いすゞバス製造株式会社(いすずバスせいぞう)は、1997年から2004年9月まで存在した、いすゞ自動車100%出資のバス車体製造会社(コーチビルダー)。略称は I-BUS, IBM

いすゞバス製造株式会社
ISUZU BUS MANUFACTURING LIMITED
種類 株式会社
略称 I-BUS, IBM
本社所在地 栃木県河内郡河内町中岡本2857-2
設立 1997年10月
業種 輸送用機器
事業内容 大・中・小型バスの車体製造
資本金 45億円
売上高 88億6900万円(1998年3月期)
従業員数 660名
決算期 3月末日
主要株主 いすゞ自動車株式会社 100%
特記事項:上記情報は1999年現在[1]
2004年10月1日被合併により会社解散
テンプレートを表示
製造開始当時の工場(川崎産業岐阜工場)

2004年10月、ジェイ・バスが存続会社となり、日野車体工業とともに三社合併した。

ルーツは川崎重工業グループの航空機製造会社にあり、第二次世界大戦後の民需転換でバス車体の製造を始めたことによる。

変遷をおおまかにまとめると、川崎産業→川崎岐阜製作所→川崎航空機工業→川崎重工業川重車体工業までの各務原工場時代(1947年〜1985年)、その後のいすゞ自動車50%出資のアイ・ケイ・コーチを経ていすゞバス製造となる宇都宮工場時代(1986年〜2004年)に分けられる。本項でもその2つの時期に分けて説明する。

歴史 編集

  • 1948年昭和23年)
    • 川崎産業株式会社[2]が同社岐阜工場にてバスボディ製造を開始。
    • 5月 -「KBC」型第1号車を運輸省省営バス)に納入。
  • 1950年(昭和25年)
    • 5月1日 - 川崎産業の清算[注釈 1]に伴い、岐阜工場が株式会社川崎岐阜製作所となる。
    • いすゞ自動車と提携する。
  • 1953年(昭和28年)9月21日 - 川崎産業の精算により発足した株式会社川崎都城製作所が、川崎航空機工業株式会社に社名変更。
  • 1954年(昭和29年)2月1日 - 川崎航空機工業が川崎岐阜製作所を合併。旧川航の再統合が成り、同社岐阜製作所となる。また1956年以降はバスボディ国内トップシェア(約20%)を一貫して維持。
  • 1964年(昭和39年)- 同業の下位メーカーである安全車体と資本・技術提携。同社の合理化によりバスボディ事業を川航に統合し、1968年に同社はバスボディから完全撤退。
  • 1969年(昭和44年)4月1日 - 川崎3社合併により川崎重工業株式会社が成立。同社岐阜工場となる。
  • 1974年(昭和49年)
    • 4月11日 - 川崎重工業の自動車事業部を分社化し、川重車体工業株式会社を設立。資本金は4億円(設立時)。
    • 6月1日 - 川重車体工業が業務開始。のちにモータリゼーションの進展でバス事業者の経営が悪化し、新車需要が落ち込んだことで、バスボディ事業の採算が悪化する。
  • 1986年(昭和61年)
    • 2月28日 - 冷凍車事業を除き、いすゞ自動車との合弁事業となりアイ・ケイ・コーチ株式会社(IK Coach、略称 IK, IKC)を設立。資本金は25億円(1987年)。設立当初は川重の全額出資で、いすゞは同年4月から1年間かけて段階的に資本参加、1987年春には両社折半出資となった[3]
    • 4月1日 - 工場を岐阜県各務原市から栃木県河内郡河内町(現・宇都宮市)に移転。
      • 移転先は、前日付で閉鎖となった川崎重工業宇都宮工場跡(元・汽車製造株式会社宇都宮工場。1972年4月1日の汽車会社合併で川重の工場になった)。1968年7月操業開始の貨車製造工場だったが、国鉄の経営悪化による車両新製抑制で遊休化していた[4]
  • 1995年平成7年)
    • 10月1日 - いすゞバス製造株式会社に社名変更。社名変更当時の資本金は46億8700万円、従業員数は550名[5]。出資比率はいすゞ50%、川重30%、販社20%。
    • 同業の北村製作所よりバスボディ事業を譲受。
  • 1997年(平成9年)10月 - いすゞ自動車の100%子会社となる。いすゞ全額出資の新会社を設立し、旧社は新社に事業譲渡した後清算という手法をとった。新社の資本金は45億円、従業員数は660名(1999年)[1]
  • 2003年(平成15年)10月1日 - 日野自動車といすゞ自動車のバス部門統合によりジェイ・バス株式会社が発足。いすゞバス製造は同社の子会社となる。
  • 2004年(平成16年)10月1日 - ジェイ・バスが日野車体工業・いすゞバス製造の2子会社を合併。いすゞバス製造宇都宮工場は同社宇都宮事業所となる[4]

