TBSビデオ問題

1989年に日本の東京都で発生した放送倫理問題
TBSビデオ事件から転送)

TBSビデオ問題(TBSビデオもんだい)は、1989年平成元年)10月26日、東京放送(現在のTBS)のワイドショー番組3時にあいましょう』の制作スタッフがオウム真理教の幹部に対して弁護士坂本堤がオウム真理教を批判するインタビュー映像を放送前に見せたことで、9日後の11月4日に起きた坂本弁護士一家殺害事件の発端となったマスコミ不祥事報道被害である。

TBSビデオ問題
TBS千代田分室の位置していた科学技術館
場所 東京都千代田区
科学技術館(TBS千代田分室)
日付 1989年平成元年)10月26日 (日本標準時)
概要 TBSのテレビ番組「3時にあいましょう」の取材班は反オウム真理教派の弁護士・坂本堤のインタビューを収録した後、オウム真理教の修行を取材。その際のインタビューで紛糾し、沈静化のため、曜日担当プロデューサー・武市功は坂本弁護士のビデオを見せることを提案。10月26日深夜、オウム真理教の早川紀代秀らが科学技術館に来訪、総合プロデューサー・多良寛則の命令により早川らに坂本のビデオを視聴させ、企画自体の放送を取りやめる約束をする。このことが坂本弁護士一家殺害事件発生の根源とされる報道倫理問題。
原因 TBSがジャーナリズムの鉄則である「情報源の秘匿」および報道倫理を遵守しなかったため
対処 プロデューサーの多良および武市の懲戒解雇
磯崎洋三社長ら経営陣の引責辞任
ワイドショー番組からの一時撤退
深夜放送の一時中止
謝罪 1996年4月30日19時から19時20分まで磯崎洋三社長による特別番組「視聴者の皆さまへ」、19時20分から22時54分まで「ビデオ問題検証特番『証言・坂本弁護士テープ問題から6年半』」(司会:杉尾秀哉)を放送。
5月20日に特別番組「視聴者の皆さまへ」で当時の砂原幸雄社長より経過報告と今後の対策および謝罪放送を行う。
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事件はオウム真理教への強制捜査(1995年3月22日)が行われたのちの一連のオウム真理教事件の捜査の途上で浮上し、当初は否定していたTBSが1996年3月になってから認めたもので、TBSビデオ問題などとも呼ばれる。問題を事件に置き換えた表記もある[注釈 1]

概要

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TBSは、1989年(平成元年)10月に当時すでにサンデー毎日『オウム真理教の狂気』特集などで批判されていたオウム真理教の取材映像を放送予定であったが、反オウムの弁護士坂本堤のインタビュー映像が合わせて放送されることを知ったオウム真理教は、坂本のインタビュービデオ(以下ビデオ)を見せるようTBSに要求し、オウム真理教幹部の早川紀代秀(坂本弁護士事件実行犯の1人)らがTBS内でこのビデオを視聴した。その後、麻原彰晃坂本堤の殺害を指示、11月4日坂本弁護士一家殺害事件が発生。

事件後に早速オウム真理教の関与が疑われたものの、オウム真理教に対し特に目立った捜査も無く、坂本弁護士事件は(1995年まで)迷宮入りとなった。この時、TBSの担当者は事件直前にオウム真理教の幹部がビデオを見に来たことを公表しなかったため、もし公表していれば捜査に影響を与えたのでは、そもそも何故ビデオを見せたのか、殺害決行のきっかけになったのではないか、などと批判された。

経過

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事件の経過(1989年〈平成元年〉)
月日 事柄
10月26日 午前、坂本弁護士牧太郎永岡弘行のインタビュー収録
昼、別の取材班が麻原彰晃(本名・松本智津夫)による「水中クンバカ」の実演を取材
オウム真理教は麻原の取材ビデオを見せるよう要求
深夜、早川紀代秀上祐史浩青山吉伸がTBS千代田分室を訪問
オウム真理教は坂本弁護士らの取材ビデオを見せるよう要求
10月31日 早川、上祐、青山が、横浜法律事務所を訪問。坂本弁護士から教団を告訴する意向が示される。
11月4日 オウム真理教、坂本弁護士一家を殺害

