二十日の第十四期名人戦第二局の大山・高島一岐代八段戦。大山が、1七香の手を見せ、後手は高島流に組み上げて戦った。その後の展開は、先手は2筋交換、後手は菊水矢倉から△7五歩の展開になる。

△ 高島 なし
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▲ 大山 なし
図は▲7九玉まで
図1-19 相矢倉・大山対高島戦
△ 大山 なし
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▲ 花村 なし
図は▲3五歩まで
図1-20 相矢倉・花村対大山戦
△ 升田 歩
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▲ 大山 なし
図は△6四角まで
図1-21 相矢倉・大山対升田戦

図1-20は、1956年(昭和三十一年)五月十五.十六日の第十五期名人戦第二局の大山・花村元司八段戦。3七銀型から3五歩と仕掛ける手が出現した。

その後、1956年11月5日 九段戦升田幸三 vs. 灘蓮照など、升田幸三九段や 灘蓮照九段も指し出し、灘は▲3八飛(△7二飛)と飛車を一間寄って、▲3七銀から3五歩という戦術を愛用していく。

図1-21は、1957年(昭和三十二年)五月七、八日の第十六期名人戦第一局の升田・大山戦。先手の大山が四手角を採用した。金・銀三枚で玉を囲い、あとの飛・角・銀・桂で攻めるという、四手角の理想である。

△ 二上 なし
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▲ 大山 歩
図は△6三金まで
図1-22 矢倉対雁木・大山対二上戦
△ 中原 なし
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▲ 大内 なし
図は△6二玉まで
図1-23 相矢倉・大内対中原戦
△ 後手持駒 なし
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▲ 先手持駒 なし
図は△3一角まで
図1-24 矢倉対矢倉崩し戦

この他に矢倉中飛車や雁木、右玉戦法などもみられる。

図1-22は、1962年(昭和三十七年)五月二十四・二十五日の第二十一期名人戦第四局の大山・二上戦。先手の矢倉中飛車に対して、後手は雁木から流れ矢倉に組み変えている。

図1-23は、1962年(昭和三十七年)十二月七日の予備クラス(奨励会)の中原誠三段と大内延介三段戦。これは先輩たちが指しているのを、若い三段らが真似をしたもの。普通に玉を左(2二玉)に囲うと玉頭から攻められるので、玉を戦線から遠ざけようという指し方である。

端攻めの出現編集

図1-24は、1839年(天保九年)刊『将棊自在』に見える居角左美濃矢倉崩し一歩止めの定跡。「矢倉には端歩を突くな」が常識になっていた時代で、以下2五桂からの矢倉崩しの定跡を示している。この一歩止めが後に再評価されて、画期的な「スズメ刺し」や4六銀戦法など、2五桂戦術の出現へとなったとされている。

△ 木村 なし
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▲ 塚田 なし
図1-25 相矢倉・塚田対木村戦
△ 後手持駒 なし
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▲ 先手持駒 なし
図1-26 相矢倉・先手雀刺し戦1
△ 後手持駒 なし
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▲ 先手持駒 なし
図1-27 相矢倉・先手雀刺し戦2

図1-25は、昭和二十六年の第六期名人戦第一局の塚田・木村戦で、このときの先手の1七香-1八飛の構えが、スズメ刺しの源流ではないかと思われている。

これに工夫を加えて、昭和二十八年ごろに升田幸三がスズメ刺しの原型3七桂型、を打ち出し、にわかに流行した。

図1-26は、現代スズメ刺しの基本図。これから、いろいろな変化をたどってゆく。

  • 2二玉の変化
  • 2二銀の変化
  • 2四銀の変化
  • 1六歩、1四歩型

図1-26以下、2四銀、2五歩、1三銀という指し方があらわれた。

そして、3七桂型・3七銀型という区分が現れる。

図1-27は、昭和四十年六月四日の第二十期順位戦の有吉道夫八段対加藤一二三八段戦。1六歩・1四歩型から2五歩型で、この頃から「端のからみ」が重要なテーマになってきた。本局の先手は、3七桂とはねたが、のちに、3七銀型が見られるようになってくる。

