大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末からおこった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことをさす。広義には第2次西園寺内閣の倒壊から第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる[1]

狭義の大正政変編集

桂園時代編集

 
人心掌握の達人「ニコポン宰相」、桂太郎

1901年明治34年)以来陸軍大将桂太郎長州藩出身)と、立憲政友会西園寺公望公家出身)が「情意投合」[2]のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた。この時代は桂園時代と呼ばれる。1911年(明治44年)8月30日には第2次西園寺内閣が成立している。1912年7月30日の明治天皇崩御からほどなく、桂は[内大臣府|内大臣]]兼侍従長に任じられた。これは元老山縣有朋が桂を政界から切り離し、宮中にに入れるために策動したものであり、他の元老も同意していた[3]。山縣は天皇の信任を篤くし、陸軍内・政府内で台頭してきたかつての部下、桂を快く思っていなかった。桂の権威はそれまで絶大であった山縣の地位を脅かしていたのである[4]。明治天皇の崩御を機に、山縣は桂を内大臣兼侍従長として宮中に押し込め、桂と政党の関係を断ち切ろうと考え、1912年(大正元年)8月13日に桂を内大臣兼侍従長に就任させた[5]。2度の内閣を組織し、明治天皇から強い信頼を得ていた桂太郎は、「桂新党」の設立と山縣系官僚閥を改革する新政策を模索していた。これは、自ら結成した新党を政権基盤とする政権を樹立し、政友会への依存からの脱却と山縣からの自立を企図するものであった。


二個師団増設問題による西園寺内閣崩壊編集

一方で8月頃から陸軍大臣上原勇作は、西園寺首相に対して二個師団増設を強く要求するようになった。陸海軍は、帝国国防方針により、当面は陸軍が2個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻を要求していた[6]。一方で西園寺首相は日露戦争後の財政難[7]から緊縮財政の方針を採っていた。元老山縣は二個師団増設を求めていたが、内閣の意向や世論の反発を無視し二個師団増設問題を強引に推し進めることに危ないものを感じ、将来の増設への手がかりを残すことを内閣と約すことで、内閣と陸軍の妥協を図ろうとした[8]。11月末頃になると、増設反対の西園寺首相とそれを支持する世論、そして増設を要求する陸軍内部からの突き上げに上原陸相は苦しむようになった。しかし、桂太郎が上原に強硬路線をとるよう求めたことで、上原陸相は決心を固めることとなる[3]

11月30日の閣議で、上原陸相は翌大正2年度からの増師を強硬に要求したが、増師計画は採用されなかった。12月2日、上原陸相は帷幄上奏権を利用して、単独で大正天皇に直接辞表を提出した。陸軍と西園寺内閣の対立は公然としたものとなり、山縣といえども調停は不可能になった。陸軍は後継の陸軍大臣を送らず、1900年(明治33年)に軍部大臣現役武官制が成立していたため、内閣の存続は不可能であった。12月5日、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となったが、西園寺自身は首相を辞めたがっていたこともあり、山縣の慰留にも応じなかった[9]。また西園寺は政友会の党務を事実上取り仕切り、地方利益の追求をすすめる原敬との確執を強めていた[10]


桂内閣の成立と憲政擁護運動の高まり編集

この西園寺内閣の崩壊は陸軍と藩閥政治家、特に山縣の横暴であるという批判が高まった[9]。12月13日、東京新聞記者弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社[11]有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。この動きは憲政擁護運動、後に第1次護憲運動と呼ばれることとなる。

山縣・井上馨松方正義大山巌で構成された元老会議は後継首相を選定しようとしたが、なかなか候補は定まらなかった。松方は高齢を理由に辞退、同じく薩摩出身で海軍有力者の山本権兵衛、山縣閥の平田東助も政権運営の困難を理由に辞退したことで混迷した。結局、桂が首相就任の意欲を示したため、元老会議は桂を指名せざるを得なかった[12]。こうして12月21日に桂が首相に就任することとなった。桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであり、この点に関して「宮中・府中の別」[13]を乱すものとして非難の声があがった。

12月21日、第3次桂内閣が発足した。桂は斎藤実海相を優詔により留任させると、若槻礼次郎後藤新平ら自前の官僚勢力、イギリス流政治を信奉する加藤高明(駐英大使)を入閣させて自前の内閣を組織している。12月27日には、野党国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。