インタビューとビデオ視聴

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1989年(平成元年)10月26日、オウム真理教について翌27日の放送で取り上げることを企画していた『3時にあいましょう』は、10月26日午前中にオウム真理教批判の急先鋒であった坂本弁護士、牧太郎永岡弘行のインタビューを収録。昼、曜日担当プロデューサー(武市功)率いる取材班(社会情報局)は、オウム真理教富士山道場にて報道局社会部と合同で麻原彰晃(本名:松本智津夫)による「水中クンバカ」の実演を取材[1][2]

TBS報道局記者の西野哲史によるインタビュー終了後、「3時にあいましょう」取材班の麻原インタビューが開始するも紛糾、オウム関係者が「そんな取材でどんな放送をするつもりなのか」と迫った。「麻原の実演の様子と被害者の会や坂本弁護士のインタビューを、バランスをとった形で放送する」ことを金曜日担当プロデューサー(武市功)がオウム側に明らかにすると、ビデオの確認を求めたオウム側と押し問答となった[3]。結果として曜日担当プロデューサーがオウム真理教に対して事前にビデオを見せることを認め、その場の事態を収拾した。

10月26日の深夜、オウム真理教の幹部、早川紀代秀上祐史浩青山吉伸らがTBS[注釈 2]を訪れた。まず曜日担当プロデューサーが応対し、暫くして総合プロデューサー(多良寛則)が同席した。ここでオウム「被害者の会」に関係する坂本弁護士らのインタビューが収録されているビデオについて、オウム側が執拗に見たいと要求した[3]

総合プロデューサーは、部下にオウム側がインタビューに応じるならば、坂本弁護士のインタビューを収録した当該ビデオを3人に見せてもいいと交渉。坂本弁護士のインタビューを収録・管理している制作会社・TBSビジョン(TBS‐Ⅴ、旧TBS映画社、現在のTBSスパークル[注釈 3]の担当ディレクターと当夜に居合わせた編集マンに坂本テープの間詰め編集をするよう指示し、編集後にその坂本弁護士のインタビューテープをオウム側が視聴した[1][4]。早川はこのときのことをメモにとっている(早川メモ)。結局、TBS側スタッフはインタビュー[注釈 4]を放送しないことを承諾・約束し、オウム側幹部はその場を後にする。

10月31日に早川、上祐、青山ら3人は、坂本弁護士が所属する横浜法律事務所を訪れたが、坂本弁護士からは教団を告訴する旨を告げられたため交渉は決裂。4日後の11月4日坂本弁護士一家殺害事件(当時は「失踪事件」)が発生する。

捜査と日テレのスクープ、問題の否定

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1995年(平成7年)3月20日、死亡者13名、負傷者約6300名余りの被害者を出した地下鉄サリン事件が発生。その後の捜査でオウム真理教によるテロと判明し、同教団への立ち入り捜査が行われた。オウム真理教の幹部であった早川は、4月19日のTBS「筑紫哲也ニュース23」取材後に逮捕され、後に坂本弁護士一家殺害事件など計7事件で起訴される。

坂本の事件発生から6年弱となる9月5日、後述の早川の供述を知った神奈川県警察「坂本弁護士へのインタビューの事で、オウム真理教とやり取りがあったらしいので、その経緯を知りたい」とTBSへ捜査協力を求めたことから、TBS側も事態を把握した。その後、9月中に東京地方検察庁(東京地検)もTBS関係者[注釈 5]からの事情聴取を行う。だが、その時点ではTBS側はさほど重大な問題だとは認識せず、TBSが社内調査委員会を設置したのは、事情聴取から1か月後の10月9日になってからだった。

10月12日にTBSは、東京地検の要請に応じて坂本弁護士のインタビュービデオテープを任意提出した。その直後に多良と武市は東京地検から早川が書き記したとされる坂本弁護士のインタビュー内容のメモ(早川メモ)の一部を見せられオウム幹部にインタビュービデオを見せた事を認めるよう迫られたが、その時見せられた早川メモは原本(もしくは原本のコピー)ではなくワープロ打ちしたものであったため2人とも回答を保留した。そして10月18日に牧太郎と永岡弘行のインタビュービデオテープ押収のため、TBSは東京地検から家宅捜索を受けた。この時点でTBS幹部は「牧・永岡両名の同インタビュービデオテープは、使い回しのため既に消去した」と東京地検に伝えていたが、二転三転するTBS側の証言に、東京地検が強い不信感を抱いていた故の捜索であった[1]

