血盟団事件(けつめいだんじけん)は、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。政財界の要人が多数狙われ、井上準之助團琢磨が暗殺された。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い。

血盟団事件
Ketsumeidan.jpg
廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告
場所 日本の旗 日本 東京府
日付 1932年昭和7年)2月から3月
概要 暗殺テロリズム
武器 拳銃
死亡者 井上準之助
團琢磨
犯人 血盟団
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「血盟団」「血盟団事件」の名前の由来編集

一般に「血盟団事件」と呼ばれているが、正式名称を「血盟団」としたグループが存在したわけではない。血盟団という名前は、厳密にいえば俗称である。

血盟団という名前は、1930年末に、当時井上日召 (本名、井上昭) が利用しようと考えて関係を深めていた日本国民党が開いた忘年会の席での党委員長寺田稲次郎による次の発言が発端である[1]

「君たちは南アにおけるダイヤモンドのようなものだ。しかも、血のつながりのあるものだ。血盟された五人だ。(中略) 血盟五人組だ。」

これ以後、井上の周囲に集まったグループを指して、一部の国家主義者たちがひそかに「血盟団」と呼ぶようになった[1]。しかし、井上たちが自称したものでも正式名称でもなく、彼らは自分達に名前を付けることを拒み続けた[1]

また、事件の新聞報道では当初「血盟五人組」と呼ばれ、その後は「血盟団暗殺団」「血盟団」が使われた[2]

「血盟団事件」という呼び名は担当検事だった木内曾益つねのりによる命名である[3]。井上が後年出版した獄中手記『梅乃実』の中には「吾々は団体として何の名目も付けて居なかったが、官憲の方で事件発生後勝手に命名した」と書かれている[4]。しかし、井上はこの呼び名を受け入れたという[3]

井上日召は自身を中心とするグループに正式名称を付けることを拒否し続けたが、本項目では、慣習に従って、井上日召とそのもとに集まった青年グループを指して「血盟団」という名前を用いる。

血盟団・血盟団事件の性格編集

血盟団のメンバーは、井上日召以下、大洗組[注釈 1] (古内栄司、小沼おぬましょう菱沼五郎、黒澤大二、照沼操、堀川秀雄、川崎長光)、東京帝大グループ (四元義隆〈法学部〉、池袋正釟郎〈文学部〉、田中邦雄〈法学部〉、久木田祐弘〈文学部〉)、京都グループ (田倉利之〈京都帝大文学部〉、森憲二〈法学部〉、星子毅〈法学部〉) とその他 (須田太郎・国学院大学神学部生) の計16名である[5][注釈 2]

血盟団員の中で重要な役割を果たしたのは、大洗グループ内の古内と東京帝大グループの四元の2人である。また、血盟団員ではなく事件にも直接の関与はできなかったが海軍将校の藤井斉は重要な役割を果たした人物である。藤井は、元来実力行使に慎重だった日召をテロリストに仕向けた張本人であり、東京帝大グループや京都グループ、海軍将校と井上を結びつけ、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団をより広域に活動するグループへ変貌させることに大きく寄与した。

血盟団は井上の思想に強く感化されたカルト集団だと言える[6][注釈 3]。また、井上の思想の底流にあるのは、ある種の仏教的神秘主義である[7]田中智学が創始した日蓮主義を基本として、仏教的神秘主義と、皇国思想・国家改造に対する熱望が合わさって、井上日召が独自に思想形成したものであると言える[8]

井上の思想には、田中智学からの影響が明白である[9]。実際、井上の思想形成の初期段階で大きな影響を与えたのが、田中による『日蓮上人乃教義』であり、この書物は井上だけでなく古内栄司にも大きな影響を与えた[10]

ただ、井上の思想の論理が粗雑であることは否定しがたい。井上は若いときから、代表的な国家主義者 (田中智学、北一輝) の著書を読み、主唱者 (例えば、北一輝、上杉慎吉大川周明安岡正篤) のもとを訪ねている[11]。例えば、井上は1924年に1度上京していた時期に北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで、北に会いたいと思い北のもとを訪ねている[12]。また、大川周明のもとを訪ねた時には、人はいくらでもいるから、国家革新には金が一番重要だ、と言われて腹を立てたこともあった[13]。大川の大アジア主義が、白人を追放してアジアを解放するという考えであり、差別主義的であると思われたので、大川からも得るところはなかった[13][注釈 4]

結局は彼らの主張に共感できず、最終的に自身の思想を理論化することを放棄した[14]。井上の興味の中心は実力行動であって、理論的な話は空虚であると考えて興味を持たなかった。

一方で、血盟団のメンバーが思想的に一枚岩だったというわけではない[15]。たとえば、権藤成卿に対する評価は団員の間で大きく割れていた[16]。権藤の思想は、「社稷しゃしょく」という古代中国の概念[17]を日本に当てはめた農本的国家主義思想[17]で、それに最も共感したのが四元だった [16]。また、血盟団ではないが藤井斉も強く共感した[18]

しかし、池袋は権藤には若干懐疑的であり、国家社会主義には反対、権藤の漸進主義にも反対[19]、極端な天皇主義者でいわゆる「日本精神」に影響された小沼は「社稷」にはまったく反対だった[20]

