テッド・ウィリアムズ

アメリカ合衆国の野球選手 (1918-2002)

セオドア・サミュエル・ウィリアムズTheodore Samuel Williams1918年8月30日 - 2002年7月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手。右投左打。ニックネームは"The Kid"、"Teddy Ballgame"、"Splendid Splinter"、"Thumper"

テッド・ウィリアムズ
Ted Williams
1949年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンディエゴ
生年月日 1918年8月30日
没年月日 (2002-07-05) 2002年7月5日(83歳没)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1936年
初出場 1939年4月20日
最終出場 1960年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1966年
得票率 93.38%
選出方法 全米野球担当記者協会選出

MLB史上最高の左翼手とも称され[1][2][3]ロジャース・ホーンスビーと並び、MLB三冠王を2度獲得した。通算出塁率.482はMLB歴代1位。1941年打率.406を記録[4]

経歴

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プロ入り前

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1918年、サンディエゴで生まれる。名前の"Theodore Samuel"は、父のサミュエル・スチュアート・ウィリアムズと大統領セオドア・ルーズベルトにちなんで名づけられた。

地元サンディエゴのハーバート・フーバー高校時代からその才能は注目され、高校在学中には既にセントルイス・カージナルスニューヨーク・ヤンキースからのオファーを受け取っていた。しかしサンディエゴを離れるにはまだ若すぎると母親が反対したため、ウィリアムズは当時まだマイナーリーグに所属していた地元のパドレスと高校在学のまま契約を交わした。ウィリアムズはマイナーリーグで上記のパドレスとミネアポリスに所属し、メジャーリーグ昇格の機会をうかがっていた。

現役時代

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ウィリアムズの背番号「9」。
ボストン・レッドソックスの永久欠番1984年指定。

1939年にメジャーデビュー。1年目から活躍し、打率.327、31本塁打、145打点の活躍で打点王のタイトルを獲得した。

1941年には打率4割の期待がかかり、シーズン最終日にフィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダーを残して打率.3995。打率は毛を四捨五入して厘の値までとなり、規定打数に達しており、この時点でも記録上は打率4割となるため、周囲からは欠場を勧められた。しかしウィリアムズはダブルヘッダーに出場。最初の打席で、球審のビル・マゴワンがホームプレートを掃きながら、「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」と言ったという[5]。ウィリアムズは同2試合で8打数6安打を記録し、打率4割を6厘上回り、23歳1か月で、1911年ジョー・ジャクソンが打率4割を記録した24歳2か月という4割打者の最年少記録を塗り替え、首位打者本塁打王のタイトルを獲得した。長年この年に.406を記録したウィリアムズが最後の4割打者とされていたが2020年12月17日にMLB機構がニグロリーグの通算記録をメジャー通算成績、リーグでプレーしていたおよそ3400人の選手をメジャーリーガーにそれぞれ認定し、2024年5月29日にニグロリーグもMLBの公式大会として正式に組み込まれると同時にニグロリーグでの記録もMLBとしての記録に統合されたため、1948年ニグロアメリカンリーグ英語版バーミングハム・ブラックバロンズ英語版で.433を記録したアーティ・ウィルソン英語版と同じリーグのカンザスシティ・モナークス英語版で.408を記録したウィラード・ブラウンが最後の4割打者に変更になっている。また、最年少4割打者の記録も同じ理由で1934年ニグロナショナルリーグ (第二次)英語版ニューアーク・ドジャース英語版レイ・ダンドリッジが20歳で.421を記録したのが最年少記録に変更された。また、試合に出場した理由として、四捨五入で4割となるため実際は4割ではなかったと言われるのが嫌だったと語っている。同年シーズンは打率.406、37本塁打、120打点の成績で、あと5打点稼いでいれば125打点のジョー・ディマジオに並び三冠王だった。出塁率は当時のMLB記録となる.553に達した。 また、同年のオールスターゲームでは9回裏に試合に決着をつける逆転サヨナラ3ランを放っている。
打率は4割を超え、首位打者且つ本塁打王の二冠王という成績を残したにもかかわらず、シーズンMVPの記者投票では56試合連続安打を記録したがタイトルは打点王のみのディマジオに37ポイント差を付けられ2位に終わっている(ディマジオ:291ポイント、ウィリアムズ:254ポイント。因みに3位のボブ・フェラーは174ポイント)[6]

