安祥寺 (京都市)
安祥寺(あんしょうじ)は、京都市山科区にある高野山真言宗の寺院。山号は吉祥山。本尊は十一面観音。朝廷縁の定額寺の一つ。
安祥寺 | |
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![]() 本堂 | |
所在地 | 京都府京都市山科区御陵平林町22 |
位置 |
北緯34度59分44.44秒 東経135度48分56.84秒 |
山号 | 吉祥山 |
宗旨 | 古義真言宗 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 十一面観音菩薩 |
創建年 | 嘉祥元年(848年) |
開山 | 恵運 |
開基 | 藤原順子 |
中興 | 宗意 |
別称 | 高野堂 |
文化財 | 木造五智如来坐像(国宝)ほか |
法人番号 |
6130005002246 ![]() |
寺内は非公開だが、2019年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として、本尊十一面観音像が初めて一般公開される(2019年4月26日から5月10日まで)[1]。
沿革編集
嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(ふじわらののぶこ)の発願により、恵運(入唐僧)によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。
安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。
恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。
しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。
江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年には多宝塔を焼失、以後再建されていない。
現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。
文化財編集
国宝編集
- 木造五智如来坐像 5躯 - 京都国立博物館に寄託。大日如来を中心とする金剛界の五仏で、安祥寺創建時の制作と推定される。明治39年(1906年)に焼けた多宝塔に安置されていたが、当時から京都国立博物館に寄託されていて難を逃れる(2019年度国宝指定)[2][3]。
重要文化財編集
- 木造十一面観音立像 - 本堂安置
その他編集
- 四天王像 - 本堂安置
- 地蔵菩薩像 - 地蔵堂安置
- 蟠龍石柱 - 唐時代。京都国立博物館に寄託。
なお、東寺観智院にある五大虚空蔵菩薩像(唐時代、重要文化財)はもと安祥寺にあったもので、恵運が唐から招来した仏像である。
交通編集
京阪線山科駅から徒歩10分。ただし、非公開寺院で境内に立ち入ることはできない。琵琶湖疏水に面しており、近辺は春は桜の名所である。
脚注編集
- ^ 朝日新聞デジタル、2019年1月25日
- ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第22号
- ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について〜」(文化庁サイト、2019年3月18日発表)
参考資料編集
- 『安祥寺の研究 京都市山科区所在の平安時代初期の山林寺院』
- (京都大学大学院文学研究科二一世紀COEプログラム『グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成』成果報告書 所収)
- 上原真人編『皇太后の山寺 山科安祥寺の創建と古代山林寺院』(柳原出版、2007)
外部リンク編集
- 山科安祥寺 - ウェイバックマシン(2002年1月13日アーカイブ分)
- 都名所図会「吉祥山安祥寺」