井上たちに、要人暗殺後の国家改造計画の具体策は全くなかった。むしろ、そのようなものを計画することを積極的に放棄していた[21]。彼らの論理は、自分たちがテロによって要人を殺害し捨石になることで、後続の国家改造の先鞭を付けたいという単純なものである。

したがって、血盟団事件自体はクーデター計画でもその未遂事件でもなく (事件の直前には、井上自身は単なるテロではなくクーデターを指向していたが、それに同調する血盟団のメンバーはいなかった[22])、要人暗殺というテロ事件以上ではない (ただし、急進的ファシズムと見なすかはこれとは別の問題である)。

血盟団事件は昭和初期から始まった超国家主義者によるテロ事件[注釈 5]の嚆矢として知られ[注釈 6]政治学の分野などでもしばしばその基点として扱われる。典型的には丸山真男による超国家主義の研究があり、日本のファシズムに関する古典的研究である丸山による『日本ファシズムの思想と運動』では全体で3期に分けられた日本のファシズム運動期間のうちの第2期 (急進ファシズムの全盛期) の起点として血盟団事件がとらえられている[24]

経緯編集

前史編集

血盟団は前述の通り井上日召を中心としたカルト集団であり、日召のカリスマ性と日蓮主義に強く影響されているため非常に宗教色が強く、また、日召のパーソナリティの強い影響下にあった。そのため、血盟団や血盟団事件を理解するためにはどうしても日召の前半生を振り返らねばならない。

血盟団を主導した井上日召の本名は井上昭、大洗町の立正護国堂の住職を任されるなどしたが日召に僧籍はない[25]。古い文献では日召を日蓮宗の僧と書くものがあるが誤りである。文献によっては日蓮宗の布教師と紹介するもの[26]もある[注釈 7]

日召の父親は神風連の乱に参加したことのある[27]国粋主義思想の持ち主で、日召も子供の時分からその影響を受けた。

日召という号の由来は、1924年にかねてからの知り合いで老ジャーナリストだった朝比奈知泉のもとを訪ねた際に、朝比奈が「井上君、君の名は面白い名前だね」「二つに分けた給へ、日召となるよ」と言われたことにある[28]。当時井上はまだ昭と名乗っていたが、この会話と以前に自分に起きた神秘体験とを結びつけて、以後日召を名乗るようになった。

井上は若いころから人生に対する煩悶に悩んでおり、多くの宗教に頼り、また、住む場所や職業を転々とした。同時に、日召は国柱会を皮切りに様々な国家主義団体を渡り歩いた。井上は一時期満州へ渡り、1910年に満鉄従業員養成所に入所[29]、その後軍部の情報機関の末端として[29]、あるいは坂西利八郎陸軍砲兵大佐 (袁世凱の軍事顧問) のもとで諜報活動をして働いていたことがあった[30][31]が、この中国時代に高井徳次郎という人物に出会った[32]。高井は、後に、井上が大洗を本拠地として活動を始めるきっかけを作った人物である。また、満鉄で働いていた時期には本間憲一郎や前田虎雄 (建国会幹部、後の神兵隊事件の首謀者の1人) と知り合いになっている[33][27]。血盟団に至る道程の中で、高井と知遇を得たことは大きな分岐点である。

井上はその後、中国から日本へ帰国し、その後も転々とした生活を送る。帰国後は本間・前田らと新日本建国同盟を設立している[27]

1926年、故郷で参禅をしていた時期に高井が井上のもとを訪れ、大洗に立正護国堂を建てそこに道場を建設したい旨、井上に打診してきた[34]。1921年に設立された水浜すいひん電車株式会社は水戸と大洗を結ぶ鉄道を運営していて、沿線に集客力のある施設を誘致したがっており、高井がこの会社から資金を出させて建設することになっていた[35]

井上は護国堂で座禅して暮らすつもりだったが、高井が井上のカリスマ性を利用して病気治療や加持祈祷の仕事を押し付けてきたためやむを得ず引き受けたところ、話が広まって多くの人がやってくるようになった[36]。また、水浜鉄道も集客力を見込んで盛んに宣伝したためますます人がやってきた[37]。このような生活に疑問を感じた井上は一時大洗を去り川場に戻ったが、1928年 (昭和3年) に再び高井の懇請されたことから大洗の護国堂に戻り[38]、以後、ここを根拠地にして国家改造計画を実現することを企図した。

大洗組の形成編集

血盟団のメンバーのうち最初に自然発生的に生まれたグループは大洗の青年たちによるもので、その中心人物は、小学校教員だった古内栄司である。古内を通じて大洗の青年たちとの間に井上日召との関係が築かれていった。以下に大洗組が形成されていく過程を見ていく。

古内栄司編集

古内は、1923年に師範学校を卒業後、石下いしげ小学校[39]、その後結城小学校に赴任した[40]。しかし、ここで体調を崩し休職、以後2年間闘病生活を送らねばならなかった[41]

