速水堅曹

日本の製糸技術者

速水 堅曹(はやみ けんそう、天保10年6月13日1839年7月23日)- 大正2年(1913年1月17日)は、日本の製糸技術者。日本で最初の器械製糸所である前橋藩営前橋製糸所を開設し、その後官営富岡製糸場の所長を2度務めた。日本初の生糸直輸出専門商社である横浜同伸会社の取締役社長を歴任した農商務省官僚。

人物 編集

  • 1839年(天保10年)川越藩士の子として川越に生まれる。前橋藩が立藩し、1867年(慶應3年)藩主松平直克が前橋に移封されると深沢雄象らとともに前橋に移り、前橋藩士となった。1870年(明治3年)、日本で最初の器械製糸所である藩営前橋製糸所を前橋に開設。スイス人技師カスパル・ミュラーから直接、器械製糸技術を学び、日本最高の製糸技術者の地位を築いた。
  • 早くから製糸技術の指導を始めて、群馬県内のみならず全国への器械製糸の普及にも貢献した。その後、福島県の二本松製糸所の設立・開業を指導。内務省に出仕し、政府から万国博覧会内国勧業博覧会などの生糸審査官を度々任命され、内外の博覧会での繭生糸審査法を確立した。大久保利通が推進した殖産興業の柱の一つである製糸業の技術スペシャリストとして活動。
  • 1879年(明治12年)より官営富岡製糸場の3代目所長を務めた。一旦同製糸場を離れた後に1885年(明治18年)からは5代目所長として復帰し、富岡製糸場が三井家に払い下げられるまでの8年間、通算で10年余の間同所長を続け工場の経営改善に取り組んだ。富岡製糸場の所長在任中だけでなく退任後も、指導的立場から全国各地の製糸所に対する技術指導を活発に行い、製糸技術の改良・普及、生糸の品質向上に腐心し、後進の育成に取り組んだ。
  • 元ニューヨーク領事の高木三郎らと全国的な生糸直(じか)輸出専門商社として横浜同伸会社を設立して初代取締役社長に就任し、日本の製糸業の発展に尽力した。名前の英文表記:Kenzo Hayami 若しくは Kenso Hayami

顕彰・栄典 編集

  • 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[1]
  • 1896年(明治29年)、従五位に叙位。
  • 1905年(明治38年)、大日本蚕糸会より蚕糸功績賞を受賞。金賞牌授与。

年譜 編集

  • 1839年天保10年):武蔵国川越(現埼玉県川越市)で、川越藩下級藩士速水政信の3男に生まれた。
  • 1842年(天保13年):3歳から手習教本である『古状揃』などを学びはじめ、読み書き、算術などを学んだ。
  • 1849年嘉永2年):11歳の時に家督を継いだ。本禄7石2人扶持
  • 1856年安政3年):幼少の頃より学問に精進し、14歳で初出仕。黒船警備、京都勤務に就く。
  • 1864年文久4年):石浜幸と結婚。
  • 1867年慶應3年):幕命による藩主松平直克前橋藩への移封に伴い、速水堅曹は前橋藩士として活動を開始。横断的に諸役に加勢し、藩主直命の御用などに従事。川越藩松平直克は、自ら幕府に嘆願して川越藩の分領ともいえる上野国前橋城を再築し、同年完成した。
  • 1868年明治元年):10月、速水は藩命で横浜生糸貿易を調査し、世界一と称されるフランスイタリア生糸の優秀さを知った。
  • 1869年(明治2年):3月、前橋藩は、横浜開港後のヨーロッパおよびアメリカ向け生糸・輸出の急増に対応し、藩営生糸売込商店として敷島屋庄三郎(責任者は藩士鈴木昌作[2])を開設。前橋の生糸商勝山宗三郎が出店に協力した。前橋藩は、前橋城再建や移封等により窮乏化した藩財政を立て直すために生糸輸出に活路を求めたが、品質が悪く外国人居留地の外商に買いたたかれた。
  • 1869年(明治2年):3月、前橋藩は良質な生糸を大量生産するため洋式製糸所の設置を計画。前橋藩士が、横浜英1番館ジャーディン・マセソン商会に洋式製糸所用の中古繰糸器械(上海で使用)の買い入れ相談に行ったが、相手からの共同経営(出資)の申し出を断り話が進まなかった。この頃、速水は、同商会との間で汽船セイリーズ号の購入契約キャンセルに伴いキャンセル料を6,000ドル支払う交渉をまとめたが、交渉の助言を得ていた横浜甲90番館、スイスのシーベル・ブレンワルト商会[3](Sieber & Brenwald、現DKSHジャパン)からイタリア製の製糸器械購入に関する貴重な情報を得た。
