ヨッヘン・ニアパッシュ

ヨッヘン・ニアパッシュ(Jochen Neerpasch、1939年3月23日[1] - )は、BMWメルセデス・ベンツなどでモータースポーツ活動の責任者を務めたことで知られる人物である。「ドイツレース界の黒幕」とも呼ばれた[2]

ヨッヘン・ニアパッシュ
Jochen Neerpasch
BMWモータースポーツ社を率いていた当時のニアパッシュ(1973年)
生誕 (1939-03-23) 1939年3月23日(85歳)[1]
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国プロイセン自由州クレーフェルト
国籍 ドイツの旗 ドイツ
著名な実績 BMW M社の創設。BMW、メルセデス・ベンツにおけるジュニアチームの創設。
後任者 マイケル・クラネファス英語版(フォード モータースポーツ部門責任者)、ディーター・スタパート英語版(BMW モータースポーツ部門責任者)、ノルベルト・ハウグ(メルセデス・ベンツ モータースポーツ部門責任者)
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概要 編集

元々はレーシングドライバーとしてキャリアを始め、1960年代後半にポルシェのワークスドライバーとして活躍し、デイトナ24時間レースで優勝するなどの実績を挙げた。ドライバーを20代で引退した後、モータースポーツ関連の組織のマネージメントを務めるようになった。

そのキャリアにおいて1972年のBMWモータースポーツ社創設に関わり(→#BMW)、1980年代後半から1990年代初めにはダイムラー・ベンツメルセデス・ベンツ)のモータースポーツ責任者としてザウバー・メルセデスに関わった(→#ダイムラー・ベンツ)。両社において若手レーシングドライバー育成のためにジュニアチームを設立しており、そのことはしばしば特筆される。メルセデス・ベンツのジュニアチームのドライバーだったミハエル・シューマッハについては、そのフォーミュラ1(F1)デビューにおいて、ニアパッシュは契約交渉の主導的な役割を果たした(→#シューマッハのF1デビュー)。

経歴 編集

ドライバー時代 編集

 
1964年ニュルブルクリンク1000㎞でシェルビー・コブラを駆るニアパッシュ

1959年、20歳の頃にラリーでモータースポーツを始め、ツーリングカーレースにも参加するようになった[1]。1960年代初め、ニアパッシュはフォーミュラ3ロータス・35フランス語版を走らせたが、シングルシーターは向いていないと判断し、以降はスポーツカーレースで走るようになる[W 1]。1964年から1966年にかけては基本的にプライベーターのチームで走り、シェルビー・デイトナ・コブラマセラティ・ティーポ61フォード・GT40を駆ってル・マン24時間レースにも参戦した[W 1]

1966年までの3年間は冴えない成績に終わったが、1967年にポルシェのワークスドライバーに起用され、翌年にかけてル・マン24時間レースに参戦して両年ともにクラス2位の成績を収めた[W 1]。1968年にはこの年の初めに開催されたデイトナ24時間レースでポルシェ・907LHを駆り、優勝ドライバーの一員となった[W 1]

フォード 編集

ニアパッシュにとって1968年は自身にとって最良の年となっていたが、そんな中、当時西ドイツケルンにレース部門の設置を進めていたフォードから同部門の責任者の地位をオファーされる[3][W 1]。ニアパッシュは29歳という自身の年齢や、「ポルシェ・ワークスドライバー」という現状はおそらく自分がドライバーとしてのキャリアで望み得るピークだろうと判断し、悩んだ末にフォードの要請を承諾し、1968年限りでドライバーを引退した[3][W 1]

フォードのモータースポーツ活動の責任者となったニアパッシュは、スポーツカーレースにおける参戦車両としてフォード・カプリを選択し、ラリー部門はイギリス・フォードに委ね、そちらはエスコートを使って参戦することになる。

カプリは1970年から実戦に投入され、ヨッヘン・マスハンス=ヨアヒム・シュトゥッククラウス・ルートヴィッヒという、それぞれ後に大物となる3人の新人ドライバーたちに駆られてヨーロッパツーリングカー選手権を中心に活躍し[W 1]、同選手権において、1971年から1972年にかけて16レースで13勝をあげる圧倒的な強さを示した[3]

BMW 編集

 
3.0CSL(グループ2仕様)。BMW M社で最初に開発されたサーキットレース用車種[W 2][W 3][注釈 1]

