大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年明治19年)12月6日[1] - 1957年昭和32年)12月24日[1])は、日本思想家[2]国家主義者。

大川 周明
生誕 1886年12月6日
日本の旗 日本 山形県酒田市
死没 (1957-12-24) 1957年12月24日(71歳没)
日本の旗 日本 神奈川県愛甲郡愛川町
墓地 目黒区瀧泉寺墓地
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学文科大学
職業 思想家、大学教授
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1918年東亜経済調査局満鉄調査部に勤務し、1920年拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士学位を受け、1938年法政大学教授大陸部専門部)部長となる。

その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[3]

東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴された。しかし梅毒による精神障害と診断され、訴追免除となった。なお、晩年はクルアーン全文を翻訳するなどイスラーム研究で優秀な実績を残した。

生涯 編集

青年期 編集

山形県酒田市出身[1]。祖先は代々「大川周賢」を襲名してきた医師の家系である。荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校[1]第五高等学校[4]を卒業し、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)[1]。荘内中時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に師事し[1]、このときに漢学の素養を身につけた。また『南洲翁遺訓』(西郷隆盛が遺した言葉を庄内の人々が纏めたもの)を何度も読み、明治政府に批判する西郷の精神を学ぶ[1]。五高時代には、栗野事件(入学試験における学校当局の不正事件)で自ら先頭に立ち活躍した。大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。大正2年(1913年)、道会創立者松村介石に依頼され、歴代天皇の業績を表した『列聖伝(れっせいでん)』の出版を試みたが、実現しなかった。やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[5]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。エマソンダンテヘーゲル等等西洋古典哲学の遍歴からインド哲学に回帰没頭した。

英語フランス語ドイツ語サンスクリットの各言語に通暁し、アラビア語はクルアーンを全文翻訳するほどほぼ通暁で、中国語ギリシア語ラテン語でもこれを目指した。学生時代には参謀本部ドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成荒木貞夫杉山元建川美次東条英機永田鉄山岡村寧次らと知己があった[6]

思想家 編集

 
大川周明(1936年)

大学卒業後、インドの独立運動を支援。ラース・ビハーリー・ボースヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆。日本日英同盟を重視して、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。

1918年(大正7年)には南満洲鉄道に入社する[1]。これは、初代満鉄総裁の後藤新平に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことによる。のち、満鉄東亜経済調査局の編輯(へんしゅう)課長を務める[7]。1929年財団法人東亜経済調査局理事長[1]、1939年法政大学教授・大陸部長[1]

イスラム教に関心を示すなど、アジア主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、アジアの各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)で欧米からのアジアの解放とともに「日本改造」を訴えたり、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードケマル・アタチュルクレザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。ルドルフ・シュタイナー社会三層化論を日本に紹介もしている(「三重国家論」として翻訳)。

一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵源頼朝上杉謙信横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時北条泰時足利尊氏直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。

1932年(昭和7年)に日本国家社会主義学盟が発足すると顧問に就任した[8]

政治・軍事への関与 編集

大正昭和期に、北一輝満川亀太郎らと親交があり、特に北一輝とは上海で2日間語り合い、北が計画している「日本改造」の原稿を託される。その際、北が「君も命を狙われているだろうから」と仕込み槍を贈られたという逸話がある。

日本で普通選挙運動が盛んだった頃、「日本改造」を実践する結社猶存社や、行地社神武会を結成[1]貴族院議員徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件十月事件血盟団事件などほとんどの昭和維新クーデター)に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて、1936年(昭和11年)6月11日に豊多摩刑務所に収容。

満洲事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しく、笠木良明が結成した大雄峯会柳条湖事件自治指導部などで関わった満洲国の建国を支持し、在満邦人と満洲人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満洲を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満洲新国家の建設』)。北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。

日中戦争・第二次世界大戦中 編集

日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。1937年(昭和12年)10月13日仮出所。五・一五事件に関係した民間人には本間憲一郎頭山秀三頭山満の三男)らがいたが既に釈放されており、大川が民間人最後の出所者となった。出所後は、しばらくの間、東京都品川区上大崎の自宅にて静養を続けた[9]

第二次世界大戦については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した[10]」と記述があるとおり、肥田春充とともに日英米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。また、大東亜戦争中は大東亜省大東亜共同宣言の作成にも携わった[11][12]

戦後 編集

 
東條の頭を叩き両肩を抑えられる大川と苦笑する東條

戦後、1945年12月2日連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し大川を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[13]巣鴨拘置所に勾留された。逮捕者には軍人以外の者も多く含まれていたが、結果的に唯一A級戦犯の容疑で起訴された[14]。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満洲を奪取できるように、満洲事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。

東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。東條は叩かれようとも激怒したりせず微笑んでいた)、「インダー・コメンジー!(「Inder kommen Sie!、ドイツ語で「インド人よ来たれ」の意。アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア・コメディ!(It's a comedy!、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ・シンク(I, I think)(我思うゆえに我ありで知られる、何らかの哲学的思想的主張を行おうとしたと言う説もある)」などと支離滅裂な言動を行ったため、法廷内で失笑を誘った。

15分間の休廷中、オーストラリアウェッブ裁判長は大川を精神異常と判断し、1947年4月9日、彼を正式に裁判から除外した。大川は都内のアメリカ軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。

