名古屋グランパスエイト
名古屋グランパスエイト(なごやグランパスエイト、Nagoya Grampus Eight)は、日本の名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全域をホームタウンとする[1]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は名古屋グランパス(なごやグランパス)である。
名古屋グランパスエイト | |||
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原語表記 | 名古屋グランパスエイト | ||
呼称 | 名古屋グランパス | ||
愛称 | 赤鯱 | ||
クラブカラー | バーバリアンレッド[1] | ||
創設年 | 1991年 | ||
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ | ||
所属ディビジョン | J1リーグ | ||
クラブライセンス | J1 | ||
ホームタウン |
名古屋市、豊田市、みよし市を 中心とする愛知県全域[1] | ||
ホームスタジアム |
パロマ瑞穂スタジアム[1] 豊田スタジアム[1] | ||
収容人数 |
パロ瑞穂:20,223[1]、 豊田スタ:43,739[1] | ||
運営法人 | 株式会社名古屋グランパスエイト[1] | ||
代表者 |
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監督 |
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公式サイト | 公式サイト | ||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 未上場 |
本社所在地 |
460-0008 愛知県名古屋市中区栄5-28-12 名古屋若宮ビル4階[1] |
設立 | 1991年7月17日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 |
1180001038970 ![]() |
事業内容 | サッカークラブの運営 |
代表者 | 小西工己 |
資本金 | 1億0,500万円[2] |
売上高 | 45億9,400万円 (2018年1月期)[2] |
営業利益 | 5億円 (2018年1月期)[2] |
経常利益 | 4億8,800万円 (2018年1月期)[2] |
純利益 | ▲1億6800万円(2020年01月31日時点)[3] |
総資産 | 27億7600万円(2020年01月31日時点)[3] |
決算期 | 1月期 |
主要株主 |
トヨタ自動車 50.12% 中日新聞社 8.04% 中部電力 3.21% 三菱UFJ銀行 3.21% 東海旅客鉄道 3.21% 東邦ガス 3.21% 名古屋銀行 3.21% 名古屋鉄道 3.21% ノリタケカンパニーリミテド 3.21% 大丸松坂屋百貨店 3.21% 他10社 (2016年6月15日現在[4]) |
関係する人物 |
豊田章一郎(初代社長) 豊田章男(元会長) 岩崎正視(元社長) 佐々木眞一(元社長) 久米一正(元社長) |
外部リンク |
nagoya-grampus |
概要編集
トヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)が母体であり、1991年のJリーグ発足時に加盟した10チームの一つ(オリジナル10)。ホームスタジアムはパロマ瑞穂スタジアムおよび豊田スタジアム、練習場はトヨタスポーツセンター第1グラウンドである[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。なお、パロマ瑞穂スタジアムは、2021年から改修工事のために休場するため、2021年シーズン以降しばらくは豊田スタジアムのみ、ホームスタジアムとなる。
ホームタウンは2011年まで名古屋市のみであったが、2012年より名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全域へ拡大している。
チーム名の「グランパス (Grampus)」は英語で鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は名古屋市の市章「丸に八」 からきており、末広がりを表す[1]。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は豊田章一郎(トヨタ自動車社長(当時))が「トヨタ」のカタカナの総画数が「8」であることから命名したという[5]。なお、2008年シーズンより呼称を「名古屋グランパス」へ変更したが、中日新聞は「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている[6]。
チームロゴは発足より筆記体の「Grampus」に上下にそれぞれ「NAGOYA」「EIGHT」が組まれるスタイルが取られていたが、2017年より2段組の「NAGOYA」「GRAMPUS」となり、フォントはエンブレムに使われているものをベースとしている[7]。
歴史編集
Jリーグ加盟まで編集
プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、トヨタ自動車は「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した[8]。それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった[8]。なお、プロとして活動する選手をグランパスエイトに、またグランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市にあるトヨタ自動車東富士FC(当時東海社会人サッカーリーグ所属。1993年廃部)にそれぞれ移籍させた。
地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。そのため、トヨタが袖スポンサーから胸スポンサーに移動する2001年までは、胸にチームロゴを入れていた。
Jリーグ発足に向けた補強の目玉として1991年にはディエゴ・マラドーナの獲得がほぼ決まっていた[8]。あとはトヨタ自動車の決定を待つのみという状態であったが、マラドーナのコカイン使用疑惑によって白紙撤回され、その代わりとして1992年にスキャンダルのないクリーンなイメージのゲーリー・リネカーを獲得した[8]。その後、海外合宿を経て迎えた初試合は8月1日のブラジル・コリンチャンスとの親善試合であった。
- 1992年
- 詳細は「1992年の名古屋グランパスエイト」を参照
- Jリーグのプレマッチとして行われたJリーグカップは、ジョルジーニョ、小倉隆史、森山泰行、中西哲生、岡山哲也らが活躍。中でも小倉は5得点を決め、3位の成績をおさめた[9]。なお、この年の天皇杯では、翌年のJリーグ参加が決定していた10チームの中で唯一1回戦で敗退した。
1990年代編集
- 詳細は「1993年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 小倉隆史は1年間オランダへ留学した[9]。5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では、浅野哲也とリネカーのゴールによって日本のクラブチームとして初めてセリエAのチームに勝利した(スコアは2-1)[10]。
- 5月16日にJリーグ開幕戦を迎え、鹿島アントラーズにジーコのハットトリックを喫するなど0-5で敗れる[11]。その後はリーグ戦に入るとリネカーのケガの影響もあり低迷した。
- サントリーステージ9位(7勝11敗)、ニコスステージ8位(5勝13敗)、年間総合9位(12勝24敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は準々決勝敗退(ベスト8)。
- 1994年
- 詳細は「1994年の名古屋グランパスエイト」を参照
- リーグ創設1年目の成績を打破すべくミルンを監督に迎えるが、前年以上の低迷を強いられた[12]。シーズン終了を待たずにミルンがの退任はほぼ決定的となり[13]、11月にはミルンに休養を与え、残りの試合は三浦哲郎が監督代行として指揮した[12]。次期監督にはフース・ヒディンクなどの名前も挙げられたが契約には至らず、12月9日にようやくアーセン・ベンゲルが新監督に決定する[12]。
- 7月には後に中心選手、そして監督となるストイコビッチが加入。現役ユーゴスラビア代表の大物外国籍選手の加入であったが、鳴り物入りで加入したリネカーが十分に活躍できなかったことから、ストイコビッチも当初は懐疑的な目で見られることも多かった[14]。事実ストイコビッチ自身のコンディションが整っておらず、当時はミルンの掲げた戦術も破綻していたため思うような活躍はできなかったが、豪雨の中で行われた9月17日・ジェフユナイテッド市原戦でのリフティングドリブル[15]など、着実にファンの心を掴んでいった。当時の欧州サッカー界に疲弊したストイコビッチは半年だけの予定で来日したが、後任監督にベンゲルが決定したことを受けて契約を更新した[15][16]。
- サントリーシリーズ8位(9勝13敗)、ニコスシリーズは最下位(6勝16敗)、年間総合11位(15勝29敗)。Jリーグ新加入の磐田・平塚より下位で、かつ前年と同じ顔ぶれであった名古屋・浦和・G大阪の3チームは「Jリーグのお荷物」と揶揄された[17]。ヤマザキナビスコカップは1回戦敗退、天皇杯は2回戦敗退。
- 1995年