各務原工場時代 編集

(川崎産業→川崎岐阜製作所→川崎航空機工業→川崎重工業→川重車体工業)

第二次世界大戦の敗戦により、日本はGHQから一切の航空機関連活動を禁止され[6]、航空機専業メーカーであった川崎航空機工業は、市場と顧客と仕事のすべてを一挙に失った。そこで他の軍需企業もそうであるが、残存の製造設備と資材を活用し民需生産に転換して会社の再建を目指すこととし、同社[2]の岐阜工場では、家庭用品、農機具、電気器具、自動車部品、紡績機など様々な製品を製造した。そうした中で1948年より同社戦後初の本格的な事業として、航空機の製造技術を生かしたバス車体の製造に乗り出す。

終戦直後ごろまでの日本国内製のバスボディはボディ・オン・フレーム構造で製作されるのが普通であったが、車体重量が重いことが難点であった。これに対して川崎産業では、航空機で用いられていたモノコック構造を当初から採用した。モノコック構造の車体は強度部材の重複がなくなって従来より格段に軽量化され、ひいては車両性能の向上にも寄与した。製造工程には航空機製造用であった設備と技術が用いられ、複雑な形状の外板は大型プレス機で一気に加工成型された。なお、同時期から1950年代初頭にかけて富士産業[注釈 2]など、他の大手コーチビルダーも相次いでモノコック構造を採用している。

戦前に六甲号を製造していた川崎車両部は、戦中の九四式六輪自動貨車を縁にヂーゼル自動車工業株式会社(戦後のいすゞ自動車)との関係が深く、1950年より同社と提携を組み指定車体メーカーとなった。

1966年に日本の路線バスボディでは初めて、Hゴム支持のスタンディーウインドウを廃し、フル・アルミサッシの2段窓を導入した。また一世を風靡した通称「オバQ」ボディやいすゞ・キュービックなど、その斬新なデザインや技術力には定評ががあった。モノコックに代わるスケルトンボディの採用は1984年と業界内ではやや遅かった。

他に地理的にシャーシ工場が近接していた関係から、かつては中京信越圏のバス事業者向けを中心に、三菱自動車工業製やトヨタ自動車製、日野自動車製、日産自動車製(日産ディーゼルの前身にあたる民生産業OEM)のバスにも架装していた時期があるが、1974年以降はいすゞ製バス以外の製造実績はない。

川重とライセンス生産していたコーチビルダーもあり、戦前に乗用車「日光号」を造った東京都港区安全自動車はバスボディ製造も手掛けていたが、1956年に安全車体工業としてバスボディ部門を独立、1964年には川崎航空機と提携してライセンス生産を行っていたが、1968年にバス部門は川崎航空機に統合されている。また1960年代から1970年代にかけては熊本県松本車体製作所が川崎航空機工業および川重車体工業のバスボディをライセンス生産し、県内のバス事業者に納入していた。

