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出流山挙兵(いずるさんきょへい)は、江戸時代末期大政奉還後の慶応3年11月29日1867年12月24日)、下野国出流山満願寺(現在の栃木県栃木市出流町)にて、尊王倒幕を唱える浪士の一団が挙兵し、その周辺で幕府軍と戦闘を繰り広げた事件[4][5]出流天狗事件[6]あるいは出流岩船戦争[7]とも呼ばれる。

出流山挙兵
Izurusan Mangan-ji 201711a.jpg
浪士たちが挙兵した出流山満願寺本堂
戦争江戸薩摩藩邸の焼討事件の前哨戦
薩摩藩西郷隆盛らによる関東擾乱計画)
年月日慶応3年11月29日 - 12月13日
1867年12月24日 - 1868年1月7日
場所下野国出流山栃木宿岩船山周辺
(現在の栃木県栃木市内)
結果:鎮圧
交戦勢力
Mon-Tokugawa.png 江戸幕府 Japanese Crest maru ni jyuji.svg 薩摩藩
  • 出流山糾合隊
指導者・指揮官
渋谷和四郎
木村喜蔵
宮内左右平
善野司
ほか
竹内啓
会沢元輔
奥田元
安達孝太郎
西山尚義
ほか
戦力
1000以上[1] 150[2]から190[3]
(最高時)
損害
- 壊滅
事件関連地図。赤は戦場

経緯編集

慶応3年10月14日1867年11月9日)、江戸幕府15代将軍徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を上奏した。あくまで武力倒幕を主張していた薩摩藩西郷隆盛はこれを受け、幕府側を挑発して開戦に導くより他はないと考えて[8]伊牟田尚平益満休之助相楽総三[9]江戸三田の薩摩藩邸に派遣し、浪人を集めはじめた。

その結果、数百人の浪人が集まったので、その中から数人[注釈 1]を選抜し、下野国栃木宿に出立させた。落合直亮の『落合手記』に記載されたメンバーは次の通りである[12][13]

栃木での挙兵と同時に、下野真岡(現栃木県真岡市)、上野赤城山(現群馬県)、常陸土浦(現茨城県土浦市)などでも挙兵の計画があったが、これらは幕吏の目を忍ぶことが出来ず、頓挫している[15]

栃木宿には11月25日付けで先触れが届き、竹内と会沢の名で「薩摩藩夫人の安産願いのため出流山千手院(満願寺)に詣でる」とされていた[8]

挙兵編集

 
満願寺山門

慶応3年11月27日(1867年12月22日)、一行は栃木宿に到着し、脇本陣押田屋源兵衛方に宿泊した[8]。この際、出流山の鍋山村(現栃木市鍋山町名主・岩本半兵衛に使いを出して宿の支度を頼み、岩本は大塚武右衛門方に準備をさせた[16]。翌28日、一行は鍋山村へ移動するとともに、会沢をはじめ一部の浪士は同志を求めて遊説に赴いた。

翌朝、岩本・大塚ら同行の上で出流山へ向かい、満願寺本堂の前で討幕軍であるという正体を現した。まず祀祭の式を執り行い、次に京を拝し、竹内が誓文を読み上げた後、倒幕の諭告を発した[17][18]。諭告は挙兵にあたり四方の同志へ送った檄文と同じもので、起草者は会沢であるとされており、本堂前での朗読者は不明だが、長谷川伸は「奥田元かも知れない」と推測している[17]

