軽井沢

長野県北佐久郡にある地名、リゾート地名。

軽井沢(かるいざわ)は、長野県東信地方佐久地域にある地名である。一般的に長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区(ウィキ座標旧軽井沢メインストリートも参照)、あるいは軽井沢町全体を指す。

新・日本街路樹100景』に選出された旧軽井沢のカラマツ並木、三笠通り

語源編集

軽井沢という地名は、長野県内においては北佐久郡軽井沢町のほか上田市真田町大字傍陽字入軽井沢、長野市信更町大字田沢字軽井沢の例があり、長野県外では青森県八戸市松館、秋田県大館市、秋田県由利本荘市(旧由利町)、山形県上山市、新潟県長岡市、千葉県鎌ケ谷市、神奈川県横浜市西区北軽井沢南軽井沢)、静岡県田方郡函南町、奈良県生駒市など各地に存在する。

語源については諸説あり判然としないが、古語方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」と言うことから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、"枯井沢(水の枯れた沢)"から転じたという説、"凍り冷わ(こおりさわ)"から転じたという説、"軽石沢(軽石によってできた沢)"から転じたという説(後述)などがある[1]

従来の読み方は「かるいさわ」であり、アクセントも平坦型である。しかし明治以降避暑地として広く知られるようになり、外国人の往来が盛んになったことで、彼らにとって発音しやすい「かるいざわ」が読み方として定着[2]、それに伴いアクセントも起伏式(中高型)になったと考えられている。現在でも土着民の中には「かるいさわ」と読む者も多い。

地理編集

元々浅間山一帯は火山活動の活発な地域であった。1200万年ほど前には現在の碓氷峠付近は海中にあったが、700万 - 200万年前に碓氷川上流地域で火山活動があり、110万 - 65万年前の溶岩噴出によって碓氷峠付近は平地となった。そして30万 - 20万年前には霧積川によって東部で侵食があり、急な崖が形成された。東部が激しく侵食された結果、群馬県側が急峻な勾配となり、軽井沢町側はなだらかな勾配となった。

また2万4300年前には黒斑山山体崩壊を起こし、その泥流の一部が湯川を堰き止め、南軽井沢一帯に湖を形成した[3]。そして約2万年前に溶岩ドームの上昇(現在の離山の形成)によって大量の火砕流が発生すると、その火山砕屑物は湖一帯を覆い尽くし[4]、それによって高度1000m付近にありながらも平坦な地形が形成された。この経緯から地域一帯の土壌は軽石で構成されており、そこからこの地を「軽石沢」と呼びはじめ、「軽井沢」に転じたという説がある[2]。そのほか数々の噴火、地形変動によって四方八方に丘陵が発生し、各所に「)」を呈する起伏豊かな地形が形成されていった。

歴史編集

有史以前編集

人類の痕跡としては、縄文時代より集落の形成があったのではないかとの推定がなされており、縄文から弥生古墳時代までを含む遺跡が町内の至る所で発見されている。町の南西に位置する『茂沢南石堂遺跡』ではストーンサークル竪穴住居土器類など、縄文中期 - 後期のものと思われる遺跡が数多く発見されている。柱を残したまま住居を廃棄していることや、発見された土器類が北関東との交流を物語っていることから、しばらくこの地に住んでは去ってゆく、その繰り返しが軽井沢と北関東の間で行われていたのではないかとの見方がある[5]。群馬県との県境に位置する熊野皇大神社の歴史はこの時代まで遡ることができ、社伝や古事記日本書紀によれば、その創建は110年(景行天皇40年)とされる。

交通の要所編集

古代放牧地として利用され、平安初期には現在の中軽井沢官牧として『長倉の牧』が設置された。それは軽井沢高原一帯を占める広大な官牧であったと考えられている[5]。また軽井沢は浅間山の南麓に位置することから、関東地方と信濃を結ぶ交通の要地となり、古代では東山道が軽井沢を通っていたと考えられている。そのルートには諸説あるが、祭祀遺跡の発見により入山峠が有力とされており、道はそこから西に向かって抜けていったと思われる(現在の碓氷バイパスに近い)。

その後時代を経てもこの地が交通の要地であったことに変わりはなく、1423年応永30年)の国人一揆1440年永享12年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。また1561年永禄4年)の小田原城の戦いでは、援軍として参加した武田信玄が碓氷峠からの進出を数回に亘って行なったほか、戦国末期の小田原征伐の際には、真田昌幸真田信繁(幸村)、前田利家上杉景勝らおよそ3万5000の軍勢が松井田城攻略のための陣地として軽井沢を利用し、一行は1590年天正18年)3月、碓氷峠を超え上野国に侵攻した。

中山道の宿場町編集

 
歌川広重「木曽街道六十九次 軽井澤」(天保頃)
 
宿場町(追分宿)の面影を残す軽井沢町追分の街並み

江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。その賑わいは相当なもので、これらの宿場には合わせて数百の宿があり、宿主や宿員のほか飯盛女も数多くいたという。軽井沢宿の北端に位置する「二手橋(にてばし)」は、旅人と飯盛女が別れを惜しみ二手に分かれる場所であったことから、その名が付けられたと伝えられている。