- 詳細は「1995年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 新監督に就任したベンゲルにはチーム構成の全権が与えられ、ボロ・プリモラツをヘッドコーチに迎えた。在籍する外国籍選手はストイコビッチ以外を入れ替える意向を示し[12]、自ら新外国籍選手の獲得にも乗り出した。元々代表クラスの選手を抱えながら最下位争いで自信を失っていたチームに対し、ベンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精神を植えつけていった[19]。
- ベンゲルはまず、中盤の4人がフラットに近い形で並ぶ4-4-2を採用したゾーンディフェンスの守備戦術の徹底を図り、高い位置からプレスをかけてボールを奪い、攻守の切り替えを素早く行う組織的なプレッシングの概念を植えつけた[15][18]。これは当時のヨーロッパではスタンダードな戦術の1つであったが、発足間もない当時のJリーグでは4-4-2といえばボックス型を指すことが多く、ゾーンで守る考え方自体も斬新であった[18]。約束事の多い組織的な守備面に対して、攻撃面では選手の判断力や創造力が損なわれるとの判断から、選手自らが選択するようなトレーニングメニューが組まれ、ベンゲルは細かな指示はしなかった[20]。攻撃のキーマンにはストイコビッチが据えられ、少し引き気味のポジションから攻撃をコントロールした(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される)[18]。
- 初戦の3月18日・ガンバ大阪戦では飯島とストイコビッチが退場するなど、1-3の完敗を喫した[20]。第8節終了時点で4連敗を含む1勝7敗の最下位に沈むが、その原因の1つにベンゲルが選手の最適なポジションについて試行錯誤していたことが挙げられる[20]。すべての試合で異なるスタメンが試され[21]、特にセンターバックには開幕8試合で7人がスタメンに名を連ねていた[20]。またこの時、不安定な攻撃面の指導を求めた選手たちに、ベンゲルは「パスは未来に向かって出せ」などとアドバイスを返した[20]。この言葉にヒントを得た中西哲生[20]は翌第9節でサッカー専門誌でストイコビッチやパシと並ぶ高採点を得る活躍で、チームも最下位を脱するが、その後は勝利と敗北を繰り返すなど安定せず、中断期間前までの16試合を6勝10敗の12位で終えた[22]。
- 中断期間中に2週間のフランス合宿を行い戦術面の整理が行われ[22]、リーグ戦が再開すると大岩剛がセンターバックに固定される[23]。リーグ再開初戦、6月17日(第17節)にベルマーレ平塚に延長Vゴール戦の末競り勝つと[23]、調子を取り戻したストイコビッチの活躍で苦手意識の強かった鹿島アントラーズに勝利する7月8日(第22節)まで7連勝[24]。7月12日(第23節)のヴェルディ川崎戦には1-2で敗れるが、この試合で中西が退場、飯島・ストイコビッチ・トーレスが警告を受けて累積警告により、次節は主力4人を欠くことを余儀なくされる[24]。そんな危機的状況も若手の起用などにより勝利し、残り3試合を連勝で終える[24]。サントリーシリーズ4位(15勝11敗)。
- 8月12日のニコスシリーズ開幕戦、大怪我で長期離脱していた小倉がスタメンに復帰する[24]。勢いそのまま開幕から4連勝するが[25]、夏の暑さに加えて過密日程による疲労、さらにチーム全体が連動する運動量の多い戦術による肉体的負担などから失速し、終始首位争いを続けるものの優勝は果たせなかった[26]。ニコスシリーズ2位(17勝9敗)。年間総合3位(32勝20敗)。チームで初めてストイコビッチがリーグMVP、ベンゲルが最優秀監督の個人タイトルを獲得する。
- 天皇杯ではクラブ史上初めて決勝に進出。小倉・平野のゴールによりサンフレッチェ広島を3-0で下して優勝、チーム初のタイトルを獲得した[26]
- 1996年
- 詳細は「1996年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 2月の代表合宿に参加していた小倉が大怪我を負い長期離脱を余儀なくされる[27]。3月9日には前年の天皇杯優勝チームとしてゼロックス・スーパーカップに出場し、リーグ戦優勝の横浜マリノスを2-0で破り1995年の年間王者となった。
- この年のリーグ戦は、前後半の区分がない1シーズン制で開催された。グランパスは開幕から4連勝を挙げるが、その頃には小倉の穴はルーキーの福田・望月が埋めつつあった[28]。前半日程最後の第15節までを10勝5敗で終え、ヤマザキナビスコカップの集中開催期間を経て7月初旬から苫小牧でキャンプを行った[28]。そのキャンプの最中、ベンゲルは「自分の名前と似た名前のクラブ(アーセナルFC)」からオファーが来ていることをグランパス側に伝えた[28]。8月に入るとロンドンでは監督就任が決定的との報道もあったことからベンゲルも報道陣に囲まれるが、この時点では去就に関して明言は避けていた[28]。
- 8月に後半日程が始まると5連勝。その4戦目直後の9月15日に記者会見が行われ、9月28日の第21節を最後にベンゲルが退任すること、同時に後任にケイロスが就くことも発表された[28]。臨んだ第21節・柏レイソル戦は延長Vゴール戦の末競り負け、その瞬間ベンゲルはベンチの前で呆然と立ち尽くしていた[28]。こうしてベンゲルはグランパスを去ったが、優勝争いを演じる中での監督交代のダメージは承知しており、上手くいくように右腕のプリモラツが年内はグランパスに残るよう取り計らわれた[28]。ケイロスが就任するまでの3試合はコーチのジョゼ・アルベルト・コスタが監督代行を務めた。最終成績は2位(21勝9敗)。
- リーグ戦2位の成績によりサントリーカップ・チャンピオン・ファイナルに進出。1回戦で清水エスパルスを下し、決勝で鹿島アントラーズに勝利して年間王者となった。11月にはアジアカップウィナーズカップに出場し準優勝。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ7位で敗退、天皇杯は3回戦敗退。
- 1997年
- 詳細は「1997年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 前年度の年間王者としてサンワバンクカップへ出場。MLSカップ優勝のD.C. ユナイテッドに勝利した[29]。しかし、リーグ戦では1stステージ12位(6勝10敗)、2ndステージ5位(10勝6敗)、年間総合9位(16勝16敗)と低迷。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)するが、天皇杯は初戦で東京ガスサッカー部に敗れる[14]など浮き沈みの大きい年であった。不振の原因として、ケイロスのやり方が前任のベンゲルとは正反対の放任主義であったことが挙げられ、2000年に解雇されることになる3選手の問題の原因を作ったとも指摘される[要出典]。シーズン終了後の11月、ケイロスは解任される。
- なお、ケイロス以後「優勝請負人」とされる監督を招いては結果が出ずに短期間で解任する期間が続くが、ベンゲル時代に優勝間際まで迫った結果からファンやスポンサーの意識が「優勝」に向いてしまい、短期的な対応に終始してしまったとクラブ幹部は省みている[11]。さらにサッカークラブというよりトヨタの子会社で、クラブとしてのビジョンも定まっていなかった、プロのクラブになりきれていなかったとしている[11]。この体質はクラブ運営に精通した福島義広が副社長、久米一正がGMに就任する2008年ごろまで続くことになる[11]。またそれまでの間、成績についても優勝争いにも降格争いにも関わらず「万年中位」と揶揄される[30]。
- 1998年
- 詳細は「1998年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 前年までコーチを務めた田中孝司が、カルロス・ケイロスの後任として監督に昇格する。リーグ戦では福田健二が16得点を挙げる活躍を見せる。
- 1stステージ3位(12勝5敗)、2ndステージ6位(11勝6敗)、年間総合5位(23勝11敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ2位で敗退、天皇杯は準決勝進出(ベスト4)。
- 1999年
- 詳細は「1999年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 楢崎・山口・呂比須の加入により優勝候補と期待された[31]。一部の選手と練習態度などを巡って衝突し[32]、チームの輪を乱して成績も低迷したとして、リーグ戦開幕直後の4月に田中孝司が解任される。後任にサンチェスが就任するとやや上向くが、2ndステージが始まると再び低調となりサンチェスが退任。監督代行のマザロッピを経て、9月にはジョアン・カルロスが就任した。ジョアン・カルロス就任後は10連勝するなど持ち直す[31]。
- 1stステージは8位(7勝1分7敗)、2ndステージ2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯では2度目の優勝を果たした。
2000年代編集
- 2000年
- 詳細は「2000年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 1stステージは12位(7勝1分7敗)。2ndステージ開始直後の7月5日に大岩・望月・平野の解雇が発表される。これに関して当時副社長の小宮好雄は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した[33]。これはカルロスの強い意向が働いたもので[32]、戦力低下を危惧するストイコビッチなどの主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日に社長から3人の放出が正式に発表された[34]。こうした動揺から成績も奮わず[31]、2ndステージは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は4回戦で敗退した。