10月19日日本テレビが昼のニュース番組「NNN昼のニュース」で、早川被告が“(事件の前に)TBSで坂本弁護士のインタビュービデオを見て、その内容を麻原代表に報告した”と供述している」[注釈 6]と報道。これにより、TBS社内でも極秘とされてきた坂本弁護士のインタビュービデオをオウム幹部に見せた一連の疑惑が初めて世間に知られる事となった[5]

この報道を知ったTBSは、即座に日本テレビに「事実無根だ」と抗議するとともに、10月19日18時からの「ニュースの森」でキャスター杉尾秀哉が「TBSが教団の幹部に取材テープを見せたかのようなニュースを(日本テレビは)放送しました。しかし社内の調査では、テープを見せた事実はありません」と伝えた[5][6]

しかし日本テレビは、TBSから否定声明や抗議を受けても一貫して報道姿勢を変えず、午後の「ザ・ワイド」や夕方の「ニュースプラス1」、深夜の「きょうの出来事」でも早川の同供述を報道した。日本テレビ報道局社会部長(当時)の北澤和基は「NNN昼のニュース」放送後、すぐにTBSの複数の局長から抗議の電話があった事を明かしており、「事実を知っているのでしたら全てを報道すればいいんですけど、事実がよく分からないのだったら本来報道はできないはずですよ。それが筋違いの否定と抗議だけと、これはもう一方的な社告であり報道ではありませんよね。もうTBSさん一体どうなっちゃったんだろう?って本当に思いましたよ。」と述べている[1]。後日、TBSは総務局長名義で日本テレビ宛に抗議文書も送付した[7]

1996年(平成8年)3月11日、TBSは坂本弁護士のインタビュービデオを見せた事実はなかったという「社内調査概要」を発表。3月12日に早川被告の公判において、TBSのプロデューサーおよび早川の供述調書の要旨告知(事件の核心となる早川メモが公表される)。これを受けて、横浜法律事務所はTBSに対して公開質問状を送付。TBSは会見[注釈 7]で改めて否定し、3月19日に横浜法律事務所に、坂本弁護士のインタビュービデオを見せた事実はなかったという趣旨の回答書を提出した。

3月19日にTBSの大川光行常務は、衆議院法務委員会に参考人招致され、社内調査概要に従って、以下の様に証言した。

社内の調査は、予断を排し、厳正、公正に行いました。その結果を隠すことなく発表いたしました。社内調査では、オウムの三人に対応しました二人の社員のほか、当日建物内におりました外部スタッフなどに状況を聞きました。(中略)そうした状況から、我々はテープは見せていないと確信しております。検察庁の捜査結果につきましては私どもはコメントできませんけれども、社内の調査では、見せたという事実は出ていないと確信しておる次第でございます。 — 大川参考人、 衆議院法務委員会

問題の解明と謝罪

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1996年(平成8年)3月23日に「早川メモ」の全容(原本の存在)が明らかとなり、その内容が坂本弁護士のインタビュー内容に合致していたことから、TBSがインタビュービデオを見せたことは否定できなくなる。3月24日に武市が見せた事実を認めたため、3月25日にTBSの磯崎洋三社長が坂本弁護士のインタビュービデオをオウム真理教の早川たちに見せたことを認める内容の緊急記者会見を行う。同時に、武市の懲戒解雇処分を発表。3月28日にTBS前常務の大川は衆議院法務委員会で、3月19日の発言とは異なる内容を述べて陳謝した。

三月十九日、当法務委員会の場で私どもの社内調査の結果を御報告申し上げましたが、その後、新たな事実が判明いたしました。TBS社員がオウム真理教の幹部三人に、坂本弁護士のインタビューテープを見せていたのであります。前回、当委員会に御報告した内容は誤りということであります。まことに申しわけございません。訂正させていただくとともに、おわび申し上げます。 — 大川参考人、衆 - 法務委員会

4月2日4月3日に磯崎社長らが衆議院逓信委員会に参考人招致された[注釈 8]

4月30日、TBSは坂本弁護士のインタビューテープ問題についての社内調査概要などを発表。19時から19時20分まで磯崎社長の出演による特別番組「視聴者の皆様へ」、19時20分から22時54分まで杉尾秀哉柴田秀一池田裕行の司会進行による社内検証番組「ビデオ問題検証特番『証言・坂本弁護士テープ問題から6年半』」を放映[8]。4月30日付で郵政省に最終報告書を提出し、多良の懲戒解雇と磯崎社長ら三役の辞任を発表し、翌5月1日より磯崎の後任として砂原幸雄が新社長に就任した。

