マルコム・X
マルコムX(Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)、出生名マルコム・リトル (Malcolm Little)は、アフリカ系アメリカ人のイスラム教徒の牧師、人権活動家であり、公民権運動期に人気を博した人物である。彼はネーション・オブ・イスラムのスポークスマンとして活躍したことで最もよく知られている。
マルコム・X Malcolm X | |
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![]() 1964年3月 | |
通称 |
マルコム・リトル(出生名) エル・ハジ・マリク・エル・シャバーズ(ムスリム名) |
生年 | 1925年5月19日 |
生地 |
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没年 | 1965年2月21日(39歳没) |
没地 |
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思想 |
黒人民族主義 汎アフリカ主義 |
活動 |
公民権運動 黒人解放運動 |
所属 |
ネーション・オブ・イスラム ムスリム・モスク・インク アフリカ系アメリカ人統一機構 |
マルコムは、父親の死と母親の入院後、一連の児童養護施設や里親の家で青春時代を過ごした。彼はいくつかの不法行為に従事し、最終的には1946年に窃盗と住居侵入の罪で10年の実刑判決を受けた。刑務所の中で、彼はネーション・オブ・イスラムに参加し、マルコムXという名前を採用した(アフリカ系の先祖代々の名字が不明であることを象徴している)。マルコムXはその後12年間、組織の公の顔として活動し、黒人のエンパワーメント、黒人至上主義、黒人と白人の分離を提唱し、非暴力と人種統合を重視する主流の公民権運動を公の場で批判した。マルコムXはまた、国家の社会福祉の成果のいくつか、すなわち無料の薬物リハビリテーション・プログラムに誇りを持っていた。マルコムXはネーションが共産主義と結びついていると思われていたことから、1950年代以降の彼の人生は連邦捜査局(FBI)からの監視に耐えてきた。
1960年代になると、マルコムXはネーション・オブ・イスラムとその指導者であるイライジャ・ムハンマドに幻滅し始めた。彼はその後、メッカへのハッジを完了した後、スンニ派イスラム教と公民権運動を受け入れ、エル・ハッジ・マリク・エル・シャバズ(el-Hajj Malik el-Shabazz)として知られるようになった。 アフリカを横断した短い期間の後、彼は公然とネーション・オブ・イスラムを放棄し、ムスリム・モスク・インク(MMI)とパン・アフリカ主義アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を設立した。1964年を通じてネーション・オブ・イスラムとの対立は激化し、彼は何度も死の脅迫を受けた。1965年2月21日、ニューヨークで暗殺された。3人のネーション・オブ・イスラムのメンバーが殺人罪で起訴され、無期懲役の終身刑が言い渡された。暗殺についての憶測は、暗殺がネーションの指導者や他のメンバー、あるいは法執行機関によって考案されたのか、あるいは支援されたのか、銃撃後数十年に渡って続いている。
人種差別と暴力を説いたとして物議を醸したマルコムXは、人種的正義を追求したことでもまたアフリカ系アメリカ人やイスラム系アメリカ人の間でも広く知られている。彼の死後に「マルコムXの日」が創設され、全米のさまざまな都市で記念式典が行われている。米国では何百もの通りや学校が彼にちなんで改名され、彼が暗殺されたオーデュボン・ボールルームは2005年に一部再開発され、マルコムXとベティ・シャバズ博士の記念館と教育センターが設置された。
生涯編集
生い立ち編集
マルコムはネブラスカ州オマハに生まれる。バプテストの反体制的な牧師だった彼の父親アール・リトルは、アメリカに黒人の自由は存在しないと考えている人物だった[1]。自宅敷地内に家庭菜園を作り家畜を育てほぼ自給自足に近い生活を送り、周辺に住む他の黒人のように白人に媚び諂い仕事を分けてもらうことを良しとしない人物だった。そのため、一家は当時大きな勢力を誇っていたKKKの標的にされていた。
父アールは1931年にミシガン州ランシングの線路上で、轢死体となって発見された。警察は自殺と決めつけたが、白人至上主義団体による殺人とする説が根強くあった。マルコムは父と、4人の叔父のうち、3人を白人による暴力によって殺害されている[2]。ルイーズは初婚であったが、当時マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入っており、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額だったため保険金が支払われたが、もう一つの保険会社は受け取りの金額が大きかったため、警察が自殺と判断したとの理由により「保険金は支払われなかった」。
その後彼の母ルイーズは精神を病み、精神病院に送られた。後にマルコムと兄弟姉妹が精神病院から引き取るが、その時にはマルコムを含めて子供達を全く認識できなかったことから、人権侵害の取り扱いを受けていたと推測されたが、病院側はあらゆる質問を拒否し彼女の「カルテも無断で破棄」したため真相は不明である。マルコムは自伝で、役所の人間が同じことを何度も母に尋ね子供達を里子に出すことを強要したため精神を病んだのだ、と記述している。
