ザ・フォーク・クルセダーズ
ザ・フォーク・クルセダーズ(英語: The Folk Crusaders)は、1960年代後半にデビューした音楽制作集団で、フォークルという略称でも呼ばれる。「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と表記されることもある。
ザ・フォーク・クルセダーズ | |
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出身地 |
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ジャンル | フォーク |
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レーベル | |
旧メンバー |
略歴編集
アマチュア時代編集
1965年、当時大学生だった加藤和彦が、雑誌「MEN'S CLUB」の読書欄で一緒にフォークをやってくれるメンバーを募集したところ、京都の医大生だった北山修と、浪人生の井村幹夫、芦田雅喜、そして高校3年生だった平沼義男の5人が集まり、アメリカの「ジャズ・クルセイダーズ」から名前を取って、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトの「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成する[1][2]。その後、受験勉強のため井村と芦田が脱退、3人組となる。その後、大阪外国語大学生となった芦田が復帰、再び4人組で活動するが、芦田が2度目の脱退をし、またも三人組になり、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。
1967年の解散を記念して、製作費23万円で[3]自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。300枚しか制作できなかったこのアルバムの中に、自作の『帰って来たヨッパライ』と、アマチュア時代から歌い続けてきた『イムジン河』が含まれていた。三人時代に制作されたものだが、ライブテープを一部使用しているため、芦田の声も聞くことが出来る。最初期に脱退した井村の声は入っていない。同年10月に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演した後に解散する[4]。
プロデビュー編集
1967年、アルバム『ハレンチ』を音源として、フォークルの歌がラジオでさかんに取り上げられるようになった。京都では『イムジン河』、神戸では『帰って来たヨッパライ』が頻繁にラジオで流されるようになった。やがて、こうした状況を察知した各レコード会社が再結成とプロデビューの話を持ちかける。加藤は反対したが、北山の説得に応じて「それでは一年だけなら」とのことで一年限りのプロ活動を承認し再結成。プロデビューに当たっては、平沼らに代わってはしだのりひこが参加する(北山は声が良くスター性のある杉田二郎を3人目に推薦したが、加藤がプロ活動の条件にはしだの加入を主張したとのこと。また北山が杉田を推薦した理由が「背を揃えるため」というのは後付けであった)。『帰って来たヨッパライ』は1968年に開始されたオリコンで史上初のミリオンヒットになるなど、当時の日本のバンドによるシングル売り上げ一位となる爆発的売れ行きを見せ、一躍メンバーは時の人になった。そして『帰って来たヨッパライ』、『悲しくてやりきれない』などの楽曲を含むアルバム『紀元貮阡年』により、大衆音楽への新たな方向性を切り開いた。
1968年10月17日、大阪でのさよならコンサート(この公演では平沼と芦田も第一幕に参加している。北山は井村が抜けているにもかかわらず、これが初代のメンバーといっている)を開き、同日の『11PM』に出演。約束通りに解散した。『青年は荒野をめざす』(五木寛之作詞)が本グループとして最後のシングル曲になり、1968年12月に発売されている。『週刊平凡』1968年9月19日号によると、累計売上は14億5000万円[3]。
解散後編集
このフォークルのブレイクにより、その周囲の人達(松山猛、ザ・ムッシュ、ロック・キャンディーズ、ジローズなど)が世に出るきっかけともなった。その一方でザ・フォーク・クルセダーズのメンバーたちは離合集散を繰り返しながら音楽活動を継続していった。
はしだのりひこは「はしだのりひことシューベルツ」「はしだのりひことクライマックス」「はしだのりひことエンドレス」などを結成、解散を繰り返し、ソロ転向。杉田二郎、坂庭省悟などを世に出すきっかけともなるがその後はフォークルファミリーとは一線を画し、独自の活動を行った。
北山修は作詞家として大成功するも、医学部を卒業し、研修医を経て大学院進学を機にしばらく活動を中止。のち大学教授にまでなったため、あくまで学者としての活動が主で、芸能活動は従のスタンスを取る。
