有馬 是馬(ありま これま、1906年3月25日[1] - 1963年8月20日)は、日本俳優である。本名牟田口 茂(むたぐち しげる)[1]有馬 茂明(ありま しげあき)の名でデビュー、のちに改名した。サイレント映画時代の京都の撮影所の名物スタッフから喜劇役者に転向、「ムーランルージュ」で花開く。

ありま これま
有馬 是馬
本名 牟田口 茂
別名義 有馬 茂明
生年月日 (1906-03-25) 1906年3月25日
没年月日 (1963-08-20) 1963年8月20日(57歳没)
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国東京府東京市
死没地 日本の旗 日本東京都新宿区大久保
職業 俳優
活動期間 1928年 - 1959年
所属劇団 ムーランルージュ新宿座
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来歴・人物

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1906年(明治39年)3月25日[1]東京市(現在の東京都)に生まれる。京都日活大将軍撮影所の照明部のスタッフとなったが、当時から所内の人気者であった[2]

1928年(昭和3年)6月、マキノ・プロダクションの喜劇俳優の中根龍太郎が独立して興した「中根龍太郎喜劇プロダクション」に、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の大部屋俳優だった榎本健一を連れて参加、22歳のころに俳優に転向する。中根プロには、のちに映画監督小崎政房であり剣戟俳優・松山宗三郎となる前の結城三重吉、のちに大乗寺八郎となる前の千葉三郎がいた。中根プロは3本の喜劇映画を撮って解散した[2][3]。中根が妻の女優泉春子の実家を頼って向かった佐賀県唐津町(現在の唐津市)へ、有馬も小崎とともに同行し、浪花節芝居の一座に入った[2]

同年の暮れ、中根が11月に松竹下加茂撮影所に迎えられると、中根の推薦で有馬と小崎も同撮影所に入社する。しかし翌1929年(昭和4年)、有馬は同撮影所を退社してレヴュー一座を興し、巡業を始める。1931年(昭和6年)12月31日、東京・淀橋区角筈(現在の新宿区新宿三丁目)に「ムーランルージュ」がオープンすると、これに参加し舞台に上がる。芸名の「有馬是馬」は同劇場の経営者佐々木千里が命名した[2]

1934年(昭和9年)にはP.C.L.映画製作所製作の藤原釜足主演映画『続・只野凡児』に出演する。時代はトーキーである。翌1935年(昭和10年)、大友壮之介鳥橋弘一とともに、板橋区東大泉町(現在の練馬区東大泉)の新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に入社、山路ふみ子東海林太郎の『国境の町』ほかに出演、1936年(昭和11年)には新興キネマと提携している高田稔の「高田プロダクション」製作の『街の艶歌師』などに出演した。1937年(昭和12年)には京都のJ.O.スタヂオ森野鍛冶哉主演作『歌う弥次喜多 京大阪の巻』に出演しているが、このころには「ムーランルージュ」に戻ったり、樺太から台湾まで、全国の旅回りを始めている。「ムーラン」の女優明日待子を発掘したり、望月優子の相談に乗ったり、面倒見がよかった[2]1939年(昭和14年)には小崎がいる大都映画でオリジナル脚本を書いている。

第二次世界大戦後は、1950年代大映東映新東宝と各社で脇役に顔を出していたが、タクシーに轢かれる事故に遭い、失語症を患ったことで俳優として活動が困難になる[4][5]1959年(昭和34年)、柳家金語楼主演の『おトラさんのホームラン』が最後の出演作となる。

1961年の『キネマ旬報年鑑 昭和36・37年版』においては綜芸プロに所属していると記載されている[6]

1963年(昭和38年)8月20日新宿区大久保で死去。推定57歳没。友人が集まって偲ぶ会を開こうと、100枚の案内状を出したところ、90名以上が出席したという[2]

フィルモグラフィ

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特筆以外は出演である。

戦前

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中根コメディプロダクション 「有馬茂明」名義
P.C.L.映画製作所
新興キネマ東京撮影所
J.O.スタヂオ
大都映画

戦後

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  1. ^ a b c 「新桜オールスタァ名鑑」『芸能画報』2月号、サン出版社、1958年。 
  2. ^ a b c d e f 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「有馬是馬」の項(p.30)を参照。同項執筆は奥田久司
  3. ^ 『日本映画俳優全集・男優編』の「有馬是馬」の項(p.30)、「中根龍太郎」の項(p.407-408)には、どちらも『助太刀商売』と『おんぼろ草紙』の2本を撮って解散した旨の記述があるが、東京国立近代美術館#フィルムセンター公式サイト内の「日本映画の発見I 無声映画時代」には、同プロダクションの作品『娘十八花婿指南』(1928年)が紹介されている。これを加えて「3本」とした。
  4. ^ 「映画産業の混乱の中で……」『新評』10月号、新評社、1966年10月、133頁。 
  5. ^ 「事故死の配当(労災補償)」『月刊社会党』10月号、日本社会党中央本部機関紙局、1967年9月、151頁。 
  6. ^ 『キネマ旬報年鑑 昭和36・37年版』キネマ旬報社、1961年、339頁。 

参考文献

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外部リンク

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