古内の生活は元々苦しかったが、この間に、古内の父親の事業のトラブルが発生し、更に家賃の滞納の問題に悩まされるようになった[42]。古内の父親が生業としていた建設の請負業で、使っていた大工の失敗がもとで責任をとらざるを得なくなり、支払い不能に陥ったあげく、詐欺罪で告訴される寸前までいった[42]。これが原因で父親が病気になり[42]、間もなく亡くなった[43]

このような困難に直面した古内は、偶然から姉崎正治・山川智應編纂による『高山樗牛と日蓮上人』に接し次第に日蓮宗に接近するようになった[44]。更に、田中智学の著書を読み、国柱会に関心を抱くようになった[43]

日召との関係は、水戸の実家に帰る際に利用した水浜鉄道で偶然見かけた護国堂の広告から生まれた[45]。古内は広告を見て護国堂に行き日召の話を聞いて以降、護国堂で修業を積むようになり、師弟関係が生まれた[46]

核形成編集

更に古内は、復職して赴任していた前浜小学校で、同僚の照沼操 (後の血盟団員) を井上に引き合わせた[47]。照沼も護国堂に通い、日召の弟子になった[48]

その他、古内は日召の存在を知らしめるべく周辺の学校の教員に説いて回るようになりだした[49]。修行の中から、古内は加持祈祷の方法を身につけており、自然発生的に、古内のもとに祈祷を求める人たちがやってくるようになった[48]。その中に、地元の有力者だった黒澤大二 (後の血盟団員) の伯父がいた[48]。この人物が日蓮宗に目覚め、「前浜修養団」という「修養」を目的とした会を月一回開くようになり、そこへ井上を招くようになったことから、井上を核とした集団が形成され始めた[50]

黒澤大二 (後の血盟団員) は、1929年 (昭和4年) 、天狗連という名の素人演芸集団を作り村に活気を作ろうとしていた[50]。この天狗連のメンバーが、農閑期を利用して農業や一般教養の勉強のため、前浜小学校で始まった補習学校に通うことになった[50]。ここで、補習学校の国語担当だった古内と黒澤の間に関係ができた[51][注釈 8]

更に、小沼正 (後の血盟団員、井上準之助暗殺の実行犯) も古内のグループに加わるようになった。

天狗連は唱題が活動の中心となり、深夜になっても大声で題目を唱えたため近所から騒音で苦情が出てくるようになった[53]。活動場所だった黒澤の実家の亀の湯での活動はこれ以上は無理になったので、天狗連のメンバーの一人だった菱沼徳松が自宅を活動場所に提供した[53]。この徳松の息子が菱沼五郎 (後の血盟団員、団琢磨暗殺の実行犯) で、当時就職活動のため帰省していた[54]

川崎長光は、小沼・黒澤と親戚関係で、特に小沼とは仲が良かったことから血盟団に参加することになった[55]。井上が上京する頃に、川崎は東京での活字販売所の仕事を辞め海軍志願のために帰郷し、徴兵検査を受けたが不合格となり失意の中にあった[56]。川崎はこの時期に小沼と再会した[57]。小沼は川崎を同志に加えるために熱心に護国堂に誘い、当初は関心を示さなかった川崎に法華経を勧めた[57]。川崎は次第に井上に心酔するようになり、以後井上一派の中核を担う人物になった[57]

テロリズム編集

井上は、大洗町立正護国堂を道場にして若者を集め、彼らを鍛えあげたあと各地の農村に派遣し同志を増やし[58]、自らの教団を起こして[58]数年間で信者数を数十万人まで増やし国家改造の一大勢力を築いた後[59]、これら同志で国会議事堂を取り巻いて政府に国家改造を迫る[60]という誇大妄想じみた計画 (井上はこれを「倍化計画」と呼んでいた) を実行しようとしてはいたものの、1929年 (昭和4年) 頃まではテロリズムによる直接行動を考えていたわけではなかった[61]

井上がテロリズムに傾いた原因は、護国堂に集まるようになった海軍の青年将校たち、特に藤井斉 (第1次上海事変で戦死) の影響が大きい。藤井を介して、井上と海軍との関係が生まれた[62]ことが血盟団の性格を大きく変化させることにつながった。

1929年、藤井が霞ヶ浦海軍航空隊に飛行学生として赴任した後、ある懇親会で両者が偶然顔を合わせたことから井上と藤井の接点ができた[63]。この懇親会は、茨城県庁職員で金鶏学院一期生の野口静雄の紹介で開かれたもので、藤井に権藤成卿を紹介したのも野口である[64]。さらに、藤井を通じて、井上と海軍将校との関係ができていった[65]

当時の井上は倍加運動によって、国体思想に基づく啓蒙運動を進めていた。しかし、1929年頃、藤井斉に「和尚は寺に居ってお経ばかり読んで居るから最近の国状が判らんのでそんな呑気なことを言つて居るのだ、国家の現状が今日程に行詰まらず上層圧迫階級相互の連絡も今日程鞏固きょうこにならない以前なら兎も角今日となっては何時何処からどんな事件が突発するかも知れず又国民大衆の苦境を思ふ時には一刻も早く吾々殉国の志士が起つて改造を断行せねばならん」と言われ[66]、当初は藤井を嘲笑していた井上も次第に暴力に訴える方向に変わっていった。