加藤和彦はソロに転向するが、やがてサディスティック・ミカ・バンドを結成。加藤和彦と北山修のコンビで「あの素晴しい愛をもう一度」を発表した。
詳細はそれぞれのページを参照のこと。
期間限定新結成編集
2002年、加藤和彦は北山修と再会し、その結果として生まれたのが『戦争と平和』であった。ちなみに、この時のフォークル新結成にはザ・フォーク・クルセダーズの大ファンであった坂崎幸之助(THE ALFEE)が、はしだのりひこに代わるメンバーとして参加している。
2002年11月17日に、NHKホールで一度きりのコンサート『新結成記念解散音楽會』を開催した。北山は国立大学の教員という身分であるため、「愛情出演」という形でこのコンサートに出演した。
アルバム1枚とシングル1枚を発表するが、新結成は当初より期間限定であったため、2002年12月31日をもって解散した。解散後に前述のコンサートのライブ盤が発売された。
- アマチュアフォークルとしての再結成は上記以外にも何度かある。ただし、それが「フォークル」と呼べるのかどうかは問題である。
2006年の再結成コンサート以降編集
2006年9月10日、埼玉県狭山市の狭山稲荷山公園内にて開催された『HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2006』にて「ポーク・クルセダーズ」名義にて一夜限りの5度目となる再結成コンサートが行われた。この変名は、昨年の同フェスティバルにて販売された「HYDEPORK」ともじったオフィシャルTシャツのデザインを由来としている。メンバーは加藤和彦と坂崎、そして「足柄金太」なる人物(見物した多くのファンが「あの男」だと証言。「足柄金太」はその男がかつて使った変名である)を加えた構成であった。その後も時折再結成を行っており、その際には変名は使わずその男も「きたやまおさむ」名義での参加となっていたが、2009年10月17日の加藤の死により再集結は不可能となった(翌年3月21日のきたやまの九州大学退官記念コンサートでも3人が揃う予定であった)。この年の4月に初期メンバーの平沼義男がフォークルをもじった「ザ・ボーク・クルセダーズ」を結成し音楽活動を再開。
2010年1月に京都放送の元音楽ディレクター宅から、1968年10月14日に京都弥栄会館にて行われた解散コンサートの模様を途中までではあるが録音したテープが発見された[5]。同音源は2010年7月10日に京都放送から発売されたCD-BOX『京都フォーク・ディズ~ラジオで聴いた青春の歌』に収録された[6]。
きたやま・坂崎での再始動編集
2012年、きたやまと坂崎は加藤が遺書の中で拒否した追悼を行う意味で新作アルバムを制作することを計画する。きたやまの自宅で発見された加藤の未発表曲(元々ベッツィ&クリス再結成のために提供される予定だったもの。きたやまは松山などにも加藤の未発表曲がないかを聞いて回ったが見つかったのは結局これだけであったという)をベースにした「若い加藤和彦のように」を制作したほか、加藤のソロ曲や過去のフォークルなどでの北山&加藤コンビの作品をカバー・レコーディング。ザ・フォーク・クルセダーズ名義のアルバム「若い加藤和彦のように」を制作、翌2013年3月30日に発売(選曲のテーマは「これをやれば加藤が怒って戻って来るだろう」というものであり、自死への抗議の意味も込めている)。これに先駆け1月から3月にかけ坂崎の番組や、きたやまのライブステージなどで曲が一部公開された。
2022年9月28日には、イムジン河新録実行委員会により、1968年オリジナルと2022年最新バージョン等を収録した「イムジン河」の集大成となるCD盤を発表された[7]。
ディスコグラフィー編集
シングル編集
発売日 | 規格 | 規格品番 | 面 | タイトル |
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東芝音楽工業・キャピトル | ||||
1967年12月25日 | EP | CP-1014 | A | 帰って来たヨッパライ |
B | ソーラン節 | |||
1968年2月21日[注釈 1] | EP | CP-1023 | A | イムジン河 |
B | ヘビに喰われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語 | |||
1968年3月21日 | EP | CP-1025 | A | 悲しくてやりきれない |
B | コブのない駱駝 | |||
1968年11月10日 | EP | CP-1034 | A | ゲ・ゲ・ゲの鬼太郎 |
B | 山羊さんゆうびん | |||
1968年11月10日 | EP | CP-1035 | A | さすらいのヨッパライ |