歴史的に見れば、3七桂型が先で、3七銀型(2六銀とせず1五歩)があとになっている。

△ 加藤 なし
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▲ 有吉 なし
図は▲1八飛まで
図1-28 相矢倉・有吉対加藤戦
△ 山田 なし
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▲ 米長 なし
図は△7三角まで
図1-29 相矢倉・米長対山田戦
△ 中原 なし
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▲ 米長 なし
図は△5三角まで
図1-30 相矢倉・米長対中原戦

図1-28は、昭和四十三年十一月二十九日の第一期六社戦(のち将棋連盟杯戦)の米長邦雄六段対山田道美八段戦で、2四銀-2五歩、1三銀と後手が端攻めを受けて戦った。

スズメ刺しや棒銀の出現から、1970年代から矢倉はさらに端の絡みが重要なテーマとなる。 ①両方(1・9筋)を受ける型。 ②両方を詰める(1五歩・9五歩)型。 ③片方だけ詰め(1五歩)て、もう一方を受ける型。

これまで、同型矢倉や四枚矢倉は千日手になる危険が多く、矢倉戦法の進歩に大きな障害となっていたが、それを打開する方策として「端のからみ」をテーマとする新しい戦法が出現し、旧称の「矢倉」から「矢倉戦法」に生まれ変わることとなっていく。

図1-29は、昭和五十四年四月十一・十二日の第三十七期名人戦第三局の米長邦雄九段対中原誠名人戦。ここで後手の対応としては、 ①2二玉、②2二銀、③2四銀があり、②の2二銀が多く見られるようになっていく。

また2一銀ー3三桂ー2一玉と、玉を一つさがった形で受ける指し方もあらわれてきた。

図1-30は、昭和五十四年十月十二・十三日の第二十期王位戦第七局の米長・中原戦。 2二銀型の多様化の一例として、受けの5三角の手が指されるようになった。

図1-31は、1980年12月19日 第30期王将戦リーグ先手米長邦雄 vs. 後手勝浦修 戦。対雀刺しには棒銀が有効とされ、後手が棒銀に構える。これに対し、先手の▲2六歩止め+1五歩-2九飛型が出現。先手は4六角-6五歩型さらに右銀を4八~5七~6六に構えると、後手は飛車を6二に展開し、△6四歩から角交換を狙う戦術。

図1-32は、1981年6月30日の十段戦。先手米長邦雄 vs. 後手中原誠 戦。後手の7五歩交換から、先手が▲2六歩止め+1五歩-2九飛型から5九飛が出現する。

この▲2六歩止めと、端を詰めてからの駒の中央への進出は、右銀を使う、別の攻め筋をも生み出す。雀刺しの攻撃手段は飛角桂香の攻めで、銀が攻撃に参加していないというのが欠点としてあった。

図1-33は、1966年12月21日の王将戦予選、先手山田道美 vs. 後手加藤一二三 戦。 先手の山田が飛車先を2六に保留のまま右銀を3七から4六に、飛車を5八に展開している。

△ 勝浦 なし
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▲ 米長 なし
図は▲6六銀まで
図1-31 相矢倉・米長対勝浦戦
△ 中原 なし
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▲ 米長 なし
図は▲5九飛まで
図1-32 相矢倉・米長対中原戦
△ 加藤 歩
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▲ 山田 なし
図は△5三金まで
図1-33 相矢倉・山田対加藤戦

図1-34は、1969年1月17日 王位戦、先手加藤一二三 vs. 後手中原誠 戦。先手加藤の2六歩型のままの3七銀に後手中原が2四銀と早めに上がり、先手の3五歩をけん制。加藤は図の局面から右銀も繰り替えて雀刺しに移行する。

図1-35は、1976年6月22日 王位戦、先手米長邦雄 vs. 後手加藤一二三 戦。後手加藤2四銀の構えに、先手の米長が2六歩止め3七銀型雀刺しから、4六銀~3八飛~3五歩と仕掛けている。但しその後は銀交換から後手が右玉、先手が居飛車穴熊に移行している。

1979年1月16日 王将戦、先手加藤一二三 vs. 後手中原誠 戦では、先手の加藤が3七銀-3八飛から3五歩とする灘流を採用し、後手中原が2六歩止めを逆用して2四歩から3四銀として2三銀型を狙い、図1-36となる。後手の同歩に2四歩と歩を垂らす狙い。