1942年には打率.356、36本塁打、137打点の成績で自身初の三冠王を記録。

1946年に復帰。打率.342、38本塁打、123打点の成績を残してア・リーグMVPを受賞する活躍を見せ、打棒健在をアピールした。

1947年には打率.343、32本塁打、114打点の成績でMLB最多タイ記録の2度目の三冠王を記録している。

1949年にも三冠王のチャンスがあったが、最終戦に1毛差で打率を逆転されて首位打者を獲得できず、三冠王を逃した。それでも自己最多の43本塁打、159打点の成績を残し2度目のア・リーグMVPを受賞した。

1954年には打率がリーグトップであるが当時の首位打者の規定である400打数に136四球が影響して386打数で届かず、逃している。このため、1957年シーズン前に打数ではなく、打席を採用することが決定している。

1957年には39歳にして打率.388、38本塁打、87打点の成績で自身5度目の首位打者を獲得。翌1958年も打率.328で首位打者を獲得した。40歳を迎えるシーズンでの首位打者獲得は2004年のバリー・ボンズと並ぶ最年長記録として未だに破られていない。

1960年に引退。同年も42歳ながら打率.316、29本塁打、72打点の成績を残していたが(本塁打率に限れば自己最高を記録したシーズンだった)、持病の腰痛が悪化していたとされる。9月28日のオリオールズ戦で引退。現役最後の打席でも本塁打を放った。

第二次世界大戦朝鮮戦争による2度の従軍があったものの[注 1]1960年の引退までレッドソックスの主軸として活躍した。通算打率.344、521本塁打はレッドソックスの球団記録である。"Untouchable"と言われる出塁率5割を3度も達成し、通算出塁率.482はMLB歴代1位。また、通算OPS1.116はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位である。また、引退当時、通算本塁打521本はベーブ・ルース、ジミー・フォックスに次ぐ歴代3位の記録だった。

引退後

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2002年7月22日、フェンウェイ・パークで行われたウィリアムズ追悼試合。グリーン・モンスターに往年のウィリアムズの写真が飾られる。

1966年、資格取得1年目でアメリカ野球殿堂入り。この殿堂入りのスピーチで、ジョシュ・ギブソンをはじめとするニグロ・リーグ往年の選手の殿堂入りを訴えている(後述)。

1969年からの4年間は第3次ワシントン・セネタース及び後身のテキサス・レンジャーズの監督を務めた。

1984年、ウィリアムズの背番号9』はかつてのチームメイトであったジョー・クローニンの『4』と共にレッドソックス初の永久欠番に指定される。

晩年は心臓病を患い、2000年にはペースメーカーをつけるなどで一進一退の病状だったという。2002年7月5日、心不全により逝去。83歳だった。 逝去後の同年7月22日に古巣レッドソックスのホーム・フェンウェイ・パークにて行われた追悼試合では、ウィリアムズの守ったレフト後ろのフェンス、グリーンモンスターに在りし日のウィリアムズの写真が飾られ、チームは故人を偲んだ。

逸話

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人物

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生涯を通じて釣り、とくに海釣りを趣味とし、シーズンが終わるとそのままフロリダ州まで行って海釣りに興じていたこともある。また、釣りの雑誌の表紙に出たこともあった。

頑固な性格であった。堅苦しいことを嫌い、服装においてもネクタイの着用を拒否し続けた。ファンやメディアとの関係も友好的とは言えず、その圧倒的な実力を認められながらジョー・ディマジオのような大衆の人気を得ることはなかった。ウィリアムズはルーキーの頃は快くサインに応じていたが、狭いフェンウェイ・パークの外野の野次などがファンやメディアとの関係を悪くしたと云われている。

引退試合においても通常通りプレーし、試合終了後にもセレモニーどころか帽子を取って観客に応える仕草ひとつ見せず、グラウンドを去った。ファンやメディアからは当然不満の声が上がったが、『ザ・ニューヨーカー』誌記者で、後に作家となるジョン・アップダイクはこの一件について「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。しかし、最後の打率4割到達から50年後の1991年5月、フェンウェイ・パークにおける記念式典に招かれた際には、「新聞記者達は、ウィリアムズは偏屈で帽子を取ってあいさつもしないと書き続けたが、2度とそんなことは書けないだろう」とスピーチした後、レッドソックスの帽子を振って客席に向かってあいさつした。

