バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ
バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ(Valdo Cândido de Oliveira Filho、1964年1月12日 - )は、ブラジル・サンパウロ州シデロポリス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー(ミッドフィールダー)。所属したどのチームにおいても信頼され頼りにされたゲームメーカであった[1]。
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名前 | ||||||||||||||
本名 |
バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ Valdo Cândido de Oliveira Filho | |||||||||||||
ラテン文字 | VALDO | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | ブラジル | |||||||||||||
生年月日 | 1964年1月12日(60歳) | |||||||||||||
出身地 | シデロポリス | |||||||||||||
身長 | 173cm | |||||||||||||
体重 | 66kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | MF (DH) | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1983 | フィゲイレンセFC | |||||||||||||
1984-1987 | グレミオFBPA | 96 | (18) | |||||||||||
1987-1991 | SLベンフィカ | 78 | (11) | |||||||||||
1991-1995 | パリ・サンジェルマンFC | 115 | (10) | |||||||||||
1995-1997 | SLベンフィカ | 60 | (9) | |||||||||||
1997-1998 | 名古屋グランパスエイト | 26 | (4) | |||||||||||
1998-2000 | クルゼイロEC | 56 | (7) | |||||||||||
2000-2001 | サントスFC | 19 | (1) | |||||||||||
2001 | スポルチ・レシフェ | 0 | (0) | |||||||||||
2001-2002 | アトレチコ・ミネイロ | 23 | (1) | |||||||||||
2002 | ECジュベントゥージ | 12 | (2) | |||||||||||
2003 | ADサンカエターノ | |||||||||||||
2003-2004 | ボタフォゴFR | 44 | (2) | |||||||||||
通算 | 529 | (65) | ||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1986-1993 | ブラジル | 65 | (6) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
2009 | ウニオン・ロンドノポリス | |||||||||||||
2011 | マリンガFC | |||||||||||||
2012 | セラ・マカエンシFC | |||||||||||||
2014-2015 | MCアルジェ(コーチ) | |||||||||||||
2018- | コンゴ共和国代表 | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集ブラジル代表として1986、1990と、2度のワールドカップに中心選手として出場[2]、しかし1990年大会の決勝トーナメント1回戦でアルゼンチンに0-1と敗れ、戦犯扱いを受けた一人となった[2]。1989年のコパ・アメリカでは優勝、ブラジル代表では通算45試合4ゴールの成績を残した[3]。その他1988年にはソウルオリンピックにも出場、シルバーメダルを手にした。
1987-88シーズンからSLベンフィカに移籍[3]、ここでは2度のリーグ制覇を果たし、1989-90シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ決勝に進出したが、ACミランに0-1と敗れ、準優勝に終わった[4]。
1991-92シーズンからパリ・サンジェルマンに移籍し4シーズンプレー[3]、ここでは1993-94シーズン、30試合に出場し[3]、リーグ・アンの優勝に貢献した。また2度のクープ・ドゥ・フランスなどのタイトルも獲得した。
1997年のセカンドステージから名古屋グランパスでプレー、名古屋ではドラガン・ストイコビッチと息の合ったプレーを見せた。また、若手選手への助言などピッチ内外でチームに貢献していた[5]。8月20日横浜フリューゲルス戦でJリーグ初ゴール[6]。1998年5月9日のファーストステージ12節で横浜マリノス戦に出場してゴールを決めた試合が名古屋での最後の試合となった。Jリーグでは通算26試合4ゴールの成績に終わった[6]。1997年にはJOMOカップに外国籍選手選抜の一員として先発出場した[7]。名古屋退団後はブラジル国内のチームを渡り歩き、39歳までプレー、2004年に現役を引退した[8]。退団後もJリーグには強い関心を持ち、監督をしてみたいとも話している[5]。
個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | 名古屋 | 34 | J | 16 | 2 | 4 | 1 | 1 | 0 | 21 | 2 |
1998 | 7 | 10 | 2 | 4 | 1 | 0 | 0 | 14 | 3 | ||
通算 | 日本 | J | 26 | 4 | 8 | 2 | 1 | 0 | 35 | 5 | |
総通算 | 26 | 4 | 8 | 2 | 1 | 0 | 35 | 5 |
代表歴
編集- 1986年 - 1993年 ブラジル代表
- 代表通算45試合4得点
- 1986年 - FIFAワールドカップ
- 1987年 - コパ・アメリカ
- 1988年 - ソウルオリンピック (銀メダル)
- 1989年 - コパ・アメリカ (優勝)
- 1990年 - 1990 FIFAワールドカップ
脚注
編集- ^ “バウド マラドーナの標的にされた元祖「フェノメノ」が日本にたどり着くまで”. sportiva. 5 April 2021閲覧。
- ^ a b “バウド マラドーナの標的にされた元祖「フェノメノ」が日本にたどり着くまで ページ2”. sportiva. 5 April 2021閲覧。
- ^ a b c d “Valdo”. national-football-teams.com 17 April 2020閲覧。
- ^ “Champions' Cup 1989–90”. RSSSF 17 April 2020閲覧。
- ^ a b “名古屋在籍中の元ブラジル代表を襲った悲劇。「忘れるためにプレーした」”. スポルティバ (2024年3月29日). 2024年10月2日閲覧。
- ^ a b “バウド”. data.j-league. 16 April 2020閲覧。
- ^ “JOMO CUP’97 Jリーグドリームマッチ”. data.j-league. 21 April 2020閲覧。
- ^ “名古屋在籍中の元ブラジル代表を襲った悲劇”. sportiva. 5 April 2021閲覧。
- ^ “Valdo”. lequipe.fr 17 April 2020閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - Olympedia
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - National-Football-Teams.com
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - Soccerway.com
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - FootballDatabase.eu
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - WorldFootball.net
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - Transfermarkt.comによる選手データ
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - FIFA主催大会成績
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - J.League Data Siteによる選手データ
- バウド・カンディド・デ・オリベイラ・フィリョ - レキップ
- Sambafoot プロフィール