△ 中原 なし
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▲ 加藤 なし
図は△2二玉まで
図1-34 相矢倉・加藤対中原戦
△ 加藤 なし
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▲ 米長 なし
図は▲3八飛まで
図1-35 相矢倉・米長対加藤戦
△ 中原 歩3
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▲ 加藤 歩
図は▲2四歩まで
図1-35 相矢倉・加藤対中原戦

こうして80年代初頭に開発された先手矢倉の飛車先一歩止めと右銀参加が、矢倉4六銀戦法へと発展して行った。

さらにこのころから飛車先不突矢倉が出現。源流として、図1-37は、1979年9月21日 順位戦。先手田中寅彦 vs. 後手松浦隆一 戦。先手の田中が飛車先不突矢倉を採用。2七歩のままで3七銀から3五歩を試みた。

図1-38は、1979年12月13日 若獅子戦。先手田中寅彦 vs. 後手武者野勝巳 戦。先手の田中が飛車先不突矢倉から3五歩交換と、1七香から雀刺しにする指し方を披露した。このあと右銀が2六から1四に進出する。類似の戦術は1977年12月7日の十段戦、先手中原誠 vs. 後手加藤一二三 戦で先手の中原が2六歩止め3七銀型の雀刺しから3五歩の1歩交換と3六銀型の陣形を組んでから端攻めを敢行している。

図1-39は、1982年4月26・27日の第四十期名人戦第2局の中原・加藤戦で、先手の名人中原が飛車先不突の作戦を採用した。作戦は当時流行した雀刺しであるが、展開は角交換から中央での展開に持ち込んでいる。

△ 松浦 歩
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▲ 田中 歩
図は▲4八飛まで
図1-37 飛車先不突矢倉戦1
△ 武者野 歩
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▲ 田中 歩
図は▲1八飛まで
図1-38 飛車先不突矢倉戦2
△ 加藤 なし
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▲ 中原 なし
図は△8四銀まで
図1-39 飛車先不突矢倉戦3

矢倉囲いの変形編集

銀矢倉編集

金矢倉の6七金が銀に置き換わったものを銀矢倉(ぎんやぐら、英:Silver Fortress)と言う。5六の腰掛け銀を6七に引いて組むことが多い。7六の地点への攻めに強いことと、7八の金に6七の銀が利いていることが特徴である。また、右銀を6七まで持ってくるため、手数がかかるのが欠点である。7八と6八の両方に金を持ってきて4枚で囲う場合もある。

通常の場合、5六に銀を保留して▲6七銀は少し先送るものである。右辺の状態により▲6七金右なら金矢倉になる。急戦矢倉の右四間飛車から、持久戦にシフトした場合に現れることが多い。

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銀矢倉
持ち駒 角
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持ち駒 角
Watanabe vs Inaba 2019
持ち駒 角
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持ち駒 角
兜矢倉~腰掛銀

2019年4月の渡辺明稲葉陽の対局は銀矢倉の例を示している。序盤は、角換わり相腰掛銀、▲2五歩-4八金-2九飛型で両者は、角換わり対局の典型で、最初に兜囲いを築く。この後、稲葉(後手)は、先手が攻撃を開始するのを待つという2010年代に人気のある戦術を使用し、待機する動きをみぜる。これにより、渡辺(先手)は、6筋歩兵(6六歩)を突き、腰掛した銀を5六から6七に移動し、王を囲いに移動することで、兜型の囲いを銀矢倉に発展させ(7九金、8八玉)、中央の歩兵を突く(▲5六歩)手をみせた[7][8]

角換わり6六歩型腰掛銀の陣でも、先手5六に腰掛けた右銀を6七に移動して、銀矢倉に発展させることができる。

片矢倉編集

金矢倉の7八の金を6八に変え、玉を7八に持ってくる形を片矢倉(かたやぐら、半矢倉)という。天野宗歩が愛用していたことから別名天野矢倉とも言われる[9]。囲う為の手数が1手少なくて済むほか、角の打ち込みに強い利点がある。 通常矢倉囲いのように8八と7八の位置ではなく、それぞれ7八と6八に玉と金を配置している。この配置は、角換わりの後に相手の角が6九または5九(図で強調表示)に打たれるのを防ぐためのものである。そして6八に金を配備することで7七の銀、6七の金と6八の金が連携するようになる[10][11]。金矢倉では、7八の金は玉の駒によってしか利いておらず、6九に打たれた角行を排除攻撃することができないのである。