B | 戦争は知らない | |||
1968年11月10日 | EP | CP-1036 | A | 何のために |
B | 花のかおりに | |||
1968年12月5日 | EP | CP-1037 | A | 青年は荒野をめざす |
B | 百まで生きよう | |||
1970年4月5日 | EP | CP-1053 | A | 大蛇の唄[注釈 2] |
B | ドラキュラの恋 | |||
アゲント・コンシピオ | ||||
2002年3月21日 | CD | AGCA-1003 | A | イムジン河 |
B | 悲しくてやりきれない | |||
ドリーミュージック | ||||
2002年11月27日 | CD | MUCD-5025 | A | DAIKU~ベートーヴェン交響曲第9番より[注釈 3] |
B | タテツキー行進曲[注釈 4] |
ザ・ズートルビー名義編集
※東芝音楽工業・EXPRESSレーベルから発売。
発売日 | 規格 | 規格品番 | 面 | タイトル |
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1968年7月1日 | EP | EP-1109 | A | 水虫の唄 |
B | レディー・ジェーンの伝説 |
アルバム編集
オリジナル・アルバム編集
- 『ハレンチ』(マーキュリー:1967年、自主制作盤)
- 『紀元貮阡年』(東芝音楽工業、1968年7月、CP-8417)
- 『戦争と平和』(ドリーミュージック、2002年)
- 『若い加藤和彦のように』(EMIミュージック・ジャパン、2013年)
ライブ・アルバム編集
- 『当世今様民謡温習会』(東芝音楽工業、1968年)
- 『フォークルさよならコンサート』(東芝音楽工業、1969年)
- 『新結成記念 解散音楽會』(ドリーミュージック、2002年)
- 『フェアウェル・コンサート』(avex io、2003年)
ベスト・アルバム編集
- フォークル大百科事典(東芝音楽工業、1969年)
- ザ・フォーク・クルセダーズのすべて(デラックス・ダブル・シリーズ)(東芝EMI)
- CD BEST NOW ザ・フォーク・クルセダーズ(東芝EMI、1987年)
- BIG ARTIST best COLLECTION~フォーククルセダーズ(東芝EMI、1990年)
- シングル・コレクション(東芝EMI、1991年)
- FOLK CRUSADERS AND THEN TWIN BEST(東芝EMI、1998年)
- MEMORIAL FOLK CRUSADERS(東芝EMI、2002年)
- GOLDEN BEST(東芝EMI、2004年)
- NEW BEST 1500(東芝EMI、2006年)
- スーパーベスト ザ・フォーク・クルセダーズ(東芝EMI、2006年)
- おとなツイン・ベスト ザ・フォーク・クルセダーズ&MORE(EMIミュージック・ジャパン 2010年)
テレビ番組編集
映画編集
- 『帰って来たヨッパライ』(大島渚監督、松竹、1968年)
参考編集
「Crusader(十字軍)」のカタカナ表記は一般的には「クルセイダー」だが、グループ名は『イムジン河』の(当初の)発売(予定時)に際し「クルセダー」に表記を変更した。
関連書籍編集
- 田家秀樹『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ - 若い加藤和彦のように』、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス、2015年、ISBN 978-4636915242
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ BIOGRAPHY - ザ・フォーク・クルセダーズ - UNIVERSAL MUSIC JAPAN. 2021年11月5日閲覧
- ^ 龍谷人偉人伝 │加藤和彦. 2021年11月5日閲覧
- ^ a b 田家秀樹『読むJ‐POP―1945‐1999私的全史 あの時を忘れない』徳間書店、1999年、117頁。ISBN 4-19-861057-6
- ^ 「映画『パッチギ!』製作ノート」(『パッチギ!』公式サイト掲載)
- ^ フォークル解散公演の音源発見 京都放送がCD化へ
- ^ KBS京都からのお知らせ: KBS京都監修フォークCD-BOX詳細決定!!「京都フォーク・ディズ~ラジオで聴いた青春の歌」
- ^ “ザ・フォーククルセダーズ”. universal-music.co.jp. 2022年9月29日閲覧。
関連項目編集
外部リンク編集
- ザ・フォーク・クルセダーズ - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
- ザ・フォーク・クルセダーズ - 記憶の記録 LIBRARY