また関連企業として、川崎航空機岐阜工場の協力会社として発足した岩戸工業があり、バス車体の更新修繕やファンタスティックバスのカスタマイズを手がける。

川重ではバスボディだけではなく、トラックのボディ架装も多数手がけていた。

川重車体が架装したバス 編集

大型路線車
大型観光・高速車
中型車
小型車
いすゞ車以外
  • 1948年:日産180型ボンネットバス
  • 1949年:トヨタBM型ボンネットバス
  • 1950年:日産290型ボンネットバス
  • 1964年〜:ダイハツSV用ボデー
  • 1965年〜:マツダ・ライトバス AEVA用ボデー7
  • 年式不明:日産NUR690形バス(川崎航空機ボデー、京王帝都電鉄に導入例あり)
  • 1966年〜:トヨタDR形バス(川崎角型ボディでの導入例あり)

車両ギャラリー 編集

いすゞ車
その他

宇都宮工場時代 編集

(アイ・ケイ・コーチ→いすゞバス製造、現:ジェイ・バス宇都宮事業所)

1986年2月28日にいすゞ自動車との合弁会社アイ・ケイ・コーチ株式会社(IK Coach、IsuzuとKawasakiの頭文字を取った社名)を設立し、同年より生産開始。

1995年には、北村製作所のバスボディ製造撤退により事業を譲受している。

IKコーチ時代の製品については、大型観光スーパークルーザー、大型路線キュービック、中型ジャーニーKを参照。

いすゞバス製造時代の製品については、大型観光ガーラ(初代LV7系)、大型路線エルガ、中型観光ガーラミオ(初代LR2)、中型路線エルガミオをそれぞれ参照。

川重車体→IKコーチ架装のいすゞバス 編集

IKコーチ発足により、製造途中から車体メーカーが川重車体からIKコーチになっている。

いすゞバス製造→ジェイ・バス架装のいすゞバス 編集

ジェイ・バス発足により、製造途中から車体メーカーがいすゞバス製造からジェイ・バス宇都宮工場になっている。

車両ギャラリー 編集

参考文献 編集

  • 川崎重工業株式会社百年史編纂委員会編 『夢を形に: 川崎重工業株式会社百年史』本編/資料・年表編、川崎重工業、1997年
  • いすゞ自動車株式会社社史編集委員会編 『いすゞ自動車50年史』 いすゞ自動車
  • 鈴木文彦 『日本のバス年代記』 グランプリ出版、1999年 ISBN 4-87687-206-6
  • 『モータービークル』

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 企業再建整備法(昭和21年10月19日法律第40号)の適用による。株式会社川崎都城製作所、株式会社川崎岐阜製作所、川崎機械工業株式会社の各社は、同法による第二会社。
  2. ^ 民生産業民生デイゼル工業日産ディーゼルの指定車体メーカーであった。

出典 編集

  1. ^ a b 『いすゞ自動車グループの実態 2000年版』 アイアールシー、2000年、p.224。
  2. ^ a b 戦前の川崎航空機工業株式会社(1937年11月18日設立)は1946年5月31日、川崎産業株式会社に社名変更。
  3. ^ いすゞ自動車株式会社社史編集委員会編 『いすゞ自動車50年史』いすゞ自動車、1988年、pp.420-421。
  4. ^ a b ジェイ・バス株式会社 宇都宮工場”. 栃木県 企業立地に関するご案内. 栃木県産業労働観光部 産業政策課 企業立地班. 2021年1月12日閲覧。
  5. ^ 『バスラマ・インターナショナル』32号(第6巻第6号)、ぽると出版、1995年、p.103。
  6. ^ 民間航空禁止命令の公布(1945年11月18日)より前の、同年9月2日の「GHQ指令第一号」(軍需工場終結の指令を内容に含む)と、10月10日の「兵器、航空機等ノ生産制限ニ関スル件」の施行による。

関連項目 編集