- シーズン終了後、2年連続でチーム最多得点であった呂比須ワグナーに実質的な引退が打診され、呂比須が「サッカーを知らない人がフロントにいる」と怒りを露にする騒動も起きた[30]。
- 2001年
- 詳細は「2001年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 1stステージは3位(10勝2分3敗)。7月21日の最終節・東京ヴェルディ1969戦を最後に、ストイコビッチが現役を引退。また、「主力選手との確執」を理由にカルロスが解任される[35]。
- 2ndステージは6位(7勝1分7敗)。年間総合は5位(17勝3分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は3回戦で敗退した。
- 2002年
- 詳細は「2002年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 1993年のリーグ開幕から基本システムとして4-4-2を採用していたが、シーズン途中から3-5-2へと変更した。1stステージ3位(10勝5敗)、2ndステージ13位(5勝1分9敗)、年間総合6位(15勝1分14敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ3位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。
- 2003年
- 詳細は「2003年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 2月には上田滋夢がテクニカルディレクター(TD)に就任した。パナディッチ・大森・古賀による3バックと、中村・吉村のダブルボランチが機能し高い守備力を誇るが、反面得点力は乏しかった。ベルデニックとフロントとの間に強化方針を巡った確執が表面化し、1stステージ終了後に監督交代に至っている。
- 1stステージ7位(5勝8分2敗)、2ndステージ8位(6勝4分5敗)、年間総合7位(11勝12分7敗)。ウェズレイがチーム初のJ1得点王を獲得した。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は4回戦で敗退。
- 2004年
- 詳細は「2004年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 1stステージ8位(5勝5分5敗)、2ndステージ5位(7勝3分5敗)、年間総合は7位(12勝8分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は5回戦で敗退。
- 2005年
- 詳細は「2005年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 新潟との間で、岡山哲也・海本兄弟・安英学と4件の移籍が発生。順位は第8節終了時点で2位であったが、マルケスが退団した5月以降は下降の一途であった。7月にルイゾンが加入するが、9月にネルシーニョが解任されるとルイゾンも退団。不振から降格争いを演じるが、最後の2試合を1勝1分で終えJ1残留を決めた。
- 最終成績14位(10勝9分15敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ3位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。
- 2006年
- 詳細は「2006年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 若手の育成を目指して新監督にフェルフォーセンを迎えるが[36]、1月にフェルフォーセンを招いた上田滋夢がTDを解任される。
- フェルフォーセンが志向するのは「バランス・オリエンテッド」な戦術[30]。全体のポジショニングバランスを重視し、勝負どころで攻め込むまではリスクを避け、その役割に選手を当てはめる傾向があった[30]。しかし、前線でポストプレーができる選手がおらず、本来のスタイルと異なる玉田にその役割を求めたことで玉田自身もスランプに陥ってしまう。ディフェンダーの古賀正紘を起用するなど打破を狙ったものの、シーズン序盤にはナビスコカップを含めると公式戦16試合勝ち星がないという苦しい状況が続いた。ヨンセンが加入した7月以降は次第に復調する。
- 最終成績7位(13勝9分12敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ5位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。
- 2007年
- 詳細は「2007年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 開幕4連勝など幸先良いスタートを切ったが、主力選手の怪我や出場停止などによって好不調の波が激しく、近年の課題でもあった決定力不足を露呈し、前半戦終了時点で14位。8月の横浜F・マリノス戦で3 - 0の惨敗を喫すると、一部のサポーターが問題行動を起こす(次の大宮アルディージャ戦の試合前に両者とも謝罪)など亀裂が生じていた。
- 10月10日にフェルフォーセンがシーズン末で退任することが報じられる[36]。後任としてストイコビッチに監督就任が打診され、10月18日にはストイコビッチ本人もグランパス復帰の意向を示すが[37]、その後Jリーグの監督就任に必要なライセンスの未取得が発覚する[38]。グランパスは一度は断念するが、11月中にライセンスを取得する目途がたったことから再要請[38]、11月27日に仮契約を結び記者会見を行った[39]。
- 最終成績11位(13勝6分15敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。
- 2008年
- 詳細は「2008年の名古屋グランパスエイト」を参照
- この年から呼称を「名古屋グランパス」に変更。
- 新監督に就任したストイコビッチはヘッドコーチにジュロヴスキーを据え、攻撃戦術はストイコビッチが、守備戦術はジュロヴスキーが担当した[40]。アシスタントーチにはストイコビッチと同じクラブOBのハーフナー・ディドとが就任。また、この年新設されたGMには久米一正が就いた[11]。
- ストイコビッチの戦術はサイドアタックとゾーンディフェンスの2つの柱を基本とした組織的なパスサッカーで、この年は特にサイドチェンジが大きな効力を発揮した[41][42][43]。その戦術のためにコンパクトに統率された4-4-2が採用され[43]、層の薄い右サイドバックには竹内彬が抜擢された[44]。玉田圭司には攻撃の核として期待が寄せられ[45]、得意なプレーを求められたことで調子を取り戻していった[46]。また、様々なポジションを転々としていた中村直志はボランチに固定され、高いパス成功率と献身的な守備で攻守にわたってチームを支えた[47]。
- 2節から7節を6連勝するなど幸先良いスタート切りるなどして最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)。初めてACLの出場権を獲得した。また、8月には1993年のJリーグ開幕以来1度も勝ち星を挙げることができなかったカシマスタジアムでの鹿島戦で初勝利を収めた。
- ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。
- 2009年
- 詳細は「2009年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 新たにコーチに飯島寿久と伊藤裕二が就任。
- 3月22日の第3節清水戦で3-1と勝利し、ホームゲーム通算150勝を達成。中断期間前の5月24日までにダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランクトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点にとどまった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めたポストプレーの役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、ストイコビッチ監督の目指すサイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた[51]。その時点では外国人枠は埋まっていたためAFC枠で獲得可能な選手を調査し、6月21日にオーストラリア国籍のケネディの獲得を発表した[52][53]。
- 守備面ではバヤリツァの長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田麻也と増川隆洋の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のG大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい竹内彬と佐藤が起用された[54]。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある巻佑樹の起用も検討されており、後半戦の10月25日の磐田戦では実際にセンターバックで先発出場した[55]。