また、この地域は浅間山を望む景勝地としても有名であった。1878年(明治11年)に明治天皇北陸東海を巡幸した際には、熊野皇大神社近くにある「碓氷川水源」が御膳水として使用された。あるいは現在の「ホテル鹿島の森」敷地内にある湧水は、地元では古くから「お水端」と呼ばれ親しまれていたほか、諸大名宮家などの御膳に用いられたことから「御膳水」とも名付けられている。その後軽井沢宿・沓掛宿は洪水や火災に遭った上、大規模開発もあり、宿場町時代の街並みは失われている。史料もほとんど伝わっていない。中山道と北国街道の分岐点であった追分宿は、宿場町の面影のある街並みや史料が残っており、往時の様子を知ることができる。

  • 中山道 江戸… 坂本宿 - (旧)碓氷峠 -(峠町)- 軽井沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 …京
  • 北国街道 追分宿(中山道より分岐) - 小諸宿…直江津北陸道に合流)

外国人避暑地と別荘の起源編集

 
アレクサンダー・クロフト・ショー

江戸幕府が倒れ明治時代に入ると交通事情が変化し、参勤交代もなくなったため、全国の宿場町は没落していった。軽井沢においては雨宮敬次郎が開墾事業を計画するなどしたが、地域は衰退していった。1884年(明治17年)には(新)碓氷峠を越える碓氷新道(現在の国道18号)が開通。軽井沢宿は新道のルートからも外れ、宿場町としての機能を失った。しかしその後、1885年(明治18年)夏にカナダ人の聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが、友人の帝国大学東京帝国大学)英語講師ジェイムズ・メイン・ディクソンと酷暑の東京を逃れ、たまたま軽井沢を訪問。高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在した。ショーは軽井沢の冷涼な気候や風土が故郷のトロントと似ていると感じ、「屋根のない病院」と呼んだ。軽井沢が「保健休養地」を称する所以である。ショーはディクソン夫妻を伴い翌年夏軽井沢を再訪した。

1888年(明治21年)に日本に滞在していたカナダ人の宣教師ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門の斡旋によって旧軽井沢の大塚山に軽井沢初の別荘を建設した。保養地避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものであった。その後この別荘は日本基督教団軽井沢教会の敷地内に移築保存されていたが、1986年(昭和61年)に再び移築復元され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。

 
 
旧軽井沢
旧軽井沢
 
群馬県安中市にある、アプト式時代に横川駅 - 軽井沢駅を繋いでいた鉄道橋碓氷第三橋梁』(通称「めがね橋」。1893年竣工)

1886年には、氷職人の泉喜太郎が天然氷の製造を開始した。現在でもその製造は『渡辺商会』によって継続されており、天然氷製造元全国6ヶ所のうちの一つとなっている。 なお1948年(昭和23年)には、この製氷の業績を記念して、碓氷川水源近くに「水神の碑」が建立された(揮毫尾崎行雄)。また1888年(明治21年)9月には碓氷馬車鉄道官設鉄道横川駅から軽井沢駅間に開通。同年12月には官設鉄道信越本線長野方の上田駅から軽井沢駅まで延伸された。軽井沢に鉄道が到達し、碓氷新道(国道18号)近くに軽井沢駅が開業した。

更に1893年(明治26年)には馬車鉄道に代わり、アプト式ラックレールを採用して急勾配の碓氷峠を越える官設鉄道碓氷線が開通し、東京方の上野駅と直結した。以後軽井沢駅が地域の玄関口として機能するようになり、駅前に商店が増えた。新道や鉄道が通じている軽井沢駅周辺が地域の新たな交通の中心となり、次第にこれを「新軽井沢」と呼ぶようになった。これに対し軽井沢宿の旧道界隈を「旧軽井沢」と呼ぶようになり、今に至っている。

江戸時代後期に開業するも宿場の衰退により休業していた旧軽井沢の旅籠「亀屋旅館」の主人佐藤万平(初代)は、ディクソン夫妻から洋食や外国人の生活習慣を習得し、1894年(明治27年)、軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)を創業した。その後、1899年(明治32年)には「軽井沢ホテル」、1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになった。

1900年代に入ると貸別荘やホテルなども増え始めた。ショーが宣教師であったことから、他の外国人避暑地に比べ宣教師が多く訪れ、キリスト教の色合いが濃い保養地となった。当時設立されたキリスト教会が現在も活動しており、米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した軽井沢ユニオン教会1918年(大正7年)に建築された教会)、日本基督教団軽井沢教会(1929年(昭和4年)に建築された教会)など外国人ゆかりの教会建築が軽井沢の各地に現存している。ヴォーリズも夫妻でたびたび軽井沢を訪れており、教会以外にも軽井沢会テニスコートクラブハウスや医院など幾多の建物を手掛けた。ヴォーリズの手になる別荘も数棟残っており、現在も使用されている。

日本人の参入編集

鉄道が開業する以前の軽井沢には日本人の別荘はなく、碓氷峠を挟んだ東側の霧積温泉が日本人向けの避暑地として開かれていた。霧積温泉に療養に来ていた海軍大佐八田裕二郎(後に衆議院議員)が峠を越えて軽井沢を訪れ、高原の気候や外国人と交流できるこの地を気に入り、土地を購入。その後1893年(明治26年)に旧軽井沢に別荘を建設した。この「八田別荘」が軽井沢初の日本人所有の別荘であった。