一方で欠点としては、7九(後手なら3一)が開いているので、一段目に敵の飛車や竜王がいる際に、金や飛車を7九(3一)から打たれる心配がある、8七(後手なら2三)に利いている駒が玉のみなので、8筋(2筋)が弱くなっていることが挙げられる。

盤上に自分の角がいると組みにくく、また相手の角打ちを牽制している意味があるため角換わりでよく用いられるほか、角交換の起こりやすい脇システムと併用すると相性が良いことが藤井猛により発見され、この組み合わせを藤井流早囲いと呼んでいる[9]

片矢倉の6七金を5八金のままとした形(7八玉、7七銀、6八金、6七歩、5八金)は、コンピュータ将棋Bonanza Ver. 2 (2006年)が多用していたことから、ボナンザ囲いと呼ばれる[12]

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片矢倉
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ボナンザ囲い

土居矢倉編集

土居矢倉(Doi yagura )は、7七銀、7八玉に加え、6七に左金を上げる囲い。右金を6七に上げ、左金を右に使うという組み方もある。
右側の金を自由に使えるため、バランスのよい陣形に構えることができる。角打ちに強い。

土居市太郎が得意としたことから土居矢倉と呼ばれる。土居矢倉は昭和初期に見られた矢倉の変種である[13]

組み方は通常の矢倉の駒組から▲6七金右ではなく▲6七金左と上がり、図の基本形の囲いを目指す。一方で図の応用形のほうは1980年代に猛威を振るった先手飛車先不突矢倉式の雀刺しに対して、中原誠十六世名人が用いていた構えで、角の利きを端から動かさずに玉の位置を移動することができた。

土居矢倉は温故知新ともいうべき戦法で、近年でもコンピュータ将棋の隆盛後、令和の時代になって新型雁木のように玉の堅さよりも角交換を前提としたバランス重視の陣形が見直されたためで、流行することとなった。

この変種は金矢倉ほど強力ではない。ただしこれは対局者の陣内をより広くカバーする。対戦相手の持駒に角がある場合に重要になる可能性がある(これは、左の金が7八ではなく6八でより中央にある不完全な矢倉と、右の金が5八または6八である角換わり対局で使用される兜矢倉に使用されるのと同じ理由である。)

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土居矢倉基本形
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土居矢倉応用形

1940年の第2期名人戦七番勝負第3局(千日手指し直し)で、先手挑戦者の土居市太郎八段が後手木村義雄名人の総矢倉にこの土居矢倉で対抗したのが知られる。通常の矢倉に比べ硬さでは劣っても、駒の連結が良い。名人戦に現れた将棋は角換わりの出だしから行き着いた局面であるが、この陣形は角の打ち込みにも強い。実戦は▲4五歩~▲4六角から、激戦が続いたものの先手の土居が勝利を収めている。 大住囲いから土居矢倉に発展することもある[14]

この囲いは、2018年の叡王戦で高見泰地によって使用され採用が目立つようになった[15]

総矢倉編集

金矢倉に右銀を5七の位置に加えたものを総矢倉(そうやぐら、英:Complete Fortress)という。金銀4枚で囲っているため堅い。(通称四枚矢倉だが、昔の本では三枚矢倉ということもある)角を4六に動かした場合に組まれることが多い。後手側で見られることが多い。

総矢倉の相矢倉となった場合には双方とも攻め手を欠き、互いに飛車を動かすだけの千日手となるのが通説であった。米長邦雄谷川浩司らが千日手打開の手を模索し、実戦でも試みている。

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総矢倉

千日手の定跡は、両側がツークツワンクのような状況にあると感じられるため、繰り返しでの引き分けにつながることがよくある[16][17]。したがって、戦略的に先後を切り替えるために意図的に使用することができる(繰り返し手順で引き分けの結果により、新たに対局がすぐに再戦されるが、棋士の手番が逆になる)。それでも、繰り返しドローさせずに千日手矢倉で開戦することは可能ではある。

持駒 -
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持駒 -
Fujiuchi vs Fujikawa 1951[18]

左図や、1976年5月13日の米長邦雄と中原誠の名人戦はその一例[19]

