近角 常観(ちかずみ じょうかん、明治3年4月24日1870年5月24日) - 昭和16年(1941年12月3日は、日本の明治~昭和期に活動した真宗大谷派僧侶宗教家は求道院、は常観。

近角 常観
生誕 明治3年4月24日1870年5月24日
滋賀県東浅井郡朝日村
死没 昭和16年(1941年12月3日
東京市本郷区森川町
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真宗大谷派西源寺の住職。東京本郷の求道学舎と求道会館において学生知識人を感化する。『歎異抄』を中心として、親鸞の精神を説く。『政教時報』『求道』『信界建現』を創刊して、信仰の普及に努める。

岩田文昭碧海寿広らによって近代以降の日本思想史および日本精神史に近角が与えた影響の大きさが再検討されている。

経歴

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滋賀県東浅井郡朝日村(後の湖北町。現在は長浜市)の真宗大谷派西源寺の住職である近角常随の長男として生まれる。東本願寺経営の育英教校に学び、真宗大谷派僧侶で宗教哲学者清沢満之と出会う。

1889年(明治22年)、 京都府尋常中学校[注釈 1]を卒業ののち、東本願寺の留学生として上京する。共立学校を経て、第一高等学校に学ぶ。 1894年(明治27年)4月8日、大日本仏教青年会が結成される。活動の中心人物は近角のほか、沢柳政太郎月見覚了三好愛吉高楠順次郎桜井義肇梅原融広田一乗真岡湛海柏原文太郎和田鼎藤岡勝二秦敏之本多辰次郎常盤大定木村泰賢土屋詮教渡辺海旭荻野仲三郎境野哲高島米峰安藤正純大森禅戒柴田一能など。

1895年(明治28年)、帝国大学文科大学哲学科に入学。井上哲次郎に師事する。

1896年(明治29年)から1897年(明治30年)にかけて、白川党宗門改革運動に参加するが、挫折して帰京する。

1897年(明治30年)9月17日、深刻な煩悶の果てに病(筋炎)に臥して後に、廻心を体験して、信仰を確立する。

1898年(明治31年)、東京帝国大学(1897年に帝国大学より改称)を卒業する。

1898年(明治31年)10月29日、仏教徒国民同盟会の結成に参加する。巣鴨監獄教誨師問題への対策のため。

1899年(明治32年)1月1日、仏教徒国民同盟会出版部、『政教時報』を創刊する(1903年(明治36年)12月8日発行の第107号まで)。

1899年(明治32年)5月、仏教徒国民同盟会は大日本仏教徒同盟会と改称される。

1899年(明治32年)12月9日第2次山縣内閣は第14回帝国議会貴族院に宗教法案を提出。以降、大日本仏教徒同盟会は近角常観を中心に反対運動を展開。法案は実現せず。

1900年(明治33年)3月24日、東本願寺の命により、池山栄吉と共に欧米視察に赴く。入れ替わりに清沢満之が常観の留守宅に入り、浩々洞を開始する。

1901年(明治34年)4月8日ベルリンで「花祭り」を挙行する[注釈 2]。発起人は近角のほか、同時期ベルリンに滞在していた、姉崎正治藤代禎輔芳賀矢一池山栄吉巖谷小波窪田重一倉知鉄吉松本文三郎松村松年美濃部達吉宮本淑森孝三長岡外史薗田宗恵玉井喜作津軽英麿吉田静致

1902年(明治35年)3月24日、帰国。同年6月、求道学舎を開設して、「日曜講話」を始める。以降、学舎には、阿刀田令造谷川徹三亀谷凌雲木村雄吉津村重舎 (二代目)らが在籍した。

1903年(明治36年)10月8日、『政教時報』第105号に、近角常観「求道会館設立の趣旨を披瀝す」と「求道会館設立趣意書」が掲載される。 趣意書の発起人は近角常観で、賛助員は以下の48人。秋野孝道安達憲忠姉崎正治池山栄吉石川成章板橋盛俊稲葉昌丸今井喜八今川覚神上杉文秀大内青巒大草慧実岡田治衛武小河滋次郎柏原文太郎片山国嘉久我通久齋藤唯真境野哲桜井義肇酒生慧眼佐竹観海沢柳政太郎島地黙雷島田蕃根白鳥庫吉新保徳寿杉村広太郎高楠順次郎月見覚了常盤大定朝永三十郎南条文雄西沢善七野田藤馬荻野仲三郎藤井健治郎藤島了穏本多辰次郎前田慧雲真岡湛海松本文三郎丸井圭治郎三好愛吉村上専精吉田賢竜吉田静致和田鼎

1904年(明治37年)2月1日、『求道』(求道発行所)を創刊する(1922年(大正11年)5月10日発行の第18巻第1号まで)。

 
求道会館(東京都指定有形文化財)。近角の信仰を伝えるための仏教の教会堂。50年間閉鎖されていたが有形文化財指定により創建当初の姿に復原され、2002年6月に開館した[2]。裏手には近角が開設した学生寮の求道学舎があり、孫により2006年に集合住宅に改装された[3][4]

1915年(大正4年)11月30日、求道会館が完成する。設計は武田五一、施工は、戸田建設創業者の初代戸田利兵衛。発起人総代は、小河滋次郎柏原文太郎沢柳政太郎有田広長尾収一大草慧実西沢善七荻野仲三郎。落慶式には、井上円了高楠順次郎南条文雄が演説をした。会館は、全国各地の信者・支援からの寄附金のほか、三菱合資会社の桐島像一など財界人からの支援で建設された。

1927年(昭和2年)、第二次宗教法案への反対運動に従事する。

1928年(昭和3年)、法主大谷光演(句仏)をめぐる事件(大谷光演#句仏事件)において、大谷派改正宗憲・改正大谷家憲に反対する小冊子を配布する。

1929年(昭和4年)、同上の理由により真宗大谷派の僧籍を剥奪される(後に復籍)。

1929年(昭和4年)、東本願寺改新有志者大会を開き、宗門改革を訴える。

1930年(昭和5年)1月15日、タブロイド紙『信界建現』(求道発行所)を創刊する。

1931年(昭和6年)、脳溢血で倒れ、以後は病床生活を送る。

1937年(昭和12年)8月25日、長男の近角文常が応召。歩兵第101連隊に従軍し、9月19日、上海上陸。文常は東京帝国大学文学部東洋史学科出身。専門は中国浄土教史で、応召まで東洋文庫に勤務。

1938年(昭和13年)10月1日、近角文常、武漢作戦に従軍中、廬山付近にて戦死(享年30)。同日任陸軍歩兵大尉。

1938年(昭和13年)11月20日、『信界建現』第61号をもって終刊となる。

1941年(昭和16年)12月3日、死去(享年71)。

主要な著書

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交友があった人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ 中学校は府の財政難から東本願寺の経営になり校長に清沢満之。留学生として近角を推薦。
  2. ^ 当時ドイツ語の「Blumen Fest(ブルーメンフェスト)」と称し、これを日本語に訳すと「花まつり」となる。これが大きく盛り上がったため、後の1916年に日本の日比谷公園で、安藤嶺丸らが釈迦の誕生日法要を「花まつり」と称したことの起源ともされる[1]
  3. ^ 宮沢賢治の父および妹[5]

出典

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外部リンク

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