山本 泰(やまもと やすし、1945年7月7日 - 2020年8月11日)は、日本アマチュア野球選手、学生野球指導者、プロ野球スカウト。旧姓は鶴岡(つるおか)[1]

山本 泰
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県
生年月日 (1945-07-07) 1945年7月7日
没年月日 (2020-08-11) 2020年8月11日(75歳没)
身長
体重
177[注 1] cm
74[注 1] kg
選手情報
投球・打席[注 1]投右[注 1]
ポジション 外野手[注 1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

父は南海ホークス監督の鶴岡一人[3]。弟はミズノ常務取締役の鶴岡秀樹。

経歴 編集

山口県生まれ[4][注 3]大阪府大阪市立阪南中学校を卒業後、神奈川県法政大学第二高等学校に進学[4]。1年生の時、エース柴田勲を擁し1961年第43回全国高等学校野球選手権大会に出場[4]左翼手として予選、大会1回戦では先発出場を果たす。チームは準決勝で、尾崎行雄らのいた浪商に延長11回敗退した[5]。その後は控え投手も兼ね、1962年1963年の夏はともに県予選準決勝に進出するが、いずれも慶應高に敗退、甲子園には届かなかった。1年上のチームメートには村上雅則がいた。

卒業後は法政大学法学部に進学[6]東京六大学野球リーグでは在学中2回の優勝を経験、外野手として活躍する。4年生の時には、2年生エース山中正竹を擁し、主将、三番打者として、1967年秋季リーグで優勝[4]。大学同期に秋元国武、1学年下には田淵幸一、山本浩司(のちの山本浩二)、富田勝の「法政三羽烏」がいた。同年11月のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから12位指名される[1]が、これは監督である父がプロ入りを断念させるためにあえて指名したものであった[3]

大学卒業後は社会人野球日本楽器[1]に入社、1968年から都市対抗野球大会に3年連続で大昭和製紙の補強選手として出場。1970年大会ではチームの2回目の優勝に貢献した[7]。その後日拓観光[2]でプレーし、1974年PL学園高校野球部監督へ就任[6]1976年第58回全国高等学校野球選手権大会で準優勝[6]1978年第60回全国高等学校野球選手権大会[6]逆転のPLで初優勝[6]。常勝チームを築いた。このころまで鶴岡姓だったが、のちに母親の姓である山本姓に代えている[8]1980年の夏を最後に、中村順司へ後を譲り退任[9]

PL学園退任後は大阪産業大学高校の野球部監督を務め[6]1990年から任期4年で法大監督に就任[10]。その間、法政大学野球部監督就任のため、同通信教育部法学部法律学科へ再入学し、学士を取得した(1977年卒業)[6]。法大監督在任中に東京六大学リーグ戦の優勝は果たせなかったが、1990年の秋季リーグ戦は立教大学と優勝決定戦まで縺れ込む熱戦を繰り広げたほか、1992年の春季リーグ戦では明治大学と「勝ち点を挙げた方が完全優勝」という展開まで持ち込んだ[注 4]1993年秋季リーグ戦終了後に任期満了で監督を退任し、後任に山中正竹が就任した。

その後は大阪近鉄バファローズのスカウトとしてプロ球界に活動の場を移し[6][注 5]岩隈久志などの獲得に尽力した。2004年暮れの同球団解散後にシアトル・マリナーズのスカウトへ就任した[6]

マリナーズのスカウトを退任後、2017年10月からは、母校の法政大学第二高等学校野球部のコーチとして同時期に復帰した根本恭一監督をサポートしていた[11]

2020年8月11日1時30分、腹部大動脈瘤破裂のため、東京都府中市の病院で死去[12]。75歳没。

監督としての成績 編集

甲子園での成績 編集

大会名 出場校 出場数 成績 備考
選抜高等学校野球大会 PL学園 2回 5勝2敗
全国高等学校野球選手権大会 PL学園 3回 9勝2敗 優勝1回
通算 5回 14勝4敗 優勝1回、勝率.778

東京六大学リーグ戦での成績 編集

  • 8シーズン中、2位2回、3位4回、4位2回
  • なお、山本は在任8シーズンで優勝が無かったため、1990年4月入学生は1956年入学生以来の「優勝経験ゼロで卒業」となった。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b c d e 大学時代のプロフィール…[1]
  2. ^ 一部資料より、監督という旨の記載はないが、日拓観光ののちPL学園に籍を置いていた旨が明記[2]
  3. ^ 山口県出身とする情報については、次の資料[2]も参照。
  4. ^ この時は先勝し王手をかけた後、2連敗して勝ち点を落とした。
  5. ^ 次の資料でも、法大監督ののち近鉄へ入団したことが記載[2]

出典 編集

  1. ^ a b c d e 『プロ野球ドラフト全史 2002年最新版』(『B.B.MOOK』第243号、『スポーツ・スピリット21』シリーズ第9号。2003年1月15日、ベースボール・マガジン社発行 ISBN 978-4583612102)に掲載された、日本プロ野球ドラフト会議歴代全指名選手データベースを参照。「鶴岡 泰」(つるおか やすし)の名前で記載。
  2. ^ a b c d e f g h i 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』(『ホームラン』2002年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P175掲載「パ・リーグ スカウト(編成部)一覧」 ※近鉄スカウトのひとりとして「山本泰」の名が記載。
  3. ^ a b 鶴岡一人、山本泰 - 『プロ野球2世代写真展 「野球一族」 いにしえ編』(時事通信社ウェブサイト内)
  4. ^ a b c d 朝日新聞、1978年8月21日付朝刊 (13版、3面)
  5. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  6. ^ a b c d e f g h i 山本泰 - 卒業生・在学生の声 - 法政大学通信教育部公式サイト内インタビュー(2013年当時取材…※リンク先より、今年68歳になるという旨の発言あり)
  7. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  8. ^ 週刊ベースボール増刊『大学野球』1990年春季リーグ戦展望号によると、実生活では先に変えていたとのことで、子供が戸惑わないよう野球関係でも山本姓で統一した。
  9. ^ 元PL学園・中村順司編(4) 選手との交換日誌契機に“実力優先”廃止 - 『ZAKZAK』(夕刊フジニュースサイト)内連載記事『高校野球 名将列伝』2014年8月24日付
  10. ^ 朝日新聞、1989年11月30日付朝刊 (14版、23面)
  11. ^ 78年夏、PL学園高を率いて頂点へ。母校・法政二高の復活に情熱を燃やす山本泰氏 - 週刊ベースボールONLINE、ベースボール・マガジン社、2018年4月8日
  12. ^ "「逆転のPL」で初V導いた名将・鶴岡泰さんが急死 夏のセンバツ開幕翌日に…". サンケイスポーツ. 産経デジタル. 12 August 2020. 2020年8月12日閲覧

関連項目 編集