5月20日に23時50分から5分間の特別番組「視聴者の皆様へ」で砂原社長より経過報告と今後の対策および謝罪放送を行い、不祥事による自粛措置として5月24日までの5日間、午前0時以降の深夜放送を取りやめた[9]5月24日にTBSは横浜法律事務所に公開質問状に対する再回答書提出。3月19日の回答書を全面的に撤回し、坂本弁護士インタビュービデオをオウム真理教の幹部に見せたことを認めるとともに、坂本弁護士一家の遺族と横浜法律事務所などに陳謝した。

5月30日に衆議院逓信委員会で砂原は「スーパーワイド」の終了、情報系番組の見直しを言及し[10]5月31日に問題の発端となった『3時にあいましょう』の後継番組「スーパーワイド」と「フレッシュ!」の放送を終了、その後「モーニングEye」の放送も1996年9月末をもって終了し、社会情報局も廃止されてワイドショーの番組制作から撤退。2005年の「きょう発プラス!」開始までワイドショーと謳った番組は制作されなかった。なお、当時社会情報局制作だった「サンデーモーニング」や「ブロードキャスター」など、一部の番組は報道局に制作が引き継がれている。また、社会情報局はこれら以外にも「アッコにおまかせ!」「噂の!東京マガジン」「そこが知りたい」や「ウェディングベル」などワイドショーではない一部の番組も担当していたが、これも解体に伴い制作局など別部署に移行した。

12月18日にTBS「放送のこれからを考える会」(座長:堀田力弁護士)が、報道現場における「個の確立」を求める提言を行った。

TBS批判とその過熱

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報道倫理の逸脱

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1989年10月26日にTBSビデオ問題が発生、同月31日にオウム真理教の幹部が坂本を訪問、11月4日から坂本弁護士一家が所在不明、同月15日から公開捜査となるが、TBSは公開捜査に際してこの26日の件を警察に通報しなかった。さらにTBS側スタッフがオウム真理教の幹部にビデオを見せたことは、情報源の秘匿というジャーナリズムの原則に反し、報道倫理を大きく逸脱するものとして批判された[注釈 9]

また、TBSがビデオをオウム真理教の幹部に見せたことで坂本弁護士が殺害されたという非難もあり、TBS以外の報道機関や世論もこれを認め、TBSを批判して責任を追及した。さらには、TBSはオウム真理教幹部らの公判において当事者の供述やメモが明らかになったことを受け事実を認めるまでの5か月以上にわたり、「内部調査」を根拠に疑惑を否定し続けていた。この間の調査の不透明さから、TBSは事実を把握しているのにも関わらず意図的に隠しているのではないかと疑われた。こうした杜撰な対応による危機管理の失敗も、TBS批判をさらに加速させる要因となった。

なお、当時TBSは坂本弁護士の遺族に対しても不誠実な対応をしていた。坂本弁護士の妻・都子の父、大山友之の著書から引用する[11]

九六年三月十一日、中川智正の初公判を翌日に控え、TBSは『坂本事件に関する社内調査の概要』を報道各社宛にファックス送信しています。およそ五千字程度の物ですが、内容を要約するとこのようなものでした。

『当社常務取締役を長とし、六名の調査チームを作り、二ヵ月半にわたり十九名の関係者から十数回事情調査を行った。それと並行して役員が直接、関係者の記憶を質した。報道機関としての責任で真相を究明したが、VTRを見せた記憶や事実は出てこなかった』

乱暴この上ない調査結果だったのですが、この化けの皮はすぐはがれることになります。

翌三月十二日、坂本事件に関する刑事裁判の皮切りとなった、中川智正の初公判における冒頭陳述の中で、坂本テープの存在が明らかにされてしまったからです。麻原の指示により、早川、上祐、青山の三人がTBSに赴き、坂本弁護士のインタビュー・テープを見て、堤が「血のイニシエーションは詐欺行為」「麻原に空中浮遊の能力はない」と言ったことを知り、放映中止を迫ったことが明らかにされたのです。

一週間後の三月十九日、衆議院法務委員会において、参考人として招致されたTBS常務は、この矛盾を突かれ、返答に詰るといった醜態を晒す結果となっています。

挙句の果てに、その年の四月三十日、TBSは監督官庁である郵政省に、事の顛末を報告しています。私は、この「坂本テープ調査報告の要旨」について、日刊紙数社の記事を読み比べましたが、TBSの誤魔化しの意図が見えすぎる半面、事態の真相が全く見えてこないことに激しい憤りを感じました。