その後八田は日本人に避暑や転地療養先として軽井沢を紹介し、別荘を建てることを勧めた。1916年(大正5年)のダニエル・ノルマン島田三郎等による「財団法人軽井沢避暑団」の設立(1942年(昭和17年)、「軽井沢避暑団」と「軽井沢集会堂」が合併し「財団法人軽井沢会」となる)に加わり世話役を務めるなど、終生避暑地軽井沢の発展に関わる活動を展開した。軽井沢避暑団はサナトリウム(避暑団診療所。のちマンロー病院)を開設し、結核患者の転地療養を支援した。ヴォーリズが手掛けたサナトリウムの建物は既に残っていないが、「八田別荘」は建築当時の場所に現存している。

こうして軽井沢は箱根大磯に続き新興の別荘地として成立し、その起源から西洋風且つキリスト教の色彩が強い独特の雰囲気を持つ避暑地となっていった。政治家財閥華族等のエスタブリッシュメント学者文化人など西洋文化の洗礼を受けた日本人の間で軽井沢は「日本の中の西洋」と目された。彼らが外国人を真似て西洋風の避暑や別荘レジャーを楽しむ地となり、ショーや他の宣教師達、あるいは八田が建てたような簡素な住宅ではなく、瀟洒な洋館を建てる者も現れた。時代の変遷によりそのような洋館の多くは無くなったが、旧徳川圀順水戸徳川家)軽井沢別荘(後に田中角榮家別荘となる。公益財団法人田中角榮記念館所有。非公開)など数棟が現存している。

1923年(大正12年)には室生犀星がまだ学生だった堀辰雄を伴って軽井沢を訪問している。日本三大外国人避暑地のうち他の2地域とは異なり、旧軽井沢は日本人にも開放されていた。旧軽井沢は宿場町であり、日本人の往来は元々あったが、第一次世界大戦による大戦景気以降はついに外国人避暑客より日本人避暑客の方が多くなり[6]、大手資本による周辺地域の大規模開発、一般向けのレジャー用の贅沢品の一種としての別荘販売に結びついていった。

大規模開発の起こり編集

 
大正期の軽井沢駅
 
野沢源次郎

1909年(明治42年)、草軽電気鉄道の前身となる「草津興業」が発足。同社はスイス登山電車のように高原温泉へ避暑客・湯治客を運ぶとともに、貨物輸送を行って地域の発展を図ろうとする趣旨から創立された。1913年(大正2年)に軽井沢駅に隣接する新軽井沢駅から旧軽井沢駅(開業時は旧道駅)までの区間と北軽井沢駅(開業時は地蔵川駅)を経由して草津温泉駅に至る軽便鉄道の敷設に着手し、1915年(大正4年)には小瀬温泉まで、1918年(大正7年)には北軽井沢まで開業。1926年(大正15年)には草津温泉まで55.5kmに及ぶ高原鉄道が全線開通した。路線の延伸と並行して沿線地域が次々と開拓されていった。

1912年(大正元年)に半田善四郎が土地分譲・別荘分譲を開始。1916年(大正5年)には貿易商野澤組の野澤源次郎が軽井沢にて転地療養したことをきっかけに別荘地開発に乗り出し、旧軽井沢の旧中山道沿いに約200万坪の土地を取得。ホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止め人造湖雲場池」を造成、「健康保養地」と称し別荘の分譲を行った。雲場池の周りにホテル・ゴルフ場・市場・遊歩道・並木道等が整備された。この一帯は「野沢原」と呼ばれるようになり現在に至っている。

1918年(大正7年)には、堤康次郎による西武資本1920年(大正9年)、箱根土地株式会社設立)が、大字長倉沓掛区有地坂下ほか公有林・原野60万を3万6千(1坪5)で買収。傘下に株式会社千ヶ滝遊園地を設立し、開発に参入。沓掛宿周辺を「中軽井沢」と称して旧宿場町北側の千ヶ滝を整備、大規模な別荘地の販売や鉱泉の掘削、ホテルの営業を開始した。箱根土地が当初手掛けた物件は山荘というより簡易で手狭な山小屋程度の物であったが、都市部の富裕層を中心に人気を呼び、軽井沢は避暑地として賑わいを見せるようになった。

箱根土地は軽井沢町内から嬬恋村への道路整備に着手し、1928年(昭和3年)にバス路線(「高原バス」。1958年(昭和33年)、西武バスに吸収され西武高原バスとなる)を開設、1933年(昭和8年)には有料道路鬼押ハイウェーを開通させた(後述)。更に信越本線沓掛駅(後に中軽井沢駅と改称)から千ヶ滝を経由し、北軽井沢・鬼押し出し万座温泉草津温泉方面への高原鉄道の敷設や温泉の引湯なども計画したが、これらは実現に至らず終わっている。

また箱根土地は1921年(大正10年)、大字発地の原野や湿地86万坪を買収、これを「南軽井沢」と称して別荘地・ホテルの他競馬場・飛行場(いずれも後にゴルフ場となる)などを建設し、開発の手を広げていった。南軽井沢は平坦な土地であったが湿地の改良整備が難航し、開発は遅れた。しかし戦後にはゴルフ場の開業に至っている。一方東急資本も戦前から軽井沢の開発に参入し、1945年(昭和20年)には草軽電気鉄道を傘下に収めた。戦後の復興を背景に西武資本と東急資本による軽井沢を舞台としたリゾート開発競争が激化していくことになった。