  • 1870年(明治3年):5月、前橋藩で生糸品質を向上させるため洋式器械製糸所の開設と外国人雇入れを決定。深沢雄象は参事で藩責任者、速水は生糸取締役で実務・運営責任者に任命された。深沢は元・大目付、前橋町在奉行で、前橋城の再築責任者。6月、速水はスイス領事を兼務するH. シーベルとスイス人製糸技師C. ミューラーらを熊谷で出迎え、先ず伊香保温泉に案内して歓迎の意を表した。その後前橋で器械製糸所の設立準備に着手した。開業前からミューラーから技術指導を受けた。
  • 1870年(明治3年):7月、速水により、日本最初の器械製糸所である藩営前橋製糸所が細ヶ沢(現前橋市住吉町)に開設された。武蔵屋伴七宅の一部を借りて試験的に操業開始した。シーベルの斡旋でイタリア式繰糸器械6台を設置。日本で初めてケンネルより掛け方式で繰糸が行われた。動力は水力。
  • 1870年(明治3年):8月、速水は、ミューラーからヨーロッパにおける生糸の実状を詳しく聞き、過去40年間の各国の生糸相場表を借り出した。
  • 1870年(明治3年):9月、前橋藩は速水の器械糸と勝山宗三郎の座繰糸とを民部省に送り品質比較を要請した。検査結果を聞いた横浜の敷島屋庄三郎からその知らせが届いた。それによると、器械糸はまだ充分の結果が得られず光沢や色が劣り品位は同等に近いが、座繰糸の方が優れているとの評価であった。速水はその結果を俄に信じることができなかった
  • 1870年(明治3年):9月、前橋製糸所は開設3ヵ月後に前橋岩神村観民大渡(現前橋市岩神町2丁目7番岩神橋上流付近)、広瀬川から分水した水量豊富な風呂川畔に移設され、繰糸器械は12台(12人繰り)に増設。同製糸所は廃藩置県(明治4年)により、1873年(明治6年)小野組に払い下げられた。その翌年、前橋の生糸商勝山宗三郎の手に移ってから大渡(おおわたり)製糸所と改名されて規模拡大し、1888年(明治21年)頃まで操業した。
 
築地製糸場を描いた浮世絵。歌川芳虎画。1872年
  • 1870年(明治3年):10月、前橋藩は財政上の理由によりスイス人技師C.ミューラーを解雇することを決定。速水はミューラーを種々説得して利根川を下る船に乗せて横浜に帰し、スイス領事に引き渡した。ミューラーはすぐ小野組に雇われて、小野組番頭の古河市兵衛が企画した築地の小野組製糸場開設のために技術指導した。翌年、イタリア式ケンネル木製器械30台(60人繰)の規模で事業開始したが、1873年(明治6年)に廃止した。ミューラーは明治5年1月から明治7年2月までの間、工部省に雇われ東京の赤坂溜池にイタリア式48人繰りの勧工寮製糸場を作った。
  • 1870年(明治3年):速水は、製糸先進国イタリアで10年以上の製糸技術の経験を持つスイス人技師C.ミューラーから短期間で器械製糸技術を習得し、日本最高の製糸技術者の地位を築いた。ここには全国から見学者が相次いで訪れた。速水は、広く製糸技術の伝習希望者を受け入れ指導したので、前橋製糸所は器械製糸技術の全国的普及の最初の拠点となった。
  • 1870年(明治3年):10月、速水は、民部省の要請により富岡に行き、官営富岡製糸場の設置場所を決めるための現地視察に参加。後に初代所長となる尾高惇忠(官営富岡製糸場建設を主張した大蔵小丞渋沢栄一の義兄)、フランス人顧問ポール・ブリューナらと会い新製糸場の利害を論じた。ブリューナ一行は富岡視察後、前橋製糸所を訪れたので、ここで速水が応対した。
  • 1870年(明治3年):11月、前橋製糸所の資金繰りが逼迫・困窮したので、速水堅曹自身で資金の工面をした。速水が大蔵省に出した生糸の建言が聞き届けられず戻された。
  • 1870年(明治3年):12月、速水は築地でスイス領事シーベルと会い、前橋製糸所の資金問題について話し合ったが相手から出資話が出された。通商司に生糸の建言書を提出した。
