ジャンパオロ・ダラーラ
ジャンパオロ・ダラーラ(伊:Giampaolo Dallara、英:Gian Paolo Dallara、1936年11月16日 - )は、イタリア出身の自動車技術者、実業家。自動車企業「ダラーラ・アウトモビリ」の創業者。
ジャンパオロ・ダラーラ Giampaolo Dallara | |
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![]() イタリア・ラリーイベント「La Festa Mille Miglia 2016」パルマ・ステージにて | |
生誕 | 1936年11月16日(84歳)![]() エミリア=ロマーニャ州パルマ県ヴァラーノ・デ・メレガーリ[1] |
国籍 | ![]() |
別名 | Gian Paolo Dallara |
教育 | ミラノ工科大学 |
業績 | |
専門分野 |
自動車エンジニア カーデザイナー レーシングカーデザイナー 技術コンサルタント 実業家 |
勤務先 |
ダラーラ・アウトモビリ(1972年 - 現在) フェラーリ(1960年 - 不明) マセラティ(1961年 - 不明) ランボルギーニ(1963年 - 1969年) デ・トマソ(1969年 - 1970年代) |
設計 |
ランボルギーニ・ミウラ ランボルギーニ・エスパーダ フィアット・X1/9 BMW・M1 ランチア・LC1 フェラーリ・333SP デ・トマソ・505/38 ダラーラ・BMS188、ほか多数 |
受賞歴 | 2013年:イタリア共和国功労勲章 |
青年期には母国自動車メーカーの要職を歴任し、特にランボルギーニにて高い実績を積む。1970年代からは自ら起業して、モータースポーツの分野に進出。以来、ほぼ全般にフォーミュラカーを供給する一大企業に育て上げた。
略歴編集
スーパーカー開発編集
パルマ県ヴァラーノ・デ・メレガーリ出身[1][2]。ミラノ工科大学で航空力学を専攻し、1959年に博士号を取得して、母国の自動車メーカー『フェラーリ』に入社。カルロ・キティの下でエンジニアリング・アシスタントを担当した[3]。1962年には『マセラティ』へ移籍し、両社ともモータースポーツの仕事にも関わった[4]。
1963年、新興メーカーであった『ランボルギーニ』にスカウトされ、チーフエンジニアの地位に就く。ここで同僚のパオロ・スタンツァーニやボブ・ウォレス[5]、マルチェロ・ガンディーニ(ベルトーネ社)らと共同で、初期の代表車種である「ミウラ」や「エスパーダ」などを開発した[6]。
一方で、フェラーリやマセラティ時代に体験したフォーミュラカーの開発も熱望しており、ランボルギーニでも計画していたが途中で頓挫。実現のために1969年から『デ・トマソ』に移籍する[7]。F2マシンやフランク・ウィリアムズ(後のウィリアムズF1チーム代表)率いる『フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ』のF1マシン設計を担当する。
モータースポーツ・コンストラクターとしての成功編集
やがてデ・トマソを離れ、1972年に地元パルマ県にて起業し、自動車メーカー『ダラーラ・アウトモビリ』を設立した。初期は国内向けの小排気量スポーツカーを発表しながら、ランチア・ストラトス(グループ4)やランチア・ベータ・モンテカルロ(グループ5)など外部企業の開発コンサルタントを請け負う。
フォーミュラカーの分野においては、デ・トマソ時代に縁のあったフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズの仕事を請け負い、F1マシンの改修に協力。後の同チーム純正F1マシン「ウィリアムズ・FW」の誕生に貢献した。そして1978年よりF3シャーシの製造・販売市場に参入し、F3初のカーボンモノコックを開発[8]。ラルトやレイナードとのシェア争いを経て、1990年代末にはダラーラの寡占状態を実現する[9]。2000年代以降、フォーミュラレースで車体のワンメイク化が進行すると、GP2(→FIA F2)、GP3(→FIA F3)などの下位カテゴリーにおいて、独占供給するまでに会社を成長させた[10]。
F1にはチーム『スクーデリア・イタリア』と提携し、1988年よりコンストラクターとして参戦。その後は、米国のインディカー・シリーズや耐久レースの分野にも供給を拡大させ、2000年代にはル・マン耐久シリーズに出場するプロジェクトを指揮。2010年代はスーパーフォーミュラやフォーミュラEへの供給も開始。さらには念願だったロードカーの開発に着手し[11]、2017年に初の自社製市販車「ダラーラ・ストラダーレ」を発表している[12]。
社外の役員としては、1980年代からイタリア・モータースポーツ委員会に属し、1996年に副会長に就任。1998年には、国際自動車連盟 (FIA) のイタリア代表委員に選出されている。表彰に関しても数多く、2013年には母国の栄誉「イタリア共和国功労勲章」(グランデ・ウッフィチャーレ)を受勲した。
開発に関わった主な車種編集
- ロードカー (市販車)
ほか多数
ギャラリー編集
ランボルギーニ時代 - V12エンジンを前にする本人(右)、フェルッチオ・ランボルギーニ(中) 、ジオット・ビッザリーニ(左) 1963年
エンツォ・フェラーリ(左)らと談笑(本人・中) 1960年代末
レーサー ジャッキー・イクス(中)と囲み取材(本人・右隣) 1960年代末
脚注編集
- ^ a b “Giampaolo Dallaraプロフィール”. ダラーラ・アウトモビリS.p.A. 2020年6月1日閲覧。
- ^ 『Racing On 2006年8月号(No.405)特集 シャシーコンストラクター』、ニューズ出版、17頁。
- ^ “ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?”. Octane Japan 編集部 (2019年4月18日). 2019年9月21日閲覧。
- ^ “あのジャンパオロ・ダラーラがSF最終戦鈴鹿に登場”. オートスポーツweb (2014年10月5日). 2019年6月17日閲覧。
- ^ “観光名所ではないけれどしっかり見ておきたいラウンドアバウト”. Carview (2019年9月15日). 2019年10月3日閲覧。
- ^ “【伝説のランボルギーニ③】ミウラは世界を驚かせる“奇想天外”なスーパーカーだった”. webモーターマガジン (2019年6月6日). 2019年6月16日閲覧。“フェルッチオの理想が完成「350 GT & 400 GT」(1964-1966)【ランボルギーニ ヒストリー】”. GENROQ Web (2019年9月22日). 2019年10月3日閲覧。“名作「ミウラ」誕生までの実話(1965-1966)【ランボルギーニ ヒストリー】”. GENROQ Web (2019年9月29日). 2019年10月3日閲覧。
- ^ “Giampaolo Dallaraバイオグラフィー”. ランボルギーニS.p.A. 2020年6月1日閲覧。
- ^ 『Racing On 2006年8月号(No.405)特集 シャシーコンストラクター』、ニューズ出版、24頁。
- ^ “世界最大レースカーメーカー創始者の夢を実現した“道”という名のクルマ”. Response (2019年4月24日). 2019年10月3日閲覧。
- ^ “ダラーラを知っているか? 知っておきたい歴史”. AUTOCAR JAPAN (2018年4月26日). 2019年6月16日閲覧。
- ^ “Dallara Stradale 文化と情熱を共有する”. Forbes JAPAN (2019年6月18日). 2019年7月10日閲覧。
- ^ “ダラーラ・ストラダーレ試乗 初のロードカー市販”. AUTOCAR JAPAN (2018年3月26日). 2019年6月16日閲覧。