メインメニューを開く

全国青い芝の会(ぜんこくあおいしばのかい)とは、脳性麻痺者による障害者差別解消・障害者解放闘争を目的として組織された日本障害者身体障害者)団体。機関誌『青い芝』。東京都で結成後、1960年代1970年代に盛んとなった新左翼運動とも結びつき、神奈川県川崎市横浜市を中心に全国的に活動。社会運動色の強い急進的な活動で知られ、1977年川崎駅前で「川崎バス闘争」を起こしたことで存在を広く知られるようになった。2016年現在の会長は福永年久。

歴史編集

1957年昭和32年)11月3日東京都大田区矢口保育園で、高山久子、金沢英児、山北厚ら約40名が集まり「青い芝の会」として発足。発起人の山北厚が会長に就任する。

当初は脳性麻痺者の交流や生活訓練、障害児教育などを目的としていたが、次第に社会運動色を強め、障害者の福祉障害年金賃金などの生活問題、また朝日訴訟に影響を受け生活保護などの問題で、厚生省などの官公庁、自民党社会党など各政党への陳情や交渉を行うようになった。また各地に地方組織も結成された。

1960年代からは社会への問題提起を強め、主要メンバーが安保闘争などに参加し、1960年代後半からは新左翼党派との結びつきも強まった[1]

1964年茨城県千代田村(現:かすみがうら市)にあった単立寺院・閑居山願成寺住職革命家を自称していた大仏空(おさらぎ あきら、1930年生 - 1984年7月7日死去[2])主導で、寺院内に「マハラバ村コロニー」を設置し「脳性麻痺者のコミューン」を標榜した。しかしメンバー間の主導権争いが絶えず、また結婚して子をもうけたメンバーが将来を不安視して去って行くなどしたため、1969年に自然消滅した[3]。また同年主導者の大仏空が同志に怪我をさせ懲役1年となっている[2]

1966年6月、横塚晃一横田弘、小山正義、矢田龍司らにより、神奈川県で「青い芝の会神奈川県連合会」が発足(会長:山北、副会長:横塚、編集長:横田)。実質的な会の中心となり、後年有名になる「川崎バス闘争」など、先鋭的な実力闘争を展開していくことになる。

その当時、障害者介護が一つの社会問題となっていた。1967年8月7日、生まれてから27年間心身障害で寝たきりの息子を父親が絞殺し、無理心中を図った事件があった。一命を取り留めた父親は妻(被害者の母親)と共に自首した。マスメディアでは、障害者施設が無いゆえの悲劇として同情的に報じられ、身障児を持つ親の会全国重症心身障害児を守る会などが減刑嘆願運動を行った。その結果、父親は心神喪失を理由に無罪となった。そして社会的には、障害者施設の建設による介護者の負担軽減が必要な事件と受け止められた。

しかし青い芝の会にとってはまったく違う問題意識があった。介護疲れなどを理由に心神喪失が認められるのならば、障害者にとって生存権の危機であり、自分たちが介護者などに殺されても当然だと受け止められかねないと危惧したのである。こうして自分たち脳性麻痺者は、健全者には「本来生まれるべきではない人間」「本来、あってはならない存在」と見られていると認識し、そうした健全者社会に対して「強烈な自己主張」を行うこととなった[4]。その活動は問題提起を重視しており、対案を要求されると、まず「われわれの問題提起を人々ががっちり受け止め」る必要があると主張した[5]。その上で、障害者施設は必要悪であり、その弊害をいかにカバーするかという問題を考えなくてはならないとした。

1970年5月29日、神奈川県横浜市で母親が介護を苦にして、重度心身障害児のわが子を絞殺した事件があった(この事件の被害者は知的障害身体障害重複障害児であり、脳性麻痺者ではなかった[6])。この事件でも母親に同情的な立場から、減刑や無罪を嘆願する運動が起こった。そこで全国青い芝の会は、罪は罪として裁くよう厳正な裁判を要求した。この活動から全国青い芝の会が注目されるようになった。結果的に母親は有罪となったが、懲役2年の求刑に対し執行猶予3年と、殺人事件としては非常に軽い量刑であった[7]

1972年には、青い芝の会の活動を取材したドキュメンタリー映画さようならCP[8]原一男監督により制作された。また1970年代には、障害を持つ胎児中絶を合法化する内容の優生保護法(現:母体保護法)改正案反対運動、養護学校義務化反対運動なども行った。

1973年4月29日には、関西の組織として大阪府に「大阪青い芝の会」が発足した。また同年9月には全国組織として「全国青い芝の会総連合会」が結成され、神奈川連合会創立メンバーの横塚晃一が会長に就任している。

青い芝の会は脳性麻痺者の団体であるが、同会主導の下に健全者の組織化も試みられた。重度障害者の自立に際しては、健全者による介護は避けられない問題だったからである。だが青い芝の会は健全者に対する告発型の運動が中心であったため、会員には健全者への敵対心や警戒心も強くこうした試みは賛否両論だった。

関西では介助者が中心となり、障害者の手足として協力する団体として「自立障害者集団友人組織関西グループ・ゴリラ」が組織され、出版部門として「リボン社」を設立した。しかしグループ・ゴリラ内でもリボン社専従職員が主導権を握る構図への反発が起き、主導権争いとなった。1977年10月17日には、関西青い芝の会、グループ・ゴリラ、リボン社三者共同で「緊急あぴいる」を出し事態の打開を呼びかけたが、1978年3月に全国青い芝の会は、グループ・ゴリラ、全国健全者連絡協議会を友人組織として認められないとして除名を通告した。その結果両会は解散し健全者の組織化は失敗した。重度障害者の多い大阪青い芝の会はグループ・ゴリラ解散に反対し、同年3月27日に関西青い芝の会を脱退してグループ・ゴリラ存続を決定したが、その後の混乱は免れなかった[9]