マラリア療法による治療を受けたのち症状は改善し、本人も裁判を受ける事を主張したが、裁判所側が裁判能力を回復しているとするアメリカ軍病院側ではなく、「裁判を受けられるまでには回復していない」とする内村の鑑定所見を採用したため、裁判には戻されず[15]、松沢病院での入院が続いた。入院中、以前より念願であったクルアーン全文の翻訳を完成する[14]。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[16]

晩年 編集

その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。1957年12月24日に死去[1]。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫[注釈 1]

代表的著作 編集

 
大川の墓
  • 『復興亜細亜の諸問題』(1922年、大鐙閣)
    • 中公文庫 1993年、新編2016年。「付・新亜細亜小論」
    • 土曜社〈土曜文庫〉、上・下 2017年
  • 『日本及日本人の道』(1926年、行地社出版部)
  • 『特許植民会社制度研究』(1927年、東京寶文館)
  • 『日本精神研究』(1930年、文録社)
  • 『國史読本』(1931年、先進社)
  • 『日本二千六百年史』(1939年、第一書房)
  • 『亜細亜建設者』(1941年、第一書房)
  • 『米英東亜侵略史』(1942年第一書房)。土曜社〈土曜文庫〉、2018年
  • 『回教概論』(1942年、慶應書房)
  • 『大東亜秩序建設』(1943年第一書房
  • 『古蘭』(1950年岩崎書店) 
  • 『安楽の門』(1951年、出雲書房)。大川周明顕彰会、1988年
  • 『大川周明全集』(全7巻)、同刊行会編・岩崎学術出版社、1961年-1974年
  • 『大川周明関係文書』 同刊行会編・芙蓉書房出版、1998年、ISBN 4829502037
  • 近代日本思想大系21 大川周明集』 筑摩書房、1975年。橋川文三責任編集
  • 『日本的言行 叢書日本人論16』大空社、1996年

著作・新版 編集

  • 『頭山満と近代日本』 春風社 2007年、中島岳志編解説
  • 『道 大川周明道徳哲学講話集「人格的生活の原則・中庸新註」』 書肆心水、2008年
  • 『特許植民会社制度研究 大航海時代から二十世紀まで』 書肆心水、2008年
  • 『アジア主義者たちの声 (下)』 (同上、2008年)
    五・一五事件調書、「振興アジアの諸問題」序、北一輝君を憶う 他を収録。
  • 『文語訳 古蘭 (上・下)』(同上、2009年)
  • 『敗戦後』(同上、2010年)
  • 『マホメット伝』(同上、2011年)
  • 『大川周明世界宗教思想史論集』(同上、2012年)
  • 『安楽の門』(同上、2015年)
  • 『日本二千六百年史 米英東亜侵略史 復興亜細亜の諸問題』
    呉PASS出版(ネット販売)、2017年。初版復刻本・ソフトカバー
    • 『復興亜細亜の諸問題(上・下)』、『米英東亜侵略史』
    • 『日本二千六百年史』、各 土曜社・土曜文庫、2017-19年
  • 『日本二千六百年史』 毎日ワンズ、2008年、新書版2017年、増補版2021年
  • 『大川周明「獄中」日記 米英東亜侵略史の底流』 毎日ワンズ、2009年
  • 『日本精神研究』 徳間書店、2018年
  • 『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』 徳間書店、2018年
  • 『大川周明「世界史」』 毎日ワンズ、2019年
  • 『壇上の大川周明』 毎日ワンズ、2022年

関連作品 編集

小説
マンガ
映画
テレビドラマ

関連文献 編集

伝記・研究
資料

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『大川周明関係文書』柳澤一二宛て書簡(昭和30年4月27日)に云う、「平泉澄博士は、当代の学者中、生(周明)が先生と敬ひて師事する唯一人」とあり、年下の国史学者平泉を評価していたという。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 郷土の先人・先覚46 《大川 周明》”. www.shonai-nippo.co.jp. 荘内日報社. 2023年8月4日閲覧。
  2. ^ 世界大百科事典 第2版 大川周明[1]
  3. ^ 大塚健洋『大川周明』
  4. ^ 第五高等学校 編『第五高等学校一覧 自明治41年至明治42年』梅田平次郎、1908年、165頁。 
  5. ^ 大川周明『日本精神研究』序文
  6. ^ 松本清張『昭和史発掘 (4)』103頁、文春文庫
  7. ^ 大田尚樹『満州帝国史』93頁、新人物往来社
  8. ^ 理論研究に日本国家社会主義学盟設立『大阪毎日新聞』昭和7年4月15日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p197 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  9. ^ 大川周明が仮出所『東京日日新聞』(昭和12年10月14日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  10. ^ 『国際検察局尋問調書』第23巻
  11. ^ 1943年10月5日大川日記
  12. ^ 『新亜細亜』1943年2月号
  13. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  14. ^ a b 大川周明|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2023年8月4日閲覧。
  15. ^ 大塚健洋『大川周明』中公新書、1995年、188-190頁
  16. ^ 。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、477頁。NDLJP:1276156 
  17. ^ 松本清張『松本清張全集 22 屈折回路・像の白い脚・他』文藝春秋、1973年、370-372頁。 

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集