ニアパッシュの率いるフォードチームに打ち負かされるようになったBMWはモータースポーツへの取り組みを再構築することを考え、それにあたってニアパッシュとその補佐役であるマルティン・ブラウンガルトドイツ語版の引き抜きを実行した[4][3][W 1][注釈 2]

フォードが無敵を誇っていた時期の移籍であり、ニアパッシュのこの決断は当時のレース関係者を一様に驚かせるものだった[4]。これは、フォードのモータースポーツ部門の立ち上げが成功し、既に無敵の状態になってしまっていたため、ニアパッシュが別のチャレンジを求めたためと考えられている[4]

ニアパッシュはBMWには9年間に渡って在籍したが、この期間はBMWのレース活動の歴史上、重要な意味をもつことになる[3]

モータースポーツ部門の設立 編集

ニアパッシュは、レースにより柔軟に対応するためにはモータースポーツ専門の部門が必要だとBMWに要求した[W 3][W 4]。それが受け入れられ、1972年5月1日にBMWモータースポーツ社(現在の「BMW Mモータースポーツ社」)が設立され、ニアパッシュは同社の初代CEOに任命された[W 2][W 3]。同時に、親会社であるBMWのモータースポーツディレクターとなり、同社のモータースポーツ活動全体の責任者となる[W 3]

同社は設立当初は35名程度の小規模な陣容だったが、開発全般はブラウンガルトが管理し、顧客担当の技術部門はポルシェ出身のヘルベルト・シュタウデンマイアが担当し、車両の開発体制とプライベーター向けの効率的なサポート体制を早期に構築した[4]。同社が手掛けた最初の車両である3.3 CSL(グループ2車両)は、同社の設立から1年足らずしか経っていない1973年2月に発表された[4]

BMW M社はレーシングカーを製造するとともに、そこで得られた経験をフィードバックして、公道用の高性能でスポーティな車両を開発し、それによって資金を稼ぎ出すこともできるようになった[W 5][W 3][注釈 3]。同時に、市販車用のBMW・M10エンジン英語版をベースとしてフォーミュラ2用のエンジンを開発・販売するビジネスを始め、これはBMW M社にとって非常に成功した取り組みとなった[W 1]

ドライバーについては実績のあるクリス・エイモントワン・ヘゼマンス英語版ディーター・クエスターらを擁するとともに[W 2]、後述の「ジュニアチーム」を設立して、若手の育成にも取り組んだ。

BMWジュニアチーム 編集

ニアパッシュがドライバーをしていた1960年代当時、モータースポーツはスポーツとはみなされておらず、そのため、レーシングドライバーもアスリートとはみなされておらず、多くのドライバーはレースの過酷な身体的負荷に対して充分なトレーニングがされているとは言えない状態だった[W 3]。また、ドライバーは車体の技術的な知識にも乏しく、走り終えたドライバーは車についてエンジニアに感覚的なフィードバックを与えることしかできていないということが普通だった[W 3]

そうした状況や自身の経験を踏まえ、ニアパッシュは1977年に「BMWジュニアチーム」を設立した[W 3][W 4]。これはニアパッシュが自身がドライバーだった当時の経験から発案されたもので、フィジカルからメンタルまでのトレーニングや、プロドライバーとして必要となる知識や経験を見どころのある若手ドライバーに習得させるために設けられた[5]。自動車メーカーなどが若年ドライバーの育成プログラムを持つことは1990年代以降は一般的になるが、BMWにおけるこのジュニアチームは世界初の試みだった[5]

BMWはヨーロッパF2選手権で組んでいたマーチと協力してこのジュニアチームプログラムを展開し、ブルーノ・ジャコメリマルク・スレールエディ・チーバーらを発掘し、彼らはF1までステップアップしていった[6][7][W 3]

M1 編集

 
M1プロカー選手権用の車両[注釈 4]

BMW M社の設立以前から、BMWは市販車をベースとしてレース仕様の車両を生み出すことを基本としていた[W 3]。ニアパッシュはより野心的なプロジェクトとして、従来とは逆に、レース専用車両をまず開発し、そこから公道用の車両を派生させるという開発プロジェクトを立ち上げた[W 3][注釈 5]

そうして開発されたのがBMW・M1である[W 3]。同車はBMWの工場で製造することはできなかったため、BMW M社が開発、製造、販売の全ての責任を負った[W 3]

