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芥川也寸志

日本の作曲家

特徴編集

快活で力強い作風といわれ、特に人気のある代表作に『交響三章』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』などが挙げられる。また映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山』『八つ墓村野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』などが知られるとともに、童謡『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソング社歌も手がけている。

来歴・人物編集

小説家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・東京都北区田端に生まれる。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・。長兄は俳優・芥川比呂志。次兄は多加志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。

父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある[1]

東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた[2]1941年、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽に志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。このとき無理が祟って肋膜炎を患う。東京高師附属中の同期には、石川六郎鹿島建設名誉会長)、山本卓眞富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。

1943年東京音楽学校予科作曲部に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代和声学管弦楽法下総皖一細川碧対位法を学ぶ。

1944年10月、学徒動員陸軍戸山学校軍楽隊に入隊し、テナーサックスを担当する。東京音楽学校は徴兵対象にも関わらず、乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話を持ち込み、いわゆる徴兵から逃げた。このとき共に逃げた軍楽隊の仲間に、東京音楽学校で1級上だった團伊玖磨がいた。逃げたにも関わらず休日には菓子を実家から持参させて贅沢な暮らしぶりをしていた。1945年4月、素人の養成機関であった軍楽隊を首席で卒業、教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った。

1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。また当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。

1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(別名・間所紗織、声楽科卒)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じる態度に出てもいるが、これはマーラーが妻・アルマに取った行動と軌を一にしている(しかし 二女をもうけた後、1957年に離婚、のちに紗織は画家として活躍する)。

1949年、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。同年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。

同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、ピアノを弾く学生の役で出演する。

1953年に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。なお、同年開催された毎日映画コンクールでは、『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得している。

1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチハチャトゥリアンカバレフスキーの知遇を得て、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国する。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。

 
芥川也寸志

1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。その後もショスタコーヴィチ交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方で、同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行った。

芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。また、音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若い頃父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている(但し郵政省の公式の見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)[3]。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。

1957年にはヨーロッパ旅行の帰途、インドに立ち寄ってエローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、代表作の一つとなった。またこのころから、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。なお、この『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられた(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを勤めた)。

1958年6月16日、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せ(現在でいうストーカー行為)を繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。

快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。

父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。

1967年12月、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。

1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。

1978年第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。

1988年夏、日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、ゲルギエフの指揮するオーケストラが芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断を受けた際に進行した肺癌が見付かり、東京都中央区国立がんセンターに入院、手術治療を受け、いったんは成功。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再び病状が悪化し再入院。それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションは出来ていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。そして、芥川は、病状好転せぬまま、1989年1月31日入院先にて逝去した。享年63。逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「ブラームス一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題は、なかにしの発案によったが、なかにしは、芥川からタイトルを訊かれた際に、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、1989年5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、勲二等瑞宝章授章を追贈された。

生前芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。

なお、曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真のなかに写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。

結婚を3度したが、2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる[4]。最初の妻との間に生まれた長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志成城大学文芸学部英文学科卒業後、エディター・スタイリストとして活躍している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。

芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。また芥川の死の半年後、埼玉県北葛飾郡松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。

