ルクサンドラ・ドラゴミル

ルクサンドラ・ドラゴミルRuxandra Dragomir, 1972年10月24日 - )は、ルーマニアピテシュティ出身の女子プロテニス選手。1990年代にルーマニアのテニス界をリードした選手で、キャリアを通じて全仏オープンを最も得意にした。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス21位。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。身長168cm、体重57kg、右利き。2001年にフロレント・イリー(Florent Ilie)と結婚した後は、夫の姓を併用して「ルクサンドラ・ドラゴミル・イリー」(Ruxandra Dragomir Ilie)と名乗った。

ルクサンドラ・ドラゴミル
Ruxandra Dragomir
ルクサンドラ・ドラゴミル
基本情報
国籍  ルーマニア
出身地 同・ピテシュティ
生年月日 (1972-10-25) 1972年10月25日(51歳)
身長 168cm
体重 57.5kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1990年
引退年 2005年
ツアー通算 9勝
シングルス 4勝
ダブルス 5勝
生涯通算成績 506勝430敗
シングルス 290勝233敗
ダブルス 216勝197敗
生涯獲得賞金 $1,861,426
4大大会最高成績・シングルス
全豪 4回戦(1997・98)
全仏 ベスト8(1997)
全英 3回戦(1996)
全米 2回戦(1994・99・2000)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 3回戦(1997-99)
全仏 3回戦(1997)
全英 2回戦(1996・2000・03)
全米 ベスト8(1997)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 15位(1997年8月25日)
ダブルス 21位(1997年9月8日)

来歴 編集

8歳からテニスを始め、1990年にプロ入り。ジュニア時代、1990年全仏オープン女子ジュニアダブルス部門で同じルーマニアイリナ・スピールリアとペアを組んで優勝したことがある。1991年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップのルーマニア代表選手になる。1993年全仏オープン4大大会にデビューし、いきなりアランチャ・サンチェス・ビカリオとの4回戦まで進出した。それ以来、ドラゴミルは全仏オープンで、1995年まで3年連続の4回戦進出を果たした。

ドラゴミルは1996年5月にハンガリーの「ブダペスト・オープン」でツアー初優勝を飾り、この年に年間3勝を記録した。同年のアトランタ五輪にもルーマニア代表選手に選ばれたが、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わる。1997年にドラゴミルは最も好調なシーズンを送り、全豪オープンで初めての4回戦進出を決め、全仏オープンでベスト8に勝ち上がった。ドラゴミルは準々決勝で第9シードのイバ・マヨリに 3-6, 7-5, 2-6 で敗れたが、これが彼女の4大大会自己最高成績である。全仏オープン8強入りの直後、オランダ・ロスマレン大会で優勝し、同年8月25日付で世界ランキングの自己最高位「15位」をマークした。1998年は年頭の全豪オープンで2年連続の4回戦に進出するが、第2シードのリンゼイ・ダベンポートに 0-6, 0-6 で完敗してしまった。1997年には、同じルーマニアのライバル選手であったイリナ・スピールリアが世界ランキング「7位」まで躍進している。2歳年下のスピールリアのような世界トップ10選手にはなれなかったが、ドラゴミルはスピールリアと並んで1990年代後半のルーマニア・テニス界を代表する選手になった。

その後のドラゴミルは、1997年6月のロスマレン大会を最後に女子ツアー大会のシングルス優勝から遠ざかったが、1999年2000年と2年連続で全仏オープン4回戦進出があり、2年連続でマルチナ・ヒンギスに敗退している。2000年シドニー五輪で2度目のオリンピックにも出場した。2001年にフロレント・イリーと結婚し、その後は夫の姓を併用して「ルクサンドラ・ドラゴミル・イリー」と名乗った。

ドラゴミル・イリーは2005年まで現役を続行したが、最後の年は全豪オープンの女子ダブルスでモーリーン・ドレークカナダ)とペアを組み、浅越しのぶ&カタリナ・スレボトニクスロベニア)組との2回戦に進んでいる。全仏オープン女子ダブルス1回戦で、ドラゴミルとデニサ・クラドコバチェコ)は中国ペアの鄭潔&晏紫組に 1-6, 2-6 で敗れた。ルクサンドラ・ドラゴミル・イリーはこの試合を最後に、32歳で現役を引退した。フェドカップルーマニア代表選手としては、チーム歴代1位となる「30勝17敗」(シングルス21勝7敗、ダブルス9勝10敗)の記録を残した。