- 最終成績は9位(14勝8分12敗)。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は準優勝。ACLはグループリーグ1位で通過したが、準決勝でアル・イテハドに敗退してベスト4。
2010年代編集
- 詳細は「2010年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 金崎・闘莉王・ダニルソンといった主戦力になりうる選手を補強[56]。このシーズンから用いたのは当時の日本では珍しかった4-3-3で、[57]、より個人の速さやパワーを生かすことが狙いであった[43]。3トップの中央に長身のケネディが鎮座し、両サイドの俊敏で運動量の多い金崎と玉田[57]が流動的に動いてチャンスメイクし、勝負どころでは闘莉王がオーバーラップを試みる攻撃的な布陣であった[58]。守備陣もゴール前に楢崎・闘莉王・増川が並び、中盤は超人的な身体能力のダニルソンが支えた[57][43]。ベンチにも小川・吉村・杉本といった、前年までの主力選手が控えていた[56]。
- 3月6日の開幕戦でガンバ大阪に2-1で勝利すると、W杯による中断前までの12試合を7勝1分4敗で終える。序盤は苦戦したダニルソンだが5月に入ると調子を上げ、アンカーとして定着して存在感を強めていった[56]。7月17日の第13節でリーグが再開すると、8月14日の第18節までを5勝1分の不敗で終えて単独首位に浮上する[41]。そのまま一度も首位を明け渡すことなく[41]、11月20日の第31節で湘南ベルマーレに1-0で勝利したことで、3試合を残してリーグ戦初優勝を決めた[59]。1シーズン制に移行した2005年以後で最終節を待たずに優勝が決定したのは初めてで、最終成績の「23勝(3分8敗)」「2位との勝点差10」はいずれもリーグ最多記録、「勝点72」もリーグ最多記録タイと様々な記録を作った[41][42][59]。また、シーズンを通して連敗が一度もなく[41]、また敗戦の次の試合は必ず勝っていた。
- ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。最優秀監督賞にストイコビッチ、MVPに楢崎正剛が選出され、ケネディが得点王を獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞はギド・ブッフバルトに続く2人目[60]で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初である。楢崎はGKとして初めてMVPに選出された[60]。
- この年のグランパスは大差をつけて優勝したが、最終節直前の第33節終了時点での総得点52、総失点36はいずれも上位チームに劣っていた[56]。それでも優勝できた要因として「勝負強さ」が挙げられる[56]。1点差での勝利は22勝のうち15試合もあり、優勝を決めた湘南戦でも17本のシュートを打たれながらも1点差で耐えきった[56]。先制した23試合は20勝2分1敗であり、先制点を取って守りきるという展開が多かったことを物語っている[56]。それを示すように、この年のグランパスのシュート数は416本に対して、被シュート数は471本[56]。グランパスのシュート数が多かったのはわずか11試合であった[56]。こうした「勝負強さ」に重要であったのは闘莉王の存在感で、数値に見える攻守の貢献のみならず、チーム全体が勝ちに拘る精神的な影響を与えたと考えられた[56]。また、このシーズンの得点はフォワードのレギュラー3人の合計は33点(ケネディ16、玉田13、金崎4)に対して、フォワード以外で最も多い闘莉王が6点、攻撃的ミッドフィールダーで起用された4人は合計でも8点と個の力に頼っていたことが分かる[56]。
- ヤマザキナビスコカップはグループリーグ6位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。
- 2011年
- 詳細は「2011年の名古屋グランパスエイト」を参照
- リーグ戦開幕に先立って、2月26日のゼロックス・スーパーカップで鹿島アントラーズに勝利し年間王者となる。
- 3月5日の開幕戦は横浜F・マリノスと1-1に終わるが、3月11日に東日本大震災が発生した影響でその後の試合日程が大幅に組み替えられる。グランパス自身としては主力に負傷者が多いチーム事情に加え、ACL出場に伴う移動の疲労などもあり不安定なシーズン序盤となった[43]。ACLグループステージは辛くも2位で突破するが、5月25日にラウンド16で水原三星ブルーウィングスに2-0で敗れる[43]。その時点でリーグ戦6試合を1勝2分3敗と苦戦していたが、悲願であったACLの敗退で奮起したチームは5月29日の第13節(7試合目)でアビスパ福岡に5-2と快勝すると、8月17日の第9節(21試合目)までの14試合を7連勝を含む10勝4分の無敗で駆け抜ける[43]。
- このシーズンも開幕から2010年と同じ4-3-3を基本として用いたが、シーズン中盤から中村直志をダニルソンと並べる4-2-3-1を併用している[43]。これによって個の力より連続性のあるプレーが求められ、2010年は控えに甘んじていた小川佳純が輝きを取り戻す[43]。当初は試合途中からの変更が多かったが、優勝争いを演じた終盤戦は試合開始から4-2-3-1が増えていた[43]。小川の復調にチーム全体も連動するように調子を上げ、シーズン終盤に5連勝をあげて2位で最終節を迎える。12月3日の最終節でアルビレックス新潟に引き分け以上で優勝の可能性があり、グランパスは1-0で勝利するが、首位・柏レイソルも勝利したため勝点差1の2位(21勝8分5敗)でシーズンを終える。
- 惜しくも優勝を逃したシーズンだったが、この年のグランパスは「最強の2位」との声もある[41]。また、ストイコビッチは後年のインタビューで「2011年こそ優勝すべきだった」と答え、楢崎は「ベストな戦いは2011年」、闘莉王は「あのシーズンこそ、勝ちたかった」と述べている[43]。
- ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。
- 2012年
- 詳細は「2012年の名古屋グランパスエイト」を参照
- ダニエルの加入により3バックが検討され[61]、実際シーズン中に何度が使用された。
- 中村直志の怪我による長期離脱、玉田圭司のコンディション不良など終始主力選手を欠いた状態が続き、中でもケネディがフルシーズン働けなかったことが痛手となった[42]。前年得点王のケネディはチームのポゼッションサッカーの大黒柱であり、永井謙佑や田口奏士などの若手の台頭で戦術変更も考えられたが、ストイコビッチは闘莉王をケネディの代役にすることを試みる[42]。闘莉王の得点が増え一見成功したかのように見えたが、結果として前年までの良さを潰してしまう悪循環に陥り、総得点が減るばかりか守備の安定感も失われた[42]。最終成績は7位(15勝7分12敗)。
- ヤマザキナビスコカップ・天皇杯ともに準々決勝進出(ベスト8)。
- 2013年
- 詳細は「2013年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 開幕戦には牟田が片山奨典以来7年ぶりの新人の開幕スタメン出場を果たした[62]。リーグ戦は序盤からケネディの不調などの要因から、6月の中断期間前までの第9節から第13節を16年ぶりとなる5連敗で終えるなど不安定な展開が続いた[63]。9月14日、清水戦でラドンチッチのゴールによりリーグ戦クラブ通算の1000失点目を喫し、G大阪に次ぐ2クラブ目の記録となった。また、8日の天皇杯でAC長野パルセイロに初戦で敗れた。
- 10月3日にストイコビッチがシーズン末に契約満了により退任することが発表された[64]。また、慢性化した赤字改善[30][65]のため、11月22日には阿部翔平と田中隼磨[66](本人希望で発表は後日となったが増川隆洋の退団も決定[65][67])、同24日にはダニエル[68]と契約延長しない旨が発表された。
- ストイコビッチ体制下の6年間は優秀な成績を残した一方で、若手の育成を妨げたとの指摘もある[41]。トレーニングの方針は選手のコンディション管理に主眼が置かれており、就任した2008年から主力はほぼ固定されていた[41][42]。優勝した2010年をピークに主力選手のスタミナ面の陰りとともに成績は下降していき、その間若手選手は練習の内容・負荷ともに不足した状態で能力格差が広がっていた[41][42]。
- 最終成績は11位(13勝13敗8分)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は2回戦で敗退。
- 2014年
- 詳細は「2014年の名古屋グランパスエイト」を参照
- ディフェンス陣の主力の多くが退団し、ストイコビッチ体制下で練習の強度不足の若手を起用せざるを得ない新チームは、久米一正GMの盟友である西野朗に託される[69][70][71]。攻撃的なパスサッカーの印象が強い西野であったが、グランパスではまず主力の抜けた守備の整備に取り掛かった[72][73]。再構築されたディフェンスラインは残留した闘莉王を除いて、本多勇喜・田鍋陵太・大武峻(特別指定選手[74])といった20代前半の若い選手が並んだ[73]。磯村亮太・矢田旭・田口泰士らもこの年に大きな成長を遂げ、シーズン終盤には堅守速攻のスタイルを確立した[69]。
- 3月1日の開幕戦では清水エスパルスに2-3で敗れるが[75]、大武峻がグランパスの特別指定選手としては初めて開幕スターティングメンバーに名を連ねた[76]。第2節から3連勝するが、直後に4連敗するなど安定せず、常に中位をさまよって最終成績は10位(13勝9分12敗)。
- ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。
- 2015年