また同1978年7月20日、会の中心人物であり全国青い芝の会の会長であった横塚晃一が死去(1935年2月7日生、埼玉県出身)[10]、全国青い芝の会は再編を余儀なくされることになった。

2013年6月3日、全国青い芝の会元会長で神奈川県連合会会長の横田弘が死去(1933年5月15日生、横浜市鶴見区出身)[11]

同2013年9月、「『尊厳死』の法制化に断固反対する声明」を出した[12]

2016年8月17日付で、「相模原市障害者殺傷事件の見解」を出した[13][リンク切れ]。事件は容疑者個人だけの問題ではなく「地域社会と国の障害者に対しての分離隔離収容政策に根強く残っている優生思想こそが、この度の事件の誘発要因」との見解を示した。その上で、施設からの完全な地域移行計画と地域生活支援の飛躍的拡充、「殺されてよい命、死んでよかったというような命はない」との毅然としたメッセージを社会全体で示すことが必要と主張した。

川崎バス闘争編集

 
川崎市内の東急バスで当時使われていた路線バスの車両。
電車とバスの博物館 保存車両

1977年4月12日、青い芝の会を全国的に有名にした「川崎バス闘争」を起こした[14]1976年12月、神奈川県連合会の事務所があった川崎市内の路線バス川崎市バス東急バス)で、青い芝の会メンバーの車椅子での単独乗車に対する乗車拒否があった[14]。青い芝の会は運輸省(現:国土交通省)や東京陸運局(現:東京運輸支局)とたびたび話し合いの場を持ったが、当時のバス車両の仕様などもあり解決に至らなかった[15]

当時のバスは床の高いツーステップバスで、車椅子用リフトやスロープ板もなく、車椅子利用者は介助者に抱え上げて乗せてもらう必要があり、安全上の理由で介助者同伴でなければ乗車が認められていなかった。介助者がいなければバス運転手が持ち上げて乗せるしかなく、腰を痛める運転手もあった[15]

この乗車拒否に対し、青い芝の会メンバーの脳性麻痺者60人と支援者の介助者らが全国から川崎駅前に結集、駅前に停車中の路線バス(川崎市バス・東急バス・臨港バス)に乗り込み暴動を行った[15]。バス運転席のハンドルを破壊し、車内備え付けのハンマーで窓ガラスを割り拡声器を出してアジ演説するなどして暴れ、約30台のバスに深夜まで立てこもった[15]。強引にバスに乗り込んだり、介助者がバスに乗せて車椅子の障害者を置き去りにしたり、バスの前に座り込んで運行を止めたり、バス車内で消火液をぶちまけるなどの実力行使に出た[16]

この事件は、当時のテレビニュース新聞などマスメディアでも大きく報じられ、暴力を伴う実力行使には大きな批判もあったが、公共交通機関におけるバリアフリーの問題に一石を投じた。

歴代会長編集

  • 初代(全国化以前) 山北厚 1957.11.3 - 1973.9
  • 全国化初代 横塚晃一 1973.9 - 1978.7.20
  • 2代 横田弘 1981.12 - 1983.11
  • 3代 中山善人 1983.11 - 1998.11
  • 4代 小山正義 1998.11 - 2000.11
  • 5代 福田文恵 2000.11 - 2003.11
  • 6代 片岡博 2003.11 - 2006.11
  • 7代 金子和弘 2006.11 - 2014.11
  • 8代 福永年久 ? -

脚注編集

  1. ^ 廣野俊輔「1960年代における「青い芝の会」の活動」『社会福祉学』第49巻第4号、日本社会福祉学会、2008年、2019年8月30日閲覧。J-STAGE
  2. ^ a b 大仏 空 立岩真也立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点サイト内
  3. ^ 原一男 (2014年10月20日). “映画『さようならCP』の主人公に出会った脳性マヒ者たちの解放区「マハラバ村」”. BLOGOS. 2019年8月30日閲覧。
  4. ^ 全国青い芝の会 日本脳性マヒ者協会 全国青い芝の会 行動綱領とその解説
  5. ^ 横塚晃一『母よ!殺すな』 pp.31-33
  6. ^ 廣野俊輔「「青い芝の会」における知的障害者観の変容」『社会福祉学』第50巻第30号、日本社会福祉学会、2009年、2019年8月30日閲覧。
  7. ^ 当時の殺人罪の量刑は「死刑又ハ無期若シクハ三年以上ノ懲役」であり、検察官による求刑の時点から情状酌量されたことになる。
  8. ^ "CP"は脳性麻痺を意味する英語"Cerebral Palsy"の略。
  9. ^ 定藤邦子 障害当事者運動における介助者の役割 -大阪青い芝の会の運動におけるグループ・ゴリラを事例として
  10. ^ 横塚晃一 立岩真也、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点サイト内
  11. ^ 横田弘 立岩真也、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点サイト内
  12. ^ 立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点サイト 「尊厳死」の法制化に断固反対する声明 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」 2013/09
  13. ^ 相模原市障害者殺傷事件の見解 - 日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会 Facebook
  14. ^ a b 青い芝の会・歴史(結成から横塚晃一死去まで) - 立岩真也、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点サイト内
  15. ^ a b c d 時代を読む79 障碍者運動の1ページに残る川崎バス闘争 白石清春(NPO法人あいえるの会理事長)、日本障害者リハビリテーション協会『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2016年5月号、DINF 障害福祉保健情報システム、2019年8月30日閲覧。
  16. ^ 障問創刊一周年記念特集 愛に叛逆を!! 『月刊障害者問題』1977年5月15日号(通巻第13号)

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集