諭告

夫レ天アリ地アリ国アリテ主ナキハナク孰レノ国郡邑部落アルモ長アラザルハナシ。我国ノ如キハ上 聖天子アリ下賢子アリテ孜々国事ニ労シ、勤王ノ士、皇国ニ忠義ヲ竭サントスト雖幕府ノ執政、朝命ヲ奉ゼズ、ソノ職弥々欠ク、我徒節義ヲ守リ、国家ノ志士ヲ糾合シ、征シテ幕府ヲ倒サンガ為ニ、糾合軍ヲ起シテ将ニ輦下ニ会セントス、諸士怠ル勿。徳川八百万ヲ領シ、旗本八万騎ヲ統ベ諸侯ハ愚カニシテ順逆ヲ悟ラズ、コレニ服従スルモ豈、能ク官軍ニ勝ツベケンヤ、我ガ軍暴発軽挙ニ非ズ、四方ノ義輩、糾合方隊ニ非ザルナシ。敢テ而テ諸士ニ告グ。人ニ上下ノ分アリ、君臣ノ別アリト雖、皆是、皇国ノ民ニシテ、皇事ニ一身ヲ砕クハ固ヨリ厭フベキニアラズ、諸士ノ義挙即チ朝廷ニ事フルナリ、又我輩臣下ノ職ナリ、努力セヨ。諸士ニ告グ。

会沢元輔[17]

浪士たちは鍋山村を拠点として、軍資金や人員の募集を始めたが、振るわなかった[19]。栃木宿では、これより3年前の元治元年(1864年)、水戸天狗党田中愿蔵の焼き討ちを受け、町の大半を焼失していた[20]ので、付近の住民たちはその二の舞を恐れていた節がある[8][21]。そのため、浪士らは住民たちにより「出流天狗」と呼ばれていた[22]

募集がはかどらないので、竹内らは軍議の結果、栃木町を管轄する足利藩栃木陣屋に数名の浪士を派遣し、軍資金の要求をすることにした[1]

栃木宿での動き編集

一行の中から選抜された5名が、鍋山村から栃木陣屋に向かった。その5名は次の通り[23]

  • 高橋亘
  • 高田国次郎(27歳)- 都賀郡粕尾村(現栃木県鹿沼市粕尾地区)の人。現地での募集に応じて参加した。鍛冶屋国司、高田郡司とも[3][24]
  • 斎藤泰蔵(28歳)- 高田と同じく都賀郡粕尾村の人。
  • 吉沢富蔵(31歳)- 上州佐位郡馬見塚(現群馬県伊勢崎市)の人。
  • 山本鼎(23歳)- 伊勢亀山(現三重県亀山市)の人ともされる[25][26]が、都賀郡梅沢村(現栃木市梅沢町)の人ともされ[27][28]、ばらつきがある。のちの西村謹吾

また、道案内として以下の人物が加わったともされる[1]

  • 大谷国次(24/28歳)- 国定忠治の息子。粕尾村浄楽寺の僧で千乗と名乗っていたが、挙兵に参加するにあたり還俗して、大谷刑部国次とした。

以上の5名乃至6名は、前述の脇本陣押田屋を宿とし、栃木陣屋を訪ねて軍資金千両を要求した[1]。一方で栃木陣屋では、郡奉行善野司をはじめとする郷士が対策を練り、資金要求をかわしながら接待する一方、関東取締出役及び吹上藩有馬家にこの事態を通報した[1]

栃木宿での戦闘編集

念仏橋の戦い編集

 
幸来橋(事件当時の呼称は念仏橋)

12月11日、鍋山村の本部では、栃木宿へ資金要求に行った5名(大谷は帰っていた)を心配し、応援を派遣することになった[29]。以下の8名がそれに選ばれ[30]、鍋山を出発した(西山尚義と山本鼎の2名のみともされる[31]が、誤伝)。

  • 西山尚義
  • 田中光次郎 - 上州出身。
  • 荒川清之丞
  • 河野橘蔵
  • 渡辺勇次郎(28歳)- 会津出身。
  • 大竹市太郎
  • 富永甚太郎
  • 大谷国次

栃木陣屋ではそれを把握して、善野や関東取締出役渋谷和四郎(鷲郎とも)、その配下・木村喜蔵が率いる軍勢や、吹上藩からの応援部隊、町民兵を動員して、町の東西南北にある4つの木戸口を閉め[1]、特に西側の木戸口(念仏橋、後の幸来橋のたもとにあった)では竹矢来を組むなどして、守りを固めた[32]

暮れ方、西山をはじめとする応援部隊は、西の木戸口にたどり着いて、開門を申し込んだ[33]。木戸番の石川久三によって[34]門はただちに開かれたが、西山らは入ったところで町民兵たちの迎撃を受けた[35]。8人のうち、西山と荒川、富永は討死し、大谷は生き残って本部に帰還、その他は生死不明となった[36]

