桜井昇
日本の将棋棋士
桜井 昇(さくらい のぼる、1941年5月10日 - ) は、将棋棋士。2007年、引退。原田泰夫九段門下。棋士番号は90。群馬県吾妻郡長野原町出身。
桜井昇 九段 | |
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名前 | 桜井昇 |
生年月日 | 1941年5月10日(82歳) |
プロ入り年月日 | 1965年4月1日(23歳) |
引退年月日 | 2007年3月31日(65歳) |
棋士番号 | 90 |
出身地 | 群馬県吾妻郡長野原町 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 原田泰夫九段 |
弟子 | 中田宏樹、飯島栄治、藤倉勇樹、横山泰明、村山慈明、伊藤真吾、千葉涼子 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 桜井昇 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
通算成績 | 484勝703敗(.407) |
順位戦最高クラス | B級2組 |
2022年4月1日現在 |
棋歴編集
1965年、23歳でデビュー。同年度、順位戦C級2組で8勝4敗(16人中3位)の好成績を挙げ、C級2組を1期抜けして昇級。同時に五段昇段。
1966年度、古豪新鋭戦で優勝。準決勝の相手はまだ十代の中原誠、決勝戦の相手は長老の北村秀治郎であった[1]。
1975年度、第23回王座戦でベスト4。同年度、第6回新人王戦では決勝三番勝負に進み、森安秀光に0-2で敗れて準優勝。
第27期(1972年度)順位戦C級1組で8勝2敗の2位となり、B級2組に昇級。同時に六段昇段。
1981年度、第31回NHK杯戦でベスト4。
第65期(2006年度)順位戦C級2組順位戦は2勝8敗に終わり、降級点が累積3つとなった。フリークラス規定(編入者の定年60歳)により2007年3月31日付で現役を引退[2]。同日時点で出場権を残していた第20期竜王戦4組昇級者決定戦は、1回戦で宮田敦史の病気休場による不戦勝、2007年4月2日に行われた2回戦で真部一男に敗れ、1勝1敗を記録した上で公式棋戦への出場を終えた[3]。
理事・普及活動など編集
弟子編集
棋士となった弟子編集
名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
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中田宏樹 | 1985年11月28日 | 追贈九段、タイトル挑戦1回、棋戦優勝2回 |
飯島栄治 | 2000年4月1日 | 八段 |
藤倉勇樹 | 2002年10月1日 | 五段 |
横山泰明 | 2002年4月1日 | 七段 |
村山慈明 | 2003年10月1日 | 七段、棋戦優勝2回 |
伊藤真吾 | 2007年4月1日 | 六段 |
(2023年2月9日現在)
女流棋士となった弟子編集
名前 | 女流2級昇級日 | 段位、主な活躍 |
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千葉涼子 | 1994年10月1日 | 女流四段、女流王将2期、棋戦優勝1回 |
(2011年4月21日現在)
人物・趣味・逸話編集
- 趣味は野球観戦[4]。自身も日本将棋連盟野球部でプレーし、かなり熱中した(ちなみに、当時の総監督は丸田祐三、監督は二上達也)[1]。
- 1972年7月26日に行われた早指戦、対下平幸男戦において、お互いが角道を開けたのち、後手番の下平が4手目に△3二銀と指し、桜井が▲2ニ角成として5手で勝利した。これは不戦敗や反則を除く、(非公式戦も含めた場合の)最短手数である(ただし下平の項によれば、下平が本来なら持ち時間がなくなるほどの遅刻をしてしまい、下平が不戦敗を主張したがそれを却下する裁定が下された直後のことだったという)。(公式戦最短手数は1974年8月19日、▲佐藤大五郎対△中原誠戦の10手、棋聖戦本戦トーナメント1回戦)
昇段履歴編集
(1964年度後期、関東から関西に移籍)
主な成績編集
通算 484勝703敗
棋戦優勝編集
- 古豪新鋭戦(1966年度 = 第10回)
- 優勝合計1回
表彰編集
- 現役勤続40年表彰(2004年)