この車両は元々、グループ4英語版もしくはグループ5で競うことを目論んで開発されたが、当時のグループ4が条件としていた生産台数を満たすことができず、当初の目論見通りにはいかないことになった[W 3][注釈 6]。このことについて、ニアパッシュはヨーロッパF2選手権でマーチにBMWエンジンを供給していたことで知己となっていたマックス・モズレー[注釈 7]に相談を持ち掛けた。モズレーはマーチを去った後もフォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション(F1CA)のアドバイザーを務めていたことから、サポートレースの開催について、F1コンストラクターの代表者たちを説得した[W 6]。そうして、F1におけるサポートレースとして、1979年1980年の2年間という短期間ながら、M1によるワンメイクレースであるM1プロカー選手権英語版が開催された[W 3][注釈 8]。このレースは大成功となり、興行面を取り仕切っていたバーニー・エクレストンを喜ばせた[W 5]

M1は北米で開催されていたIMSA GT選手権のGTOクラスにも投入され、そちらでも活躍した[W 2]。こうしたM1の活躍によって需要が喚起されたことから、BMW M社は市販車の5シリーズをベースにして、より高性能なM535i英語版を開発して1980年に発売した[W 2]。その後、BMWでは一般車種をベースにチューニングを施した「M」シリーズを各クラスに用意するようになり、1980年代半ばに最初の「M5英語版」と「M3」を発売した。

ニアパッシュはM1にV型8気筒エンジンを搭載することを望み、それを搭載したエボリューションモデルによって、グループ5を席巻していたポルシェ・935を打ち破る体制を構築するとともに、F1進出時にもそのエンジンを利用することも目論んだが、この計画は直列6気筒に固執したBMWの取締役会によって拒否された[3]

タルボ 編集

ニアパッシュは次のステップとしてF1への参入を望んだが、BMWの取締役会はフォーミュラレースへの参戦に否定的で、拒否されていた[3][W 1][注釈 9]。そんな中、タルボからの接触を受けて[W 1]、ニアパッシュは1980年初めにBMW M社を去り[W 5]、タルボに移った[3][注釈 10]。タルボはF1参戦によるマーケティング機会を窺っており、BMW製4気筒・2リッターエンジン(M10英語版)をベースにしたエンジンに自社のバッジを付けてF1参戦することを望んだ[W 1]。ニアパッシュはBMWとの契約を目指し、この契約は署名する寸前まで進んだが、BMWの取締役会が心変わりして、それまでとは一転して自社でF1参戦することを決定してしまい、破談となる[3][W 1][注釈 11]

IMG 編集

タルボに在籍する意味を失ったニアパッシュは同社を早々に去り、1981年から1982年まで国際自動車スポーツ連盟英語版(FISA)でスポーツカー世界選手権の代表を短期間務めた[3][W 1]

その後、1983年にはインターナショナル・マネジメント・グループ(IMG)でモータースポーツ担当副社長として雇われ、1987年まで務めた[3][W 1]。ここで、サッカーやテニスなど、モータースポーツ以外のプロスポーツの経営についても深い知識を得たという[3]

ダイムラー・ベンツ 編集

ザウバー・C9(1989年型)

1986年、IMGに居たニアパッシュは財政面で窮状にあったザウバーイヴ・サンローランを紹介し、イヴ・サンローランは同社の化粧品ブランド「クーロス英語版」で同年からザウバーのスポンサーとなった[9][10][W 1]。この縁で、ニアパッシュはザウバーに非公式にエンジンを供給していたダイムラー・ベンツと接近することになる[9]

ダイムラー・ベンツは1955年限りでモータースポーツ活動を休止していたが、ザウバーへの非公式なエンジン供給や経営方針の変更を契機として、1988年1月にモータースポーツへの正式復帰を発表した[注釈 12]。しかし、この時点ではどのカテゴリーに注力するのかといった方針の検討を続けており、ニアパッシュは1988年初めにそのプロジェクトチームの一員として招かれた[W 1]。ニアパッシュが行ったプレゼンテーションはF1に参戦する場合の分析まで含んだもので、これに満足したダイムラー・ベンツ社は当時まだIMGに所属していたニアパッシュに(ニアパッシュが望んだ)モータースポーツ責任者の地位を提示し、ニアパッシュもこれを承諾して移籍が実現した[W 1]

こうして、1988年にニアパッシュはダイムラー・ベンツのモータースポーツ活動全体の責任者となり、同年11月にザウバーにも経営陣の一人として加わった[10]