  • 1871年(明治4年):4月、前橋製糸所の資金問題に関して、速水堅曹はスイス領事より文書を受領。
  • 1871年(明治4年):5月、イギリス領事および横浜英1番館ジャーディン・マセソン商会のE. ワートルが前橋製糸所に来訪。ジャーディン・マセソンは以前、前橋藩士が洋式製糸所用の中古繰糸器械(上海で使用)の買い入れ交渉を行った相手。
  • 1871年(明治4年):8月、速水は、前橋製糸所を訪れた大学南校のイタリア人お雇い教師A.メージャー(A. Major)から製糸器具20組を贈与された。メージャーの父親は数年前まで上海で器械製糸所を運営。ジャーディン・マセソン商会は、以前ここの中古繰糸器械を前橋藩に売り込もうとしていた。
  • 1872年(明治5年):3月、速水は、前橋製糸所の書類・建言書・図面等を群馬県庁に提出し、参事・深沢雄象に詳しく説明した。ミューラーの指導により開設された築地の小野組製糸所を訪問した。
  • 1872年(明治5年):5月、群馬県官が立会い前橋製糸所の小野家への引き渡しを確認。速水堅曹は参事深沢雄象と定禄と製糸の件で激論を交わした。
  • 1872年(明治5年):9月、速水は、民営製糸所の設立を検討していた勢多郡水沼村(後の黒保根村・現桐生市黒保根町)の星野長太郎からの伝習要請を受け入れ。星野自身が前橋製糸所に住み込んで技術習得を開始した。星野は1873年(明治6年)1月、伝習を終えて水沼に帰った。
  • 1872年(明治5年):10月、官営富岡製糸場(開業後、富岡製糸所に改名)が開業し稼働開始。フランス製繰糸器械300台を設置し動力は蒸気機関。
  • 1873年(明治6年):1月、群馬県が前橋製糸所を正式に小野組(小野善三郎)に払い下げた。速水は、開設からこの時まで2年半にわたり前橋製糸所の所長を務め、多くの人に技術指導した。星野長太郎や熊本の長野濬平は経営者本人が自ら指導を受けに来た代表例。宇都宮の川村伝衛は伝習工女を派遣、二本松の佐野製糸所の他、福井、上田、酒田などからも教えを請う人々が参集した。
  • 1873年(明治6年):1月、速水は群馬県庁より呼び出しを受け福島県に行くように言われたが、一旦は書面で断った。速水は、群馬県で製糸改良を図ろうとする自分に対して突然、福島に行けとは驚くべき権令(初代熊谷県(現群馬県埼玉県)権令河瀬秀治)であると思い強い衝撃を受けた。
  • 1873年(明治6年):2月、福島県の少属木村醇らが速水の所に来て、懇切に福島県令安場保和の意を伝えた。県令より二本松城址に製糸場をつくりたいので是非来てほしいと懇請され、手厚い歓迎の意を示された。前橋製糸所を辞めた速水は、福島県の二本松製糸会社の創設に協力する決心をした。
  • 1873年(明治6年):3月、速水は器械製糸場の設計・建築から技術指導・経営まですべてを指揮するために福島に向かい、福島県二本松に到着した。福島県令安場保和とは製糸改良の利害や官業・民業の分別にとどまらず地理・人情などにも話が及び、時には激しい議論にもなった。官営を目指す県令と意見が合わないこともあり県令を当惑させた。速水は製糸所は官営ではうまく経営できないので民営にすべきだろうと大胆に上申した。二本松製糸所は3月に設立され、同年6月には開業したが、官営ではなく小野組により運営された。
  • 1873年(明治6年):10月、速水は大蔵省勧農寮(同年11月に内務省に移管)に行き、大蔵省の租税権頭松方正義、同助渋沢栄一らと会って製糸の改良強化策について議論した。松方が速水に対して天下の大事であるので渋沢と熟議せよと言ったので、渋沢と同人宅にて議論した。渋沢は速水の主張を理解し、租税寮と談判の上で製糸の考えをまとめ租税権頭松方に提出することを約束した。
  • 1873年(明治6年):二本松製糸所の指導に当たっていた速水堅曹は、星野長太郎に対して水沼製糸所設立支援の約束と、細部にわたる建築・設備のみならず費用見積、資金調達にまで及ぶ助言を与えた。星野長太郎は、製糸所新築費用3,000円を官費による調達で計画し、初代熊谷県権令河瀬秀治に建築資金拝借願を提出。速水堅曹は星野長太郎の資金借入を助けるため、熊谷県のみならず内務省大蔵省の中を奔走した。