人種問題について、進歩的思想の持ち主であった。黒人であるウィリー・メイズが通算本塁打記録でウィリアムズを追い越しかけた頃、ウィリアムズはメイズに対し「レッツゴー、ウィリー」と激励したという。野球殿堂入りを果たした際の式典でのスピーチにおいて、サチェル・ペイジジョシュ・ギブソンなどニグロリーグで活躍した名選手たちの殿堂入りを訴えた。また故郷のサンディエゴつながりで、トニー・グウィンと親交が深かったことでも知られ、グウィンを釣りに誘ったこともある。

野球

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「どんな球種でも完璧にこなす」とうたわれた打力を持つ[7]

打率4割を打った1941年、2度の三冠王を獲った1942年、1947年にもMVPに選ばれなかった。特に1947年に関しては、シーズン中に地元ボストンのある記者と記事を巡ってトラブルがあり、三冠王を獲ったにも関わらずその地元記者が10位までにウィリアムズの名前を書かなかったため、僅差の得票で敗れた。一方、1946年と1949年にはMVPに選ばれている。

練習の重要性を著書でも懇懇と説いており、自身も現役時代はマメが潰れて手から血が吹き出すまでバットを振ったという。

並外れた動体視力を持ち、78回転のレコードのラベルを読むことができた (ただし、本人はこの逸話を自伝で否定している)。さらに空軍時代は、その目を生かして敵機を多数撃墜していたという。また、動体視力に加えて記憶力にも優れており、その日の試合で自分に投じられたボールのコース・球種をすべて記憶し、ノートに記録していたとされる。ウィリアムズの著作『バッティングの科学』は、この日々の記録を元に著された。

ウィリアムズには野球人生で3つの悔いがあった。1つ目はワールドシリーズのひのき舞台を踏んだのが1度だけで、カージナルスに敗れてチャンピオンズリングを手にできなかったこと。2つ目は第二次世界大戦と朝鮮戦争での兵役で選手生活を5年近く中断されたこと。そして3つ目は「俊足」に恵まれなかったことである。1957年、打率3割8分8厘で史上最年長39歳で5度目の首位打者を獲得したが、ウィリアムズは「もし自分にもう少しスピードがあって、あと5本のヒットを内野安打で稼いでいたら、2度目の打率4割を記録できていた」と終生悔しがっていたという。

試合前の打撃練習にて、「たまらないなあ、何で俺はこんなに凄いんだろう?」、「面白すぎて一日やっても飽きないな」、「練習するたびに、どんどん打撃がうまくなるな」など、自画自賛していた。一方で、周囲が夜遊びに街に出る中、ウィリアムズは夜10時には就寝してタバコも吸わずにいるなど、徹底した自己管理をしていたという。

プルヒッターであり、この特徴からクリーブランド・インディアンスの監督ルー・ブードローは、内野手を右に寄せるブードローシフトと呼ばれる作戦をあみ出した。この作戦は、後年に日本プロ野球で王貞治に対して組まれた王シフトの原型となった。

引退後にウィリアムズは、「特に第一ストライクを狙う事が強打者になる第一の秘訣。と言うのはストライクを逃せば、それだけ打者に不利なカウントになる。そうすると投手も思い切ってドンドン投げてくる。こんな簡単な事が分からない打者が今の野球には多過ぎるんじゃないかな。第一ストライクを打つ打者が沢山いるチームは必ず好成績をおさめる。また、それこそがプロ野球だ」と述べている(ただし、ウィリアムズ自身は四球が多い打者だった)[8]

野村克也は現役時代、打撃不振に陥った頃にウィリアムズの著書と出会い、その中で「ピッチャーは、投げる際に既に球種を決めており、球種によって体の動きに微妙な変化が出る」という旨の記述を読み、これをきっかけにピッチャーの癖を研究するようになったという。

打撃理論

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  • テッド・ウィリアムズは、スウィングの力というものは、バットの先端に近いほうの手から来る、ということを、それまでの定説への反論として書いている。右利きは右の手、左利きは左の手を、それぞれ上にした構えがふさわしいというわけだが、奇妙なことに、それを語っているウィリアムズ自身は、物心ついたころからなぜか左打ちで通してきた右利きだったのである。[9]
  • テッド・ウィリアムズは、また以下のようにも書いている、「歴史に名を残す九人の卓越した左打者の中で、生れつき右利きだったのは、タイ・カップジョー・ジャクソンと私の三人だけである」「私の知るかぎりでは、生れつき左利きで偉大な右打者になった者は一人もいない」と。[9]

ウィリアムズの遺体を巡る裁判騒動

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死の直前、自分の遺体を冷凍保存する旨の遺言を残したなどで物議を醸した。