そこで私は、直接TBSに問い合わせをしてみました。真相をこの目とこの耳で確認したかったのです。

自宅からTBS本社に電話をかけ、広報担当の部署へつないでもらい、住所氏名、どういう立場の人間かを細かく申し述べ、用件を手短かに伝えると、電話の相手が代わりました。そこで私はさらに細かに説明すると、先方はこう言いかけました。

「今、責任者が席をはずしていて……」

ところが、それも言い終わらないうちに、今度は別の男の声でいきなり、

「いったい、何をどうしろと言うんだ!何を要求するんだ!」

そう恫喝してきたのです。これには驚きました。激しい怒りも湧いてきました。しかし、私は真相を知ることと、郵政省に提出した報告書と同じものを入手することが目的であることを思い、ぐっと堪えて、

「要求でなく、お願いの電話です。坂本ビデオの報告書……」

と言いかけたところで、また、電話の相手が代わりました。

「私は広報部副部長の○○です」

居たのです! 責任者は席を外している筈なのに、その場にいたのです! 丁寧に名乗ってはくれましたが、用件を伝えると、

「あるにあるが、残る部数も少ないし、部外者に見せる物ではないが、仕方がない、送ります」

そういう答えが返ってきたのです。やはり私は部外者だったのです。『仕方がねえ、送ってやらあ。有難く思え』で済む程度の人間として扱われたのです。マスコミという特権意識に舞い上がった、彼らの思い上がりを強く感じたものです。

勿論、マスコミを十把一絡げにして物を言うつもりはありません。しかし、刑法に抵触するとまでも言えないにしても、およそ、理性ある人間として、してはならない過ちをしでかし、それを恥じる事もなく、逆に隠し切ろうとしたTBSの当時の経営陣は、マスコミの末席にも置けない、いや置いてはならない、という思いは今でも変わっていません。

— 大山友之『都子聞こえますか―オウム坂本一家殺害事件・父親の手記』新潮社、2000年[11]

内部調査の破綻

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当初、調査委員会設置時には報道局を中心とした善後策がまとめられていたが、1995年(平成7年)10月19日の日本テレビの疑惑報道で事態は一変する。一連の経緯を把握していなかった一部経営幹部が、日本テレビへの抗議を指示。幹部らの独断に近い形で「ニュースの森」内での抗議声明の放送が決定してしまう。この抗議声明の放映により、TBSは疑惑を否定せざるを得ない状況に追い詰められてしまったのだった。それから調査委員会は経営幹部中心となるが、その調査は該当プロデューサーらからの聞き取りのみで、その発言を鵜のみにした「結論ありき」のものだった。しかも、スタッフの中にはTBSの内部調査と検察の事情聴取に異なった証言をした者もおり、TBSの調査委員会はこのことすら把握できていなかった。一連の経緯からビデオ問題は、ジャーナリズム報道機関への信頼を大きく揺るがす非常に重大な事件となった。

「TBSは死んだ」

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1996年(平成8年)3月25日、TBSは一転してビデオテープを見せたことを認めて謝罪する事態に至った。夜の放送「筑紫哲也ニュース23」の番組コーナー『多事争論』で、筑紫哲也は次のように語った[12]

報道機関というのは形のある物を作ったり売ったりする機関ではありません。そういう機関が存立できる最大のベースというのは何かといえば、信頼性です。特に視聴者との関係においての信頼感であります。その意味で、TBSは今日、死んだに等しいと思います[注釈 10]。過ちを犯したということもさることながら、その過ちに対して、どこまで真っ正面から対応できるか、つまり、その後の処理の仕方というのが殆ど死活に関わるということを、これまでも申し上げてきました。その点でもTBSは過ちを犯したと私は思います。そして、今日の発表の結果というのも、まだ事は緒に就いたばかりで、これからやるべき事はいっぱい残っているだろうと思います。その中で、自分たちがどういう事を考え、何をやっているのかという事を、もう少し公開すると言いますか、きちんと説明するということも一つの勤めだろうと思います。

実は、こう言うことを申し上げるべきではないのかもしれませんが、今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました。私はTBSの社員でもありませんし、直接、事件のことを知っている訳でもありませんけれども、信頼性と視聴者の関係で言えば、TBSの顔の役割を果たしてきただろうと思います。その責任もあるのではないかと考えまして、その後、番組が始まるまで、スタッフや局内の人達と随分長い議論をいたしました。