矢倉穴熊編集

金矢倉から9八香~9九玉と組んだ形を矢倉穴熊という。先手4六銀・3七桂型からこの囲いに組む戦法がよく見られた。ここから8八金、または8八銀~7七金、と発展させることもある。7七金型は俗に「完全穴熊」とも呼ばれている。

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矢倉穴熊
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発展形の一例

へこみ矢倉編集

金の形が低いへこみ矢倉(凹み矢倉 Dented Fortress あるいは Hollow Fortress)は、相矢倉戦ではあまり出てこないが、急戦矢倉(後手番)、角換わり角交換振り飛車には出てくる。

角換わりでは序盤、囲いが兜櫓囲いから発展するのは、へこみ矢倉であることが多い。これは通常、序盤戦の相腰掛銀の陣で、後手によって使用される。

6筋(または後手の場合は4筋)の歩兵も突いて、この囲いを金矢倉に発展させることができる。

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へこみ矢倉

兜矢倉編集

兜矢倉(かぶとやぐら、カブト櫓、英:Helmet Fortress)または単に兜囲いは角換わり、特に指してが攻撃を開始するまで多くの防御的発展がある腰掛銀の陣対局で使用される変種囲いである。 急戦時に一時的に用いたり、角換わり戦で用いる[20]

玉は8八の囲いへ完全に移動できるが、多くの場合7九または6八(またはまれに6九)と、囲いの外に残ることもある。

右の金は通常6七までは移動せず5八のままなので、対戦相手の角打ちに対してより広く防御できる。さらに広いエリアを守るために、適切な金が4八に配置されている陣もある。

特に腰掛銀の陣では、端歩を▲9六歩と突くことがよくある。

右金を二段目に残しておいて、6筋の歩兵を▲6六歩と突かないことがよくある。角換わり腰掛け銀の陣ではときたま6六を突いて、対戦相手からの6五攻撃から歩兵を取れるようにすることもある。ただし、一部のサブ陣では、6六歩型が有利であるとは見なされない場合がある。

兜矢倉は、右の金を6八に移動することで、へこみ矢倉に発展させることができる。

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兜矢倉

右矢倉編集

右矢倉(みぎやぐら)は相振り飛車でのみ用いられる。玉を右側に囲うのでその名がついた。

矢倉の構造は上からの攻撃に強いので、右矢倉は相振り飛車の位置で役立つとされる。

右矢倉のデメリットは、構築されるのに多くの手数が必要なことである(美濃囲いのような他の振り飛車の囲いと比較して)。

美濃囲いが右矢倉に変身することもある。

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右矢倉

四角矢倉編集

四角矢倉(しかくやぐら)は、金銀4枚で四角の形を形成した矢倉囲い。

四角矢倉は、4つすべての一般的な配置が2x2の升目になっている。金四角矢倉と銀四角矢倉の2つのサブバリアントがある。

銀四角矢倉は、銀矢倉(7七と6七の銀、6八の金)、ビッグフォーキャッスル(四枚穴熊、これも同じ四角で銀・銀と金・金の配置)と構造的に似ている。この囲いはとても強固。第一に角行は金矢倉で可能な(黄色の枡)にかけ打ちすることができない。第二に、5七地点は6八金で保護されている。第三に、7六と6六の升目は弱点となっていない。ただし、左端から攻撃には危険である。

他の関連するフォームは、金四角矢倉である。これは同じく2x24の一般的な升目の形状を使用し、金矢倉と同じように6七の升目に典型的な金が配置されるが、升目を完成させるために銀が6八に置かれる。

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四角矢倉(金)
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四角矢倉(銀)

豆腐矢倉編集

豆腐矢倉(とうふやぐら)は、本来の囲いではなく、相手の攻撃によって金矢倉が変形したものである。したがって、このフォームは不十分な準備の下で発生する。豆腐という名称は、この囲いが柔らかい絹ごし豆腐のように簡単に崩壊することの比喩である。