 
栃木市室町のうずま公園の中にある、西山の墓。

西山の遺体は斃馬の捨て場に放置され[22]、その後墓碑が建てられた。西山は明治24年(1900年11月靖国神社に合祀され、明治36年(1912年11月には正五位を贈られた。

押田屋の戦い編集

応援部隊を駆逐した町民兵と幕府軍は、押田屋に宿泊中の5名も同時に討伐した[36]。5名のうち高橋と山本は生存したが、ほかの3名は戦死したとされる[36]

以上2つの戦いがあったが、これらの戦いは、押田屋の戦い→念仏橋の戦いの順で行われたとする史料もある[1]

移動と追跡編集

 
小野寺城跡

栃木宿での出来事を知った鍋山村の本部では、軍議の結果、唐沢山城跡から小野寺村(現栃木市岩舟町小野寺)にかけての山地に移動して引きこもることにした[31][37][38]。小野寺にはかつて小野寺城があり、要害の地であると判断したためであった。そこで、出流山に川田太郎を隊長とする次の10余名を「決死隊」として残し、下山した[31][39]。上州出身の安中以外は全員が野州出身。

  • 川田太郎(25歳)- 本名は川田吉太郎[24][40][41]。挙兵にあたって吉の字を除いた[42]。造り酒屋出身で、号を酒泉と言う。「いざとくと死出の高嶺の雪を見ん」の辞世を残している。
  • 亀山常右衛門(55歳)
  • 町田吉太郎(26歳)
  • 安中武助(23歳)
  • 三木柾之助(18歳)
  • 加藤祐松(22歳)
  • 桑原作蔵(31歳)
  • 鈴木長五郎(24歳)
  • 亀山広吉(23歳)
  • 古橋又左衛門(45歳)
  • 大島馬之助(28歳)

一方、渋谷率いる幕府や諸藩(佐野藩館林藩も動員された[43])の軍は、間者を放って浪士たちの動きを把握していた[31][44]。そこで、隊をいくつかに分け、12月12日に以下の作戦を実行した[31][45][46]

  • 馬場俊蔵と渡辺慎次郎が率いる隊は、出流山の南西の佐野(現佐野市)から同じく北東の鹿沼(現鹿沼市)にかけてを警戒した。
  • 望月善一郎の隊は、出流山の北の粟野(後の上都賀郡粟野町、現鹿沼市)と東の永野(後の上都賀郡永野村、現鹿沼市)方面を警戒した。
  • 副将の木村喜蔵と宮内左右平(啓之助とも[1])が率いる本隊は、仙波村(現佐野市常盤地区仙波町)から羽鶴峠(現栃木県道202号仙波鍋山線三峰山付近)を経て出流山を急襲、決死隊を全滅させ、そのまま竹内らを追った。
  • 主将の渋谷和四郎が指揮する隊は、栃木町から新里村(現栃木市岩舟町新里)に先回りし、兵を伏せておいた。

岩舟での戦闘編集

竹内ら浪士は、小野寺にたどり着いたものの、糧食が手に入らないうえに木村の軍勢の追跡を受けていることを知ったので、下山して新里に至り、炊き出しを受けることにした[43]。翌12月13日の明け方に新里にたどり着き、地元民から炊き出しを受けて[43]朝食をとっているところを木村隊・宮内隊に包囲され、銃撃を受けた[47]

 
岩船山

浪士たちは東の岩船山に向かって逃げたが、銃火器を持たない浪士たちは白兵戦しか道がなく、遠巻きに射撃を繰り返す幕軍にはなすすべもなかった[48]。そのため、仕方なく下山して戦いを挑もうとしたが、西から渋谷率いる本隊が現れ、またもや銃撃された[48]。これによって浪士たちは四散し、岩船山の山中か鷲巣(現栃木市岩舟町鷲巣)の方面に逃げて、多くは戦死か捕縛の道を辿った[49]。このとき、浪士方副将の会沢は渋谷の本陣を襲い、討死している[50]