ここまで落ちて、一旦死んだに等しい局ですけれども、これから信頼回復のために、あるいは蘇るために、努力をしようとしている人たちもいます。ある意味では、みっともない事だとは思いますけれども、とにかく、その人たちと一緒に、しばらくの間はその為の努力をしたいと思います。これまでも局内で、あるいは番組でもいろいろな自分の意見を申し述べてきました。これからも一層その努力をして、テレビのあり方も含めて、これを機会にして大いにきちんとすることが、せめてもの坂本ご一家に対する償いではないかと思っております[12][14]

坂本弁護士事件実行犯の公判後、TBSが一転してビデオをオウム信者に見せたと認めたことも、世論のTBS不信を高まらせた[1]1996年(平成8年)4月30日のTBS特別番組「視聴者の皆様へ」では、当初オウム真理教の幹部へビデオを公開した事実はないとしながらも、後にこれを正反対の結論へ転じたことは、視聴者・国民の皆様の信頼を裏切ったとして、冒頭で社長自ら謝罪の言葉を述べている。

相次ぐ批判や波紋

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1996年(平成8年)3月29日放送の『多事争論』では、視聴者からTBSに寄せられた3千件の意見や疑問点の一部を紹介した。最も多かったのは「なぜビデオを見せたのか」「坂本弁護士一家が居なくなった時、なぜ警察、横浜弁護士事務所に連絡しなかったのか」という疑問点であったという[15]

また、問題発覚後のTBSの対応や社内調査に対する批判として、「TBSはこの期に及んでも、まだ『本社のずさんな調査』などと言っている。『本社のウソ』というべき」「今回の対応はチッソミドリ十字厚生省大蔵省など官僚たちと変わりなく、決して彼らを批判できる立場にはない」などの意見が紹介された[15]

さらに、TBSの今後の責任の取り方、信頼回復の方法については、「最低でも、一週間ぐらいの放送停止は当然だと思います」「マスコミとして、国民にわかる調査をし、社長はもとより役員は総辞職をして責任をとって欲しい」などの要望が寄せられた[15]

一方で、世論のTBS批判や「TBSがビデオをオウム幹部に見せたことで坂本が殺害された」という非難に対しては「坂本はそれ以前にラジオに出演し、麻原と電話での討論を行っており『TBSが見せたテープの内容が殺害の直接の動機となったのではないか』との報道は妥当性を欠いている」との反論や「TBSバッシングに興じることで(報道倫理としての)問題の本質を見逃してしまう」とする異論[注釈 11]があった。また、取材テープを取材対象者からの要請で見せる行為は当時多くの放送局で行われていた事に加え、ビデオを見せたのは一連のテロ事件が起きる前であり、この時点でオウム真理教により坂本弁護士及びその関係者が殺害されるという事態はメディアの側からしても想定不可能であった事から、結局この事件は「たまたまTBSで起きただけで、どこの放送局でも起き得た事件ではなかったのか?」という非難もなされており、多良・武市両プロデューサーの取材ビデオを見せた行為も個人情報保護法がなかった当時は違法行為ではなかった為、彼らへの懲戒解雇処分も不当解雇ではないのかとの批判もある[19]

更にこれらの批判が行き過ぎ、批判の対象が殺害実行犯のオウム真理教からTBSに移ってしまったことで、一連のオウム事件そのものの真相究明がおろそかになったとの意見もある。当時テレビマンだった森達也は、この事件でこれまでキラーコンテンツだったオウム報道が一転して取扱い注意になり、マスコミはTBSの二の舞いを恐れ、オウム幹部インタビューそのものを自粛するなどして萎縮していったと見ている[20]

事件後

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ワイドショーの終了と深夜放送の自粛

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当問題は、ワイドショーの制作現場で発生したことに鑑み、TBSはワイドショー「スーパーワイド」を5月31日で、「モーニングEye」を9月27日で終了させた[21]。また、1996年5月20日 - 5月24日は、予定していた午前0時以後の深夜放送の番組を休止とし、「筑紫哲也ニュース23」も23時50分まで(5月24日金曜日のみ0時20分まで)の第1部のみで打ち切りとした。第2部をネットしている地区については「ドキュメントDD」など、TBSからの裏送り番組を放送したり、臨時に遅れネット番組や再放送や自社制作番組などの自主編成を組むなどの対応となった。