  • 1874年(明治7年):3月、速水堅曹は二本松製糸所を軌道に乗せた大任を果たしたので離任。同製糸所の社中、工男工女300余名が途中まで見送りに来た。11月小野組が没落したが、それまでの製糸所長だった佐野理八が二本松製糸所の経営の任に当たった。佐野は福島佐野組を創設し福島折返糸の品質改良にも努めた。娘印の商標を付した佐野の糸は欧米で好評を博した。佐野は、二本松製糸所の器械製糸と福島佐野組の改良折返糸の直輸出に尽力した。
  • 1874年(明治7年):4月、速水堅曹は福島から前橋に戻ると、深沢雄象と共に堅曹の実兄桑島新平を責任者とする新しい器械製糸所の設立を計画した。河瀬秀治と新器械製糸所建設の談判をし、内務省に製糸の改良強化策を申し立てた。
  • 1874年(明治7年):4月、速水堅曹は新製糸所の適地として勢多郡関根村(現前橋市関根町)の楢山を見立てた。新製糸所の経営を専ら兄桑島新平に任せ、深沢雄象も協力を約束した。
  • 1874年(明治7年):8月、群馬県(当時は一時熊谷県)から製糸所新築のための拝借金許可が下り、拝借金10,421円(3年据置、5年賦返済)が下付された。勢多郡関根村(現前橋市関根町)に研業社関根製糸所の建設が始まった。
  • 1875年(明治8年):速水は、ニューヨークから一時帰国中の佐藤百太郎佐倉順天堂佐藤泰然の孫)が、内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力を得て米国商法(商業)実習生派遣計画を進めていることを星野長太郎に伝えた。速水は仲介役として、熊谷で星野と共に佐藤百太郎と出会い、3人で火鉢を囲みながら派遣計画について話し合った。星野は念願である生糸直輸出実現を確かなものにするため、実弟新井領一郎(新井家へ養子)をアメリカへ派遣することをその場で決意。すぐさま前年熊谷県(現群馬県埼玉県権令に就任した楫取素彦(元長州藩士小田村伊之助)にも相談して賛同と協力を取り付けた。
  • 1875年(明治8年):3月、速水は内務省勧業寮に出仕(9等)。公務として関根製糸所設立誘導の任にも当たっていたが、新製糸所建築は資金不足のため極めて難航した。
  • 1875年(明治8年):内務省(内務卿大久保利通)は速水に対して、欠損続きの官営富岡製糸場の経営状況について調査を命じた。創業3年を経過した富岡製糸場の収支は、同7年の収支計算は収入12万4千余円に対し支出18万円余、差引5万5千円余の欠損。速水の分析によると、原因は多々あるが、フランス人顧問ブリューナの給与が極めて高いこと、工女の入退場が激しく熟練工女が少なくて良品な生糸の生産ができないこと、官営であるため買入繭が相場以上に高いことなどが大きな原因であると指摘した。同年以降、速水は国内、国外の博覧会の審査官としても活躍を始めた。この年、ブリューナは日本政府との契約が切れて部下と共に帰国した。
  • 1875年(明治8年):7月、小野組の破産により大渡製糸所(前・前橋製糸所)は一時勧業寮所轄で操業していたが、前橋の生糸商勝山宗三郎が勧業寮から大渡製糸所の払い下げを受けた。
  • 1875年(明治8年):9月、関根製糸所(研業社)が開業。瓦屋根の木造洋館5棟を中心に多くの建物を擁し建坪合計は351坪。速水の兄桑島新平を責任者として操業開始。深沢雄象は開業前に娘の孝ら6名を伝習のため星野長太郎の水沼製糸所へ半年間入所させた。前橋製糸所の女工取締であった速水の実姉西塚うめが研業社でも女工取締を担当した。
  • 1875年(明治8年):前年、蚕種輸出価格が暴落したため、内務省は生産統制に乗り出し年蚕種製造組合条例を制定。蚕種製造業者の全国組織である蚕種会議局を設置し、製造枚数の自主制限を図ろうとした。