1930年 (昭和5年) の春から初夏になると、藤井は大洗の護国堂に頻繁に出入りするようになった[65]

上京編集

1930年 (昭和5年) 8月29日に日召は東京へ旅に出た[67]。東京の事情を見て今後の計画を練るのが目的で、上京中はさまざまな人物とあっている[67]

10月初め[注釈 9]に日召が旅から帰ってくると寺には高崎宣亮[68]という名の新しい住職がおり、日召は護国堂を去る決意をした。日召らは、メンバーの1人だった檜山誠次の自宅2階で会合を開き、その際に日召が初めて暴力革命への意思を述べた[68]

この会合で、メンバーの離脱が相次いだ[69]。元々は現世利益や病気治しを目的とした唱題だったものが、いつの間にか暴力革命運動に変質していたためである[69]。大内勝吉、小池力雄、川崎長三郎、照沼初太郎らが脱退していった[69]

10月5日、日召は護国堂を去り[70]、上京した。日召は、半年ほど満洲へ渡り、そこで革命運動の資金を獲得する気になり[70]、そのための準備が目的だった[71]。しかし、この計画は関係者から止められ実行できなかった[71]。止めた人物の1人が北一輝である[71]。そこで、日召は東京に留まって資金獲得を目指すようになった[71]

日召は藤井斉の説得で本格的に東京を根拠地とするようになり[71]、また藤井の紹介で、東京の金鶏学院に住むようになった[70][注釈 10]

当時、金鶏学院には既に四元義隆や池袋正釟郎らがおり、扇動はするが実行しようとしない安岡正篤に不満を抱いていた[70]。日召も安岡には不満を抱いていたが、安岡の支援者には多くの資産家がおり、革命運動の資金獲得を目当てに近づいた。

一方、日召が護国堂を去るのと前後して、大洗でも血盟団の活動が地元住民から「危険思想の運動」と不安視され、共産主義者と誤解されるようになった[79]。警察がメンバーの取り調べや家宅捜査を行うようになり、大洗での活動は不可能になった[80]。ちょうどこの時に、小沼正に東京の鈴木善一 (日本国民党書記次長、後の神兵隊事件の実行犯に連座)[81] から、日本国民党本部で地方党員養成を行うので血盟団から2名推薦してほしいこと、寝具だけ持参すれば生活費は党本部が面倒を見る旨の手紙が来た[80]。鈴木は茨城出身で、日召らを引き込んで茨城国民党を作ろうともくろんでいた[81]

小沼正と川崎長光が上京し党本部で寝泊まりするようになった[80]。翌1931年 (昭和6年) 2月には、菱沼五郎と黒沢大二も日本国民党本部で寝起きするようになり、これ以後、活動の中心は東京に移された[81]

その後、日召は金鶏学院を追い出され、小石川駕籠町にあった今泉定助の邸に送り込まれた[70]。以後、ここが同志の会合場所となった[70]

小沼と川崎が上京した頃、当初2人は日本国民党の中から血盟団のための新たなメンバーを探そうと考えていた[82]。が、次第に日本国民党を見放すようになり、そうこうするうちに西田税と知り合う[83]。井上は、小沼と川崎を通じて西田の背後関係、人脈を探ろうと考えたので、2人を西田のもとに通わせ続けた[84][注釈 11]。同時にこの頃、藤井を通じて四元も西田と面識を持つようになった[87]

三月事件編集

日召たちは、三月事件の少し前頃から桜会の周辺に作られた結社と関係を持ち始めるようになった。1931年 (昭和6年) 3月後半になって「全日本愛国者共同闘争協議会」(通称は愛協) という団体が作られた[88]

名目上は、左翼勢力に対抗するために右翼勢力の「共同闘争」を訴える団体ではあったが、小沼正の証言によれば実際は「三月事件をもくろんで結成されたもの」[88]で、愛協の内部に作られた前衛隊が三月事件を引き起こすための機動部隊の役割を担うはずだった[88]。血盟団の青年たちは、愛協の前衛隊に所属することが決まった。これは、前衛隊を利用して仲間の勧誘を行うことが目的であって、彼らは愛協自体には何らの意義も見出さなかった[88]

愛協は、本郷で演説会を開いた後、銀座でデモを行い、前衛隊が騒いで混乱を引き起こそうとしたが、警察にデモの解散を命じられて大衆の扇動に失敗した[88]。結局、橋本欣五郎らによるクーデター計画は未遂に終わり (三月事件)、それに伴い愛協の存在意義もなくなった。愛協の前衛隊に所属した血盟団のメンバーも暇をもてあますようになった。小沼は信州に旅行し、そこで国家主義者たちと交わった[89]。また、古内の元を訪ねてもいる[89]

この頃には、四元は日召を介して大洗グループと合流し、また、海軍将校たち (古賀清志山岸宏三上卓ら) と四元、日召との関係も強まりだしていた[90]

6月になると日本国民党は内紛で分裂したため[91]、小沼らは国民党に見切りをつけ、行地社に拠点を移した[92]