- 詳細は「2015年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 4月、常勤社長不在で実質経営トップにあった副社長の福島義広が退任[78]することに伴い、GMの久米一正がクラブで初めてトヨタ出身者以外から代表取締役社長に就任、GMとを兼任する[79]。6月に小倉隆史がGM補佐に就任[80]。
- 序盤は2分2敗と最悪のスタートを切ると、そのまま調子が上がらないまま1stステージを終える[81]。楢崎正剛を中心とした守備陣は安定感を示したが、攻撃陣は17試合で18得点と奮わず、これが不振の原因と考えられた[81]。2ndステージ序盤は川又堅碁の活躍などで5試合で3勝と良好な出だしとなるが、8月以降は調子を落とし、守備陣も安定感を欠くようになる[81]。終盤戦は4バックに変更して闘莉王を前線で起用する戦術も取るが、効果的とは言い難かった[81]。守備が安定すれば得点に恵まれず、得点が増えると守備が崩壊する、終始噛み合わないシーズンであった[81]。
- 10月4日にはシーズン末での西野の退任が発表された[69]。西野は選手を過度に信頼しすぎる采配を貫いたとの指摘もあり、その結果として説明不足の監督、指示待ちになってしまう選手、という悪循環の構図が生まれていた[69]。しかし、それ以上に就任時点での主力選手が大量流出した戦力不足が致命的で、チームを再構築しながらの上位進出という難しい要求もあった[69]。若手の練度不足も足枷となり、西野が率いた2年間は常時5~10人の負傷者を抱える状態で、特に今シーズンは紅白戦すら満足にできない時期もあった[69]。
- 1stステージ9位(6勝4分7敗)、2ndステージ10位(7勝3分7敗)、年間総合9位(13勝7分14敗)。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は2回戦で敗退。
- 2016年
- 詳細は「2016年の名古屋グランパスエイト」を参照
- 「改革元年」と位置づけたシーズンは、監督人事はトヨタ出身の幹部と久米社長の主導権争いによって難航したとも噂され、再建が託され小倉隆史が前例のない「GM兼監督」に就任して始まった[30][80]。それに伴い、GMを兼任していた久米一正は社長専任となった。チーム編成の全権を委ねられた小倉[80]は明確な査定基準をもって既存選手との交渉に臨むが、そのビジネスライクで情を欠いた交渉姿勢は闘莉王をはじめ一部の主力選手の流出を招く結果となる[30][88]。戦力低下を補うはずの新加入選手もなかなか決まらず、小川佳純などの残留した主力選手も危機感を抱いていた[88]。それでも1月15日には新陣容とともに新加入選手も発表され、「5人目まで連動するサッカー」という方針も示された[89]。
- 2月27日の開幕戦でジュビロ磐田に勝利すると勢いづき、シモビッチの高さと永井の速さを活かすカウンター戦術が機能し、結果こそ勝ち負けを繰り返すがチーム全体はネガティブな雰囲気ではなかった[30][88]。しかし小倉自身がそのスタイルを否定し[30]、「5人目まで連動するサッカー」を謳って続けられていたトレーニングは、開幕から2ヶ月が過ぎても成果が見られなかった[88]。事実監督1年目の小倉は戦術の理論体系は確立していたものの、それを選手に伝えて浸透させる手法に欠けており、指導者としての経験不足だったと後に指摘されている[90]。現実的なカウンターサッカーで勝点を稼ぐが、対策されるとそれも機能せず、5月4日の第10節で横浜F・マリノスに勝利した後は1勝もできずに1stステージを終える[30]。
- 6月には減資および第三者割当増資を実施してトヨタ自動車の子会社(出資比率が50.12%)となった[4]。
- 2ndステージに入っても勝てず、7月30日の第6節・横浜F・マリノス戦からは5バックを採用して守備の安定を図ったといえば聞こえは良いが、これは思うような攻撃ができないがゆえの最終手段であった[88][90][91]。当初の攻撃的な信念を曲げてでも勝点を狙った苦肉の守備的サッカーはその後3試合続くがまったく機能せず[30][90][91]、8月23日に小倉は事実上解任される[80][91]。後任にはストイコビッチ体制下でヘッドコーチを務めたジュロヴスキーがコーチを経て昇格し、ほぼ同時期にシーズン開始前に退団した闘莉王の復帰も発表された[30][90][91]。小倉が指揮した26試合で勝利はわずか4つ[88]。監督交代時点で8試合を残して16位、残留圏との勝点差は7であった[80]。
- ジュロヴスキーは就任するとまず、チームを「正常な状態」に戻すことを試みた[30][88][90]。フィジカル練習不足が指摘された欠点は長所のポゼッションを高めることで補い、長所を生かす精神を植えつけることでネガティブに傾いていた選手たちの不安を取り除いていった[88]。すると闘莉王が復帰した9月10日の第11節でアルビレックス新潟に勝利し、連続未勝利はクラブワースト記録となる18試合でようやく止まる[30][90][92]。続く第12節は敗れるが、第13節・第14節は今季初の連勝で一時は残留圏に浮上した[90]。しかし国際Aマッチデーなどによる3週間の中断により勢いは削がれ[30]、第15節・第16節は1分1敗となり、降格圏の16位で最終節に臨む[90]。迎えた最終節は11月3日の湘南ベルマーレ戦。結果から言えば引き分けで残留が可能ではあったが、危機感から冷静さを欠いて攻め急いだ挙句3失点を喫して負け、その結果クラブ史上初のJ2降格が決定する[88][90][91][93]。
- 1stステージ14位(4勝5分8敗)、2ndステージ15位(3勝4分10敗)、年間総合16位(7勝9分18敗)。15位のアルビレックス新潟と勝点差はなく得失点差での降格で、監督交代後の3勝2分3敗という成績をみるに、監督交代が遅きに失した形であった[30][88][90]。最終節翌日の11月4日には、降格の責任を取って久米一正が社長を辞任することを発表[88][90]、6日には続投を希望したジュロヴスキーの退任が発表、闘莉王の退団も報じられた[30]。
- ヤマザキナビスコカップはグループステージ6位で敗退、天皇杯は2回戦で敗退。
- 2017年(J2)
- 詳細は「2017年の名古屋グランパスエイト」を参照
- クラブ創設25周年をJ2で迎えることになる。J2降格により多くの主力選手が退団したが、一方で移籍の噂があった田口泰士がクラブへの残留を発表した[95]。
- 1年でのJ1復帰が掲げられ、新監督には風間八宏が就任した[96]。風間は「楽しく勝つサッカー」というコンセプトを掲げ、それまで風間が率いたチームと同じく、圧倒的に高いボール保持率を前提とした極端に攻撃偏重なポゼッション戦術を採用した[96][97][98][99]。フォーメーションは3バックと4バックが併用され、複数のポジションをこなせる和泉竜司や宮原和也が重用された[81]。メンバーは固定されず、多くの選手を様々なポジションで試した[98]。
- クラブ初となるJ2開幕戦は、2月26日のファジアーノ岡山戦。初戦を2-0で勝利すると、4月8日の第7節でカマタマーレ讃岐に勝利して首位に立つ[81]。その後湘南ベルマーレやアビスパ福岡と首位争いを演じるが、6月3日の第17節でツエーゲン金沢以降は6試合で1勝のみで、一時は7位まで後退する[81]。なお、第16節終了時点では首位で、結局首位に立ったのはシーズンを通じてこの2回だけであった。折り返しとなる第21節終了時点で10勝4分7敗、勝点34の6位で、自動昇格圏である2位の湘南ベルマーレには勝点差9であった。
- 7月18日にガブリエル・シャビエルが加入すると、初出場した第22節から5試合で3得点7アシストを記録し、8月の月間MVPに選ばれるなど攻撃の軸となる[81][100]。7月30日の第25節から5連勝し昇格争いに復帰するが、第30節から1分3敗と6位に転落した間にV・ファーレン長崎に追い越され、第34節から4連勝するなど巻き返すが、一歩及ばず3位となりJ1昇格プレーオフに回ることになる[81]。
- プレーオフでは準決勝はリーグ戦では2戦2敗で「天敵」であったジェフユナイテッド千葉が相手であったが、シモビッチのハットトリックなどで勝利[101][102]。決勝の相手はアビスパ福岡。リーグ最多85得点のグランパス[81]、リーグ最少36失点のアビスパ福岡[102]、いわば矛と盾のような決勝戦であった[103]。試合は互いにゴールネットを揺らしたもののファウルやオフサイドで認められず、0-0のままで試合が終了し、プレーオフ規定によりグランパスの昇格が決定した[103]。
- 前述のとおりこの年のグランパスの総得点「85」は、2位の徳島ヴォルティスの71に大きく差をつけてリーグトップであった[81]。一方で総失点の「65」はこの年のJ2ワースト6位で[81]、J2からJ1に昇格するクラブとしては史上最多失点であった。無失点試合は42試合中7試合。
- この年からルヴァンカップと名前を変えたJリーグカップには出場権なし、天皇杯は4回戦で敗退した。
- なお、一般的に「J2に降格すると来場者数が1~3割減る」と言われるが、この年のグランパスはJリーグ史上初めて逆に来場者数を2万人以上増やしている[104]。低成績が続いた2013年前後は観客動員数の低迷しており、当時の観戦者アンケートでは「クラブへの愛着度」が最下位であった[104]。それを受けてファンサービス関係部署を再編してマーケティング部に統合され、様々な取り組みを行った成果が結実した形である[104]。
- 2018年(J1)
- 詳細は「2018年の名古屋グランパスエイト」を参照
- J1復帰に際してジョーとランゲラックといった代表クラスの外国籍選手を獲得し話題をさらう[81]。期限付き加入中のガブリエル・シャビエルの移籍期間が延長され[111]、風間は「基礎工事」は終わったとしてさらに「点を取るチーム」を目指していく[98]。
