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藤木 幸夫(ふじき ゆきお、1930年8月18日[1] - )は、日本の実業家藤木企業(株)代表取締役会長、横浜港運協会会長、横浜エフエム放送(株)代表取締役社長。株式会社横浜スタジアム取締役会長[2][3]

ふじき ゆきお
藤木 幸夫
生誕 (1930-08-18) 1930年8月18日(89歳)
日本の旗 日本 横浜市
出身校 早稲田大学政治経済学部
職業 藤木企業代表取締役会長
横浜港運協会会長
横浜エフエム放送代表取締役社長
株式会社横浜スタジアム取締役会長

概要編集

神奈川県横浜市出身[4]1953年早稲田大学政治経済学部卒業。藤木企業の創業者である藤木幸太郎[注釈 1]の長男。

横浜港運協会会長のほかに、社団法人日本港運協会副会長、財団法人横浜港湾福利厚生協会会長などを務めている。

略歴編集

著書編集

出演番組編集

脚注編集

注釈 編集

  1. ^ 藤木幸太郎は明治25年に現在の横浜戸部に生まれた港湾事業家。明治末に神戸から横浜に来た酒井信太郎(後の鶴酒藤兄弟会の創設者)が地元業者の縄張り意識から孤立した際に「港で働く人間はみんな仲間だ」と一人だけ酒井を助けたが、結果としてここから運を掴み、また京浜の港湾も新しい時代に入った。土木や荷役の世界は親方が仕事の先頭に立つと腕利きの幹部が集まり企業の風土としてまとまる習いがある。神奈川県大百科にも写真つきで人物の記事があり、執筆者の白井秀次による藤木幸太郎の伝記のタイトルは異称でもある『ミナトの親父』。息子の自叙伝のタイトルが『ミナトのせがれ』。 ちなみに大正期の京浜の荷役業ではナイガイの賭場から博徒がテラを取らないようにする目的もあり親方が博徒となった例がある。その後は元請けとの関係もあり、多くは堅気になっているのが昭和初期の京浜の特徴である。このため藤木幸太郎も埋地一家初代とされているが、藤田五郎の『任侠百年史』の任侠家系図p 415では埋地ではなく浅田大吉(横浜の大親分である松本辰三郎の系譜)の系統にある。

出典編集

  1. ^ 「ハマのドン」藤木氏、カジノ誘致に徹底抗戦を表明”. 日刊スポーツ (2019年8月23日). 2019年8月24日閲覧。
  2. ^ a b 株式会社横浜スタジアム第34期有価証券報告書(2011年4月28日提出、EDINETにて2011年12月7日閲覧)
  3. ^ “横浜スタジアム会長発言が物議 「ベイスターズ出て行け」に「はい喜んで」”. livedoor ニュース. (2011年12月8日). https://news.livedoor.com/article/detail/6102266/ 2019年8月26日閲覧。 
  4. ^ 【IR横浜誘致】反対・横浜港運協会の藤木幸夫会長(87)「カジノは街を壊す」 (2/2)”. 産経ニュース. 産経新聞社 (2018年7月20日). 2019年4月9日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集