大正時代には箱根土地や東急・野澤組・三井鹿島建設など、単に別荘を建てて売るのみならず、レジャー施設建設など総合的な大規模開発を手掛け始めたが、こうした業者の手が入って別荘地となった山林や原野の周囲にも、かつては元々の住民がおり、別荘地の中にも不動産登記上は未だに小字が残る通り、農家があり耕作地もあった。しかし元々耕作には適さない不毛の荒地ばかりで、湿気や厳しい寒さなど、農業生業として日々暮らしていくには気象条件も悪かった。宿場町も機能を失って旧来の商業は衰退していたことから、東京の業者が乗り込んできて開発の話が出ると、地元住民は一斉に家や土地を手放し、補償金を手に軽井沢を離れて行った。千ヶ滝は集落全体で箱根土地の買収に同意し、旧住民全員が転出している。

代わって別荘利用者相手に商売をする人々や、別荘地の諸施設・ホテル等に勤務する人々などが転入し、新たな地元住民となった。新住民流入により軽井沢の人口は増加し、1923年(大正12年)8月1日、北佐久郡東長倉村が町に昇格。避暑地軽井沢が広く世に知られるようになったことから、町制施行に際し「東長倉」の呼称を廃し、軽井沢町となった。

それまで個人に林間の土地や物件を販売し、買い手が自分で別荘を建て、また管理することが基本であった別荘地分譲においても、大手資本が開発に参入し広大な土地を押さえるようになると、分譲後も管理事務所や管理請負会社を運営して別荘の建物からライフライン道路私道)・別荘分譲地全体の環境などの維持を行い、その他別荘利用者にサービスを提供する「管理別荘地」が増えて行った。また昭和初期には「南原会」など自然を残し商業施設やレジャー施設などを設けない別荘地も生まれ、学者や文化人らが集まり、文化村と呼ばれた。このような別荘地は戦後も独自の取り決めなどを設けて鄙びた雰囲気を維持し、未舗装道路もそのまま残している。

 
大正期の『星野温泉旅館』

在京資本以外では、中軽井沢で温泉を掘削し1914年(大正3年)に温泉旅館「明星館」(その後、星野温泉ホテルを経て星のや軽井沢となる)を創業し、別荘地開発も手掛けた星野嘉助による星野遊学堂(その後、軽井沢高原教会となる。1921年(大正10年)創立)を中心とした文化活動や、中西悟堂と星野によるエコツーリズム「ピッキオ」の活動も戦後の軽井沢のリゾート地としての発展の基礎を築いた。中西は1934年(昭和9年)、日本野鳥の会を創立し初代会長となった。1951年(昭和26年)には浅間鳥獣保護区が国の指定となり、1974年(昭和49年)には星野温泉に「国設軽井沢野鳥の森」が開かれた。星野温泉は戦後株式会社化され、1995年(平成7年)、エコツーリズムの理念を受け継ぐ[7]リゾート運営会社星野リゾートとなった。国内外に事業を展開し、大手資本の一角を形成するに至っている。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)末以降に本土への空襲が増加した後は、中立国や同盟国の大使館の多くは、軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイスの公使館が置かれる事となった。(→#戦時下の軽井沢

戦後の発展と別荘ブーム編集

戦後の1951年(昭和26年)、一連の特別都市計画法の一つである「軽井沢国際親善文化観光都市建設法」により軽井沢町は別府・熱海・伊東・奈良・京都・松江・芦屋・松山と共に国際観光文化都市に指定され、国の支援も受け軽井沢のリゾート開発は引き続き進展した。1953年(昭和28年)には、朝鮮戦争の影響から浅間山西麓に米軍基地設置計画が持ち上がった。米軍当局から町に強硬な要求がなされたが、町民や有識者らによる断固とした反対運動によって結果的に取り止めとなり、町側の勝利となった。これを機に同年8月には、有識者たちが軽井沢の文化を守るべく「軽井沢文化協会」を設立した(協会の命名は三笠宮であり[注 1]、会長には加藤与五郎が就任した)。

1955年(昭和30年)には、御代田町の「軽井沢農場」に「軽井沢蒸溜所」が造設され、ウイスキーの生産が開始される。一大産地スコットランドに似た冷涼な気候によって生み出された銘柄「軽井沢」は、2000年(平成12年)に製造を中止したこともあり現在では"幻のウイスキー"と呼ばれ、2015年(平成27年)には"世界一価値の高いウイスキー銘柄"となった[8]1956年(昭和31年)には西武資本により「軽井沢スケートセンター」(2009年(平成21年)3月31日閉鎖)と「南軽井沢ゴルフ場」(1971年(昭和46年)に軽井沢72ゴルフの一部となる)が開業。

1961年(昭和36年)からは国土計画興業株式会社(1944年(昭和19年)、箱根土地が社号変更)が南軽井沢の更に南に広大な土地を取得。高度経済成長期以降の国民の余暇を課題とする国策を背景として、リゾート開発構想を立案した。軽井沢湖(南軽井沢湖)と称する人造湖1963年(昭和38年)造成。1974年(昭和49年)からレマン湖と称する)を中心とした大規模別荘地「レイクニュータウン」の造成を1964年(昭和39年)から開始。レマン湖には島を設け、湖畔にホテルや夏期のみ季節営業を行う商業施設、西洋風庭園を整備するなど大掛かりな工事を行った。