  • 1876年(明治9年):明治政府は、アメリカ建国100周年記念のフィラデルフィア万国博覧会に、輸出振興・外貨獲得のため西郷従道を最高責任者として外国政府では最大予算で出展し、大工を多数派遣して日本家屋のパビリオンを建設。日本茶陶磁器の工芸品やその他伝統的産品に加えて最優秀の生糸絹織物等の展示を行った。特に絢爛豪華な有田焼伊万里焼)の一対の大きな色絵雲龍文耳付三足花瓶(銘款「年木庵喜三」)は注目を集め、同博覧会の金賞を獲得した。日本の出展物は後進国と見なされていた日本への関心と評価を非常に高めた。ニューヨーク・ヘラルド紙の記者は、「ブロンズ製品や絹ではフランスに優り、木工、家具陶磁器で世界に冠たる日本をなぜ文明途上を呼べるだろうか」と記事に書いた。
  • 1876年(明治9年):年明け早々、同博覧会を機に日本政府は特別使節をアメリカに送った。速水も生糸・絹織物の審査官として一員に加わった。7月、博覧会の任務終了後は、市場視察とともに日本製生糸の売込みを図った。在ニューヨーク日本副領事富田鉄之助(アメリカ絹業協会名誉理事を兼務)が速水の案内役を務めた。神鞭知常内務省勧業寮ニューヨーク駐在員)らとも出会い、速水はニューヨークとその周辺で絹織物の調査を行い、ニュージャージー州の新興産業都市パターソン市(別名:シルク・シティ)で多くの製糸、紡績工場、染色工場を視察。コネチカット州マンチェスター市では広大な敷地の絹紡績会社などを視察。7月24日、新井領一郎の最初の取引先であるB.リチャードソン(アメリカ絹業協会理事)とも面識を得て、各国生糸の比較をした。二度目の訪問時、持参した星野長太郎主宰の糸一繰りを試験的に繰り返させると一切切断なく、アメリカ側一同は工女に至るまで大変感動した。このような上等糸ならポンドで8.5ドルにもなると聞かされ、速水はその高額の評価に驚いた。[4]速水は博覧会終了後、アメリカ各地を巡回視察し外国産の繭や生糸を多数収集した。これらを1879年(明治12年)横浜生糸繭共進会に参考出品した。
  • 1876年(明治9年):9月、速水(勧業大属)は、問答形式でまとめた「生糸改良基礎の意見書」を勧業頭松方正義に提出した。この中の問答で速水は、全国に器械製糸所を建設し国が勧業に尽力しても高品質の生糸が製造できる訳ではなく、上に製糸業を熟知した者がほとんどいないので大金を無駄に費やするだけで効果はないとした上で、漸次の進歩を誘導すべきと論じた。
  • 1877年(明治10年):速水(内務一等属)は、第1回内国勧業博覧会内務省主催)で生糸の審査官を務めた。同博覧会は、初代熊谷権令河瀬秀治内務省に入り、内務大丞兼勧業寮権頭として推進して成功を収めた。開催場所は上野の博物館(後の東京国立博物館)の建設予定地に建てられた日本最初の美術館。
  • 1877年(明治10年):深沢雄象、松本源五郎らと共に、改良座繰製糸の一番組(桐華組)を設立。同年、星野長太郎の亘瀬会舎によって改良座挽製糸(今までの提(さげ)造りからイタリア糸と同じ捻(ねじり)造りにして更に改良)が、海外市場に通用し直輸出で高利益をもたらすことが証明されると、士族による改良座操結社が一番組、二番組(鈴木昌作中心で後の交水社)、三番組と次々に設立され、前橋士族が本格的に士族授産に関与し始めた。
  • 1877年(明治10年):速水(出荷元:研業社)の生糸が、初めて新井領一郎を通して直輸出(273、売上1,706ドル)された。最初の売込み先はコネチカット州マンチェスター市のチニー・ブラザーズ社(Cheney Brothers)。同社はアメリカの最初で最大の絹織物業者で、新井領一郎から器械製糸と改良座繰糸を大量に購入した。速水堅曹の生糸は、同年中に合計1,072(約643kg)が新井領一郎経由でアメリカに輸出され、輸出金額は6,726ドルに達した。売込み先は他にも、ニューヨーク市内の絹織物会社ジャコブ・ニュー社や絹織物会社A.T.スチュアート社などに及んだ。
  • 1877年(明治10年):10月、内務郷・工部郷、少輔松方正義らが新町製糸所、富岡製糸所、関根製糸所を訪問。この時、速水は富岡製糸所の見込書を松方に提出し、後日大久保利通に回付された。