メルセデスジュニアチーム 編集

 
ジュニアチーム時代のシューマッハ(1991年、画像左の人物。中央の人物がバーニー・エクレストン

ザウバー・メルセデスはフルワークスチームとなって2年目の1989年にル・マン24時間レースを制し、同年の世界スポーツプロトタイプカー選手権でもチャンピオンタイトルを獲得して所期の目的を早くも達成した。いずれF1チームを立ち上げたいと考えていたニアパッシュはそのための布石として、BMWの時と同様、ジュニアチームの設立をペーター・ザウバーに提案した[10][7]。ザウバーとダイムラー・ベンツは新人に車両の1台を託すことに当初は難色を示していたものの、最終的には両者とも計画を承認し、1990年にジュニアチームの設立が実現した[11][10][7][注釈 13]。メンバーとなるドライバーは前年のドイツF3選手権英語版で接戦のタイトル争いを演じた上位3名をそのまま採用することにし、カール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェンミハエル・シューマッハの3名が抜擢された[10][注釈 14]。この3名もまた、後に全員がF1ドライバーに昇格した。

シューマッハのF1デビュー 編集

1991年8月後半、翌週に迫ったベルギーグランプリジョーダンチームベルトラン・ガショーが欠場することになり、その代役ドライバーを探していたエディ・ジョーダンからニアパッシュに話が持ち込まれた[12][13][注釈 15]。ジョーダンは人選についてはメルセデス側に委ねたため、ニアパッシュはシューマッハを選んだ[12][13][注釈 16]。ジョーダンとしては広告スペースをメルセデスに売ることがこのオファーの目的であり[12][13][注釈 17]、ニアパッシュの提案通りにシューマッハがスポット参戦することが決まった[W 5][注釈 18]

レース前の火曜(1991年8月20日)、シルバーストン南コースでシューマッハは半日ほどジョーダン・191のテスト走行を行い[16][W 8]、その速さに気付いたジョーダンチームは、以下の合意に署名するようシューマッハに迫った[12][W 9]

【原文】[W 9]
Dear Eddie,

I confirm that if you enter me in the 1991 Belgian Grand Prix I will sign the driver agreement with you prior to Monza in respect of my services in 1991, 1992, 1993 and subject to Mercedes’ first option, 1994. The driver agreement will be substantially in the form of the agreement produced by you with only mutually agreed amendments.
I understand that PP Sauber Ltd will pay you £150,000 per race for 1991.
I also understand that you require 3.5 million dollars for both 1992 and 1993 and if I or my backers are unable to find this money you will be entitled to retain my services in those years.

Yours sincerely
Michael Schumacher
【和訳】
親愛なるエディ

私を1991年ベルギーグランプリに出走させていただいた場合、(次戦の)モンツァに先立って、1991年、1992年、1993年と、メルセデスからの異論がない場合は1994年も含め、私の労務について、貴君とのそのドライバー契約に署名します。ドライバー契約は、変更について双方が合意した場合のみ、貴君が作成した契約書の形式で書き換えられるものとします。
1991年について、1レースにつき、ザウバー社が貴君に15万ポンドお支払いすることを承知しています。
1992年と1993年の両年について350万ドルを貴君が要求していることと、もし私もしくは支援者がこの額を用立てられない際も貴君が私の労務を保持する権利を有するということについても承知しています。

敬具
ミハエル・シューマッハ

この書面は後出しのものだったが、ジョーダンチームはこれに署名しない限りシューマッハをレースに出走させないと主張した[12]。ニアパッシュはジョーダンの強引なやり方に対して一計を案じ、「the driver agreement(そのドライバー契約)」の「the」を不定冠詞の「a」に書き換えさせた上でシューマッハに署名させた[12][W 9][注釈 19]。ジョーダンチームはこの変更の意図に気付かなかったが[12][注釈 20]、この変更によりこの文面はシューマッハの契約を縛る法的効力を持たなくなり、そのことはほどなくしてから意味を持つことになる[19][W 9]

シューマッハのデビューは衝撃的なものとなり(予選で7番手グリッドを獲得)、エディ・ジョーダンはすぐさま契約を結ぶよう迫った[14]