判決文内での記述

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大きな騒動となったが、麻原裁判においては判決文にわずかに書かれているのみに留まり、影響等については言及されていない。

E10テレビは,同月26日,教団の長時間水中に潜る水中クンバカを取材し,これを翌日,被害者の会関係者のインタビューと共にテレビ放映することを予定していた。被告人は,その情報を入手したA8から報告を受け,A8に対し,その番組の放映についてE10テレビと交渉するよう指示した。A8は,同月26日夜,A11及びA10と共にE10テレビに赴き,その放映予定のインタビューが,B2弁護士,D2編集長及びB5会長による教団を批判する内容のものであることを知り,その旨被告人に報告し,その指示を受けてその番組の放映を中止するようE10テレビ担当者に働き掛け,これを中止させた — 松本智津夫被告東京地裁判決文[22]

「ワイドショー」の復活

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TBSビデオ問題発覚から1996年以降、TBSは「ワイドショー」の単語を避けてきたが、2015年春にスタートの「ビビット」(放送開始時のタイトルは「白熱ライブ ビビット」、2019年9月終了)で「ワイドショー」の単語が復活した[23]

関連番組

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  • 『視聴者の皆様へ』TBS、1996年4月30日。  19時 - 19時20分放映。TBS・磯崎社長(当時)による特別番組。
  • 『証言・坂本弁護士テープ問題から6年半―ビデオ問題検証特番』TBS、1996年4月30日。  19時20分 - 22時54分放映。TBS社内検証番組。司会者ならびに進行はTBSのニュースキャスター(当時)である杉尾秀哉柴田秀一池田裕行
  • 『視聴者の皆様へ』TBS、1996年5月20日。23時50分 - 23時55分放映。TBS・砂原社長(当時)による特別番組[注釈 12]

脚注

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注釈

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  1. ^ 単にTBS事件といえばTBS成田事件を指すことが多いため注意が必要である。
  2. ^ 当時のテレビ局舎ではなく、東京都千代田区に当時あった千代田分室(どちらも1994年閉鎖)
  3. ^ 1996年4月30日に放送された4時間の検証番組『視聴者の皆様へ・証言』の31分30秒あたりでTBSビジョン(TBS-Ⅴ)のスタッフの名刺が出てきている。TBSスパークルに名称変更した2023年4月現在『THE TIME,』『ラヴィット!』『ひるおび』『Nスタ』『報道1930』『新・情報7daysニュースキャスター』など多くの報道・情報番組を制作している。『サンデーモーニング』でTBSスパークルは制作協力をしているが、旧東放制作→旧エフエフ東放のスタッフが制作しているため、旧TBSビジョンとは関係がない。
  4. ^ 厳密には、企画していたオウム特集自体放送しなかった。
  5. ^ この時点で聞き取り調査を行ったのは、武市、多良、西野の3人に対してのみだった。
  6. ^ これはあくまでも早川の供述を報道したものであり、「TBSがオウム幹部に坂本弁護士のインタビュービデオを見せた」とは一切報道していない。
  7. ^ この記者会見の際、TBSの大川光行常務が「これで調査を打ち切ります」と発言したため、内外から強い批判の声が上がることとなった。
  8. ^ この参考人招致の模様は、4月3日に日テレとTBSで4月3日17時から中継された。(出典:1996年4月3日付読売新聞夕刊テレビ欄より。同紙夕刊に、「(日テレ)緊急報道番組・TBSビデオ問題で磯崎社長再び国会へ」・「(TBS)報道特別番組・衆議院通信委員会・参考人招致-TBSテープ問題」と記載あり。)
  9. ^ TBSも検証番組において「情報源の秘匿」に言及し、取材協力者に無断で対立相手にテープを見せた行為は、取材原則を逸脱しており、番組制作倫理に反したものであったと認めている。
  10. ^ 筑紫の著書によると、「TBSは今日、死んだに等しい」の言葉の元は放送前の会議中のスタッフの発言であり、放送直前に筑紫が当該スタッフに「自身の言葉として発して良いか」と、同意を得たという[13]
  11. ^ いずれも、「この問題はどの報道機関でも起こり得たことだ」として、TBSバッシングに興じ、自己批判・自己反省を行わないマスメディアのあり方やTBSへの過熱した批判報道に対して疑問を投げかけている。実際にオウム報道が金のなる木となってしまい、そのほかのオウム報道の検証が行われなかった[16][17][18]
  12. ^ この問題による自粛措置により、この番組がこの日のTBSテレビの最終プログラムとなった。

