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本郷 秀雄(ほんごう ひでお、1916年12月29日 - 1987年6月22日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名吉田 秀夫(よしだ ひでお)[1][2][5]

ほんごう ひでお
本郷 秀雄
本名 吉田 秀夫 (よしだ ひでお)
生年月日 (1916-12-29) 1916年12月29日
没年月日 (1987-06-22) 1987年6月22日(70歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷
死没地 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画トーキー
活動期間 1934年 - 1970年代
配偶者 光川京子 (1938年 - 1987年)
著名な家族 吉田幾次郎(父)
事務所 松竹キネマ (1934年 - 1940年)
大都映画 (1940年 - 1942年)
大映 (1942年 - 1943年)
第一協団 (1948年 - 1987年)
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人物・来歴編集

1916年大正5年)12月29日東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる[1][2][5]英文学者吉田幾次郎を父に、その妻・ふさを母にした3男2女の次男である[1][2]

旧制・誠之小学校(現在の文京区立誠之小学校)を卒業し、東京開成中学校(現在の開成高等学校)に進学、同校の卒業を目前にした1934年(昭和9年)2月、脚本・演出を目指して松竹蒲田撮影所に入社、助監督となる[1][2]。同年暮れには俳優に転向、俳優としてのデビュー作は、1935年(昭和10年)4月3日公開、栗島すみ子主演、池田義信監督の『二人静』ということになっている[1][2]が、前年12月31日公開の同年の正月映画、清水宏監督の『大学の若旦那・日本晴れ』に、ラグビー選手の一人として顔を出している[3]。同年6月27日公開、佐々木康監督の『舞姫の暦』に主演し、共演の水島光代とともに「夢心コンビ」として売り出される[1]。1936年(昭和11年)、同撮影所の移転により松竹大船撮影所に異動する[3]。同年暮れに松竹下加茂撮影所に異動し、時代劇俳優、剣戟俳優に転向する[1][3]。同年12月20日公開、笠井輝二監督の『弥之助行状記』に主演、松竹蒲田出身で先に下加茂に異動していた光川京子と初めて共演する[3][8]。1938年(昭和13年)、女優の光川京子と結婚した[1][2]

1939年(昭和14年)からはほとんどが助演に回るようになり、1940年(昭和15年)4月25日に公開された笠井輝二監督の『銭形平次捕物控 南蛮秘法箋』を最後に、光川京子とともに東京・巣鴨大都映画に移籍した[1][2][3][8]。同社での最初の出演は、同年5月30日公開、佐伯幸三監督の『日本巌窟王 前篇』、同日公開の中島宝三監督の『日本巌窟王 後篇』での主演であり、ふたたび主演スターに返り咲いた[1][2][3]。1942年(昭和17年)1月27日、大都映画は、戦時統制で新興キネマ日活の製作部門等と合併して大映を形成、本郷は継続入社し、大都映画撮影所(現存せず)は間もなく閉鎖され、日活京都撮影所改め大映京都撮影所に所属した[3]。『日本映画俳優全集・男優編』には「同年、本郷秀雄一座を結成して実演に転ずる」[1]とあるが、大映での出演記録が途絶えるのは翌1943年(昭和18年)4月以降である[3]

第二次世界大戦の終結後は、フリーランスとなり、1947年(昭和22年)8月3日公開、大曾根辰夫監督の『花ある星座』に出演して映画界に復帰する[1]。翌1948年(昭和23年)、第一協団に所属、二枚目俳優の面影を残しつつ喜劇映画に多く出演した[1][2][3]。『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』シリーズには、1954年(昭和29年)公開の『チャッカリ夫人とウッカリ夫人 やりくり算段の巻』からレギュラー出演した[1][3][5]。戦後の次郎長ものでは、1955年(昭和30年)2月28日公開、マキノ雅弘監督の『次郎長遊侠傳 秋葉の火祭り』(製作・配給日活)では増川仙右衛門、1957年(昭和32年)から始まる青柳信雄監督の『次郎長意外伝』シリーズ (製作・配給東宝)では追分の三五郎を演じた[3][5]

1970年代以降は、テレビドラマや舞台出演が中心となり、1975年(昭和50年)早々の1月16日、八代目坂東三津五郎が急逝し、南座で公演中の舞台『お吟さま』では、三津五郎が千利休、本郷が豊臣秀吉役であったが、急遽本郷が三津五郎の代役に立った[1]。晩年は大阪市大淀区に住んだ[1]

1987年(昭和62年)6月22日、肺がんにより死去した[2]。満70歳没。

フィルモグラフィ編集

すべてクレジットは「出演」である[3][4][5]。公開日の右側には役名[3][4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

松竹蒲田撮影所編集

すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]

松竹大船撮影所編集

すべて製作は「松竹大船撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]

  • 自由の天地』 : 監督清水宏、1936年6月25日公開
  • 少年航空兵』 : 監督佐々木康、共演水島光代、1936年9月18日公開 - 主演、100分尺で現存(NFC所蔵[9]
  • 嘆きの母』 : 監督宗本英男、1936年10月15日公開 - 長男善太郎
  • 愛の一つ家』 : 監督佐々木康、共演水島光代、1936年11月20日公開

松竹下加茂撮影所編集

特筆以外すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]

大都映画編集

すべて製作・配給は「大都映画」である[3][4]

大映編集

すべて製作は「大映」、配給は「映画配給社」である[3][4]

フリーランス編集

製作・配給それぞれ特筆の通りである[3][4][5]

東京映画編集

 
チャッカリ夫人とウッカリ夫人 夫婦御円満の巻』(監督青柳信雄、1956年)公開時のポスター。左上で耳を塞いでいるのが本郷秀雄

特筆以外すべて製作は「東京映画」、配給は「東宝」である[3][4][5]。当時の本郷の所属は第一協団である[1]

宝塚映画製作所編集

特筆以外すべて製作は「宝塚映画製作所」、配給は「東宝」である[3][4][5]。当時の本郷の所属は第一協団である[1]

大映京都撮影所編集

特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[3][4][5]。当時の本郷の所属は第一協団である[1]

東映京都撮影所編集

特筆以外すべて製作は「東映京都撮影所」、配給は「東映」である[3][4][5]。当時の本郷の所属は第一協団である[1]

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w キネマ旬報社[1979], p.526.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 本郷秀雄jlogos.com, エア、2013年1月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 本郷秀雄日本映画データベース、2013年1月8日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 本郷秀雄、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月8日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 本郷秀雄KINENOTE, 2013年1月8日閲覧。
  6. ^ 本郷秀雄、日活データベース、日活、2013年1月8日閲覧。
  7. ^ 本郷秀雄、映画データベース、東宝、2013年1月8日閲覧。
  8. ^ a b 光川京子 - 日本映画データベース、2013年1月8日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 本郷秀雄東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月8日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集