国土計画は三越百貨店と提携し、三越店舗でレイクニュータウン別荘地を分譲販売した。旧軽井沢や千ヶ滝に比べ割安(とは言え十分贅沢品の価格)であったこともあり、高度経済成長と相まって、生活に余裕が出たサラリーマンなど中間層を中心に飛ぶように売れ、別荘ブームが起こった。岡田茂が社長に就任した三越は1974年(昭和49年)、レマン湖畔に季節営業の支店「三越ファッション館」を開業し、軽井沢の地に進出するに至った。フランスの古城・シュヴェルニー城を模したという従来の三越店舗には例のない建物で、その豪壮な外観は投資額の大きさを象徴するものであった(建物は店舗撤退後解体され現存せず)。1970年代には夏のレマン湖畔はペンションブームで活況を呈していた旧軽井沢メインストリート(旧軽井沢銀座)と肩を並べるほどに大勢の人出で賑わった。

1972年(昭和47年)2月のあさま山荘事件の舞台となった河合楽器健康保険組合「軽井沢保養所浅間山荘」もレイクニュータウンにあった(事件後建物は大幅に改装され現存。犯人グループ妙義山から佐久市方面に逃亡しようとしていたが、道に迷った挙句、オフシーズンで店舗は営業しておらず客も全くいないレイクニュータウンに偶然出てしまった。当時のレイクニュータウンはちょうど開発されたばかりで、犯人グループが所持していた地図には載っておらず、自分達が今いる場所が軽井沢であるとは当初分からなかったという。事件後の1973年(昭和48年)、レイクニュータウン北側のニュータウン区入口に「浅間山荘事件記念碑(治安の礎)」が建立され、あさま山荘事件十周年記念樹が植えられている)。

千ヶ滝では西武百貨店軽井沢店(その後1980年代に撤退。建物は西武商事運営の千ヶ滝ショッピングプラザとなるがこれも1990年代に閉店。建物も解体)が季節営業を始めたほか、1961年(昭和36年)に地元住民の手により造成された人造湖である塩沢湖(アイススケート場)の一帯が整備され、1971年(昭和46年)には「塩沢遊園」が開園(1983年(昭和58年)に「塩沢湖レイクランド」となり、レジャー施設が造られた)、別荘利用者相手の商業施設が増えて行った。他にも大手の三井不動産丸紅野村不動産、新興の紀州鉄道なども別荘地開発を手掛け、軽井沢町内各所に別荘地が林立する状況となった。別荘ブームによる開発の結果、軽井沢町は多額の固定資産税等の収入を安定して得られるようになり、町が日本有数の財政力を有する地方自治体に成長する契機となった。

戦後満州からの引揚者が千ヶ滝の西側、追分の北側の浅間山麓のカラマツの原生林に入植し、荒野を開拓。畑作を行った。入山峠から南軽井沢・発地地区や後に塩沢湖が造成される辺りを通る中山道の脇往還「入山道」沿いなどには古くからの農家が点在しており、稲作が行われ、江戸時代以前に遡るような農地もあるものの(発地地区ももともと荒地や湿地が多かった)、浅間山麓は扇状地で水利が悪く、土地も痩せていたため稲作はおろか農業自体に不向きであった。しかし入植者は土地を開墾し、キャベツレタスなどの高原野菜を生産する農地や牧場を切り開いた。

彼らは1937年(昭和12年)、南佐久郡大日向村(後に佐久町大字大日向を経て佐久穂町大字大日向)の分村移民計画により送り出された満蒙開拓移民約690人の内、生きて日本に帰国できた人々とその子孫である。大日向村からの満蒙開拓団は、1938年(昭和13年)に満洲国内に分村を成立させたが、1945年(昭和20年)8月9日のソ連による満蒙侵攻による混乱の中、半数以上が命を落とした。終戦後約310人は日本に生還できたが、満州の分村の家や土地を失った。更に大日向村を離れる際に村の家や土地などを失っていたため村にも帰れず、1947年(昭和22年)、65戸165人が軽井沢に入植するに至ったものである。入植者は開拓地を故郷と同じ「大日向」と命名。大日向神社を祀り、軽井沢町大字長倉の大日向区となった[9][10]

前述のように米軍演習地化計画もあったが、別荘ブーム以降大日向区にもリゾート開発の波が押し寄せ、土地が高価格で取引されるようになると離農者が増えた。開拓地を開発業者やホテル、商業施設などに売却したり、建設業や商店主、サービス業に転業・兼業する住民が相次いだ。西武資本による大規模別荘地に取り囲まれつつ開拓農地は存続しているが、既に専業農家はなく、大日向区は別荘・保養所・ペンションテニスコートなどの施設が点在する地域になっている。入植者とは無関係の別荘利用者の定住、他地域からの転入も多くなり、開拓当時の様相は消えつつあるという。入植者世帯の世代交代も進み、満州から帰国した1世から2世は減り、開拓当時には生まれていなかった3世・4世の代になっている。このため入植者世帯の組織「大日向振興会」は入植と開拓の歴史を後世に伝えるため、当時の農機具や生活用品、写真など約160点を持ち寄り、2005年(平成17年)2月11日、大日向公民館内に大日向開拓記念館を開館した。

新たなリゾート地へ編集

1980年代には海外旅行ブームが起こり、それまで軽井沢の別荘・ホテルに避暑・レジャーを楽しみに来ていた層は海外に出掛けるようになっていった。軽井沢は客足が伸びなくなり一時的に寂れ、レイクニュータウンの三越やホテルなども次々に撤退(別荘地自体は存続しており、庭園も維持されている)。同時期に若年層を中心にペンションなどが人気となっていた新興別荘地の清里と比較される程度に別荘ブームは沈静化し、活気を失っていった。その後1980年代から1990年代バブル期には単なる別荘地・避暑地から行楽地への脱皮、観光地としての充実が図られた。