豆腐矢倉は、対戦相手が先手の矢倉で、7七の銀を後手から7三から8五に桂馬跳ねで攻撃すると、金矢倉から発展する。銀と桂馬の交換は先手にとって有利ではない。このため、銀は8六に移動することで攻撃を免れるが、残念ながらこれにより、対戦相手の角が攻撃している対角線を閉じている1つの駒が動くことになる。2番目の攻撃的な動きは△6五歩である。先手は6六の歩兵が後手の角によってにらまれているため、この6筋歩兵を▲6五同歩で取ることはできない。しかし他に適切手段はない。先手が歩兵を取らない場合は、△6六歩で先手6七の右金を攻撃する。▲7七金と左に動かすと、金は後手の桂馬攻撃の位置に置かれる。▲5七金と右に移動すると、先手の金と角の両方の働きを抑えることになると同時に先手の玉に王手がかかる。6七地点を脅かす△6六歩の攻撃は、先手が王手を回避しても、どちらかの金が取れるようになる。▲7九玉と玉を対角線から外しても、依然として不利な状態が続く。△6六歩で再び先手矢倉の金を攻撃、後手の角行による先手の左矢倉へのにらみ、同様の攻撃駒で6七地点が脅かされる[21]

このタイプの攻撃は、急戦矢倉攻撃戦略、左美濃右四間飛車、および雁木囲いなどで発生する。

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豆腐矢倉
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豆腐矢倉化した先手陣

6八銀型 金矢倉編集

左の銀は通常、金矢倉の7七の升目にある。ただし、対戦相手の左美濃+右四間飛車戦略で攻撃されると、7七の銀将は8五または6五に跳ねする対戦相手の桂馬によって攻撃される。銀と桂馬の交換はしばしば不利であるため、銀は攻撃から安全な6八に留まり、5七のマスも防御する(桂馬が6五の場合)。このフォームでは敵左の桂馬を7七で捕獲/再捕獲するだけでなく、敵の角行攻撃の可能性のある長い対角線を閉じることもできる[21]

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6八銀型 Variant

菊水矢倉編集

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菊水矢倉

玉が8九に、左銀が8八にいる菊水矢倉(きくすいやぐら)またはしゃがみ矢倉は、昭和20年代に高島一岐代が考案し、出身地の大阪府中河内八尾市の偉人・楠木正成家紋「菊水」にちなんで命名した。

矢内理絵子が愛用していることから矢内矢倉とも呼ぶ。天野高志鈴木英春も愛用している。

棒銀雀刺しなどの上部からの攻撃に強いが、横からの攻めに弱いのが難点である。

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図は▲1四歩まで
雀刺し対菊水矢倉

図のように、先手▲1五歩型雀刺しに対して後手陣が菊水に組んで対応する指し方は実戦例が多くある。このあと後手陣から△2四歩から2三銀と銀冠にする手段があるので、▲1四歩から仕掛けるが、以下は△同歩▲同香に△1二歩とすると、継続手段がない。実戦では▲3五歩△同歩▲3六歩とし、以下△8五桂▲3五角(▲8六銀は△6五歩から4四角)△4二玉(△4四金は▲1二香成△同香▲同飛成から▲2一金)▲5三角成△同玉▲6五歩△同歩▲8六歩△7七桂成▲同桂△6二玉▲4四歩△同金▲6五桂△6四銀打と進んだが、先手の攻めをうまくかわせている事がわかる。

その他編集

右銀が6六の位置までくると菱矢倉(ひしやぐら)となる。"菱矢倉" というよりは6六(4四)銀型と呼ばれることが多く、相矢倉でよく見られる。

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菱矢倉

左銀が7六に移れば銀立ち矢倉(ぎんだちやぐら)となる。相矢倉よりも対振り飛車の玉頭位取り戦法で用られることが多い。昭和40年代に盛んに指されたが、現在はあまり流行していない。

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銀立ち矢倉

流れ矢倉(ながれやぐら)は守りの左銀が中央に進出しているもの。

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流れ矢倉

流線矢倉(りゅうせんやぐら)は流れ矢倉と菊水矢倉をミックスした囲い。

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流線矢倉

金と銀の駒が三段に一直線に並ぶ陣の通称は、一文字矢倉ichi monji yagura、Straight Line Fortress)と称される。

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一文字矢倉

矢倉囲いの組み方編集

△持ち駒 なし
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▲持ち駒 なし
図は△6二銀まで
矢倉5手目7七銀

矢倉はお互いの呼吸が合って初めて成立する。相矢倉の場合、初手から▲7六歩△8四歩▲6八銀と進んで、矢倉戦になる。双方が居飛車党であっても、先手が初手▲2六歩を突けば相掛かりや角換わり志向であるし、後手が2手目に△3四歩なら、後手が無理矢理矢倉を志向しない限り横歩取りや雁木系の将棋になる志向である。また先手が3手日に2六歩なら角換わりで、やはり矢倉にはならない。