主な作品編集

歌劇編集

管弦楽編集

  • 交響管絃楽のための前奏曲(1947年)
  • 交響三章(トリニタ・シンフォニカ)(1948年)
  • 小管弦楽のための組曲(1949年) - NHKラジオ「日曜随想」にて放送。「Basso ostinato」と「終曲 - トッカァタ」の2曲が現存。前者はピアノのための『ラ・ダンス』の間奏曲の編曲。
  • 交響管弦楽のための音楽(1950年)
  • バレエ音楽「失楽園」(1950年)
  • バレエ音楽「湖底の夢」(1950年) - 二幕四場、総譜は行方不明
  • バレエ音楽「Kappa」(1951年) - 総譜は大部分が現存するが一部は行方不明
  • バレエ音楽「炎も星も」(1953年) - 二幕四場、総譜は行方不明
  • 弦楽のための三楽章(トリプティーク)(1953年)
  • 交響曲第1番(1954年、1955年改訂)
  • ディベルティメント(1955年) - 本作の終曲を、交響曲第1番の1955年改訂版第2楽章に改作後、破棄。ただし楽譜は現存
  • 子供のための交響曲「双子の星」(1957年、宮澤賢治作「雙子の星」による)
  • エローラ交響曲(1958年)
  • Marcia in do(1959年) - 吹奏楽曲。古関裕而飯田三郎と1楽章ずつ合作した「祝典組曲」の3曲目。
  • 弦楽のための「陰画」(1966年)
  • オスティナータ・シンフォニカ(1967年)
  • 舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968年)
  • チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」(1969年)
  • オスティナータ・シンフォニカ'70(オスティナータ・シンフォニカ改作)
  • オーケストラのためのラプソディー(1971年)
  • GXコンチェルト(1974年)
  • 森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年) - 語り手とorch
  • March1979「栄光をめざして」(1979年) - 管弦楽版と吹奏楽版が存在
  • 音楽と舞踏による映像絵巻「月」(1981年)- イタリア放送協会賞、エミー賞受賞。
  • 行進曲「風に向かって走ろう」(1982年) - 管弦楽版と吹奏楽版が存在
  • アレグロ・オスティナート(1986年) - 合作「交響組曲『東京』」の中の1曲。FM東京開局15周年記念委嘱作品。外山雄三三枝成章石井眞木と共に一楽章ずつ作曲した作品。(GXコンチェルト改作)
  • オルガンとオーケストラのための「響」(1986年) - オスティナータ・シンフォニカの改作
  • ゴジラの主題によせるバラード(1988年) - 「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」にて発表

室内楽・器楽編集

  • 前奏曲集「田舎より」(1944年、ピアノ)
  • ピアノ詩曲(1944年、ピアノ)
  • 無題(1946年、ピアノ)
  • ピアノ三重奏曲(1946年)
  • ラ・ダンス(1948年、ピアノ)
  • 弦楽四重奏曲(1948年、Vn・Vn・Va・Vc。破棄、後に2、3楽章を「弦楽のための三楽章(トリプティク)」として改作)
  • ヴァイオリンとピアノのための「バラッタ」(1951年)
  • マイクロフォンのための音楽(1952年、特殊編成)
  • Nyambe (1959)
  • 弦楽のための音楽第1番(1962年、9人の弦楽奏者のための)
  • ヴァイオリンとピアノのためのSASARA(1978)
  • 東北の獅子舞(1978年、Vn・ピアノ)
  • 3つの子供のうた(1978年、2Vn・2Vc・ピアノ)
  • 子供のための「24の前奏曲」(1979年、ピアノ)
  • 遊園地(1984、ピアノ、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)
  • 赤ずきん(1985、ピアノ、奥村一らとの共作「4つのおはなし」の一曲)
  • 5本の指の踊り(1985、ピアノ)
  • ちっちゃなワルツとちっちゃなメヌエット(1986、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)
  • ノクターン(1987、「49の作曲家によるピアノ小品集」のための)

