上丸子 (川崎市)

神奈川県川崎市中原区の町名
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上丸子(かみまるこ)は、神奈川県川崎市中原区大字[5]2012年(平成24年)4月9日現在、住居表示は施行されていない[6]郵便番号は211-0003[3]2010年国勢調査時点での面積は4.81 ha[1]2017年(平成29年)12月31日現在の人口は0人(0世帯)[2]である。

上丸子
上丸子の位置(神奈川県内)
上丸子
上丸子
上丸子の位置
北緯35度34分32.75秒 東経139度39分48.23秒 / 北緯35.5757639度 東経139.6633972度 / 35.5757639; 139.6633972
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Kanagawa Prefecture.svg 神奈川県
市町村 Flag of Kawasaki, Kanagawa.svg 川崎市
中原区
面積
 • 合計 0.048km2
人口
2017年(平成29年)12月31日現在)[2]
 • 合計 0人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
211-0003[3]
市外局番 044 (川崎MA)[4]
ナンバープレート 川崎

なお、「丸子」を冠した上丸子山王町上丸子天神町上丸子八幡町新丸子町新丸子東丸子通が近隣に存在するが、これらは上丸子から分立したものである(後述)。

地理編集

南武線東海道新幹線横須賀線に挟まれており[7]、全域が日本電気(NEC)玉川事業場の敷地となっている[8]

上丸子は北端から東端にかけて、南武線を挟んで上丸子山王町に接する。南端ではNEC玉川事業場の敷地内で下沼部と、西端では東海道新幹線を挟んで新丸子東に接する。これらの町域はすべて中原区に属しており、上丸子は市境や区境には接していない。

歴史編集

中世以前編集

当地には、沖積低地としては珍しく古墳が築造されており、鉄剣や埴輪も出土しているが、大正時代に、多摩川堤防工事のため撤去された[9]

「丸子」の地名は古く、『吾妻鏡』にも武蔵国丸子庄を葛西三郎清重に賜ったことが残されている[9]。その後も、南北朝期には丸子庄が三千院から護良親王へ譲渡されるなど領主は変遷していった[9]

室町時代には「丸子」と呼ばれるようになったが、円覚寺文書に、「武蔵国丸子保平間郷」が同寺へ寄進されたことが残っており、丸子保が平間まで含まれるほど広大であったことが読み取れる[10]

戦国時代には古河公方と上杉氏の争いの中、太田道灌が「丸子城」に篭ったと、『鎌倉大草紙』に伝わるが、川岸の平地と地形として要害とは呼べないこと、また太田道灌側の史料も踏まえると、単に丸子へ陣しただけと解釈されている[10]。また、聖護院門跡道興が当地で「東路のまりこの里に行きかかり あしもやすめずいそぐ暮かな」と詠んでいる[11]。そして、『小田原衆所領役帳』には「千葉殿 20貫文 小机上丸子」とあり[11]、この時点で後北条氏の支配下にあり、「上丸子」と分かれていることがわかる。1589年天正17年)には川成りをめぐって世田谷領沼目(沼部)郷と争いになったが、北条氏直のもと上丸子側の主張を認める裁定が行われた[12]。その直後に北条氏は小田原征伐により滅ぼされ、徳川氏の支配へと移っていった。

江戸時代編集

江戸時代の上丸子は旗本の斎藤氏領と日枝神社領があったが、後に斎藤氏は領地替えとなり、上丸子は天領となった[11]。農地としては水田が多く[9]、村は、正保年間の『武蔵田園簿』[13]で6034斗あまり(別に20石が山王社領)、『元禄郷帳』で753石6斗あまり、『天保郷帳』で787石あまり、『旧高旧領取調帳』では773石3斗あまり(別に20石が日枝神社領)と移り変わっていった[11]

中原街道が整備された後、当地はその中原街道が多摩川と交差する渡し場となり、村の大きな収入源となったが、一方で多摩川は頻繁に氾濫を起こし、そのたびに賦役や周囲の村との所領争いと、負担の要因ともなっていた[14]。また、当地からは対岸への渡しだけでなく、新城など周辺からの年貢米を江戸へ送る船も出ていた[15]。とはいえ、大田南畝の『調布日記』には、「寒村の風」と残されている[11]