初手から▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩のあと、5手目に▲6六歩か▲7七銀とするのが最も一般的な出だしとされる。この5手目で▲6六歩とするか▲7七銀とするのかが、後述の急戦矢倉において重要な要素である。△3四歩と突いた時に先手は▲7七銀と受けるか、▲6六歩がよいかは時代によって見解が分かれた、いわゆる「矢倉の5手目問題」は非常に深いレベルで、後の展開に差が出てくるのであるが、一般的な相矢倉を志向するならば同じ形に合流することも多い。

そのあと図の後手△6二銀に、先手7手目は『羽生の頭脳5 最強矢倉』(1992年、日本将棋連盟)から『変わりゆく現代将棋』上(2010年、日本将棋連盟)に至るまで、▲4八銀ではなく▲5六歩を推奨している。それ以前は▲4八銀が比較的よく指されていた。羽生は、7手目に▲4八銀であると、後手△8五歩▲7八金(▲5六歩は△8六歩▲同歩△同飛▲同銀△8八角成)△7四歩▲5六歩△7三銀▲7九角△6四銀など、後手から△7四歩~7三銀~6四銀~8五歩からの速攻を仕掛ける順があるとしている。一方で7手目に▲5六歩としておくと、△7四歩であっても、以下▲6六歩△7三銀▲5八金右△6四銀▲6七金△8五歩▲7九角△7五歩▲同歩△同銀に▲4六角で、飛車の横利きを利かしつつ後手の居角の射程を二重に止めることができている。

ところが2010年代後半からは後述のとおり後手が急戦を趣向し、矢倉囲いに組まずに速攻攻撃を仕掛けることが多くなり、こうした戦術に対応するため、飛車先を早く伸ばす指し方が主流となり、先手7手目は▲2六歩が主流となっている。

現代矢倉の出だしは24手まで定跡化されており、24手組と呼ばれる。旧と新があり、旧24手組は中原、米長、加藤などが盛んに指しており、矢倉24手組と呼ばれた一世を風した手順。新24手組との違いは▲2六歩か早いかどうかだけであり、先手が飛車先を突くので前後同型となっている。昭和の矢倉界の基本手順であったこの旧24手組は次の通りで、おもな手順は▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩で▲7七銀とし、△6二銀に▲2六歩とする。以下△4二銀▲4八銀△3二金▲5六歩△5四歩▲7八金△4一玉▲6九玉△5二金▲3六歩△4四歩▲5八金△3三銀▲7九角△3一角▲6六歩△7四歩で基本図となる。

それが、昭和の後半つまり1980年代前半に、青野照市淡路仁茂田中寅彦らが若手時代に飛車先を早くに突かないメリットを発見。こうして先手が飛車先の歩を保留して駒組を進める「飛車先不突(つかず)矢倉」が登場。飛車先の歩は急いで突く必要はない、という認識が広まり、▲2六歩型の他に▲2七歩型で進めるのが主流となり、流行していく。と、同時に新型へと流行が移っていった。

過去にさかのぼってみると、昭和初期は2010年代からの後手急戦をけん制の意味でとは違って▲2五歩と飛車先を2つ突くのが当然であったが、歩の位置が1マスずつ下がる、このわずかな違いを、プロ棋士が数十年かけて発見する。このことだけを見ても矢倉の複雑さ、将棋の深遠さが窺い知れ、現代将棋界の定跡の進化の端的に示す事例でもあった。1980年代後半からの飛車先不突矢倉の思想が取り入れられて以降は、後手急戦の流行を経て1990年代前半から新24手組と呼ばれる形が定着した。図の局面に至るまで、若干の手順前後は駆け引きである。24手目の局面が新24手組といわれる手順は▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩に▲6六歩(▲7七銀)△6二銀▲5六歩△5四歩▲4八銀△4二銀▲5八金右△3二金▲7八金△4一玉▲6九玉△5二金▲7七銀(▲6六歩)△3三銀▲7九角△3一角▲3六歩△4四歩▲6七金右△7四歩で基本図となる。▲3七銀戦法の1手前にあたる。

△持ち駒 なし
987654321