出典

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  1. ^ a b c d e 1996年4月30日19時から放映されたTBS社長による特別番組「視聴者の皆様へ」、「坂本弁護士テープ問題」及び関連調査書、株式会社東京放送(1996年4月30日、再調査書)による
  2. ^ 藤倉善郎 2007, p. 89-92.
  3. ^ a b 水中クンバカ以外に「被害者の会」関係者の主張も放映するのか確認するとともに、どのような「被害者の会」関係者の主張を放映するのか教えるよう要求しました。経緯は忘れたのですが、TBS側も教団の反論を聞かずに放映することはできないと考えたのか、録画していた「被害者の会」関係者のビデオを見せてくれたのでした。(「ビデオ問題検証特番『証言・坂本弁護士テープ問題から6年半』で放映された早川供述調書の内容による)
  4. ^ 坂本弁護士のビデオテープを見せた細部は確定できないが、総合プロデューサーと曜日担当プロデューサーが見せる決断をし、坂本弁護士をインタビューした担当ディレクターが呼ばれて実際の作業が行われたと判断される。編集後のオウム側の確認については編集マンの証言による。(「坂本弁護士テープ問題」及び関連調査書、株式会社東京放送、1996年4月30日、再調査書)
  5. ^ a b 原口和久 1998, p. 92.
  6. ^ 1996年5月1日付け東奥日報朝刊18面記事。
  7. ^ 藤倉善郎 2007, p. 88-89.
  8. ^ 藤倉善郎 2007, p. 89.
  9. ^ 「インフォメーションファイル」『月刊アドバタイジング』第41巻第8号、電通、1996年7月25日、75頁、NDLJP:2262172/40 
  10. ^ 衆議院 逓信委員会. 第136回国会. Vol. 第9号. 30 May 1996.
  11. ^ a b 大山友之 2000, p. 226-228.
  12. ^ a b 筑紫哲也 1996, pp. 75–76.
  13. ^ 筑紫哲也『ニュースキャスター』集英社〈集英社新書〉、2002年6月14日、172-174頁。ISBN 9784087201451 
  14. ^ 筑紫哲也 (1996年3月25日). “News23 多事争論 3月25日(月) 「坂本弁護士事件とTBSの問題」”. 筑紫哲也 NEWS23. TBSテレビ. 2012年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月22日閲覧。
  15. ^ a b c 筑紫哲也 1996, pp. 77–79.
  16. ^ 田原総一朗『田原総一朗の闘うテレビ論』文藝春秋、1997年3月1日、103-127頁。ISBN 9784163526508 
  17. ^ 木村太郎『太郎が飛んだ 国際ニュースの現場』東京新聞出版局、1997年5月1日。ISBN 9784808305970 
  18. ^ 黒田清『TBS事件とジャーナリズム』岩浪書店〈岩波ブックレット No.406〉、1996年7月22日。ISBN 9784000033466 
  19. ^ 神山冴と検証特別取材班『TBSザ・検証 総力取材 局にかわって私がやる!!』鹿砦社、1996年6月1日。ISBN 9784846301545 
  20. ^ 森達也. “真実と偽りが二極化する危うさ―オウム事件から激変した日本社会”. WEB論座 (朝日新聞社). https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2017111400004.html 
  21. ^ 第136回国会 逓信委員会 第9号 - 平成8年5月30日,当時社長の砂原幸雄の発言より
  22. ^ 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所
  23. ^ “TBSがワイドショーを復活させた理由”. デイリースポーツ. (2015年3月10日). https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/03/10/0007806440.shtml 

参考文献

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  • 大山友之『都子聞こえますか―オウム坂本一家殺害事件・父親の手記』新潮社、2000年6月1日。ISBN 9784104380015 
  • 筑紫哲也『筑紫哲也のこの「くに」の冒険』日本経済新聞社、1996年7月25日。ISBN 9784532161927 
  • 原口和久『メディアの始末記―TBSビデオ問題』新風舎、1998年2月26日。ISBN 9784797405033 
  • 藤倉善郎「TBSとオウムを繋ぐ未解決の疑惑 「坂本弁護士事件」をひき起こした「殺人電波TBS」とオウム真理教の危ない関係」『TBS「報道テロ」全記録―反日放送局の事業免許取り消しを!』晋遊舎〈晋遊舎MOOK〉、2007年2月1日、88-103頁。ISBN 9784883805914 

関連項目

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外部リンク

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