なお、これらの戦いに関しても、岩舟での戦闘→出流山への攻撃という順で行われたとする史料がある[51]

鎮圧後編集

鎮圧後、浪士方の幹部の消息は次の通りである。

明治15年(1891年9月靖国神社合祀[54]。明治36年(1912年11月、贈従五位[54]

また、捕縛された浪士53名は佐野の獄につながれた後、戦傷の深い2名とその他1名が処刑放棄となったのを除き、50名が12月15日12月18日の2回に分けて佐野河原で処刑された。

薩摩藩邸の相楽らはこの挙兵の結果を受け、竹内らの討伐に当たった幕府の渋谷和四郎と木村喜蔵を恨み、12月23日夜、江戸にある渋谷と木村の屋敷に峰尾忠通(通称は小一郎)らを向かわせて、その家族を鏖殺した[62]。その知らせを受けた木村は、護送中の竹内を松戸で処刑した[54]

逸話・その他編集

  • 参加者のうちで出身地がわかるものは142名で、その内訳は次の通りであった[63]
  • 幸来橋の戦いの際、城内村(現栃木市城内町)の名主の子であった大沢亀之助(当時19歳とされる[64])は、陣屋側の士に加わって西山謙之助に斬りかかっていったが、かなわず、巴波川に落ちた[65][6]。そこから這い上がろうとしたものの、暗がりの中だったため、町の人々は大沢のことを出流天狗だと勘違いし、殺害してしまったという[6]。そのまま晒し首になるまで気づかれなかったという記録もある[65][66]
  • 安蘇郡小中村(現佐野市旗川地区小中町)の名主だった石井郡造は、子分十数人を率いて幕府軍に加勢し、大いに活躍したという[44][67]
  • 鈴木蘭台の『近代月表』、中根雪江の『丁卯日記』では、この事件に触れられている[68]
  • 明治17年(1884年)、事件のあった栃木町を西山尚義の老父西山春成が訪れ、尚義の最期について石川久三から話を聞いた[34]。これをきっかけに、丸山梅夫(挙兵参加者のひとり。のち赤報隊幹部[61])によって[69]、栃木近郊の錦着山に尚義の慰霊碑が建てられた[34]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ この時の人数については諸説あり、数人[10]、16人[8]、29人[11]、40人から50人[10]などとされる。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i 日向野 1974, p. 255.
  2. ^ 早乙女 1973, p. 84.
  3. ^ a b 栃木市史編さん委員会 1986, p. 888.
  4. ^ 井上 1966, p. 44.
  5. ^ 佐野市史編さん委員会 1979, p. 48.
  6. ^ a b c 日向野 1965, p. 210.
  7. ^ 栃木県教育会 & 栃木県地方思想問題研究会 1939, p. 65.
  8. ^ a b c d e 日向野 1974, p. 254.
  9. ^ 長谷川 2015, p. 77.
  10. ^ a b 長谷川 2015, p. 100.
  11. ^ 長谷川 2015, p. 102.
  12. ^ 長谷川 2015, p. 101.
  13. ^ 栃木市史編さん委員会 1986, p. 883.
  14. ^ 栃木県史編さん委員会 1984, p. 1325.
  15. ^ 栃木県史編さん委員会 1984, p. 1320.
  16. ^ 長谷川 2015, p. 112.
  17. ^ a b c 長谷川 2015, p. 115.
  18. ^ 早乙女 1973, p. 83.
  19. ^ 長谷川 2015, p. 120.
  20. ^ 栃木市教育委員会 2014, p. 38.
  21. ^ 長谷川伸 2015, p. 129.
  22. ^ a b 栃木市史編さん委員会 1978, p. 316.
  23. ^ 長谷川 2015, p. 121.
  24. ^ a b 栃木県史編さん委員会 1978, p. 594.
  25. ^ 長谷川 2015, p. 270.
  26. ^ a b 長谷川 2015, p. 509.
  27. ^ 長谷川 2015, p. 124.
  28. ^ 日向野 1965, p. 208.
  29. ^ 長谷川 2015, p. 130.
  30. ^ 長谷川 2015, p. 131.
  31. ^ a b c d e 日向野 1974, p. 256.
  32. ^ 長谷川 2015, p. 132.
  33. ^ 長谷川 2015, p. 133.
  34. ^ a b c 栃木市史編さん委員会 1978, p. 317.
  35. ^ 長谷川 2015, p. 134.
  36. ^ a b c 長谷川 2015, p. 135.
  37. ^ 長谷川 2015, p. 145.
  38. ^ 藤野 1914, p. 154.
  39. ^ 長谷川 2015, p. 146.
  40. ^ 栃木県教育会 & 栃木県地方思想問題研究会 1939, p. 73.
  41. ^ 栃木市史編さん委員会 1986, p. 887.
  42. ^ 長谷川 2015, p. 148.
  43. ^ a b c 日向野 1974, p. 257.
  44. ^ a b 長谷川 2015, p. 150.
  45. ^ 長谷川 2015, p. 151.
  46. ^ 栗原 1943, p. 98.
  47. ^ 長谷川 2015, p. 159.
  48. ^ a b 長谷川 2015, p. 160.
  49. ^ a b 日向野 1974, p. 259.
  50. ^ 長谷川 2015, p. 161.
  51. ^ 佐野市史編さん委員会 1976, p. 35.
  52. ^ 長谷川伸 2015, p. 170.
  53. ^ 長谷川 2015, p. 173.
  54. ^ a b c d 長谷川 2015, p. 174.
  55. ^ 長谷川 2015, p. 257.
  56. ^ 長谷川 2015, p. 165.
  57. ^ a b 長谷川 2015, p. 176.
  58. ^ a b 長谷川 2015, p. 167.
  59. ^ 長谷川 2015, p. 177.
  60. ^ 藤野 1914, p. 152.
  61. ^ a b 長谷川 2015, p. 396.
  62. ^ 長谷川 2015, p. 198.
  63. ^ 高木 1974, p. 197.
  64. ^ 栃木市史編さん委員会 1986, p. 894.
  65. ^ a b 栃木市史編さん委員会 1986, p. 895.
  66. ^ 栃木県史編さん委員会 1978, p. 590.
  67. ^ 石井 1943, p. 60.
  68. ^ 長谷川 2015, p. 118.
  69. ^ 長谷川 2015, p. 413.