行地社を管理していたのは狩野敏 (愛協前衛隊長) で、狩野は7月に、満州事変に呼応して日本国内でもクーデターを起こす計画であることを彼らに漏らした[93]。西田税は大川周明とは仲たがいしていたため、日召や小沼らは、大川周明と西田税のどちらにつくか迷ったが、結局西田を選び、日召は西田をリーダーに担ぐことに決めた。[94]。ただし、数か月後には、血盟団員は日召も含めて西田とたもとを分かつことになる。

小沼ら4人は、7月末から8月にかけて海水浴を口実にして行地社を飛び出し、大川との関係を断った[93]

未遂テロ計画編集

具体的なテロ計画が始動し始めるのはこの年の夏のことである。

三月事件の頃に、日召は藤井斉を介して権藤成卿と知り合う[95]。その後、四元も権藤のもとに通うようになった。権藤は金鶏学園で講義を持っていたことから四元は権藤の存在は知っていたが、四元が権藤と関係をもつようになったのは、日召を介してである[96]。5月頃になると四元は、代々木上原にあった権藤の自宅の敷地内にあった空き家 (通称は権藤空き家[97]、血盟団のメンバーは骨冷堂と呼んでいた) に入居、一時、ここを出て本郷の下宿に移ったが8月末には再び権藤空き家に戻った[96][注釈 12]

以後、11月には井上や古内も権藤空き家で寝起きするようになり、ここが血盟団の拠点となった[96][注釈 13]

三月事件の後、古賀、山岸、三上ら海軍将校たちは暴力革命を模索し始めたが具体策はなかった[99]。日召は、彼らと話した際、夏に別荘地へ行き政財界の要人をまとめて暗殺する計画を明かし、武器と資金の調達を依頼した[100]。軍人側は、武器の調達は無理だが資金の調達は可能と返事をしたが、資金はなかなか届かず、届いた金も一部だった[100]

一方、武器の入手は藤井斉が担当し、七月に大連で、憲兵隊・省察を奔走し拳銃の譲渡証明書を入手、八丁の拳銃を入手した[100]。結局、別荘襲撃の計画は流れたが、テロ計画が具体化、行動に移されたのはこれが最初であり、その点で重要な転機になった[100]

また、この時に入手した拳銃が血盟団事件で使われた[100]

暗殺計画編集

井上日召茨城県大洗町立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。

井上はこの構想に基づき、彼の思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成した。前述の通り「血盟団」とは俗称であり、井上日召らが自称したものではない。

井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。暗殺対象として挙げられたのは犬養毅西園寺公望幣原喜重郎若槻禮次郎団琢磨鈴木喜三郎井上準之助牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。

井上はクーデターの実行を西田税菅波三郎らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたので、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司東大七生社四元義隆池袋正釟郎久木田祐弘海軍古賀清志中村義雄大庭春雄伊東亀城と協議した結果、2月11日紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた[101]

井上準之助暗殺事件編集

1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣民政党総務委員長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づいて懐中から短銃を取り出し、井上に3発の弾を撃ち込んだ。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁デフレ政策を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱(昭和恐慌)に陥った。また、軍縮のため予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。

暗殺準備編集

四元は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹二郎、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。第一次上海事変での藤井斉の戦死を知った井上らは陣容強化のため大川周明を加えることを画策し、2月21日、古賀清志は大川を訪ねて説得し、大川はしぶしぶ肯いた。また2月27日、古賀と中村義雄西田税を訪ね、西田の家にいた菅波三郎安藤輝三大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった[101]

一方、井上は井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として政友会幹部で元検事総長鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は鈴木が2月27日川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。

團琢磨暗殺事件編集

翌日再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたことが井上の反感を買ったとも、労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺した[104]。菱沼もまたその場で逮捕された。

逮捕編集

小沼と菱沼は警察の尋問に黙秘していたが、両人が茨城県那珂郡出身の同郷であることや同年齢(22歳)であること、犯行に使われた銃が同型(ブローニング6連発)なことから警察は付近で聞き込み、まもなく2件の殺人の背後に、井上を首魁とする奇怪な暗殺集団の存在が判明した。井上はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが[注釈 14]、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。

しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対立まで遡り、学生の就職難にあると動機を明かした[105]

裁判編集

血盟団のうち事件に関わった13人は3月28日に起訴された[106][注釈 15]

1933年 (昭和8年) 2月2日に予審終結決定が出され、予審送付時と同じ罪状で公判に付すことが決まった[107]。予審の段階で既に、警察調書、検事局の聴取書、予審調書等で28冊、七千八百八十五頁に上ったと言われている[107]。裁判は難航し全部で92回の公判が開かれ、予審送付から2年半の後1934年 (昭和9年) 11月22日に判決が下された[106]

公判は1933年6月28日から、裁判長・酒巻貞一郎、陪審判事・尾後貫荘太郎、下村三郎、定塚補充判事、木内曾益、吉江両検事立ち会いのもとで始まった[107]。弁護人には、網島正興、天野辰夫林逸郎他25名がついた[107]

弁護人の中に天野が入っていたことは重要である。天野は法廷闘争の中心だっただけでなく、すぐ後に発覚した神兵隊事件の首謀者の1人であり、その計画には実力行使による血盟団事件の被告人の奪還も含まれていたからである。