  • 1878年(明治11年):群馬県下の改良座繰製糸の6組織(桐華組、敷島組、沼田組、亘瀬会舎、黒川組、山田組)が、生糸直輸出の規模拡大のため連合して前橋北曲輪町に統括組織である精糸原舎(後の精糸原社)を結成した。共同揚げ返しで品質統一し、出荷前に全て製品検査して出荷した。深沢雄象が頭取、星野長太郎が副頭取に就任。速水は、精糸原舎の設立過程で群馬県令楫取素彦始め深沢、星野らとともに設立協議や諸規則制定に深く関わった。この直輸出も内商への横浜売却に比べて生産者側に高収益を生み、次第に県下の改良座繰製糸の生産量が急増し始めた。その後、改良座繰製糸への転進、生糸直輸出への関心は、1882年(明治15年)頃まで県外にも大きな広がりを見せた。
  • 1878年(明治11年):松方正義は、欧州視察の途中でパリ万国博覧会を訪れた際、官営富岡製糸場製の生糸の品質が落ちたとの評判を聞いた。このパリ万国博覧会で一等賞金牌を受賞したのは、水沼製糸所の星野長太郎であった。松方の帰国後、富岡製糸場の2代目所長が更迭されることになった。
  • 1878年(明治11年):全国の蚕種製造業者が自由派と保護・制限派に分かれ、この年の蚕種会議局は議事が混乱し立ちゆかなくなった。速水は、政府の蚕種製造業保護は却ってその発達を妨害するものであるとの上申を行った。政府は蚕種に関する規則・法令を一切廃止して自由営業とした。
  • 1879年(明治12年):速水は、器械製糸に関する経験や技術的な識見・経営手腕などを見込まれて官営富岡製糸所(旧富岡製糸場)の第3代所長に就任。速水は着任後直ちに、「政府は製糸場の改良を私に一任した。私が来た以上は、すべて私が教授する。指揮に納得しない者は解雇する。いつでも申し出るように。」と、厳しく改革方針を示した。最初に取り組んだのは、工女の教育人を指導する際の心得から、子女教育、家庭円満の方法、日欧の習慣の違い、蓄財方法にまで及んだ。翌年末前まで在任の間、良質な生糸の生産と赤字体質の改善に尽力、全国に器械製糸の模範を示した。官営千住製絨所の所長も引き続き務め兼任した。
  • 1879年(明治12年):内務卿大久保利通が暗殺された後、大久保の民業奨励政策を実質的に指導することとなった勧農局長松方正義は『勧農要旨』を起草し、この中で富岡製糸場、泉州堺紡績場などの払い下げあるいは廃止の方針を提示した。
  • 1879年(明治12年):12月、速水は福沢諭吉と初めて面談し、親睦を深めた。
  • 1879年(明治12年):12月、横浜生糸共進会では速水が審査官を務めた。共進会終了後、東京向島で佐野理八、星野長太郎ら有力製糸業者との親睦会が開かれた。席上、富岡製糸所長の速水は、生糸直輸出の必要性を熱心に説き、自分の生糸輸出専門商社設立構想を発表した。
  • 1880年(明治13年):1月、速水の構想に賛同した20名の発起人が集まり生糸直輸出会社の設立を謀り、一同協議のうえ社名を同伸会社と称し主意を発表した。次に設立趣意書を作成し、速水らは各地の有力製糸家を回り賛同を集めた。9月には富岡製糸所で発起会が開催され、定款を決議し役員を定めた。速水は取締役に選出されたが在官のため名前の発表は暫く控えられた。
  • 1880年(明治13年):5月、内務郷松方正義より、富岡製糸所を速水に全て任せようと思うが引き受ける気があるかとの話があった。速水は松方に対して調査結果を見た上で決心したいと答えた。この年、西南戦争後の財政難のため官営工場払下概則が施行された。
  • 1880年(明治13年):8月、速水は内務郷松方正義に会い、富岡製糸所の大事が今日に及んだことについてすこぶる反対であるが、内閣の圧力に屈するべきでないと述べた。富岡の払い下げを断然すべきとの具申を行い同意を得た。
  • 1880年(明治13年)11月、速水は、内務郷松方正義に対して富岡製糸所の払い下げの決断を促した。ついに富岡製糸所を速水に任せるとの内定話が極まった。速水は横浜同伸会社の任に当たるため官職(官営富岡製糸所所長)の辞職願を提出した。