参考文献編集

  • 長谷川伸『相楽総三とその同志』講談社講談社学術文庫〉、2015年2月10日。(1940年3月から1941年7月まで『大衆文芸』連載)
  • 日向野徳久『岩舟町の歴史』岩舟町教育委員会、1974年3月25日。
  • 日向野徳久『栃木市の歴史』栃木市教育委員会、1965年11月15日。
  • 栃木県史編さん委員会『栃木県史 史料編近世七』、1978年3月30日。
  • 栃木市史編さん委員会『栃木市史 史料編 近世』、1986年3月。
  • 栃木県史編さん委員会『栃木県史 通史編5近世二』、1984年3月28日。
  • 栃木市史編さん委員会『目で見る栃木市史』、1978年3月31日。
  • 栃木県教育会、栃木県地方思想問題研究会『下野勤王史概説』、1939年。
  • 栃木市教育委員会『とちぎガイドブック』、2014年3月25日。
  • 井上清『日本の歴史 20 明治維新』中央公論社、1966年9月15日。
  • 藤野近昌『野州岩船山浪人追討聞取書』、1914年11月3日。(『戊辰之役館林藩一番隊奥羽戦記』1915年 収録)
  • 早乙女慶寿『西方都賀の郷土史』、1973年3月。
  • 西方町史編さん委員会『西方町史』、2011年7月30日。
  • 高木俊輔『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974年1月1日。
  • 栗原彦三郎『出流山尊王義軍』鍾美堂、1943年。
  • 佐野市史編さん委員会『佐野市史 通史編下巻』、1979年3月15日。
  • 佐野市史編さん委員会『佐野市史 史料編3近代』、1976年3月31日。
  • 石井録郎『小中村史蹟』、1933年。

関連項目編集