7月3日の第3回公判の最中、井上の弁護人だった天野が公判中に突然起立し、尾後貫判事が裁判に集中しておらず法廷を侮辱している、と難詰する発言を行った[108]。この尾後貫判事に対する攻撃は、公判前からの弁護団の既定の方針だったと見られている[109]

酒巻裁判長がそのまま訊問を続行したことに天野他6名の弁護士は不満だったことから、東京地方裁判所長の宇野要三郎と会見し尾後貫判事の更迭を迫った[110]。この際、会見の証人として七生社の稲葉一也を同席させた[110]。7月12日の第5回公判では、被告人弁護団から酒巻、尾後貫、下村の3判事の忌避申し立てがあった[111]。忌避の理由として彼等が挙げたのは、単純化して言えば、自分たちの思想に共感していない裁判官に我々を裁かせるつもりはない、というものであった。

この第5回公判は神兵隊事件発覚の翌日である[111]。ここから本格的に始まる法廷闘争は、同事件が未然に検挙されたことで血盟団事件の被告たちを実力で奪還できなくなったことから、戦術を変えたものと理解されている[112][113]

東京地裁第一刑事部は、合議のうえ申し立てを却下した[114]が、天野、林弁護人は東京控訴院即時抗告を申し立てた[115]。抗告は受理されたが、控訴院第三刑事部は7月26日に抗告却下を決定した[115]

しかし、被告・弁護団の法廷闘争はその後も執拗に続いた。

抗告却下決定直後の7月28日、第12回公判冒頭において、今度は井上他10名の被告が、酒巻、尾後貫両判事の忌避申し立てを行った[115]。申し立ては即日却下されたので、井上たちは東京控訴院即時抗告を申し立てた[115]が、控訴院第三刑事部は8月29日、前回と同様に抗告を却下した[116]

第12回公判で、酒巻裁判長は次回の公判を7月31日午前9時より開始と指定したが、この日の公判の様子を懸念して合議のうえ無期延期に変更した[115]。閉廷している間に、酒巻は8月16日に市ヶ谷刑務所に井上を訪ね裁判の進行に対する意見を求めるという失策を犯した[117]。この事実は、裁判官の忌避問題が明らかになる過程で次第にあらわになった[117]。審理の最中に自身に対して忌避申し立てをしている人間に会いに行き、しかも、法律によって裁判の進行指揮を職権として認められているにも関わらず、それを否定するような行動は、関係弁護人や世論から「裁判の威信を冒涜するもの」だとして非難された[117]

酒巻は公判闘争に巻き込まれ健康を害し裁判長を辞任した挙句、1933年末に「公判紛糾の責をとって」退職する羽目に陥った[118]。裁判、裁判所、裁判官の威信の問題から裁判所側は酒巻が辞任することに難色を示したが、酒巻の健康状態が悪かったため結局辞任を承諾し、同年11月9日、酒巻の後任に裁判長として藤井五一郎、陪審判事に居森義知、伊能幹一を任命した[119]

当時の世評では藤井は被告側に都合のよい人物と目されていたが事実その通りで、公判は被告側からの忌避もなく円滑に進んだ[120]

被告側の公判闘争の目的は被告の無罪や減刑にはなく、公判を利用して自分たちの考えを世間に広め、社会に自分たちの主張を受け入れさせることにあったので、被告側に十分発言を許した藤井の公判方針は被告側に都合がよかった[注釈 16]。実際、血盟団事件裁判と同時並行で進んでいた五・一五事件の公判でも、同様の法廷闘争が行われ、国民からの減刑嘆願書が30万に上ったという[121]

藤井裁判長のもとでの第1回公判は、翌1934年の3月27日に開かれた[122]。これは、昨年7月の閉廷から9か月ぶりのことである。第1回公判では井上に対する尋問が行われ、その後は久木田 (6月12日)、田倉 (6月19日)、小沼 (7月3日) 等に対する尋問が続いた[122]。 8月18日以降は証人調べに入り、同月23日、第62回公判 (判事交代以前から数えて第74回公判) で結審、同月28日には主任検事木内から論告・求刑が行われた[122] (求刑内容については、判決の部分で後述)。以後は弁護人による弁論に入り、11月22日 (開廷以来92回目の法廷) に判決が言い渡された[123]

検察の求刑および判決は次の通りである[124][125][126]

井上日召 (本名、井上昭)
殺人罪により無期懲役 (求刑は死刑)
小沼正
殺人罪により無期懲役 (求刑は死刑)
菱沼五郎
殺人罪により無期懲役 (求刑は死刑)
古内栄司
殺人罪により懲役十五年 (求刑は死刑)
四元義隆
殺人罪により懲役十五年 (求刑は無期懲役)
池袋正釟郎
殺人罪により懲役八年 (求刑は懲役十五年)
久木田祐弘
殺人罪により懲役六年 (求刑は懲役十年)
須田太郎
殺人罪により懲役六年 (求刑は懲役十年)
田中邦雄
殺人罪により懲役六年 (求刑は懲役十年)
田倉利之
殺人罪により懲役六年 (求刑は懲役十年)
森憲二
殺人罪により懲役四年 (求刑は懲役八年)
黒澤大二
殺人罪により懲役四年 (求刑は懲役八年)
星子毅
殺人罪により懲役四年 (求刑は懲役六年)
伊藤広
殺人ほう助罪により懲役三年 (求刑は懲役七年)