  • 1880年(明治13年):12月、速水(内務省御用掛、官営富岡製糸所所長)を中心に計画された日本初の全国的な生糸直輸出専門商社である横浜同伸会社が横浜に設立。資本金10万円。速水堅曹が取締役社長、高木三郎(元駐米日本公使館書記官、臨時代理公使)が取締役副社長、星野長太郎が取締役会長に就任。新井領一郎が同社取締役ニューヨーク支店長に就任。リヨンにも支店を設置。両支店を通じて現地生糸仲買商・絹織物業者と直接取引を行い販路を拡張。日本商会の生糸営業を譲り受けて開業。同社設立は時の大蔵省御用掛前田正名の構想(地方生産者の団結→品質改良→直輸出)に合ったもので、貿易実務や蚕糸業行政に精通している有力な元官僚らを擁した。
  • 1880年(明治13年):12月、横浜同伸会社成立の経緯から、同社に対して、政府・横浜正金銀行から巨額の御用外国荷為替資金を供与された。政府が、同年に開業した横浜正金銀行(資本金300万円)に預け入れた直輸出促進のための御用外国荷為替資金は翌年までで総額400万円。アメリカへの輸出の場合、買手の支払は現地引渡後6ヵ月が一般的で実際の入金まではそれ以上の時間を要したため、輸出者は多額の運転資金を必要とした。
  • 1881年(明治14年):1月、速水は内務郷松方正義に会い、富岡製糸所の生糸を全て横浜同伸会社に託し、直輸出を認めるとの内諾を得た。松方は富岡製糸所の払い下げを大蔵郷大隈重信に相談した。
  • 1881年(明治14年):1月、速水は大蔵少輔吉原重俊、大蔵省御用掛前田正名らに上毛繭糸改良会社の資金繰り切迫状況について説明した。
  • 1881年(明治14年):4月、内務・大蔵両省より農・工・商にわたる権限を移譲され、農商務省(初代農商務郷河野敏鎌)が設立。10月、松方正義が政変で大隈重信に代わって参議兼大蔵郷に就任し、以後、大蔵大臣として在職10年。新政府成立後、近代化推進や殖産興業富国強兵に加え、西南戦争もあって紙幣が乱発され物価は上昇、貨幣価値は下落、財政は破綻に瀕した。自ら紙幣整理、歳出抑制を行い、増税による歳入増加をはかるデフレ政策により物価は下落。中小工業者の破産が増え、生産地豪商農は急速に没落。生糸価格は大暴落し、地方税増額が追い打ちをかけ農民は困窮。外貨獲得の製糸業についても財政支援による輸出奨励・保護政策が見直された。
  • 1881年(明治14年):10月、海外直輸出向け荷為替資金が横浜正金銀行で底をついたため、横浜同伸会社は困難に直面した。速水堅曹は新任の大蔵郷松方正義に対して25万円を緊急融資するよう直訴した。
  • 1881年(明治14年):大蔵省御用掛前田正名が、静岡、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、福井、石川、長野、山梨の11府県を視察巡回して同業者の団結と製品の改良、直輸出の必要を訴える。これに応えて同年、岐阜、京都、兵庫、石川、長野の各府県製糸業者が横浜同伸会社を通じて直輸出を開始。その他にも埼玉、大分が同社を介した直輸出に加わった。
  • 1881年(明治14年):外国人居留地外商からの商権回復を目的として原善三郎、渋沢喜作(旧名:渋沢成一郎)、茂木惣兵衛朝吹英二馬越恭平らが中心となり連合生糸荷預所が設立され、横浜同伸会社も加盟。外商は自由貿易条項違反だとして激しく反対し分断活動を活発化。渋沢栄一河瀬秀治らとともに前年設立した東京商法会議所(現東京商工会議所)にも波及し、渋沢栄一と益田孝が解決の糸口を探った。アメリカ公使ビンガムとの非公式会談により共同倉庫を設立することで外商との和解に至った。
  • 1881年(明治14年):12月、速水は、大蔵郷松方正義と富岡製糸所払い下げ問題と新たに設立された横浜の連合生糸荷預所問題について議論した。
  • 1883年(明治16年):5月、前橋の大火により大渡製糸所(旧・前橋製糸所)を経営していた勝山宗三郎が焼死した。富岡製糸所は農商務省農務局の所轄となった。
  • 1883年(明治16年):5月、農商務省で製糸諮詢会が開かれ、日本蚕糸協会の設立が決められた。速水堅曹が会頭、河瀬秀治が幹事長に就任した。日本蚕糸協会は日本初の公的・全国的蚕糸業団体となった。
  • 1883年(明治16年):9月、速水は、フランスの例にならい横浜に生糸検査所を設置するための調査を開始した。
