1959年の野球(1959ねんのやきゅう)では、1959年の野球界における動向をまとめる。
1959年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
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10月24日(土) |
第1戦 |
読売ジャイアンツ |
7 - 10 |
南海ホークス |
大阪球場
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10月25日(日) |
第2戦 |
読売ジャイアンツ |
3 - 6 |
南海ホークス
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10月26日(月) |
移動日
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10月27日(火) |
第3戦 |
南海ホークス |
3 - 2 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
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10月28日(水) |
第4戦 |
雨天中止
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10月29日(木) |
南海ホークス |
3 - 0 |
読売ジャイアンツ
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優勝:南海ホークス(11年ぶり3回目)
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- 2月1日 - 大毎は球団代表が松村喜平に変わり和田準一が就任したと発表[2]。
- 2月5日 - パ・リーグは丸の内の東京会館にてオーナー、代表者合同会議を開き、専任のリーグ会長に野球評論家の中沢不二雄が就任することを決定[3]。
- 3月12日 - プロ野球12球団代表者会議が午後1時から東京会館で開かれ、新人選手に対する契約金の高騰を抑制するため最大で1千万へ制限し、違反した球団には3千万円の罰金を科すことを決定[4]。
- 3月15日 - 中日ドラゴンズの西沢道夫の引退試合が行われる。また西沢の背番号15は永久欠番に制定。
- 7月5日 - 大洋の幸田優は川崎球場での対広島ダブルヘッダー第2試合の18回戦の二回表、先頭打者の大和田明を三振、振り逃げで出塁、その後タイムリーによる1失点を挟んで3奪三振で、日本プロ野球史上初の1イニング4奪三振[18][19]
- 7月9日 - 大毎の荒巻淳が日生球場での対近鉄14回戦の九回裏に島田光二から三振を奪い、プロ通算1000奪三振を達成[20]。
- 7月14日 - 駒沢球場にてセ・リーグ初の公式戦となる国鉄対広島ダブルヘッダー13,14回戦が行われる[21]。
- 7月19日 - 後楽園球場での大毎対西鉄15回戦の大映の8回表無死一塁の攻撃で醍醐猛夫がバント。これを処理した稲尾和久が二塁へ送球するが審判の中根之はセーフのジャッジ。西鉄の監督の三原脩が中根に抗議しさらに三塁側審判控室にいたパ・リーグ審判副部長の二出川延明に抗議するが二出川が「俺がルールブックだ」と言ったとされる(詳細は参照)[22]。
- 9月9日 - 南海の杉浦忠が大阪球場での対阪急24回戦に先発して完封し、稲尾和久の39回を更新するパ・リーグ新記録の43回連続無失点[27]。
- 9月13日 - 南海の杉浦忠が平和台球場での対西鉄25回戦の五回表無死一塁の場面で救援登板し、花井悠に四球を与え続く豊田泰光に逆転2点適時打を打たれ2失点し、パ・リーグ記録の連続無失点記録が43で止まる[28]。
- 9月27日
- 大洋の桑田武が川崎球場での対阪神ダブルヘッダー第1試合の20回戦の一回裏に30号本塁打を打ち、プロ野球新人最多シーズン本塁打新記録を達成[29]。
- 広島の備前喜夫が広島市民球場での対中日20回戦に先発して勝利投手となり、プロ通算100勝を達成[30]。
- ^ 読売新聞1959年1月10日5面「『バッファロー』近鉄の新愛称」
- ^ 読売新聞1959年2月2日4面「大毎代表、和田氏内定」
- ^ 読売新聞1959年2月6日5面「専任会長に中沢氏 パ・リーグ・オーナー会議で決る」
- ^ 読売新聞1959年3月13日4面「新入団最高一千万円」読売新聞縮刷版 プロ野球の契約金制限実施1959年3月p192
- ^ 甲子園&阪神の応援でおなじみ「ファンファーレ」、発祥は天理高だった…! 顧問「いっちょホンマものを聴かせましょうか、と(笑)」number 2022/03/22
- ^ 読売新聞1959年4月10日夕刊3面「パ・リーグ開幕」読売新聞縮刷版1959年4月p183