被告・検察側共に控訴せず1審で判決は確定した[124]。当時から、求刑に比べて判決は軽く、寛大な裁判だったと言われた[124][127]。後の五・一五事件の裁判でも、特に軍人側には極めて寛大なものだった[128]。なぜ判決が寛大だったのかについては研究が進んでおらず、理由はよくわかっていない。

裁判の判決文の原本は長年にわたって行方不明で、法律新聞三千七百七十四号などに掲載された不完全なものしか知られていなかったが、2009年になって北博昭によって、原本が東京地方検察庁に保管されていることが確認された[129]。ただし、2020年現在、原本に基づいた判決文は公刊されていない。

五・一五事件編集

古賀清志と中村義雄は3月13日に、血盟団の残党を集め、橘孝三郎愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明本間憲一郎頭山秀三の援助を求めたうえで、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、本事件の数か月後に五・一五事件を起こした[101]

西田税が陸軍側を説得して同事件への参加を阻止したことから、これを裏切り行為と見た海軍側は暗殺を計画し、血盟団員の川崎長光を刺客に放った。事件当日、川崎は西田の自宅を訪問し短銃で重傷を負わせたが、暗殺には失敗する(西田税暗殺未遂事件)。 また事件当日、同じく団員だった奥田秀夫(明治大学予科生)[130]は、三菱銀行前に手榴弾を投げ込み爆発させた。

関係者のその後編集

実刑判決を受けた被告人たちは収監後、度重なる恩赦大赦減刑され[注釈 17]、井上・小沼・菱沼は1940年 (昭和15年) (井上は10月17日[131]、小沼・菱沼は11月3日) に仮出所した[125][132][133]。日召の仮出所と同日には、橘孝三郎 (五・一五事件の民間側実行犯の一人) も出獄している[131]。古内栄司や四元もこの前後に出所した[131]。小沼・菱沼と同時に、浜口雄幸を暗殺した榊原剛事 (本名は佐郷屋留雄、無期懲役) も紀元二千六百年祝典による減刑令の恩恵にあずかって、仮出獄している[134]

  • 井上は、戦後右翼団体「護国団」を結成して活動を続けた。1967年(昭和42年)3月4日死亡。
  • 小沼は、戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け[135]、『一殺多生』などを著わす。1978年(昭和53年)1月17日死亡。
  • 菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが[136]、結婚により小幡五朗と改名し[136]1958年(昭和33年)に茨城県議会議員に当選し[136]、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。1990年(平成2年)10月3日死亡。
  • 四元は出所後、三上卓と行動を共にすることが多くなった[131]。井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。四元は太平洋戦争中にもテロ事件にかかわっている。1944年 (昭和19年) 7月の高木惣吉らによる東条英機暗殺計画では、後藤隆之助松前重義 (工学博士、元大政翼賛会総務部長) らの協力のもと、右翼側の一員として、三上卓西郷隆秀佐々弘雄 (朝日新聞記者、海軍調査課懇談会員) らと共に暗殺実行部隊として参加する手はずだったが、実行に手間取っている間にサイパン陥落の責任を取る形で東条英機が辞職したため、不発に終わった[137]1948年(昭和23年)の農場経営を経て、1955年(昭和30年)より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年 - 2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。2004年(平成16年)6月28日老衰のため死亡する。享年96。
  • 川崎長光は出獄後、郷里の茨城に帰って保育園を経営した。長らく政治に係ることはなかったが、2010年、99歳にして初めてインタビューに応じ、事件を語っている。2011年に101歳で没した。

井上は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」「一殺多生」などの言葉を遺している。

血盟団によるテロ計画のアジトとなった立正護国堂[注釈 18]は、2018年現在もなお、大洗町に正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている[139]。境内には、菱沼が建立したと言われる朱塗りの三重の塔、「井上日召上人」を顕彰する銅像や、四元義隆による「昭和維新烈士之墓」などがあり、本堂には血盟団関係者、二・二六事件関係の軍人、頭山満らの右翼関係者の写真が飾られている[139][136]。飾られている血盟団員の写真は小沼正が寄贈したものである[136]。境内の石碑には「国家改造の実現を達成するには、敢えて斬奸の剣をり、一人一殺の非常手段に訴えるの他なしとして」と言った文章が書かれている[136]。護国堂を訪れる右翼は現在も少なくないという[140]

一連のテロに恐れをなした三井財閥の池田成彬は、世間の反財閥感情を減ずるために、社会事業へ寄付を行なう三井報恩会の設立や株式公開、定年制の導入など、俗に言う「財閥の転向」を演出し、三菱財閥などもそれに倣った[141][142]