声楽曲、合唱曲編集

  • つつとりて(1945年以前、独唱・ピアノ)
  • 白秋抒情曲集 - 北原白秋詞。團伊玖磨によれば、陸軍戸山学校軍楽隊時代から終戦直後にかけて作曲された作品。[5]
  • 車塵集(1949年、メゾソプラノ独唱・ピアノ)
  • パプア島土蛮の歌(1950年、声・ピアノ) - 歌詞はパプア語による
  • やわらかき光の中に(1950年、ソプラノとピアノ)楽譜未発見(1950年の香山淑子独唱会で初演)
  • 罌粟(けし)よ罌粟よ(1950年、ソプラノとピアノ)楽譜未発見(1950年の香山淑子独唱会で初演)
  • 若き日の夢(1950年、ソプラノとピアノ)楽譜未発見(1950年の香山淑子独唱会で初演)
  • 奉讃歌「ひじりの宮の御前にありて」(1951年) - 團伊玖磨、清水脩との共作(3つの楽章を各作曲家が担当)
  • 心の種子(1951年、合唱・ピアノ) - 全国唱歌ラジオコンクール[現 NHK全国学校音楽コンクール]中学校の部課題曲)
  • 仲間たち(1952年、合唱・ピアノ)
  • 祖国の山河に(1953年、無伴奏合唱) - うたごえ運動のための
  • 砂川(1956年、混声合唱・ピアノ) - うたごえ運動のための
  • 新聞(1956年、4声)
  • みち-あかつきの子らのために-(1956年、歌)
  • パプア族の2つの旋律(1957年、合唱・打楽器) - 歌曲「パプア島土蛮の歌」の改作
  • コント・フランセーズ(1958年、4声)
  • お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく(1958年、無伴奏混声合唱)
  • かま焚きのうた(1958、岩谷時子詞)
  • オケラのうた(1969、無伴奏合唱、宮沢章二詞)
  • うたの旅(1977年 - 1984年、NHK『音楽の広場』のための)
  • こどものうた(1972年 - 、小林純一とのコンビによる未発表の作品、両者の没後出版)
  • 食いしん坊のうた-萩野昭三のために-(1981年、作詞:北彰介)
  • 津軽戯歌(1981年、萩野昭三リサイタルのために)
  • 21世紀賛歌・人間はまだ若い(1983年、混声合唱・2管Orch、宮沢章二詞)
  • 月夜のでんしんばしら(1983年、合唱・弦楽・打楽器、宮沢章二詞)
  • 雪(1983年、メゾソプラノ独唱・ピアノ、高田敏子詞)第16回新しい日本の歌のために
  • あやめ(1984年、アルト独唱・ピアノ、高田敏子詞)第17回新しい日本の歌のために
  • 若木の枝のねむの花(1985年、メゾソプラノ独唱・ピアノ、高田敏子詞)第18回新しい日本の歌のために
  • コスモスの花(1986年、アルト独唱・ピアノ、高田敏子詞)第19回新しい日本の歌のために
  • かたくりの花(1987年、歌、ピアノ)第20回新しい日本の歌のために
  • 佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”(なかにし礼詩)(1988年、混声合唱・3管Orch、絶筆。鈴木行一補作)

舞台音楽編集

  • 挿話(1949年、文学座)
  • 道遠からん、クック船長航海異聞(1950年、文学座)
  • 雪の女王(1952年、木馬座)
  • どん底(1954年、文学座)
  • 赤いランプ(1954年、俳優座)
  • なよたけ(1955年、文学座)
  • マリアの首(1959年、新人会)
  • 歯車の中で (1961年、ミュージカル、大阪労音)
  • 草っぱらの子供たち (1963年、ミュージカル、成城学園児童劇)
  • 子供のまつり (1966年、ミュージカル、成城学園児童劇)
  • みつばちマーヤ (1967年、ミュージカル、成城学園児童劇)
  • 日本の騎士(1970年、雲)

放送音楽編集

  • えり子とともに(NHKラジオ、1949年)
  • アメアメコンコ(NHKラジオ、1950年)
  • エンゼルはいつでも(1951年)- 森永製菓CM曲
  • メロディの流れ(NHKラジオ、1952年)
  • 海外の話題(NHKラジオ、1952年)
  • ぼくちゃん(NHKラジオ、1952年)
  • 双子の星(新日本放送、1953年)
  • ラジオ音楽教室(NHKラジオ、1953年)
  • NHKTVの放送開始及び終了の音楽(NHKテレビ、1953年)
  • 秋の歌(ラジオ九州、1953年) - 共作: 團伊玖磨、黛敏郎
  • かっぱ川太郎(NHKテレビ、1954年)
  • ひげの生えたパイプ(NHKラジオ、1959年)
  • 今日の医学(NHKテレビ、1959年)
  • 赤穂浪士(NHKテレビ、1964年)
  • 世界の恋人(1964年)- 日産自動車社歌、企業CM曲
  • 松坂屋 テレビバーゲン- イメージ音楽
  • 愛の学校クオレ物語(毎日放送、1981年) - オープニングテーマ「クオレ物語」、エンディングテーマ「白い日記」のみ
  • 武蔵坊弁慶 (NHKテレビ、1986年) - オープニングテーマのみ
  • 若い農民(NHK)
  • 声くらべのどくらべ子供音楽会(NHK)
  • 家庭の音楽(NHK)
  • 日曜随想(NHK)
  • NHK教養大学(NHK)
  • 日本の歩み(NHK)
  • NHK「音楽の広場」のための管弦楽小品 (1977-84)
    • 火遊び
    • 阿波踊り
    • ほほえみは愛
    • クラシックなロンドン橋
    • 突っ張り交響曲
    • いろんなひつじさん
    • 大来外相かく語りき (Br独唱つき)
    • ヴァイオリンとオーケストラのための「秋田地方の子守歌」(1977年) - 徳永二男に贈呈
    • Do Re Mi Fa Sol La Si Do!(1978年)
    • Clapping Orchestra(1978年)
    • 証城寺の腹つづみ(1979年、ティンパニとオーケストラのための)
  • NHK「音楽の広場」のためのうた (1977-84)
    • ここは瀬戸内
    • 雛の春
    • 大地はともだち
    • うたいましょう うたいましょう
    • 南の旅へ
    • 母のアルバム30年
    • 海浜独唱
    • 森の街
    • 生きている国
    • 音楽の好きな街