- 開幕2連勝で好スタートを切るが、第3節からは勝利から遠ざかり、第4節から第11節までは8連敗を喫した[81]。ロシアワールドカップによる中断前最後の5月20日の第15節までで、結局勝利は開幕の2つだけであった。6月6日に天皇杯初戦の2回戦でJFLの奈良クラブと対戦しPK戦の末に敗退するが、「担当審判員による明らかな競技規則の適用ミス」があったとして、PK戦のみを6月28日にやり直すという異例の事態の末に勝利した[81][112]。7月18日にリーグ戦が再開しても勢いは戻らず最終的に15試合未勝利で、2勝3分12敗の最下位で前半日程を終える[81][113]。
- 夏季中断期間にグランパスは大型補強を行う[81]。8月1日の第19節・ベガルタ仙台戦で後半日程が始まると、新戦力が機能して7連勝して11位まで浮上[81][113][114]。しかしその後9試合を3勝1分6敗で終え、J1参入プレーオフの対象である16位で最終節を迎える[115]。同じく降格の可能性の残る湘南ベルマーレとの最終節に引き分け、12位から16位までが勝点41で並ぶ大接戦となり、得失点差でジュビロ磐田を上回り残留を決めた[81][115]。
- この年24得点のジョーは得点王を獲得し、シャビエルの9アシストはリーグ4位になるなど、降格争いをしながらも総得点52はリーグ4位であった[81]。一方で59失点は最下位のV・ファーレン長崎と並んで最下位で、前年からの問題が改めて露見した[81]。
- 最終成績は15位(12勝5分17敗)。ルヴァンカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は前述の2回戦の騒動の後、3回戦で敗退した。
- 2019年(J1)
- 詳細は「2019年の名古屋グランパスエイト」を参照
- スローガン : 貫く ~Go Upward~
- 監督 : 風間八宏(3年目、9月退任[116])→マッシモ・フィッカデンティ(新任[117])
- 入団 : 渡邉柊斗、榎本大輝、相馬勇紀、菅原由勢(下部組織)、成瀬竣平(下部組織)、藤井陽也(下部組織)
- 加入 : 千葉和彦[118]、マテウス[119]、米本拓司[120]、吉田豊[121]、ジョアン・シミッチ[122]、ガブリエル・シャビエル(完全移籍[123])、宮原和也(完全移籍[124])、伊藤洋輝(期限付き[125])、赤崎秀平(期限付き[126])、太田宏介(7月[127])、山田康太(7月、期限付き[128])
- 退団 : 楢崎正剛、梶山幹太[129]、佐藤寿人[130]、酒井隆介[131]、内田健太[132]、畑尾大翔[133]、八反田康平[134]、玉田圭司[135]、松本孝平[136]、ホーシャ(期限付き移籍満了[137])、小林裕紀(7月[138])
- 期限付き移籍 : 新井一耀[139]、深堀隼平[140]、深堀隼平(7月復帰[141])、菅原由勢(7月[142])、櫛引一紀(7月[143])、秋山陽介(7月[144])、相馬勇紀(7月[145])、マテウス(7月[146])、金井貢史(7月[147])、大垣勇樹(7月、育成型[148])
- 攻撃重視のスタイルの変化はなく、適材適所の補強を行うことで全体のレベルを高めた[99]。一方で楢崎・玉田・佐藤といったリーダーとなり得る選手の退団も多く、若手の台頭が期待される船出となった[99]。
- 開幕3連勝で首位に立つ[81][149]。その後は勝ち負けを繰り返すが、ホームに限れば第11節まで5連勝を達成しクラブ新記録を達成し、その間ホームでは無失点を続けた[150]。第11節終了時点では首位に勝点差4の2位であった[81][149]。第12節で川崎フロンターレと引き分けると、8月10日の第22節で川崎フロンターレと再度対戦して勝利するまで10試合の間未勝利が続き、その間に順位は10位まで後退した[81]。その後は第23節の引き分けを挟んで3連敗して11位となり、9月23日に風間との契約を解除する[97][149]。
- 2年半の風間体制で、風間の目指す攻撃偏重スタイルは確立しつつあった[97]。課題とされた守備面も攻撃がうまくまわっていれば機能するものであり、事実今シーズン序盤は優勝候補とされるほどの評価を得ていた[97]。しかし対策をされると脆い側面があり、第13節以降は引いて守る相手に屈する展開が増えていた[97]。それでも従来のスタイルを貫こうとする風間の姿勢は、結果を求める選手の意識と乖離していき、クラブ側が見かねて解雇したという見方もできた[97]。
- 風間の解任と同日、後任には攻撃的戦術の風間とは正反対の「堅守速攻」で知られるマッシモ・フィッカデンティの就任が発表された[81][97][149]。比較的戦術に自由が与えられていた風間体制下と異なり、フィッカデンティは規律を与えチームを立て直そうとした[151]。しかし風間体制の戦術に慣れた選手たちが堅守速攻に馴染むには時間がかかり、またジョー・シャビエル・ネットといった主力外国籍選手の不調や怪我で成績も奮わず、監督交代後の8試合を1勝3分4敗でかろうじて残留を決めた[149]。
- 最終順位は13位(9勝10分15敗)。ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は2回戦で敗退した。
2020年代編集
- 2020年(J1)
- 詳細は「2020年の名古屋グランパスエイト」を参照
- フィッカデンティが引き続き監督を務めた。途中から指揮した2019年シーズンの8試合は「残留のための仕事をしだたけ」とし、2020年シーズン開幕に向けて新たなチーム作りを進めていった[165]。フィッカデンティが用いるのはハイプレスと緻密なブロックで相手の良さを消す守備と、スピードと突破力のあるアタッカーの能力を生かしたショートカウンターを軸とした堅実な戦術であり、この年の新戦力もこの戦術にマッチしていた[166][167]。サイドで勝負できる選手が多い特徴からフォーメーションは4-2-3-1が採用され、肝となるボランチには米本拓司・稲垣祥の守備特化のコンビが多く用いられ、高い運動量で攻守両面に貢献した[167][168]。また、最後尾のランゲラックはシュートストップを得意とするタイプのゴールキーパーで、この長所と枠内にシュートを打たせない戦術が噛み合っていた[169][170]。
- 2月22日の開幕戦でベガルタ仙台に引き分けると、その後は新型コロナウイルス感染症の感染拡大によりリーグ戦は長期中断となる。グランパスの選手及び関係者では、6月2日に金崎夢生[171]、6月6日にランゲラック[172]、7月24日に宮原和也[173]、7月25日に渡邉柊斗とチームスタッフ1名[174]、7月27日に選手寮の調理スタッフ1名[175]の陽性判定が発表された。7月にリーグ戦は再開されるが、この中断によりリーグ戦やルヴァンカップの日程は大幅に再編され異常な過密日程となり[168][176]、天皇杯が出場チームを含めたレギュレーションが大幅に変更された。
- 中断期間中の6月21日には、契約不履行を理由にジョーとの契約を解除する[177][178]。ジョーは怪我の治療を理由に1月のキャンプに参加しておらず、中断期間にはいるとブラジルに帰国していた[179]。6月17日に古巣のコリンチャンスがジョーの復帰を発表するが、グランパスはそもそもチームを離れることを許可していなかったとして前述のとおり契約を解除、ジョーはこの契約解除は不当として対立し、FIFAの紛争解決室に判断は委ねられた[179][177]。
- 7月4日にリーグ戦が再開すると第2節で清水エスパルスに勝利、引き分けを挟んで第4節から第6節を3連勝するなど良好な再スタートを切る[180][181]。8月19日の第12節では全勝を続けていた川崎フロンターレに1-0で勝利するなど、堅守を武器に第4節以降は常に6位以上をキープし、最終成績は3位(16勝6分9敗)[180][182]。リーグ戦3位の結果により、9年ぶりのACL出場を決める[182]。この時点ではプレーオフからの出場の予定であったが[182]、リーグ戦優勝の川崎フロンターレが天皇杯でも優勝したため、繰り上がってグランパスのグループステージからの出場が確定した。
- 今シーズンの総失点はリーグ最少の28[176]。勝点83で圧勝した川崎フロンターレは別格としても、総得点数がほぼ同じ2位ガンバ大阪の42失点、4位セレッソ大阪の37失点と比較すると守備の固さは歴然であった[176]。これは34試合制となった2005年以降で4番目に少なく[180]、無失点試合は2008年の大分トリニータと並ぶリーグ歴代最多記録の17試合であった[169]。ゴールキーパーとセンターバックのランゲラック・丸山・中谷に3人は全試合フル出場で、個人完封数も歴代最多であった[169][176]。稲垣やマテウスもほぼフル出場するなどレギュラー陣はほぼ固定されており[176]、起用された延べ人数488はリーグ最少と選手交代も少なかった[169]。一方で総得点45はリーグ12位で、9敗したうち6試合は1点差であり、攻撃面に課題を残した[183][184]。
- ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は新型コロナウイルス感染症によるレギュレーション変更によりリーグ戦3位のグランパスは不出場であった。
- 2021年(J1)
- 詳細は「2021年の名古屋グランパスエイト」を参照
- ACL出場による選手の負担増加を見据え大型補強を敢行[176]、各ポジションを複数のレギュラークラス選手で争う陣容となった[201]。ボールをより高い位置で奪うイメージの共有や、カウンターの精度やアイデアの向上で攻撃力の底上げが期待され、柿谷・齋藤といった元日本代表アタッカーの加入で改善が望まれた[202]。
