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恩全君(ウンジョングン、朝鮮語:은전군、1759年8月14日-1778年8月26日)は、韓国李氏朝鮮の王族で、思悼荘献世子の庶子と22代国王正祖懿昭世孫の異母弟。諱は(찬)、字憐哉(연재)、別稱荷葉生(하엽생)、諡号孝愍(효민)ある。

生涯編集

彼は21代国王英祖の庶次子荘献世子の第5庶子と彼は母親名は氷愛または彬愛、宮女出身の後宮である。荘献世子は服を着ることを困難にするヒステリーを患っていた、着替え着中荘献世子は刀で彼は母親名氷愛を殺害した。乳児の彼刀で刺し池に投げた、これを目撃した貞純王后金氏が来引き上げた。英祖はかわいそうだと彼は字を憐哉とし、貞純王后金氏は彼は別稱蓮の葉荷葉生した。彼は思悼世子の庶子であったが本人の生母が荘献世子の剣で殺されたので、恨みを抱いたものを見て、老論の強硬派僻派は彼に注目した。

1771年(英祖47)2月10日英祖の特命で宗親府有司堂上を任命て。1773年(英祖49年)8月5日五衛都総府都総管に任命され、1774年(英祖50)5月20日五衛都総府都総管に再任命され、9月19日司饔院提調に任命である。1774年5月20日五衛都総府都総管に三次任命された。1776年(英祖52)1月17日宗簿寺提調がされて璿源譜略の序文を書いた。1776年(英祖53年)1月17日宗簿寺提調に任命された。

1776年3月正祖即位後、洪相範洪啓能姜龍輝などは剣客を採用し、正祖を暗殺しようとした。1776年7月と8月の都城を侵入した刺客たちは正祖を付けに失敗して逃走してから逮捕された。洪相範洪啓能姜龍輝などは逮捕、流刑れたあとに処刑された。

洪相範洪啓能姜龍輝などこれらの家族、親戚まで逮捕し義禁府で拷問型をがしていた中、恩全君に推戴しようとしたという事実を自白された。洪相範洪啓能姜龍輝なの近く過ごした洪麟漢鄭厚謙などは、死藥を受けて死刑になった。司諫院司憲府弘文館は彼を断罪すと上訴が上がり続けてきた。正祖は彼に自殺を命じたが、彼は自分が死ぬ理由がないと抗弁した。1778年正祖は彼に死藥を下賜り死刑した。1850年(哲宗1)12月22日赦免と復権された、1871年(高宗8)3月16日諡号孝愍公を受けた。

墓地は京畿道果川郡北面堂井里(現.軍浦市堂井洞東北防)にある。

系図編集

恩全君の親類・近親・祖先の詳細

荘献世子(荘祖) ━┳懿昭世孫
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                   ┣22代正祖━23代純祖━━━孝明世子(翼宗)━24代憲宗 
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              ┣恩彦君━━全渓大院君━━25代哲宗 
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               ┣恩信君==南延君(養子)━興宣大院君━━━26代高宗
               ┃
               ┗恩全君

家族編集