長男のジョン・ヘンリー・ウィリアムズ英語版[注 2]と次女のクローディアは冷凍保存を望み、長女のボビー・ジョー・フェレル(Bobbie Jo Ferrell)[注 3]は火葬して遺灰を海にまくことを望み、訴訟となった。一審では長男の勝訴となったが、長女の要求した再審の結果、双方の意見を尊重し、遺体の頭部を冷凍保存、胴体以下を火葬とする判決が出され、頭部は長男に、胴体以下は長女に引き渡された。現在は頭部のみアルコー延命財団で冷凍保存されている。また、長男はその数か月後に急性白血病により亡くなっており、本人の希望により同財団に冷凍保存された(英語版「en:Ted Williams」より一部翻訳。詳細は英語版を参照のこと)。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1939 BOS 149 675 565 131 185 44 11 31 344 145 2 1 3 - 107 12 2 64 10 .327 .436 .609 1.045
1940 144 661 561 134 193 43 14 23 333 113 4 4 1 - 96 3 3 54 13 .344 .442 .594 1.036
1941 143 606 456 135 185 33 3 37 335 120 2 4 0 - 147 25 3 27 10 .406 .553 .735 1.287
1942 150 671 522 141 186 34 5 36 338 137 3 2 0 - 145 20 4 51 12 .356 .499 .648 1.147
1946 150 672 514 142 176 37 8 38 343 123 0 0 0 - 156 29 2 44 12 .342 .497 .667 1.164
1947 156 692 528 125 181 40 9 32 335 114 0 1 1 - 162 29 2 47 10 .343 .499 .634 1.133
1948 137 638 509 124 188 44 3 25 313 127 4 0 0 - 126 14 3 41 10 .369 .497 .615 1.112
1949 155 730 566 150 194 39 3 43 368 159 1 1 0 - 162 11 2 48 22 .343 .490 .650 1.141
1950 89 416 334 82 106 24 1 28 216 97 3 0 0 - 82 2 0 21 12 .317 .452 .647 1.099
1951 148 675 531 109 169 28 4 30 295 126 1 1 0 - 144 9 0 45 10 .318 .464 .556 1.019
1952 6 12 10 2 4 0 1 1 9 3 0 0 0 - 2 0 0 2 0 .400 .500 .900 1.400
1953 37 110 91 17 37 6 0 13 82 34 0 1 0 - 19 1 0 10 1 .407 .509 .901 1.410
1954 117 526 386 93 133 23 1 29 245 89 0 0 0 3 136 17 1 32 10 .345 .513 .635 1.148
1955 98 416 320 77 114 21 3 28 225 83 2 0 0 4 91 17 2 24 8 .356 .496 .703 1.200
1956 136 503 400 71 138 28 2 24 242 82 0 0 0 0 102 11 1 39 13 .345 .479 .605 1.084
1957 132 547 420 96 163 28 1 38 307 87 0 1 0 2 119 33 5 43 11 .388 .526 .731 1.257
1958 129 517 411 81 135 23 2 26 240 85 1 0 0 4 98 12 4 49 19 .328 .458 .584 1.042
1959 103 331 272 32 69 15 0 10 114 43 0 0 0 5 52 6 2 27 7 .254 .372 .419 .791
1960 113 390 310 56 98 15 0 29 200 72 1 1 0 2 75 7 3 41 7 .316 .451 .645 1.096
MLB:19年 2292 9788 7706 1798 2654 525 71 521 4884 1839 24 17 5 *20 2021 258 39 709 197 .344 .482 .634 1.116
  • 「-」は記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度があることを示す。
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高
  • 1943年 - 1945年は試合出場なし。
  • 1954年は規定打席未達だが、残りの全打席を凡退と仮定しても、規定打席到達者の出塁率、長打率、OPSを上回るため、リーグ1位として扱われる。

年度別投手成績

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W
H
I
P
1940 BOS 1 0 0 0 0 0 0 0 0 9 2.0 3 0 0 0 0 1 0 0 1 1 4.50 1.50
MLB 1 0 0 0 0 0 0 0 0 9 2.0 3 0 0 0 0 1 0 0 1 1 4.50 1.50

年度別守備成績

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左翼(LF) 右翼(RF)
