関連書編集

関連項目編集

脚注編集

注釈編集

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  1. ^ 水戸組、茨城組と呼ばれることもある。
  2. ^ このうち、大洗組の堀川秀雄は血盟団事件には関与していないので逮捕・起訴されていない。代わりに、血盟団とは無関係だったが、メンバーをかくまった罪で、伊藤広が逮捕・起訴されている。
  3. ^ ここで言う「カルト」は宗教研究における教団類型論で用いられている意味での「カルト」である[6]
  4. ^ 井上は大川の考え方に反発しては腹を立て、一時的に手を切るのだが、再び手を握ろうとすることを繰り返し、結局、団琢磨暗殺の頃までこれを続けた。
  5. ^ 大谷栄一の「超国家主義と日蓮主義」では血盟団事件をクーデター事件であると書いているが、実際にはクーデター計画はなかったことがわかっているので、大谷の記述は誤りである。
  6. ^ どの事件を嚆矢とするかは論者によって異なる。佐郷屋留雄による浜口雄幸首相暗殺事件をもって嚆矢とする論者[23]も多い。1921年朝日平吾による安田善次郎殺害事件を以て嚆矢とする論者もいる。
  7. ^ 血盟団事件の判決文では、日蓮宗の僧、日蓮宗の布教師両方が使われている。
  8. ^ 照沼は農業の科目担当だったが、黒澤と照沼は小学校時代からの同級生で旧知の仲である[52]
  9. ^ 中島『血盟団事件』pp.194、199では、10月初めと書いてあったり、10月中旬となっていたりで一貫していない。
  10. ^ 当初、藤井は井上と安岡正篤を共闘させようと目論んでおり、日曜ごとに金鶏学院に通っていた[72]。井上が上京後ほどなくして安岡が水戸で講演をすることになった時、藤井の仲介で水戸において井上との宴席が設けられた[73]。藤井は両者が意気投合することを狙っていたが、元々井上は安岡を不信の目で見ており、藤井のもくろみはうまくいなかった[74]。また、小沼らも安岡を馬鹿にしていた[75]。それでも、藤井はあきらめず、同年11月に金鶏学院で筑波山への紅葉狩り旅行が企画された際に、再度、井上と安岡の宴席を設けた[76]。もちろん、両者が意気投合するはずもなかったが、この時に参加していた四元・池袋に直感的に感じるものがあった井上は両者に接近し、ここで井上と四元・池袋の間に接点が生まれた[77]。四元・池袋は大学卒業を間近に控えていたが、退学を決意し、以後井上と共に行動するようになる[78]。ここで生まれた接点は非常に重要である。それまで、血盟団は大洗の小さなグループに過ぎなかった。しかし、四元・池袋との関係が生まれたことで東京に活動の拠点ができた他、四元が鹿児島時代の七高の敬天会の人脈から後に京都グループへも血盟団が拡大する要因になった。
  11. ^ 井上自身は、これよりも約5年前の、星光同盟に参加していた時期に既に西田と面識があった[85]。1930年に上京後、改めて藤井を通じて西田と交わるようになった[86]
  12. ^ 権藤は1931年春頃、代々木上原に自宅を構えた[98]。敷地は広く、その中に三軒の家屋が建てられていて、権藤はそのうちの一軒だけを使っていた。
  13. ^ たまたま、権藤空き家が血盟団の拠点となったにすぎないので権藤自身は血盟団事件とは無関係ではあるが、かと言って血盟団との関係が皆無というわけでもない。
  14. ^ 3月11日、井上が潜む天行会道場が警察隊に包囲されたが、警視庁は頭山家には踏み込んで逮捕できなかった(中野雅夫『五・一五事件 消された真実』)。
  15. ^ 正確には、同日に伊藤広を殺人幇助罪で、井上、古内、菱沼、黒沢、四元、池袋、久木田、星子、須田、田中、田倉、森ら12人を殺人共同正犯としてそれぞれ予審に送付、小沼だけ遅れて4月14日に予審に送付[107]
  16. ^ 藤井は五・一五事件の担当判事でもある。同事件は、特に軍人側の被告に対して甘い判決を下したことで知られる。
  17. ^ 血盟団の恩赦の要求として、三上卓 (五・一五事件の実行犯の1人) の例が挙げられる。第2次近衛内閣の時期に三上は風見章法相に、日召ら血盟団事件関係者の仮出所をたびたび要望している[131]
  18. ^ 正確には、日蓮宗立正護国堂教社[138]

出典編集

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  130. ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、学校法人明治大学、1994年、250-251頁
  131. ^ a b c d e 小山『五・一五事件』p.236.
  132. ^ 雨宮「血盟団事件」p.432.
  133. ^ 松尾浩也「浜口雄幸狙撃事件」『日本政治裁判史録 昭和・前』第一法規出版、1970年、p.378
  134. ^ 松尾「浜口雄幸狙撃事件」p.378.
  135. ^ 安田浩一『「右翼」の戦後史』講談社〈講談社現代新書〉、2018年、24頁。ISBN 978-4-06-288429-7
  136. ^ a b c d e f 安田『右翼』p.24.
  137. ^ 小山『五・一五事件』pp.240-245.
  138. ^ 大谷「超国家主義」p.77.
  139. ^ a b 大谷「超国家主義」注(40)、p.98.
  140. ^ 安田『右翼』p.23.
  141. ^ 三井報恩会 みついほうおんかい世界大百科事典
  142. ^ 財閥転向 ざいばつてんこう日本大百科全書

外部リンク編集