明治以降編集

明治以降、当地は神奈川県に属し、行政上上丸子村→中原村中原町川崎市と推移していった。明治期には多摩川の漁や砂利採取が行われていた[11]。また、大正時代にはの生産も行われた。

多摩川の洪水は問題となり続けていたので、大正時代には大規模な堤防工事が行われた。2つの集落が移転を余儀なくされたほか、前述のように古墳もなくなり、養蚕も廃絶するなど、堤防と引き換えになくなったものも多くあった[16]。また、長年多摩川には橋がなかったが、最初に請願が出されてから50年以上の時間を経た1935年昭和10年)に丸子橋が開通した[16]

戦時中には日本電気など軍需産業が当地に進出し[17]川崎大空襲でも、それらの軍需工場や品鶴線[18]がターゲットとなったが、戦後は復興を果たしていった。1943年(昭和18年)、1957年(昭和32年)と、上丸子から多くの町が分立したが、NECの工場敷地になっていた部分だけは新しい町名が設定されず21世紀に至っている[18]

地名の由来編集

「丸子部(まりこべ)」という部民が暮らしていたことによる地名とされる[9]。マリコの地名は東国に分布するが、丸子部がどのような職能集団であったかには諸説がある[9]。中世には「丸子郷」として上中下の区分はされていなかったが、戦国時代には「上丸子」と分かれた記述が見られる[9]

また、かつては「鞠子」や「毬子」とも表記されていたように、「まりこ」と読まれていた[18]が、近世には「まるこ」という読みが行われるようになり[9]新丸子(しんまるこ)駅の開業とともに、完全に「まるこ」の読みが定着した[18]

沿革編集

交通編集

鉄道編集

南武線が当地の北東端を通り、南方に向河原駅が位置している。また、当地の西端を通る品鶴線横須賀線湘南新宿ライン相鉄・JR直通線)には、当地に接する形で武蔵小杉駅が設置されている。なお、品鶴線と並行している東海道新幹線は、当地に駅はなく通過する(品川駅 - 新横浜駅間)。

施設編集

  • NEC玉川事業場

なお、公立の小中学校の学区は、上丸子全体で川崎市立上丸子小学校[20]川崎市立中原中学校[21]となっている(ただし、当地に住民は現存しない)。

脚注編集

  1. ^ a b 町丁別面積(総務省統計局「地図で見る統計(統計GIS)」の数値)”. 川崎市 (2015年10月26日). 2018年2月15日閲覧。
  2. ^ a b 町丁別世帯数・人口”. 川崎市 (2018年1月25日). 2018年2月15日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2018年2月15日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月15日閲覧。
  5. ^ 角川日本地名大辞典 14 神奈川県』、p.291。
  6. ^ 区別町名一覧表”. 川崎市. 2018年2月15日閲覧。
  7. ^ 川崎の町名』、p.122。
  8. ^ 角川日本地名大辞典 14 神奈川県』、p.1102。
  9. ^ a b c d e f g h 川崎地名辞典』、p.202。
  10. ^ a b 角川日本地名大辞典 14 神奈川県』、p.817。
  11. ^ a b c d e f g h i j k 川崎地名辞典』、p.203。
  12. ^ 川崎 新中原誌』、p.177。
  13. ^ ここでは「上鞠子村」とある(『川崎地名辞典』、p.203)。
  14. ^ 川崎 新中原誌』、p.205。
  15. ^ 川崎 新中原誌』、p.188。
  16. ^ a b 川崎 新中原誌』、p.206。
  17. ^ 川崎 新中原誌』、p.82。
  18. ^ a b c d e 川崎の町名』、p.123。
  19. ^ a b c 川崎地名辞典』、p.204。
  20. ^ 中原区の小学校”. 川崎市. 2012年8月30日閲覧。
  21. ^ 中原区の中学校”. 川崎市. 2012年8月30日閲覧。

参考文献編集

  • 『川崎の町名』日本地名研究所 編、川崎市、1995年。
  • 『川崎地名辞典(上)』日本地名研究所 編、川崎市、2004年。
  • 角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店、1984年。
  • 新中原誌刊行会『川崎 新中原誌』有隣堂、1977年。