しかし、レース直前にドライバーに不利な契約を強引に結ばせようとしてきたことや、約束されていた広告スペースを一方的に削減されたことでニアパッシュはジョーダンの不誠実さに腹を立て、契約を結ぶ気はなかった[20][12]。加えてジョーダンから「来年はヤマハと契約を結ぶつもりだ」と打ち明けられており、2年前ザクスピード・ヤマハや同年のブラバム・ヤマハの惨状から、翌年のジョーダンには充分な競争力は期待できないともニアパッシュは判断していた[12][15][21][14][注釈 21]

同レースの予選後、当時の強豪チームのひとつであるベネトン・フォーミュラへの移籍話が始まった[W 9][注釈 22]。当時のF1の実質的な興行主だったバーニー・エクレストンは、かねてよりF1にはドイツ人のスタードライバーが必要だと考えていた[12]。エクレストンはニアパッシュにシューマッハをベネトンに移籍させることを勧め、ニアパッシュもそれに賛同し、実現させるべく動いた[12][W 9][注釈 23]。この際、ジョーダンチームの雰囲気が気に入っていたシューマッハは、F1デビューさせてくれたことでジョーダンに恩義を感じていたことや[12]、ジョーダンが翌年にヤマハ・V12エンジンを搭載するという話にも期待を持っていたことから移籍を渋ったが[14]、移籍先を決める権限はシューマッハが所属するザウバーとメルセデス・ベンツの責任者であるニアパッシュが握っていたため、本人の希望に反してベネトンへの移籍交渉を強行し[14][W 5]、エクレストンの後押しと根回しもあって移籍が実現した[12][15][W 9][注釈 24]。結果として、ニアパッシュの予想通り翌年のジョーダンは低迷し、一方のシューマッハはベネトンで活躍し、フル参戦初年度でF1初優勝を遂げた(1992年ベルギーグランプリ)。

メルセデスの撤退 編集

1991年、ザウバーではメルセデス・ベンツのF1参戦計画(フルワークスチームによる参戦)のための準備が進められており、12月には参戦発表を行う予定だった[14]

しかし、その直前の11月28日に、メルセデス・ベンツ社ドイツ語版[注釈 25]は世界スポーツカー選手権からの撤退を発表し、それまで表向きは否定していたF1参戦についても参戦しないことを正式に表明した[14]。この決定は親会社であるダイムラー・ベンツの経営悪化に伴うものだったが、BMW時代からF1参戦を目指していたニアパッシュはこの決定に失望し、同社を去った[14]。メルセデス・ベンツのモータースポーツ部門の責任者としての職責はノルベルト・ハウグによって引き継がれた[14]

その後 編集

メルセデス・ベンツ社を去ったニアパッシュはザウバーにはしばらく留まり、ザウバー単独で進められていたF1参戦計画の準備にしばらく関わった[27]

1993年から1998年まで、ニアパッシュはドイツ自動車連盟(ADAC)の顧問を務めた。その間、1995年から1998年にかけてドイツ・スーパーツーリング選手権の責任者を担当した。

レース戦績 編集

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1964年   ブリッグス・カニンガム英語版   クリス・エイモン シェルビー・デイトナ・コブラ・クーペ GT
+3.0
131 DSQ DSQ
1965年   J・シモーネ   ジョー・シフェール マセラティ・ティーポ65 P
5.0
3 DNF DNF
1966年   エセックス・ワイヤー英語版   ジャッキー・イクス フォード・GT40 S
5.0
154 DNF DNF
1967年   ポルシェ   ロルフ・シュトメレン ポルシェ・910ショートテイル P
2.0
351 6位 2位
1968年   ポルシェ   ロルフ・シュトメレン ポルシェ・908LH P
3.0
325 3位 2位

デイトナ24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1968年   ポルシェ   ヴィック・エルフォード英語版
  ロルフ・シュトメレン
  ジョー・シフェール
  ハンス・ヘルマン
ポルシェ・907LH P 673 1位 1位

タルガ・フローリオ 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1964年英語版   ポルシェ   ギュンター・クラス英語版 ポルシェ・356B 2000GSカレラGT GT
2.0
10 7位 3位
1965年英語版   ポルシェ   ヴィック・エルフォード英語版 ポルシェ・910 P
2.0
10 3位 2位
1965年英語版   ポルシェ   ハンス・ヘルマン ポルシェ・907 P
3.0
10 4位 2位