- 2月28日のアビスパ福岡との開幕戦では、オウンゴールによる失点もありながら2-1で勝利。続く第2節・第3節・第4節はいずれも1-0で勝利し、3月17日の第5節は横浜FCに3-0で勝利してクラブの開幕連勝記録を5試合に更新した[203]。3月21日の第6節では鹿島アントラーズに1-0で勝利し、クラブの同一シーズンでの連続無失点記録を5試合に更新した[204]。開幕連勝記録は4月3日の第7節のFC東京に0-0で引き分けたことで「6」で途絶えるが連続無失点記録は継続[205]。ACLの日程変更により4月14日に行われた第19節(10試合目)のサンフレッチェ広島を1-0の無失点で終えたことで、1993年に清水エスパルスが記録した無失点継続時間のリーグ最長記録(731時間)を818時間に更新した[206]。10試合終了時点で連続無失点記録は「9」、開幕からの無敗記録は「10」。
成績編集
選手・監督・コーチ編集
タイトル・表彰編集
国内タイトル編集
- J1リーグ:1回
- サントリーカップ・チャンピオン・ファイナル:1回
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回
- スーパーカップ:2回
- 1996, 2011
その他タイトル編集
- サンワバンクカップ:1回
- 1997
- トヨタプレミアカップ:1回
- 2013
表彰編集
年度 | 最優秀選手(MVP) | ベストイレブン | 得点王 | 新人王 | 最優秀監督 |
---|---|---|---|---|---|
1993年から1994年は、受賞者無し。 | |||||
1995年 | ストイコビッチ | ストイコビッチ | - | - | ベンゲル |
1996年 | - | ストイコビッチ | - | - | - |
1997年から1998年は、受賞者無し。 | |||||
1999年 | - | ストイコビッチ | - | - | - |
2000年から2002年は、受賞者無し。 | |||||
2003年 | - | 楢崎正剛 ウェズレイ |
ウェズレイ | - | - |
2004年 | - | マルケス | - | - | - |
2005年から2007年は、受賞者無し。 | |||||
2008年 | - | 楢崎正剛 小川佳純 |
- | 小川佳純 | - |
2009年は、受賞者無し。 | |||||
2010年 | 楢崎正剛 | 楢崎正剛 闘莉王 増川隆洋 ダニルソン ケネディ |
ケネディ | - | ストイコビッチ |
2011年 | - | 楢崎正剛 闘莉王 藤本淳吾 ケネディ |
ケネディ | - | - |
2012年 | - | 闘莉王 | - | - | - |
2013年から2017年は、受賞者無し。 | |||||
2018年 | - | ジョー | ジョー | - | - |
2019年から2020年は、受賞者無し。 |
スタジアム・練習場編集
ホームスタジアムは、パロマ瑞穂スタジアム[1] および豊田スタジアムである。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。
当初はホームタウンが名古屋市のみのため、パロマ瑞穂スタジアムのみの登録だったが、2012年に豊田市、みよし市がホームタウンに加わったのを機に、それまで準本拠扱いだった豊田スタジアムを本拠に追加。週末開催のリーグ戦はほぼ半数ずつを開催。カップ戦など平日開催の多くはパロマ瑞穂スタジアムで行う。但し、2017年はJ2に降格し、リーグカップ出場が出来なかったため、パロマ瑞穂の試合がその分多かった。
なおグランパスは名古屋市と共同で、2019年11月に、現・パロマ瑞穂スタジアムの全面改築工事を2021年から実施(改築完了・使用再開時期未定)するのに伴い、2020年のJ1リーグ終了をもって一旦パロマ瑞穂スタジアムでの開催を中断することを発表している[207][208]。
練習場は愛知県豊田市のトヨタスポーツセンター第1グラウンドである[1]。
アカデミー・育成編集
2010年12月にスペインのリーガ・エスパニョーラ所属のレアル・ソシエダと選手育成に関する協力協定を締結[209] しており、若手選手がレアル・ソシエダの練習に参加している[210]。
出身選手編集
主なタイトル編集
U-18編集
U-15編集
- 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会
- 1回:2008年
- 高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会
- 2回:1999年、2010年
U-12編集
- JFA 全日本U-12サッカー選手権大会
- 1回:2009年
ユニフォーム編集
| ||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||
|
チームカラー編集
- 赤
- ホーム用は2006年までパンツも赤だったが、2007年から2014年・2018年・2020年 - は黒、2015年 - 2016年は白、2017年は紺としていた。2019年に再びパンツが赤となった。
- 2001から2002年は3rdユニフォームを採用していた(シャツ、パンツ、ストッキングに黒を採用)。
- 1992から1994年のカップ戦用のユニフォームの配色は1stがシャツ・赤、パンツ・白、ストッキング・赤で、2ndがシャツ・白、パンツ・赤、ストッキング・白だった。
エンブレム編集
- 1992年 - 1993年:グランパスくんをそのままエンブレムとして採用(リーグ戦用ユニホーム。カップ戦ユニホームは1994年も使用)。
- 1994年 - 1997年:リーグ戦用ユニホームはチームフラッグをモチーフにした円形のエンブレムを採用。カップ戦用ユニホーム(1995年 - )にはエンブレムはなく、胸の「Grampus」ロゴがエンブレム代わり。
- 1998年:リーグ戦・カップ戦でユニホームが統一。エンブレムはなし
- 1999年 - 2010年:楯と王冠をモチーフに「NGE(Nagoya Grampus Eight)」とグランパスくんを盛り込んだものを採用。
- 2011年 - 2016年:エンブレム上部に第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1995年)、第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1999年)および2010年のJ1リーグの優勝を表す3つのチャンピオン・スターマーク(★)を付けている。それぞれの星には、タイトルと年号を表す「EC 96」「EC 00」「J1 10」が刻印されている。
- 2017年 - 現在:基本デザインは変わらないが星に刻印されていたタイトルと年号はなくなっている。
ユニフォームスポンサー編集
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | トヨタ自動車 | GR YARiS | 2001年 - | 1992年 - 2000年は袖[注釈 1] 1992年 - 2020年(一部期間除く[注釈 2])は「TOYOTA」表記 |
鎖骨 | プロトコーポレーション | グーネット | 2020年 - | 左側に掲出 |
KDDI | au 5G(1st) au(2nd) |
2020年 - | 右側に掲出 | |
背中上部 | デンソー | DENSO | 2003年 - 2004年 2007年 - 2008年 2013年 - 2014年 2019年 - |
|
背中下部 | 豊田通商 | 豊田通商 | 2016年 - | 2012年 - 2015年は袖 |
袖 | トヨタファイナンス | TS3 | 2016年 - | 2004年 - 2015年はパンツ |
パンツ前面 | トヨタメディアサービス | TOYOTA GAZOO Racing |
2016年 - | |
パンツ背面 | なし | - | - |
トレーニングウェアスポンサー編集
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | トヨタホーム | トヨタホーム | 2012年 - | |
背中 | UCC上島珈琲 | UCC COFFEE | 2018年 - | |
左袖 | 学校法人東邦学園 | 愛知東邦大学 東邦高等学校 |
2016年 - | 「東邦高等学校」は2016年 - |
右袖 | レイフィールド | RAY Field | 2016年 - |
かつては明治乳業もトレーニングウェア胸スポンサーであった。
ユニフォームサプライヤー遍歴編集
- 1992年 - 1996年:リーグ戦はミズノ、カップ戦はルコックスポルティフ
- 1997年:リーグ戦はアンブロ、カップ戦はルコックスポルティフ
- 1998年 - 2010年:ルコックスポルティフ
- 2011年 - 2016年:デサント(ルコックスポルティフ)
- 2017年 - 現在:ミズノ
歴代ユニフォーム編集
FP 1st | ||||
---|---|---|---|---|
2013 - 2014 |
||||
FP 2nd | ||||
---|---|---|---|---|
2013 - 2014 |
||||
FP Other | ||||
---|---|---|---|---|
歴代ユニフォームスポンサー年表編集
年度 | 箇所 | サプライヤー | |||||||
胸 | 鎖骨左 | 鎖骨右 | 背中上部 | 背中下部 | 袖 | パンツ前面 | パンツ背面 | ||
1992 | - | 解禁前 | - | 解禁前 | TOYOTA | - | 解禁前 | Le Coq Sportif | |
1993 | Mizuno / Le Coq Sportif | ||||||||
1994 | |||||||||
1995 | |||||||||
1996 | |||||||||
1997 | UMBRO / Le Coq Sportif | ||||||||