宿場町当時の遺構がほとんど残っていない軽井沢にとって稀少な歴史的建造物の一つである旧三笠ホテルの一般公開を1983年(昭和58年)より開始。また別荘地としての原点であるショーハウス記念館の一般公開も1986年(昭和61年)から行われている。また軽井沢に点在する美術館文学館記念館の大半はこの時期に開館しており、国内外の著名建築家などが設計・デザインした特徴的な建造物や西洋風庭園が次々に出現した。塩沢湖レイクランドにも1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)にかけて園内に美術館・文学館が相次いで開館し、1996年(平成8年)には総合レクリエーション施設「軽井沢タリアセン」となった。

 
『軽井沢・プリンスショッピングプラザ』(1995年開業)

風越公園ムーゼの森など他のレクリエーション施設の整備も進んだほか、結婚式場・会員制リゾートホテルなど様々な業態の事業者が増加。1995年(平成7年)には南軽井沢のゴルフ場に西武資本の大型ショッピングモール軽井沢・プリンスショッピングプラザ」(西武プロパティーズ運営)が開業した。

1996年(平成8年)には町内にブルワリーヤッホーブルーイング』が設立され、「よなよなエール」や「軽井沢高原ビール」などのクラフトビールが生み出された。なおブルワリーとしてはほかにも、2011年に設立された『軽井沢ブルワリー』がある。地域のブランド化が加速し、観光客や買い物客が多くなるにつれ、避暑客や別荘利用者も戻り始め、集客の勢いを取り戻した。別荘の需要も回復し、バブル期には全国的に別荘の価格がつりあがった。大洋村など別荘地ではなかったところにまで開発の手が及び、別荘ブームが再来したが、軽井沢と周辺地域は最も価格が高騰した別荘地であった。

また観光客や買い物客が年間を通して訪れるようになったことから、夏期のみの季節営業が多かった商業施設も通年で営業することができるようになり、地域経済の維持・発展に寄与した。しかし一方では、地域の繁栄を維持すべく一部で商業主義的な方向性も加速したため、軽井沢町は過度な商業化を抑制し、健全な風俗の維持するため条例を制定し、コンビニエンスストアなどあらゆる店舗の深夜営業を規制した。北陸新幹線長野新幹線)や上信越自動車道の開通により首都圏からのアクセスも短時間且つ容易となり、首都圏の後背地として軽井沢町内全域及び周辺自治体に開発が拡大、日本を代表するリゾート地に成長した。

 
1888年 - 1997年まで現役で使用されていた軽井沢駅・旧駅舎を2000年に復元。2017年にしなの鉄道の「旧駅舎口」として整備され、再び現役の駅舎となった。
 
『ハルニレテラス』(2009年開業)

日本国内全体においては、その後のニーズの変化や長期間に及ぶ個人消費の落ち込みなどから、旧来型の浮世離れした避暑や別荘レジャーは終息に向かいつつある。バブル期にみだりに開発を行った新興別荘地は廃れた。大方の別荘は値崩れしている上に売れず、衰退する別荘地も増えている。しかし軽井沢においては未だにバブル的な様相を呈したままとなっており、旧軽井沢など人気別荘地を中心に価格も高値で推移しているほか、なおも新規の別荘地開発が行われている。

軽井沢町の産業別生産額構成比と産業別付加価値額は不動産業サービス業建設業という別荘・リゾート観光施設に直接関係する3業種のみで8割を越えている状態が長期にわたっており、極めて特徴的な地域経済の様相を見せている。他地域からの転入者や別荘利用者の定住・長期滞在も多くなり、2000年代以降、そうした客を見込んだスーパーマーケット家電量販店ホームセンタードラッグストア衣料品量販店など都市近郊と変わらぬチェーンストア国道18号軽井沢バイパス沿いに相次いで開業したことにより、山間の別荘地ながら日常生活の利便性が向上した。

新たに複数の美術館が開館しているほか、2009年(平成21年)には星野温泉に商業施設「ハルニレテラス」、2016年(平成28年)には軽井沢町農産物等直売施設「軽井沢発地市庭(いちば)」、2018年(平成30年)にはしなの鉄道軽井沢駅に駅ナカ商業スペース「しなの屋KARUIZAWA」が開業するなど、集客スポットの充実も続いている。

日本が人口減少社会に突入した2010年代にあっても軽井沢町・御代田町の人口は増加している。ただ別荘利用者などの定住・長期滞在はリタイア組が多くを占めており、他地域からの転入者によって予測以上の高齢化が進行している。一方で2014年(平成26年)には、町内に日本初の全寮制インターナショナル・スクールISAKジャパン英語版』が開校し(2016年には日本初のUWC加盟校となった)、世界各国の若者がこの地で共同生活を送っている。

外国人観光客が増え国際化も進んだが、2016年(平成28年)に国が民泊に関連する規制緩和に踏み切ったことに対し、軽井沢町は民泊カプセルホテルは「善良なる風俗の維持と良好な自然環境の保全の障害となり、風紀を乱すおそれがある」との理由から、町内全域においてこれらの設置を一切認めない方針を明示、貸別荘についても営業の条件を厳しくした。軽井沢町は2017年(平成29年)、「長く保たれてきた良好な別荘環境を守るため」との理由から、町内全域での民泊通年規制を含む県条例を2018年(平成30年)6月の住宅宿泊事業法(民泊新法)施行前に制定することを長野県に求めた。条例による民泊通年規制は事実上民泊全面禁止を新たに法的に定めることになり、民泊新法の趣旨や国による規制緩和の方針に逆行するため、長野県は軽井沢町が求めるような内容を含めることについては厳しい見通しを示していたが、別荘地やスキー場などが所在する他の県内自治体からも民泊に一定の規制を設けるべきであるという意見があり、県は同年2月の長野県議会定例会に条例案を提出した。