- ^ 読売新聞1959年4月10日夕刊3面「新緑ースポーツのシーズン セ・リーグ 六大学 水上開く」読売新聞縮刷版1959年4月p201
- ^ 読売新聞1959年4月25日6面「邪飛球サービスは全球団で」読売新聞縮刷版1959年4月p440
- ^ 読売新聞1959年5月3日6面「滝田千試合出場」読売新聞縮刷版1959年5月p44
- ^ 読売新聞1959年5月11日6面「稲尾、近鉄に初黒星 23試合目」読売新聞縮刷版1959年5月p176
- ^ 読売新聞1959年5月21日6面「中西が千本安打」読売新聞縮刷版1959年5月p352
- ^ 読売新聞1959年5月22日7面「村山巨人をノー・ヒット セ・リーグで初の毎回奪三振奪取も 阪神ついに3連勝飾る」読売新聞縮刷版1959年5月p369
- ^ 読売新聞1959年5月31日7面「山本八また暴行」読売新聞縮刷版1959年5月p533
- ^ 読売新聞1959年6月3日5面「無期限の出場停止 山本八に無期限の処分」読売新聞縮刷版1959年6月p39
- ^ 読売新聞1959年6月4日5面「稲尾100勝あげる 近鉄相手に軽く 金田も及ばぬペース」読売新聞縮刷版1959年6月p57
- ^ 読売新聞1959年6月15日7面「大下、千五百試合出場」読売新聞縮刷版1959年6月p259
- ^ 読売新聞1959年6月26日9面「両陛下、ナイターご観戦 長島選手にニコニコ 五ホーマー 体を乗り出す」読売新聞縮刷版1959年6月p461
- ^ 読売新聞1959年7月6日6面「1イニング4三振で得点」読売新聞縮刷版1959年7月p106
- ^ “【7月5日】1959年(昭34) 1イニング4奪三振 1点まで取られた幸田優”. スポーツニッポン (2010年7月11日). 2015年11月19日閲覧。
- ^ 読売新聞1959年7月10日6面「荒巻、奪三振千個に」読売新聞縮刷版1959年7月p182
- ^ 読売新聞1959年7月15日5面「セ・初の駒沢進出」読売新聞縮刷版1959年7月p281
- ^ 読売新聞1959年7月20日5面「三原のミス」読売新聞縮刷版1959年7月p369
- ^ 朝日新聞1959年8月2日7面「西鉄また南海に屈す 大下、プロ入り二百号ホーマー」朝日新聞縮刷版1959年8月p25
- ^ 朝日新聞1959年8月18日夕刊1面「西条高が初の優勝 高校野球激闘15回」朝日新聞縮刷版1959年8月p325
- ^ 朝日新聞1959年8月26日7面「阪急、連続六代打もムダ」朝日新聞縮刷版1959年8月p459
- ^ 朝日新聞1959年8月27日7面「気の入らない阪急 21回戦 やっと引分に持ち込む」朝日新聞縮刷版1959年8月p475
- ^ 読売新聞1959年9月10日8面「杉浦、43回連続無失点 野村21号 阪急を完封して31勝」読売新聞縮刷版1959年9月p161
- ^ 読売新聞1959年9月14日8面「杉浦の無失点43回で止まる」読売新聞縮刷版1959年9月p236
- ^ 読売新聞1959年9月28日8面「桑田30号放つ 新人最多、セで4年ぶり」読売新聞縮刷版1959年9月p485
- ^ 読売新聞1959年9月28日8面「森は25号」読売新聞縮刷版1959年9月p485
- ^ 読売新聞1959年10月4日1面「巨人の優勝決まる セ・リーグ 5年連続のタイ記録」読売新聞縮刷版1959年10月p55
- ^ 毎日新聞1959年10月5日7面「南海、4年ぶりに優勝 『杉浦38勝』で飾る 無失点続く 大毎の追撃かわす」毎日新聞縮刷版1959年10月p81
- ^ 読売新聞1959年10月15日6面「別所、ついに300勝飾る プロ2人目の大記録 堀内を救援 自力でかちとる」読売新聞縮刷版1959年10月p272
- ^ 読売新聞1959年10月21日6面「最高殊勲選手に藤田、杉浦 新人王は桑田、張本 村山に沢村賞 最優秀投手も杉浦」読売新聞縮刷版1959年10月p394
- ^ 読売新聞1959年10月29日夕刊1面「南海が初の優勝 日本シリーズ 巨人を四連破」読売新聞縮刷版1959年10月p561
- ^ “【10月31日】1959年(昭34) 打倒巨人成る!鶴岡南海涙の御堂筋パレード”. スポーツニッポン (2007年10月16日). 2015年11月19日閲覧。
- ^ 読売新聞1959年11月19日夕刊5面「三原監督辞任 西鉄、正式に発表」読売新聞縮刷版1959年11月p365
- ^ 読売新聞1959年11月21日夕刊7面「三原監督、大洋と正式契約」読売新聞縮刷版1959年11月p405
- ^ 読売新聞1959年11月21日夕刊7面「西鉄、川崎コーチ昇格」読売新聞縮刷版1959年11月p405
- ^ 読売新聞1959年11月26日7面「阪神の新監督に金田コーチ昇格」読売新聞縮刷版1959年11月p495
- ^ 読売新聞1959年12月12日5面「青田(阪急)が引退」