母ルイーズは、黒人と白人の混血のムラートで、母親(マルコムの祖母)が白人に強姦されて生まれた。一見すると褐色の肌の白人と間違えられ、そのお陰で職を得られたこともあったが、白人の血が入った黒人であることが発覚すると即座に解雇された。ルイーズは夫の死後、9人の子供を一人で育てることになった上に、精神を病んだため、子供たちはそれぞれ別の家に里子に出された。
マルコムは白人の上流階級の家に引き取られたが、自伝ではあくまでも高価あるいは珍しい動物としてしか扱われなかったと語っている。事実、この時代のアメリカでは慈善事業と謳い、富裕層の白人が黒人の孤児を引き取ることが流行していた。マルコムは幼い頃から優秀な成績を収め学級委員長に何度も当選したが、引越し先ではやむを得ず白人の学校に一人だけ黒人として通うこともあり、席は常に一番後ろだった。白人教師から将来何になりたいかを聞かれた時、弁護士か医者と答えたが、教師からは「黒人はどんなに頑張っても偉くなれない。黒人らしい夢を見た方がいい」と諭され、手先の器用さと人当たりの良さを生かして「大工になることを勧められた」。
中学卒業後[注釈 1]、異母姉エラ(アールと前妻の娘)と一緒に住むためにボストンへ転居、リンディー・ナイトクラブで靴磨きの仕事を行った。自伝でデューク・エリントンや他の有名な音楽家の靴を磨いたと語っている。また歴史あるオムニ・パーカー・ハウス・ホテルでテーブル片付け係として働いていた。このホテルはジョン・F・ケネディがジャクリーン・ケネディ・オナシスにプロポーズした場所であり、ホー・チ・ミンがシェフを務めていた。[3]
その後、ニューヨークのハーレムで、ナンバー賭博の仲介、麻薬取引、強盗などの違法行為に手を染めた。彼は黒人の仲間達からその肌の色から「レッド」の愛称で親しまれていた。
ネーション・オブ・イスラムへの入信編集
1946年1月12日、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役8〜10年が宣告された。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となることが多いが、白人女性のソフィアと継続的な性的関係を持っていたため、通常よりも長い懲役刑を宣告された。収監されたチャールズタウン州刑務所では、特に神と聖書を罵倒していた。マルコムは獄中でイライジャ・ムハンマドの教徒と彼の行っていたブラック・ムスリム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。異母姉のエラは、彼をより自由のきくノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送する支援をした。そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えとNOI(ネーション・オブ・イスラム)の正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所図書館の全辞書を筆写したりもした。その際、刑務所内で勉強するためとして割り当てられていた時間を越えて消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、収監前は2.0あった視力が0.2まで落ち、後にトレードマークとなるサーモント型の近眼鏡を常用するようになる。出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には「刑務所内の図書館だ」、と答えている。マルコムは自伝で、大学や大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀れな家畜だ」と述べている。
マルコムは1952年8月7日に釈放され、スーツケースと眼鏡、時計を購入した。後に彼はこれらのものが、自分の人生の中で最も役に立ったアイテムだったと語った。
1952年9月、彼はNOIから"X"という姓を授かり、これ以降現在の本名「マルコムX」を名乗ることになる。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとNOIでは考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。同名の人物が入信した場合、入信した順番に「X」の前に番号をつけることになっていた。○○2X、○○3X、といった具合である。
1957年、NOIの一人が警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムを中心としたFOI(Fruit of Islam, 信者の総称)が留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、NOIとマルコムは一躍名を知られることとなった。またマルコムはサム・クックやモハメド・アリらと親しく、ライオネル・ハンプトン他のジャズを見に行くなど、文化人的な面も強かった。
1962年、イライジャ・ムハマドが十代の少女に子を産ませていたことが判明し、マルコムはNOIに失望する。彼はイライジャの行為に怒り、このことを告発。NOIにおける立場を危うくすることになる。1963年2月にNOIは彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。NOIを脱退したマルコムはムスリム・モスク・インクを組織したため、マルコムとNOIの緊張は増加した。
