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口羽 通良(くちば みちよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の重臣。吉川元春小早川隆景福原貞俊と共に御四人の一人に数えられる。

 
口羽通良
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年(1513年
死没 天正10年7月28日1582年8月16日
改名 志道才徳丸(幼名)→志道通良→口羽通良
別名 通称:善九郎[1]
墓所 宗林寺島根県邑智郡邑南町
官位 刑部大輔[1]下野守[1]
主君 毛利元就
氏族 大江姓毛利氏庶流志道氏 → 大江姓志道氏庶流口羽氏
父母 父:志道元良もしくは志道広良[1]
兄弟 志道広良?、通良
福原広俊の娘
広通春良元可、宗立、井原元良室、
宍戸元続継室、栗原勝右衛門[2]

出自編集

家系は大江姓毛利氏の庶家にあたる坂氏一門志道氏の傍流にあたる。志道元良の次男で、兄に志道広良がいるとされるが、広良との年齢が46歳差で大きくかけ離れていることから、広良の子とする説もある。

生涯編集

永正10年(1513年)、志道元良もしくは志道広良の子として生まれ、毛利元就に古くから仕える。初めは「志道」の名字を名乗ったが、後に石見国邑智郡口羽村[注釈 1]を領し、琵琶甲城を居城としたことから、在名を取って「口羽」を名字とした。

天文3年(1534年)に塩冶興久の処遇に関して尼子氏との関係が悪化した備後山内直通に接近することを元就に命じられて山内氏と親交を深めた。この時、偏諱をくれるよう山内直通へ再三願い出て「通」の字を与えられ、名を「通良」と改めた。

兄の志道広良が死去した弘治3年(1557年)頃から兄に代わって抜擢される。永禄5年(1562年)に毛利氏に帰属した赤穴盛清の重臣・来嶋清行起請文を交わし、元亀元年(1570年)には出雲の湯原氏軍忠吉川元春と共に毛利元就と毛利輝元に上申する等、主に吉川元春を補佐して山陰地方の制圧やその統治等を任された。

元亀2年(1571年)に元就が死去した後は輝元を補佐し、元春や小早川隆景福原貞俊と共に御四人体制の一角を担った。行政手腕に優れていたため、名家老とも謳われている。元亀3年(1572年)の毛利氏掟の制定では、輝元から命じられた条々を御四人の連名で年寄衆と奉行衆に下している。

天正10年(1582年7月28日に死去。享年70。肖像が島根県邑智郡邑南町下口羽の吉祥山延命寺に残っている。また、宗林寺の墓を移設する際に古銭や刀等が出土している。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 現在の島根県邑智郡邑南町上口羽・下口羽。

出典編集

  1. ^ a b c d 田村哲夫編修 1980, p. 150.
  2. ^ 萩藩閥閲録』巻35「口羽木工」

参考文献編集

  • 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。全国書誌番号:73004060NCID BN07835639OCLC 703821998 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』(マツノ書店1984年
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年
  • 萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」