童謡、放送歌謡編集

  • うさぎのお耳(1945年)
  • 山のはたおり(1945年)
  • 春が来る(1945年)
  • 春の知らせ(1950年、NHKラジオ歌謡・作詞:武田雪夫)
  • 霧(1950年、NHKラジオ歌謡・作詞:薮田義雄)
  • 黙って花を(1950年、NHKラジオ歌謡・作詞:本町博史)
  • ぶらんこ(1950年)
  • きゅっきゅっきゅっ(相良和子・詞、1950年)
  • いとすぎはひとり立っている(1951年、NHKラジオ歌謡・作詞:藤浦洸)
  • 角から二軒目の花の店(NHKラジオ歌謡・作詞:武井つたひ)
  • 小鳥のうた(1952年、与田準一詞)
  • ヨットの歌(1953年、NHKラジオ歌謡・作詞:西沢義久)
  • キンダーメブックのうた(1953年)
  • そらをみる(1953年)
  • 何故だかしらない(谷川俊太郎詞、1958年)
  • はるだよどじょっこ(1961年)
  • すてきな音が(1964年)
  • まんなかとはじっこ(1968年、作詞:谷川俊太郎)
  • 涙と汗と海と雨(1968年、作詞:谷川俊太郎)
  • 3ぷんかんのスーパーマン(作詞:谷口裕治)歌:水木一郎

ほか多数

団体歌(社歌・組合・地方公共団体)編集

映画音楽編集

校歌(幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・専門学校)編集

著書編集

  • 現代人のための音楽(新潮社/1953年) - 共著。
  • 現代音楽に関する3人の意見(中央公論社/1956年) - 團伊玖磨黛敏郎との共著。
  • 私の音楽談義(青木書店/1956年 → 音楽之友社/1959年 → ちくま文庫/1991年)
  • 音楽の現場(音楽之友社/1962年)
  • 音楽を愛する人に――私の名曲案内(筑摩書房/1967年 → 旺文社文庫/1981年 → ちくま文庫/1990年) - 日本点字図書館から1991年に点字版が刊行された。
  • 音楽の基礎(岩波新書/1971年)
  • 音楽の遊園地(れんが書房/1973年 → 旺文社文庫/1982年)
  • 歌の絵本(全2巻)(講談社/1977年・1979年) - 編纂。
  • 人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集(芸術現代社/1978年)
  • 人はさまざま歩く道もさまざま――芥川也寸志対話集 続(芸術現代社/1978年)
  • 音楽の旅(旺文社文庫/1981年)
  • ぷれりゅうど(筑摩書房/1990年)

訳書編集

  • ドナルド・エリオット文、クリントン・アロウッド絵『絵本ワニのオーケストラ入門』(岩波書店/1983年) - 石井史子との共訳。

テレビ、ラジオ出演編集

CM出演編集

門下編集

アシスタント編集

出典編集

  1. ^ 芥川也寸志『人はさまざま歩く道もさまざま〈続〉―芥川也寸志対話集』芸術現代社、1978年7月、220頁。
  2. ^ 対話集『続 人はさまざま 歩く道もさまざま』芸術現代社、1978年、pp.220
  3. ^ 「エディターズ アイ 戦後日本初の追悼切手」『郵趣』(日本郵趣協会)1989年12月号、7頁。
  4. ^ 内外タイムス文化部編『ゴシップ10年史』(三一新書、1964年)p.244
  5. ^ 團伊玖磨、「芥川也寸志のこと」、フィルハーモニー Vol.22 No.9、1950年、NHK交響楽団

外部リンク編集