メッカ巡礼編集
NOIを脱退した数週間後、マルコムのもとに訪れた数名のイスラム教徒の勧めに従ってスンニ派に改宗し[4][5]、1964年4月にマルコムはアフリカ・中東に出発し、彼はメッカ巡礼成就の意味を込めたエル・ハジ・マリク・エル・ジャボズに正式に改名した。そこで彼は白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しないアラブ人に感化され、この時マルコムXはアメリカでの「白人」とは肌の色よりも黒人を対象にしたときの態度・行動であるという新しい視点を得た。また世界中から集まったあらゆる肌のイスラム教徒が同じ儀式に参加する光景を見て感銘を受けた[6]。特にジェッダで出会った元アラブ連盟初代事務局長のアブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザーム博士の影響を受けて正統派のイスラム教に目覚めることとなり、サウジアラビアのファイサル王子からマルコムは国賓として扱われ[7]、巡礼の儀式を終えた後にファイサル王子とともに現地のイスラム教徒の歓声に応えた[8]。
さらにマルコムは新たに立ち上げたアフリカ系アメリカ人統一機構のリーダーとしてアフリカ統一機構の会議に出席して汎アフリカ主義の指導者と親睦を深め[9]、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルやガーナのクワメ・エンクルマなどに招待されてアフリカ諸国を歴訪した[10]。
アフリカ・中東訪問後、それまでNOIに影響されて黒人至上主義者だったマルコムは広い視野を持つようになり、アメリカの黒人問題は公民権問題にとどまらず、国際問題であるとして黒人は第三世界と連帯することを主張した[11]。
暗殺編集
NOIに侵入したFBIの潜入捜査官は、マルコムがNOIによって暗殺の対象になったと報告した。NOIの暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。
1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅はNOIメンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。一週間後の2月21日、マンハッタン、ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、400人の群衆の中で騒動が発生した。男が「俺のポケットから手を離せ! ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。さらに他の二人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲した。マルコムは15発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。
マルコムはニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、NOIの信者、タルマージ・ヘイヤー(トーマス・ヘーガン)、ノーマン・3X・バトラー(ムハンマド・アブドゥル・アジズ)およびトマス・15X・ジョンソン(カリル・イスラム)の三人が殺人罪で逮捕され、全員が1966年3月に第一級殺人で有罪と判決された。
その後編集
2010年4月27日、暗殺犯の一人ヘーガンが44年ぶりに仮釈放を認められた。仮釈放の申請はこれが17回目だった。ヘーガンは1966年暗殺の実行犯として20年から無期の禁固刑を言い渡されたが、1992年以降は仕事を続けることを条件に週に5日間自宅に戻ることができ、2日間だけ刑務所で過ごすプログラムが適用されていた。なおほかの二人は1980年代後半に仮釈放が認められている[12]。ヘーガンは犯行動機について、マルコムXが意見の相違を理由にNOIと袂を分かった為と語った。
マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBIやCIAすらも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後もそのような噂は途絶えなかった。2021年2月にはニューヨーク市警の元警察官だったレイモンド・ウッド(2020年11月死去)による手記が公開され、それによればウッドはマルコムのグループに潜入し、身辺警護の責任者だった側近2人をマルコムより遠ざけることを任務としていた。そのため2人をそそのかして犯罪に関与させ、ニューヨーク市警に逮捕させたが、当時はマルコムが標的だとは認識していなかったという。結果として警備が手薄になったことがマルコムの暗殺につながったとしており、マルコムの暗殺にニューヨーク市警とFBIが関与していた可能性を示唆した。この手記公開を受け、マルコムの遺族は真相究明を訴えている[13][14]。
1964年と1965年の間に、マルコムの死の直前まで行われたインタビューに基づき、アレックス・ヘイリーによって執筆された『マルコムX自伝』は1965年に出版され、タイム誌によって20世紀の10冊の最も重要なノンフィクションの中の1つに選ばれた。日本語訳は1968年に河出書房(現河出書房新社)より抄訳版が『マルカムX自伝』と題して刊行されたものの、約半分の内容であった。全訳版は1993年に映画『マルコムX』(監督:スパイク・リー、主演:デンゼル・ワシントン)公開に合わせて同出版社より現在の『マルコムX自伝』として刊行された。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとの関係編集