  • 1883年(明治16年):11月、速水は再び官職に就くため、横浜同伸会社の代表取締役の職を辞し、後任を河瀬秀治に託した。
  • 1885年(明治18年):速水(農商務省御用掛准奏任)は、経営手腕を買われて再度、官営富岡製糸所(旧富岡製糸場)の所長となり、1893年(明治26年)に同製糸所が三井家に払い下げられるまで8年間、第5代所長を務めた。この時期は模範工場というイメージは消え、創業当初からの高コスト体質の上に老朽化による修繕費も増加して業績不振が続いていた。速水堅曹には収益改善を追求する企業家的経営が強く求められ、本格的な経営改革に着手。まず、繭を購入する上で障害となっていた繰越補填問題を解決。次に品質改善を図り、横浜同伸会社を通してアメリカ向け直輸出を拡大し、目標とする製糸場の黒字化を達成した。
  • 1888年(明治21年):深沢雄象の娘婿である深沢利重が、経営困難に陥った研業社関根製糸所の経営を速水堅曹の実兄桑島新平から引き継いだ。その後深沢利重は火災で焼失した関根製糸所の建物をあきらめ、前橋北曲輪町(現・前橋市千代田町)に新たな製糸工場を建てて深沢製糸所として再建した。
  • 1888年(明治21年):4月、速水は熊本の長野濬平を訪れ製糸業の将来について論じた。長野は前橋製糸所で速水から器械製糸技術を学んだ後、1872年(明治5年)に地元の熊本市に蚕業試験場を建てた。そこは1893年(明治26年)、長野家の経営する熊本製糸所となった。
  • 1889年(明治22年):群馬県の生糸生産量が長野県に抜かれ、全国第2位となった。
  • 1892年(明治25年):蚕糸業の改良発達を目的とした大日本蚕糸会が設立。速水堅曹は名誉会員の立場から品質低下問題を提起。最大の輸入国であるアメリカにおいて、ここ数年来、日本製生糸が粗製濫造による品質低下で既に信用を失っていることを憂慮し、品質不揃いの原因は蚕種の種類が雑多・混在にあることを指摘。同一品質の生糸の生産が難しいのは原料となる繭が良質・同一でないためで、劣質の繭を多種多量(多収量)に養育した者が勝ちとの風潮があるとした上で、在ニューヨーク日本領事から詳報があると述べた。この品質問題は、前年にアメリカ絹業協会(Silk Association of America)の書記長B. Richardsonから書簡で善処要請されたもので、星野長太郎も製糸業界に警告していた。明治30年代以降、蚕糸業界で活発に起こった品質議論は、蚕種統一・繭質統一問題に発展し業界の重大課題となった。
  • 1893年(明治26年):三井家が官営富岡製糸所(旧富岡製糸場)を12万2,600円で落札し、官営工場の幕は下ろされた。以後、富岡製糸所は工場の所有者を何度か変え、設備も一部改修された。1939年(昭和14年)には片倉製糸紡績株式会社(後の片倉工業)が工場の譲渡を受けた。
  • 1893年(明治26年):速水は、富岡製糸所(旧富岡製糸場)の官営廃止後も養蚕改良、製糸改良に腐心、後進の育成に努めた。
  • 1894年(明治27年):全国的には、器械糸の生産量が座繰糸のそれを上回った。この年長野県では器械糸の生産比率は91.0%に達していたが、群馬県では19.8%に過ぎなかった。群馬県において器械糸の生産比率が座繰糸を上回ったのは大正2年になってからであった。
  • 1896年(明治29年):7月、蚕糸業の改良に努力して従五位に叙せられた。
  • 1905年(明治38年):大日本蚕糸会より第2回蚕糸功績賞を受賞し、金賞牌を授与された。
  • 1909年(明治42年):この年、日本は清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となった。
  • 1911年(明治44年):政府は原蚕種製造所建設に着手し、さらに原蚕種配布事業を法制面から補完するものとして蚕糸業法を制定。1892年(明治25年)、速水が提起した深刻な品質問題への対応は、業界の蚕種統一・繭質統一という重大課題となり、政府による原蚕種製造所建設と蚕糸業法制定まで進んだ。
  • 1913年(大正2年):死去(74歳)

参考文献 編集

脚注 編集

関連項目 編集