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ グループ2英語版は市販車をベースとして(比較的)小さな改造のみ施されたレース用車両のカテゴリーで、1982年にグループAに置き換えられた。BMW M社はグループ2においてもグループAにおいても有力なコンストラクターとなり、レースにおけるBMWの名を高めることになる。
  2. ^ ニアパッシュが去った後、フォードのモータースポーツ部門の責任者はマイケル・クラネファス英語版が引き継いだ[3]
  3. ^ アルピナシュニッツァー(後のACシュニッツァー)のようなBMWチューナーは、M社創設に当初は激怒したが、M社によるエンジン開発で恩恵を受けるようになり、かえって利益をあげるようになった[W 3]
  4. ^ 写真の車両の特徴的なBMW Mのカラーリングは、BMWモータースポーツ社が設立されてから使用されるようになった[W 2]
  5. ^ 市販車をレース用に改造するにはコストが非常にかかるためで、ジュニアチームが使用していた市販車ベースの320iターボ英語版は1台あたり50万ドイツマルクかかっていたが、M1の場合、当初の目論見では、レース用車両は15万ドイツマルク、公道仕様は10万ドイツマルクで、より低コストに製作することが可能という計算だった[W 5]
  6. ^ 元々、M1の製造はランボルギーニに委託される予定だったが、同社が財政状況の悪化により手を引いたため、年間400台を製造する手段がなくなってしまったためだとニアパッシュは説明している[W 5]
  7. ^ マーチの創設者の一人で、1977年までマーチの責任者だった。
  8. ^ 短期の開催となったのはBMWがF1参戦をすることになり、その準備が最優先となったため。
  9. ^ 1979年時点でBMWはIMSA用の2リッターターボエンジンをマクラーレンに供給していた[8]ブラバムに所属していたニキ・ラウダがマクラーレンに移籍するという話が進んでおり、BMW製1.4リッターターボエンジンをマクラーレンに供給するという計画だったが、BMWの経営陣がこの計画にストップをかけたと言われている[8](ニアパッシュの後任のスタパートが証言している)。
  10. ^ BMWのモータースポーツ責任者はディーター・スタパート英語版が引き継いだ[W 2]
  11. ^ BMWでニアパッシュの後任となったスタパートは、ニアパッシュがタルボで進めていたこの計画は成功すれば手柄は全てタルボのものとなり、失敗すればその責任はBMWにあるということにされかねないものだと判断し、エンジンはあくまでBMWが使用できるよう社内で根回しを行ったという[8]。BMWの一級のエンジニアであるパウル・ロシェもそのロビー活動に協力し、スタパートは経営陣の説得に成功し、BMW単独のF1参戦が決定した[8]
  12. ^ 1987年に最高経営責任者に就任したエツァルト・ロイターの意向で、ダイムラー・ベンツは経営の多角化を目指す方向となり、乗用車部門は分社化される見通しとなっており、新会社のアイデンティティ確立のため、モータースポーツ復帰が効果的という判断が下された。
  13. ^ 当初はジュニアチームという構想に懐疑的で、3名の走りを見て考えを改めたということをペーター・ザウバー本人もインタビューでたびたび語っている。
  14. ^ この3名について、ニアパッシュやペーター・ザウバーが「才能を見出した」とされることがあるが、ザウバーは単純にランキング上位3名を起用したということを語っている[10]。複数名起用したのは、BMWの時と同様、互いに競争心を起こさせるためである[5]
  15. ^ 後年、シューマッハのマネージャーのウィリー・ウェーバーは「エディ・ジョーダンとは以前から親交があり、シューマッハとジョーダンの契約は自分が行った」という趣旨のことを語っているが、1991年当時のウェーバーにシューマッハの契約交渉を行う権限はなく[14]、ジョーダンとの交渉はニアパッシュが取り仕切っていたことをジュリアン・ジャコビアイルトン・セナのマネージャー。ニアパッシュと同時期にIMGに所属しており、シューマッハの契約時にニアパッシュに協力した)も証言している[W 7]
  16. ^ この時点でフレンツェンはジュニアチームを離脱しており、ヴェンドリンガーはスポーツカー世界選手権の他に国際F3000で既に走っていた。シューマッハは前月に全日本F3000選手権菅生)にスポット参戦した後で空いていた。ニアパッシュはシューマッハを選んだ理由として「全体的なパッケージとしてF1にデビューするのに最も完成されていたからだ」とも語っている[15]
  17. ^ 買い取った広告スペースの扱いはニアパッシュに一任され[12][13]、決勝レースではシューマッハの個人スポンサーのチック・タック英語版のロゴが掲出された。
  18. ^ ジョーダンがシューマッハに支払う契約金は当時の所属チームであるザウバー(ザウバー・メルセデス)が負担し、シューマッハがジョーダンに支払う持参金の内の75%もザウバーが負担した[14]
  19. ^ 「a driver agreement」とすることで「モンツァ前に(1991年の残りのレース以降についての)何らかのドライバー契約に署名するでしょう」という意味になり、ニアパッシュが後年たびたび主張するように「合意について話し合う合意をしただけ」という文面になった[17][W 9]。ジョーダンはベルギーGP後にベネトンとシューマッハの契約差止めの訴訟を起こすが、裁判所から却下された[18]
  20. ^ もしエディ・ジョーダン本人が直接この契約書をチェックしていたなら、このトリックをきっと見つけていただろうとニアパッシュは後に語っている[12]
  21. ^ ジョーダンの関係者もこのレースの時にニアパッシュから「来年もコスワースを使え」と念を押されたと証言している[22]。ニアパッシュは、当時のヤマハについて、無料だけが取り柄のエンジンとみなしていた[12]。ジョーダン側はニアパッシュの真意にも裏でベネトンと交渉を進めていることにも気付かず、ニアパッシュは契約する気でいるものと思い込んでいた[18]
  22. ^ ベネトンのチームマネージャーだったフラビオ・ブリアトーレは、レース翌日の月曜日にウィリー・ウェーバーに電話したと後年たびたび語っているが、ニアパッシュは、ベルギーGPの週末にベネトンのトム・ウォーキンショー(スポーツカーレースで縁がある)とすでに接触を図っていた[W 9]。また、ブリアトーレはシューマッハとの契約について当初は難色を示していたとエクレストンは語っている[12][23]
  23. ^ この時点のシューマッハはメルセデス傘下のドライバーであるため、2、3年の内の参戦を計画していたメルセデスF1チームのためにも、より高いレベルで経験を積ませる必要があるとニアパッシュは判断した[24][15][14]
  24. ^ エクレストンがニアパッシュにブリアトーレを紹介した[15]。この時点でブリアトーレはモータースポーツに関わり始めてから3年ほどしか経っておらず、(F1と絡めたプロモーションなどの)商業面以外の分野ではウォーキンショーやエクレストンを頼りにしており[25][26]、「金の卵」の扱いを誤りたくないエクレストンが調整役を買って出た[12][W 9]。ベネトンとの契約交渉は次戦イタリアグランプリのフリープラクティスが始まる日の前夜に終わった[W 10]
  25. ^ ダイムラー・ベンツ社の子会社で、ニアパッシュ加入後の1989年に設立された。ダイムラー・ベンツ社の乗用車部門を担っており、レース活動も管轄していた。