政友会と国民党の提携編集

 
63年間衆議院議員を務めた「憲政の神様」、尾崎行雄

1913年(大正2年)1月、「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。1月20日、桂首相は新党の設立を発表したが、これは政党嫌いであった山縣の支持を失わせることとなり、桂の新党・立憲同志会にはほとんど山縣系は参加しなかった[14]。21日、議会の開会予定をさらに15日間停会した桂内閣の処置により、かえって運動は加熱し、24日の東京での憲政擁護第2回大会はじめ、運動は全国的なひろがりをみせて一大国民運動となっていった。こうした動きに対し、桂首相は明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けてこれを乱発し、政府批判を封じた(優詔政策)[15]。桂の新政策とその意欲の一方で、優詔政策の失敗[16]など護憲運動への対応の迷走、政友会との決定的な対立、貴族院工作の失敗、山縣・寺内ら陸軍内部からの不信[17]が桂を追いつめていくことになる。

この間、立憲政友会と立憲国民党の提携が成立し、とくに立憲政友会党員の尾崎行雄や立憲国民党党首の犬養毅が中心となって活躍した。2月5日、再開された議会で政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出し、ただちに停会となった。このときの「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」のフレーズで知られる尾崎行雄の桂首相弾劾演説は有名である。

 
二六新報社(政府寄り新聞社)の襲撃

2月9日の憲政擁護第3大会は2万の集会となり、さらに、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励、民衆示威のなかで桂は帝国議会の開会をむかえた[18]。桂は議会解散を決意したが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告[19]により内閣総辞職を決意して、閣僚に辞表を書くよう指示し、再び停会を命じた。議会停会に憤激した民衆は警察署交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。つづいて同様の騒擾は大阪神戸広島京都などの各市へも飛び火した。

内乱を恐れた桂首相は辞任を決意し、2月11日、桂内閣は発足からわずか53日で総辞職した。政党内閣の実現を望まない山縣は、現状維持となるよう西園寺に再組閣を求めたが、健康上の理由として拒絶された。元老会議は山本権兵衛を推薦することとなったが、衆議院に支持基盤を持たない山本は政権運営に不安をいだいていた。これを察知した原敬はいち早く政友会が山本内閣を支持するよう動き、第1次山本内閣は閣僚6人が政友会党員である実質的な政友会内閣となった[20]

評価編集

大正政変は、山縣・桂率いる陸軍・長州閥が第2次西園寺内閣を倒閣し、これに反対する民衆運動が政党組織や優詔政策といった小手先の政策で交わそうとする「閥族内閣」を打倒したというイメージが強い。しかし、大正政変を経て誕生した「桂新党」(立憲同志会憲政会)は立憲政友会とともに政党政治をリードすることになる立憲民政党の前身である。大正政変は藩閥勢力に大打撃を与えるとともに、政権担当能力を有する第二党の成長も出遅らせることとなった。

また、西園寺は「違勅」(政争を辞めるようにとの天皇の「優詔」に違反した罪)を盾に政友会総裁の辞任を表明する。桂が出させたものであるとはいえ、「公家は天皇の藩屏でなければならない」と信じる西園寺にとって、自分が率いる政友会が天皇の詔勅を無視したことは許されないという論理である。政友会の幹部達はこの「違勅」の論理に困惑したが、西園寺の決意は揺らぐことが無かった。西園寺が後継に指名した松田正久の死去により、後継総裁に原敬が就任して立憲政友会は新たな段階へと進むことになる。

歴史的意義編集

日比谷焼打事件でも示された民衆運動の力がついに政権を覆した。民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例である。藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなり、これ以後、普選運動など大正デモクラシーの流れをつくっていった。松尾尊兌は、ここに始まる大正デモクラシーが一部の都市知識人による脆弱な輸入思想ではなく,戦後民主主義に直結する性質を有する、広汎な民衆運動であったことを説いている[21]


1913年(大正2年)1月、護憲運動のさなか、桂は立憲政友会に対抗するため、自ら政党を結成した(桂新党)。2月に桂内閣は倒れ、その年の10月に桂も死去するが、これが立憲同志会、のちの憲政会となった。

 
海軍軍人で初めて首相となった「明治日本海軍の父」、山本權兵衞

桂退陣後に成立した第1次山本内閣は、立憲政友会を与党とし、原敬(内相)や高橋是清(蔵相)ら政友会の有力者を閣僚としてむかえた。山本は世論を怖れて、桂の二の舞を演ずることを避け、軍部大臣現役武官制を緩和して予備役後備役でも可とし、政党勢力に譲歩するなど、国民に対して融和的な政治をとることで政局の安定化を図った。