1964年3月26日、マルコムはキング牧師と最初で最後の対面をした。これは予定されていたものではなく、その日二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみでわずか1分ほどで終わった[15]。
マルコムXは一時期融和的なキング牧師を公然と「弱腰」と批判し双方共に敵対していたとされているが、側近や親族の証言によると、晩年の2人の主張や姿勢は逆転していた、とされている。マルコムXはいついかなる時でもイスラムへの信仰を捨てず、キング牧師への支援を申し出ている。更にキング牧師は亡くなる前の3年間、マルコムXが暗殺された後より急進的になり、スピーチでもマルコムXのようなレトリックを多用した、とされている。
マルコムXとモハメド・アリとの関係編集
マルコムは生前及び没後もなお、多くの人物に影響を与えた。なかでも著名なのがモハメド・アリのケースであろう。
アリはマルコムと出会いその思想に影響されてNOIに入信する[16]。その時既に自身の旧名、カシアス・クレイでボクサーとして活躍し、世界チャンピオンになっていたが、NOIから授かったムスリム名であるモハメド・アリに改名し、周囲を驚かせた。また、マルコムの影響を受けて、アリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。これは世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う厳しい選択であったが、アリは自身の理念を貫いた。
NOIを脱退したマルコムはアリにスンニ派イスラム教への改宗を勧めたが、アリはマルコムとの関係を絶ってしまった。これについてアリは「人生で最も後悔している出来事の1つ」と自伝で述べている[17]。
語録編集
- 「白人が我々に対して『何故白人を憎むのか』というのは、強姦した者が相手に対して『オレが憎いか』と発言するのと同じだ」
- 「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか(公民権運動は前進している、という主張に対して)」
- 「ニーチェ、カント、ショーペンハウアー、全て読んだが尊敬できない。彼らは、さして重要でないことを議論するのに多くの時間を使いすぎている。彼らはこれまでの私が出会った、多くの黒人のいわゆるインテリたちを思い出させる。彼らはいつも役に立たないことについて議論していた。」
- 「私が思うに鶏が鳥小屋に帰って眠るように、すでに言及しているが白人が心の中にもつ無防備の黒人に対する殺意が止まず、さらにその憎悪の拡大が容認され、終には大統領を殺してしまった。起こるべくして起こった事件だ。(ケネディ大統領暗殺事件について)」
- 「黒は美しい(アメリカ人ではなく、黒人であろうとした彼の思想をよく表している言葉)」
ジョージ・クリントンはマルコムの演説を初めて聞いた時の感想として、「たいへんだ。マルコムのせいで俺たちは皆、殺されてしまう」と感じたという。これらのほかに、一般大衆へのメッセージと題した演説が良く知られている。また信奉者として、スパイク・リー、KRSワンらがよく知られており、パブリック・エナミーやスクーリーDらによって楽曲内で一部がサンプリングされている。
書籍編集
- 『黒人は叛逆する』(長田衛、三一書房、1966年)
- 『評伝マルコムX―黒人は叛逆する』(長田衛、第三書館、1993年)ISBN 978-4807493111
- 『黒人は武装する』(マルコムX著、長田衛訳、三一書房、1968年)
- 『マルコムX・スピークス』(マルコムX著、ジョージ・ブレイトマン編、長田衛訳、第三書館、1993年)ISBN 978-4807493067
- 『マルカムX自伝』(抄訳版、浜本武雄訳、河出書房(現河出書房新社)、1968年)
- 『マルコムX自伝』(アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄訳、河出書房新社、1993年) ISBN 978-4-309-90104-6
- 『完訳 マルコムX自伝 上』(中公文庫、2002年) ISBN 4-12-203997-5
- 『完訳 マルコムX自伝 下』(中公文庫、2002年) ISBN 4-12-203998-3
- 『マルコムX自伝』(アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄訳、河出書房新社、1993年) ISBN 978-4-309-90104-6
- 『いかなる手段をとろうとも』(マルコムX著、ジョージ ブレイトマン編、長田衛訳、現代書館、1971年、1993年第2版)ISBN 978-4768466179
- 『マルコム・Xとは誰か?』(丸子王児著、JICC出版局、1993年)ISBN 978-4796605496
- 『マルコムX最後の証言』(デビッド・ギャレン編、アレックス・ヘイリィほか著、東郷茂彦訳、扶桑社ミステリー、1993年)ISBN 4-594-01112-8
- 『マルコムX―イラスト版』(FOR BEGINNERSシリーズ)(バーナード・アクィウィナ・ドクター著、阿木幸男訳、現代書館、1993年)ISBN 978-4768400647