同年3月、「長野県住宅宿泊事業の適正な実施に関する条例[11][12]」が可決・成立。同月22日に公布された[13]。条例は県が別荘地での民泊営業期間を制限することができる内容を含むものとなり、新法施行日と同日の6月15日に施行される。一方2018年(平成30年)1月、星野リゾートが民泊事業参入を表明、軽井沢町内の自社管理別荘の民泊活用を想定していることを明らかにし、町の方針や条例による過度な規制に反対している[14]。この他にも中国系の業者が参入し不分明な別荘地開発が行われるなど、これまでにはなかった新たな課題も生じている。

避暑地・別荘地として(文学・記録とともに)編集

 
教会を別角度から
六月十日 K…村にて
御無沙汰をいたしました。今月の初めから僕は当地に滞在しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣です。まだ誰も来ていないので、淋しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。
堀辰雄美しい村』〈序曲〉冒頭の一節[15](1934年)

気候風土編集

軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、年平均気温は8.2℃[16][注 2]で、札幌の平均気温8.9℃[18]よりも低い[注 3]。そのため避暑地として知られ、『日本三大外国人避暑地』の一つに数えられている。この冷涼な気候は古くから心身の健康に良いとされ、前述のとおりA.C.ショーはこの地を「屋根のない病院」と称した。

結核の治療法が無かった20世紀初頭には町内に『軽井沢サナトリウム』が設置され、初代院長をイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローが務めた(そのためサナトリウムは別名「マンロー病院」とも呼ばれていた)[19]。また、この健康的な気候が軽井沢で行われるあらゆる余暇や文化活動の原動力になっていることは言うまでもなく、中でも散歩読書の描写はかつての文学作品に幾度となく登場する。

私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響を与え出していることは否めなかった。
堀辰雄『美しい村』[20](1934年)
私は、「帰ったら、あの続きが読めるのだ」と、それを楽しみにして、林間の小径を辿って丘の家へ帰って行くのである。(中略)詩人室生犀星氏は、「軽井沢では煙草を吸うのも贅沢だ」ということを云って、この高原で吸う煙草の味のうまさを讃美していたが、清浄な凉気のなかで読む物語の味いも、下界で読むのとは、自から異っているらしい。
正宗白鳥『軽井沢にて』[21](1942年)
 
霧に包まれる小径

碓氷峠による上昇気流の急激な気圧低下によって、1年のうち約1/3がに包まれる[22](特に、東の碓氷峠に近づくにつれてその影響は大きくなる)。それは程度によっては一寸先も見えないほど深くなり、当時の細川侯爵邸の手伝いをしていた地元の炭焼きの老人は、しょっちゅう道に迷っていたという[23]

この霧の多い気候を活かして栽培した野菜が『霧下野菜』と名付けられ、2010年に商標登録された[24]。またこういった霧の影響などにより湿度が高くなることで地面や日陰の石にが拡がっている様子は、軽井沢の代表的なイメージとなっている。

In addition to the heavier rainfall at Karuizawa there are the morning and evening mists already spoken of. Nevertheless in spite of this appearance of greater wet there is not the least doubt as to the healthiness of the place in summer.(軽井沢では降水量が多いのに加えて、朝と夕方の霧の発生については既に述べてきた通りである。それにもかかわらず、このように湿り気が強いように見えるにもかかわらず、夏の場所としての健全性については疑いの余地はない。)
カーギル・ギルストン・ノット『Notes on the Summer Climate of Karuizawa』[25](1891年)
霧は仏蘭西の幽霊に似ている。
芥川龍之介『軽井沢で -「追憶」の代りに-』[26](1927年)
めづらしく霧の深い晩だ。(中略)今夜は集会堂[注 4]に音楽会があったのでその帰りの人らしいのが霧の中をちらほら歩いている。西洋人が多い。郵便局[注 5]の角のところにさっきから二人のエトランジェが立っている。その彫像のような女の姿が霧のために私たちからすうっと見えなくなる。すぐ霧の中にすうっと現はれてくる。それがへんに美しい。
堀辰雄『エトランジェ』[27](1932年)

日本野鳥の会』の創設者である中西悟堂は、軽井沢・星野の地を富士山裏磐梯と共に『日本三大野鳥生息地』と呼んだ[28]フランス人作曲家オリヴィエ・メシアンは、1962年に演奏会への出演のため初来日し、その際フランスの鳥類学者の勧めで『軽井沢野鳥の森』を訪れた[29]。そこで『七つの俳諧』の中の一曲『軽井沢の鳥たち』が誕生している。

初夏になると、カエルのような特徴的な鳴き声を発するエゾハルゼミが高原の夏の到来を告げる。ニホンリスは町内で比較的多く見られ、町獣に指定されている。またツキノワグマニホンザルイノシシなどは、人間に危害を加える恐れがあるため、町や、星野リゾートが設立したエコツーリズムの専門家集団「ピッキオ」らによって、日夜観察が行われている[30]