1998 | Le Coq Sportif | ||||||||
1999 | |||||||||
2000 | |||||||||
2001 | TOYOTA[注釈 3] | HISAGO | |||||||
2002 | TOYOTA L&F | ||||||||
2003 | DENSO | ||||||||
2004 | TS3 | ||||||||
2005 | TOYOTA L&F | ||||||||
2006 | 豊田織機 | ||||||||
2007 | DENSO | ||||||||
2008 | 中部電力 | ||||||||
2009 | 豊田織機 | ||||||||
2010 | |||||||||
2011 | AISIN | DESCENTE (Le Coq Sportif) | |||||||
2012 | 豊田通商 | ||||||||
2013 | DENSO | ||||||||
2014 | |||||||||
2015 | 豊田自動織機 | ||||||||
2016 | 豊田通商 | TS3 | TOYOTA GAZOO Racing | ||||||
2017 | AISIN | Mizuno | |||||||
2018 | Special Olympics Nippon |
東海東京証券 | |||||||
2019 | セノン | DENSO | |||||||
2020 | TOYOTA / GR YARiS[注釈 2] |
グーネット | au 5G (1st) au (2nd) |
- | |||||
2021 | GR YARiS | 豊田自動織機 |
クラブ情報編集
マスコットキャラクター編集
マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス (Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。
グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。
スポンサー編集
名古屋グランパス後援会編集
- 東海3県の知事・サッカー協会、名古屋市長・サッカー協会、出資会社を核とし、後援会事務局、法人会員631社(2009年11月時点)からなるチームの支援組織。法人会員にはトヨタ自動車の下請け企業・全国各地の販売店・主要在名民放局(愛知国際放送を除く。愛知県外では三重テレビ放送も法人会員)といった企業・団体等も入会している。
- 毎年シーズン前に名古屋市内のホテルで、スポンサー・後援会法人会員・監督・選手が出席するパーティー形式のイベントが行われている。
歴代スタジアムDJ編集
- 1994年 - 1998年 堀田和則
- 1998年 - 2006年 ケン・マスイ
- 2007年 - ヨースケ (YO!YO!YOSUKE)
決算編集
名古屋グランパスエイトの決算は、つぎのとおり。
損益編集
年度 | 収入 | 広告料 | 入場料 | 配分 | その他 | 費用 | 事業費 | 人件費 | 管理費 | 利益 | 純利益 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | 3,720 | 2,244 | 621 | 262 | 593 | 3,596 | 3,115 | N.A. | 481 | 124 | 278 |
2006 | 3,801 | 2,255 | 605 | 258 | 683 | 4,093 | 3,615 | 2,313 | 478 | -292 | -271 |
2007 | 3,635 | 2,247 | 626 | 272 | 490 | 3,592 | 3,061 | 1,770 | 531 | 43 | 70 |
2008 | 4,071 | 2,283 | 767 | 376 | 644 | 3,971 | 3,432 | 2,005 | 539 | 100 | 101 |
2009 | 4,506 | 2,068 | 771 | 251 | 1,416 | 4,485 | 3,947 | 2,350 | 538 | 21 | 4 |
2010 | 4,103 | 1,998 | 880 | 468 | 757 | 4,198 | 3,677 | 2,133 | 521 | -96 | -162 |
年度 | 収益 | 広告料 | 入場料 | 配分 | 育成 | その他 | 費用 | 人件費 | 試合 | トップ | 育成 | 女子 | 販売 | 利益 | 純利益 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011 | 4,196 | 2,136 | 814 | 239 | 250 | 757 | 4,231 | 2,167 | 316 | 491 | 174 | 0 | 1,083 | -35 | -65 |
2012 | 3,993 | 2,145 | 799 | 226 | 275 | 548 | 4,287 | 2,009 | 319 | 488 | 208 | 0 | 1,263 | -295 | -257 |
2013 | 4,226 | 2,457 | 736 | 221 | 258 | 555 | 4,304 | 2,348 | 283 | 448 | 191 | 0 | 1,034 | -78 | -78 |
2014 | 4,042 | 2,471 | 756 | 204 | 228 | 383 | 4,041 | 2,053 | 286 | 434 | 186 | 0 | 1,082 | 1 | 23 |
2015 | 4,446 | 2,775 | 727 | 200 | 237 | 507 | 4,349 | 2,086 | 275 | 458 | 205 | 0 | 1,325 | 97 | 30 |
年度 | 収益 | 広告料 | 入場料 | 配分 | 育成 | 物販 | その他 | 費用 | 人件費 | 試合 | トップ | 育成 | 女子 | 物販 | 販売 | 利益 | 純利益 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2016 | 4,713 | 3,088 | 761 | 208 | 203 | 187 | 266 | 4,565 | 1,984 | 275 | 550 | 191 | 0 | 120 | 1,445 | 148 | 149 |
- 金額の単位: 百万円
出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016
貸借編集
年度 | 総資産 | 総負債 | 純資産 | 資本金 |
---|---|---|---|---|
2005 | 952 | 274 | 677 | 400 |
2006 | 834 | 428 | 406 | 400 |
2007 | 764 | 288 | 475 | 400 |
2008 | 873 | 297 | 576 | 400 |
2009 | 1,072 | 491 | 580 | 400 |
2010 | 797 | 378 | 418 | 400 |
2011 | 692 | 338 | 354 | 400 |
2012 | 969 | 876 | 93 | 400 |
2013 | 589 | 574 | 14 | 400 |
2014 | 423 | 385 | 38 | 400 |
2015 | 956 | 888 | 68 | 400 |
2016 | 764 | 510 | 254 | 105 |
脚注編集
注釈編集
出典編集
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- ^ 2007年5月15日付中日新聞
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- ^ 木村元彦『誇り-ドラガン・ストイコビッチの軌跡』東京新聞出版局、1998年5月。ISBN 9784808306335。
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- ^ “スペイン1部の古豪レアル・ソシエダードと提携”. 中日スポーツ (2010年12月16日). 2010年12月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年3月14日閲覧。
- ^ “スペイン短期留学のお知らせ” (プレスリリース), 名古屋グランパス, (2011年12月18日) 2013年3月14日閲覧。
- ^ “名古屋グランパス × TOYOTA GAZOO Racing「GRヤリス」車名ロゴ入りユニフォーム」着用のお知らせ” (プレスリリース), 名古屋グランパス, (2020年10月15日) 2020年11月18日閲覧。
関連項目編集
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 名岐ダービー
- 東海チャンピオンシップ
- 中日ドラゴンズ
- 名古屋オーシャンズ
- 名古屋ダイヤモンドドルフィンズ
- 豊通ファイティングイーグルス名古屋(通称:Fイーグルス名古屋) - Bリーグの2部、B2リーグに所属する男子バスケットボールチーム。なお、グランパスはFE名古屋のオフィシャルスポンサーでもある。
外部リンク編集
- 公式ウェブサイト
- 名古屋グランパス - Facebook
- 名古屋グランパス 軟式 (@nge_staff) - Twitter
- 名古屋グランパス 公式 (@nge_official) - Twitter
- 名古屋グランパス スペイン語アカウントサポーター (@NagoyaArgentina) - Twitter
- グランパス・ダイレクト
- 名古屋グランパス - 中日スポーツ