- 『マルコムX―アメリカでもっとも怒れる男』(中村直也・宝島編、JICC出版局、1993年)ISBN 978-4796606004
- 『マルコムXワールド』(径書房編、径書房、1993年)ISBN 978-4770501172
- 『マルコムX最後の1年』(ジョージ・ブレイトマン著、西島栄訳、新評論、1993年)ISBN 978-4794801753
- 『マルコムXの暗殺』(ジョージ・ブレイトマン、ハーマン・ポーター、バクスター・スミス著、西島栄・早川潤訳、柘植書房、1994年)ISBN 978-4806803355
- 『キング牧師とマルコムX』(上坂昇、講談社現代新書、1994年) ISBN 4-06-149231-4
- 『夢か悪夢か・キング牧師とマルコムX』(ジェイムズ・H・コーン著、梶原寿訳、日本基督教団出版局、1996年)ISBN 978-4818402508
- 『Malcolm X speaks』(末吉高明訳、ブルースインターアクションズ、2001年)ISBN 978-4938339081
- 『マルコムX事典』(ロバート・L・ジェンキンズ編著、エムファニア・ドナルド・トライマン編集協力、荒このみ訳、雄松堂出版、2008年) ISBN 978-4-8419-0500-7
- 『マルコムX』(荒このみ、岩波新書、2009年) ISBN 978-4-00-431224-6
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ Watson, Clarence; Akhtar, Salman (2012). "Ideology and Identity: Malcolm X". In Akhtar, Salman (ed.). The African American Experience: Psychoanalytic Perspectives. Lanham, Md.: Jason Aronson. p. 120. ISBN 978-0-7657-0835-9.
- ^ マルコムXバイオグラフィ2021年2月1日閲覧
- ^ http://kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=699703/
- ^ Marable, Manning; Felber, Garrett, eds. (2013). The Portable Malcolm X Reader. New York: Penguin. ISBN 978-0-14-310694-4. pp. 300–301.
- ^ Perry, p. 261.
- ^ Malcolm X, Autobiography, pp. 388–393; quote from pp. 390–391.
- ^ The Last Speeches. Bruce Perry, ed. New York: Pathfinder Press, 1989. ISBN 978-0-87348-543-2. pp. 263–265.
- ^ The Last Speeches. Bruce Perry, ed. New York: Pathfinder Press, 1989. ISBN 978-0-87348-543-2. p. 267.
- ^ Marable, Malcolm X, pp. 360–362.
- ^ Natambu, Kofi (2002). The Life and Work of Malcolm X. Indianapolis: Alpha Books. ISBN 978-0-02-864218-5. p. 308.
- ^ Malcolm X, Malcolm X Speaks, p. 38-213.
- ^ “マルコムX暗殺犯、44年ぶりに仮釈放”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月28日) 2010年4月28日閲覧。
- ^ “New claims surrounding Malcolm X assassination surface in letter written on former NYPD officer’s death bed”. ABC News. ABC. (2021年2月22日) 2021年2月22日閲覧。
- ^ “マルコムX暗殺、潜入作戦実行の元警官新証言 当局関与の可能性は?”. TBS NEWS. (2021年2月22日) 2021年2月22日閲覧。
- ^ マルコムXとキング牧師、知られざる2人の親密な関係
- ^ Natambu, pp. 296–297.
- ^ Ali, Muhammad (2004). The Soul of a Butterfly: Reflections on Life's Journey. with Hana Yasmeen Ali. New York: Simon & Schuster. ISBN 978-0-7432-5569-1. p. 85.
関連項目編集
外部リンク編集
- 公式サイト
- American Rhetoric 「Top 100 Speeches」にマルコムXの有名な演説 "The Ballot or the Bullet"(投票か弾丸か),"Message to the Grassroots"(草の根へのメッセージ)が収録されている。(英語)