出典 編集

出版物
  1. ^ a b c RacingOn No.083、「新しき時代を前に」(ヨッヘン・ニアパッシュ インタビュー) pp.74–79
  2. ^ 皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡(2007)、p.63
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m オートスポーツ 1989年6/15号(No.529)、「メルセデス・チームを操る男」(ヨッヘン・ニアパッシュ インタビュー) pp.46–49
  4. ^ a b c d e オートスポーツ 1973年5/15号(No.118)、「欧州レース界に波紋を投げる BMWモータースポーツ社の設立」(折口透) pp.58–60
  5. ^ a b c GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「義務なし、課題なし、環境あり。」 pp.82–85
  6. ^ RacingOn Vol.478 Mercedes' C、「目指したのはF1」 pp.52–58
  7. ^ a b c RacingOn Vol.478 Mercedes' C、「育成プログラムはF1参戦構想の一環でした」(ヨッヘン・ニアパッシュ) p.59
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ウェブサイト
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参考資料 編集

書籍
  • Karl Ludvigsen (1995-06) (英語). Mercedes-Benz Quicksilver Century. Transport Bookman Publications. ASIN 0851840515. ISBN 0-85184-051-5 
  • Timothy Collings (2001-11-08) (英語). THE Pianha Club - Power and Influence in Formula One. Virgin Books Ltd. ASIN 1852279079. ISBN 978-1852279073 
  • (ドイツ語) Danke, Schumi! Die Michael Schumacher-Story. Zeitgeist Media GmbH. (2006). ASIN 3926224592. ISBN 3926224592 
雑誌 / ムック
配信動画

外部リンク 編集