一方、第1次山本内閣への入閣という形で利益を得ることになった立憲政友会に対して、国民はもちろんの事、立憲国民党や政友会内部からも反発が噴出して尾崎行雄は岡崎邦輔らとともに政友会を離党する(岡崎は後に復党するが、尾崎はそのまま中正会を結党した)。政友会は議会での孤立と党首不在という2つの非常事態に陥った。

広義の大正政変編集

冒頭に示した通り、大正政変の時期には広狭二義ある[1]

第1次山本内閣の時代を含めることにより、この時期の民衆が一方では憲政擁護運動以来の反閥族感情を保ちながらも、他方では1913年7月の中国第二革命の混乱に際しては、革命派擁護を名目とする対中出兵論に容易に乗るような大正デモクラシーの一側面が視野にはいってくる。松尾尊兌はこれを「内には立憲主義、外には帝国主義」という二面性をもったものとして説明している[21]

シーメンス事件によって第1次山本内閣が倒れたのち、民衆に人気のある大隈重信が立憲同志会、大隈伯後援会および中正会を与党として2回目の組閣をおこなったが、ここでは山東半島におけるドイツ勢力の駆逐と中国利権の確保を契機として、政友会と国民党は選挙で敗北し、陸軍二個師団増設が議会を通過し、のちに中国人のナショナリズムをおおいに刺激することになる「対華21か条要求」が国民的承認をうけるのであった。

脚注編集

  1. ^ a b 大久保(1964)
  2. ^ 1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会をおし、自分はふたたび政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだにむすんだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。
  3. ^ a b 伊藤之雄 2009, p. 377.
  4. ^ 伊藤之雄 (2016). 『元老ー近代日本の真の指導者たち』. 中公新書. pp. 111-113. 
  5. ^ 山本四郎 (1970). 『大正政変の基礎的研究』. 御茶の水書房. pp. 98-101. 
  6. ^ 『詳説日本史改訂版』、山川出版社、2002年、p294
  7. ^ 日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。
  8. ^ 伊藤之雄 (2016). 『元老ー近代日本の真の指導者たち』. 中公新書. p. 118. 
  9. ^ a b 伊藤之雄 2009, p. 378.
  10. ^ このころの『原敬日記』には西園寺への批判が多く記されている。
  11. ^ 1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ。
  12. ^ 伊藤之雄 2009, p. 379.
  13. ^ 1885年(明治18年)に創設された内閣制度では、宮内省を内閣の外に設け、宮中と府中(行政府)との別を明らかにし、さらに天皇を補佐する内大臣をおいていた。
  14. ^ 伊藤之雄 2009, p. 379-380.
  15. ^ イギリスのジョージ5世が即位したころ(1910年)、即位直後を理由に自由党保守党との政争の中止を命じて、これを実現させたことにならうもので、イギリスから帰国した直後の加藤高明が提案した。
  16. ^ 政治の混乱を詔勅により収拾することは明治期から行われていたが、即位後の大正天皇の権威は明治天皇とは比較にならず、民衆からは桂の陰謀と強く認識されることとなった。
  17. ^ 政党結成に動いたことはもちろん、桂が軍部大臣文官制を企図していたことも陸軍の不信を強めた。
  18. ^ このとき川上親晴警視総監は、騎馬憲兵25騎を民衆の中に投じた。
  19. ^ 大岡は桂に対し「議長としてでなく長州人として申し上げる」と述べたと伝わる。
  20. ^ 伊藤之雄 2009, p. 381-383.
  21. ^ a b 松尾(1974)

参考文献編集

  • 松尾尊兌『大正デモクラシー』(岩波書店、1974)、岩波書店<岩波現代文庫>、2001.6、ISBN 4006000553
  • 大久保利謙『日本全史10 近代3』東京大学出版会、1964、 B000JBHAEE
  • 伊藤之雄『元老ー近代日本の真の指導者たち』中公新書、2016年。
  • 山本四郎『大正政変の基礎的研究』御茶の水書房、1970年。 
  • 伊藤之雄『山県有朋-愚直な権力者の生涯』文藝春秋文春新書〉、2009年。ISBN 978-4-16-660684-9

関連項目編集