ドラゴミル・イリーは現役引退後の2006年から2009年まで、フェドカップのルーマニア代表監督を務めた。

WTAツアー決勝進出結果 編集

シングルス: 8回 (4勝4敗) 編集

大会グレード
グランドスラム (0–0)
ティア I (0–0)
ティア II (0–2)
ティア III (1–1)
ティア IV & V (3–1)
結果 No. 決勝日 大会 サーフェス 対戦相手 スコア
準優勝 1. 1995年7月30日   マリア・ランコヴィッツ クレー   ジュディス・ヴィースナー 6–7, 3–6
優勝 1. 1996年5月12日   ブダペスト クレー   メラニー・シャネル 7–6(8–6), 6–1
優勝 2. 1996年9月15日   カルロヴィ・ヴァリ クレー   パティ・シュナイダー 6–2, 3–6, 6–4
優勝 3. 1996年11月18日   パタヤ ハード   タマリネ・タナスガーン 7–6(7–4), 6–4
準優勝 2. 1997年5月4日   ハンブルク クレー   イバ・マヨリ 3–6, 2–6
優勝 4. 1997年6月22日   ロスマーレン   ミリアム・オレマンス 5–7, 6–2, 6–4
準優勝 3. 1999年4月11日   アメリアアイランド クレー   モニカ・セレシュ 2–6, 3–6
準優勝 4. 2000年6月25日   スヘルトーヘンボス   マルチナ・ヒンギス 2–6, 0–3, 途中棄権

ダブルス: 10回 (5勝5敗) 編集

結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
優勝 1. 1994年7月10日   パレルモ クレー   ローラ・ガロン   アリーチェ・カネパ
  ジュリア・カソーニ
6–1, 6–0
優勝 2. 1995年5月21日   ボーンマス クレー   マリアン・デ・スウォート   ケリー=アン・グース
  パトリシア・ヒー=ブーレs
6–3, 7–5
準優勝 1. 1997年1月7日   ゴールドコースト ハード   シルビア・ファリナ   雉子牟田直子
  宮城ナナ
6–7, 1–6
準優勝 2. 1997年5月4日   ハンブルク クレー   イバ・マヨリ   アンケ・フーバー
  マリー・ピエルス
6-2, 6-7, 2-6
優勝 3. 1997年7月20日   プラハ クレー   カリナ・ハブスドバ   エバ・マーティンコバ
  ヘレナ・ビルドバ
6–1, 5–7, 6–2
優勝 4. 1997年7月27日   ワルシャワ クレー   イネス・ゴロチャテギ   キャスリーン・バークレー
  メイケ・バベル
6–4, 6–0
準優勝 3. 2000年7月16日   パレルモ クレー   ビルヒニア・ルアノ・パスクアル   シルビア・ファリナ・エリア
  リタ・グランデ
4–6, 6–0, 6–7(6)
準優勝 4. 2001年1月7日   ホバート ハード   ビルヒニア・ルアノ・パスクアル   エレーナ・リホフツェワ
  カーラ・ブラック
4–6, 1–6
優勝 5. 2001年6月18日   スヘルトーヘンボス   ナディア・ペトロワ   キム・クライシュテルス
  ミリアム・オレマンス
7–6(5), 6–7(5), 6–4
準優勝 5. 2001年7月22日   クノック=ヘイスト クレー   アンドレア・エリット=ヴァンク   マギ・セルナ
  ビルヒニア・ルアノ・パスクアル
4–6, 3–6

4大大会シングルス成績 編集

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 通算成績
全豪オープン A 1R 2R 2R 4R 4R 3R 3R 3R A A 1R 14–9
全仏オープン 4R 4R 4R 2R QF 3R 4R 4R 1R A A A 22–9
ウィンブルドン 2R 2R 1R 3R 1R 1R 2R 1R 1R A A A 5–9
全米オープン 1R 2R 1R 1R 1R 1R 2R 2R A A A A 3–8

外部リンク 編集