1939 BOS - 149 254 11 19 3 .933
1940 129 236 12 12 2 .954 15 21 0 1 0 .955
1941 130 195 10 10 2 .953 4 7 0 0 0 1.000
1942 149 237 14 4 4 .984 1 0 0 0 0
1946 150 288 8 10 2 .967 -
1947 156 326 10 9 2 .974 -
1948 134 282 10 5 2 .983 -
1949 155 333 12 6 3 .983 -
1950 86 158 7 8 0 .954 -
1951 147 311 10 4 6 .988 -
1952 2 4 0 0 0 1.000 -
1953 26 31 1 1 1 .970 -
1954 115 212 5 4 0 .982 -
1955 93 170 5 2 0 .989 -
1956 109 176 7 5 2 .973 -
1957 125 210 2 1 0 .995 -
1958 114 152 3 7 0 .957 -
1959 76 91 4 3 0 .969 -
1960 86 129 6 1 1 .993 -
MLB 1982 3541 126 92 27 .976 169 282 11 20 3 .936


投手(P)












1940 BOS 1 0 2 0 0 1.000
MLB 1 0 2 0 0 1.000

タイトル

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  • 首位打者:6回(1941年、1942年、1947年、1948年、1957年、1958年)
  • 本塁打王:4回(1941年、1942年、1947年、1949年)
  • 打点王:4回(1939年、1942年、1947年、1949年)

表彰

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記録

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諸記録

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  • 通算出塁率.482(MLB歴代1位)
  • 通算打率:.344(歴代8位)
  • 通算長打率:.634(歴代2位)
  • 通算OPS:1.116(歴代2位)
  • 通算四球:2021(歴代4位)
  • シーズン最多連続試合出塁:84(1949年)
  • 連続打席出塁:16(1957年)

レッドソックス球団記録

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  • 歴代1位(通算打率・出塁率・長打率・OPS・本塁打・四球・敬遠[10]、シーズン打率・出塁率・長打率・OPS(1941年・規定打席以上)・四球(1947・1949年)・得点・出塁(1949年)・敬遠(1957年)[11]
  • 歴代2位(通算得点・安打・二塁打・長打・塁打・打点・出塁・本塁打率、シーズン得点(1946年)・敬遠(1946・1947年)・出塁(1947年)・打点(1949年)・打率・出塁率・長打率・OPS・本塁打率(1957年・規定打席以上))
  • 歴代3位(通算試合・打席、シーズン得点(1942年)・四球(1946年)・出塁率(1954年・規定打席以上))

背番号

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  • 9(1939年 - 1942年、1946年 - 1960年)

著書

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  • (ジョン・アンダーウッドとの共著)池田郁雄 (訳)『テッド・ウィリアムズのバッティングの科学』(1978年、ベースボール・マガジン社)※原著:1971年刊

脚注

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注釈

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  1. ^ 年齢でいえば、25歳から27歳までの3年間は出場なし、34歳・35歳の2年間でわずか44試合出場に終わっている。このブランクさえなければ、成績・記録において相当上積みできたと言われている[要出典]
  2. ^ 3回目の結婚の時の妻との子供。
  3. ^ 1回目の結婚の時の妻との子供。

出典

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  1. ^ All-Time #MLBRank: The 10 greatest left fielders” (英語). ESPN.com (2016年7月14日). 2017年8月26日閲覧。
  2. ^ Best left fielders of all time” (英語). Fox Sports (2016年10月20日). 2017年8月26日閲覧。
  3. ^ Top Left Fielders in Major League Baseball (MLB) History” (英語). ThoughtCo. (2017年3月26日). 2017年8月26日閲覧。
  4. ^ “光と影”テッド・ウィリアムズ記念館”. SANSPO.COM(サンスポ) (2012年12月11日). 2021年1月27日閲覧。
  5. ^ パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』加賀山卓朗(訳)、朝日新聞社、1998年、328頁。ISBN 402257237X 
  6. ^ 1941 Awards Voting”. 2021年11月20日閲覧。
  7. ^ 大谷翔平、最遅112キロのカーブ攻略はテッド・ウィリアムズを彷彿とさせる一発…プラスα
  8. ^ 伊東一雄『メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事』産経新聞ニュースサービス、74-76頁。ISBN 4-594-04117-5 
  9. ^ a b Hiraide, Takashi; 平出隆 (1993). Hidarite nikki reigen. Tōkyō: Hakusuisha. ISBN 4-560-04563-1. OCLC 30070242. https://www.worldcat.org/oclc/30070242 
  10. ^ https://www.baseball-reference.com/teams/BOS/leaders_bat.shtml
  11. ^ https://www.baseball-reference.com/teams/BOS/leaders_bat_season.shtml

関連項目

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外部リンク

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