 
雪がうっすらと積もる冬の軽井沢

冬の降雪量はそれほど多くはなく、年最深積雪量は毎年30cm程度である[16]。かつては冬に軽井沢を訪れる者は少なく、その寂しい様子が夏の賑やかな様子と対比されて小説などに描かれることが多かった。教会神父や定住している外国人など、冬でも多少は外国人が残っていたため、その静寂で西洋的な雰囲気は堀辰雄らによって叙情的に描写された。

1970年代以降は、スキー場スケートリンクなどの娯楽施設や通年営業の店舗が増えたことから冬でも多くの観光客が訪れるようになった[31]。ただしそれでも冬季休業の営業形態を取っている店舗は未だ少なくなく[32]、また別荘客も夏に比べると明らかに減少するため、現在でも冬の軽井沢は鄙びた寒村の一面を見せる。

十二月二十四日
夜、村の娘の家に招ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達が沢山はいり込んでくるような土地柄ゆえ、普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。
堀辰雄『風立ちぬ[33](1938年)

軽井沢の風景編集

 
1880 - 1890年代の軽井沢(現在の『軽井沢プリンスホテルスキー場』付近から撮影)
 
浅間山を背景に、花の咲き乱れる草原で乗馬をされる明仁親王と御兄弟の正仁親王(1952年8月撮影。現在の『軽井沢乗馬倶楽部』付近(発地地区)と思われる)

避暑地草創期であった明治時代の軽井沢は、木々が殆どなく一面野原のような場所であったと言われている。実際、残されている古写真などを見ると、その多くに木々の少なさを確認することができる。1917年に大隈重信が野澤源次郎から土地を購入した際の登記簿[34]には、現在の泉の里や大隈通り付近が「原野」と表記されているため、行政文書からも樹木が少なく開けた土地であったことがわかる。

この風景は現在でも塩沢地区や発地地区など、主に町の南側の地域に残されている。なお明治期には川上操六が矢ヶ崎山南麓に牧場を経営していた(後にこの土地は根津嘉一郎の所有となり、戦後は国土計画に買収された)。

It was estimated that during the summer of the year 1906 there were over a thousand foreigners sojourning in the place, and the plain is dotted all over with wooden shanties, which give the place somewhat the appearance of a newly-established ranching centre on the foot-hill prairies of Saskatchewan or Alberta.(1906年の夏の間、この場所には1000人以上の外国人が滞在していたと推定されており、平野には、至る所に木製の小屋が点在しており、サスカチュワン州またはアルバータ州丘陵地帯の大草原に新設された牧場のような外観を与えています。)
アーサー・ロイド『Every-day Japan』[35](1909年)
真夏の暑さをしらない軽井沢の高原には、桔梗女郎草鈴虫草松虫草なんぞが見渡す限り咲いていた。それは誠に画になるような眺めであった。浅間の山は不断に煙を吐いて、夜は紅々と天を焦がした。この麗しい自然の懐に抱かれた澄子[注 6]は、しみじみと身の幸福を感じたのである。
柳原白蓮『荊棘の実』[36](1928年)
ぼうばくとした山上の原野であるだけに、伊香保箱根のようなデリケートな自然の味がない。樹木といえば落葉松にとと決まっているし、土はまばらで溶岩の粉末を見るようだ。総てはぼうぼうたる草原で、雑木林もあり、水もないことはないけれど要するに大陸的だと思われる。ここを外人が避暑地として択んだのは外人に適しているからなのである。
徳田秋声『私と避暑』[37](1928年)
それらの夏の日々、一面にの生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。
堀辰雄『風立ちぬ』〈序曲〉冒頭の一文[38](1938年)

ただし雨宮敬次郎鳥居義処、野澤源次郎、鹿島岩蔵らの尽力によりカラマツなどの樹木は明治期から積極的に植林されており、また外国人避暑客らが自分の庭に環境づくりや生垣としてモミ草花を積極的に植えたことで、今日の多くの道で見られるような並木道が形成されていった[39]

1910年8月に東日本全域を襲った大水害は、当時リゾート地として発展しつつあった軽井沢にも甚大な被害を与え、その壊滅的な状況から打開するために長野県庁林学者本多静六に都市計画を依頼、そして「軽井沢遊園地設計方針」が作成される。その方針には「樹蔭を増す」ことが盛り込まれており、それは後の野澤源次郎の植林事業に繋がっていくことになった[40]

またこの水害に関しては、当時軽井沢の別荘に滞在していた時の首相桂太郎に以下のような逸話が残されている。「桂公は水責めに遭って、軽井沢に籠城し、しみじみと風水害を体験され、帰途汽車の中から非常な水害の実況を見、ことに沿道の山がひどく崩れているのを見たので、帰ると早速、水害の対策を樹てることを命ぜられた。(中略)いま世間で治山治水ということをよくいうが、あれは桂公がいい出した言葉だと思う。それでいよいよ治水計画を立てることになった」(若槻禮次郎談)といい、桂の軽井沢での体験が後の日本の水害対策発展に寄与したのだという[41][42]

なお当時の軽井沢には桂以外に、西園寺公望が自身の別荘に、渋沢栄一成瀬仁蔵森村市左衛門が『旧三笠ホテル』に、そして広岡浅子が三井三郎助別荘にそれぞれ滞在しており、各々がその被害を目の当たりにしている。またこの水害によって、避暑客の間で別荘を高台に建築する風潮が高まり、旧軽井沢の愛宕山が別荘地として開拓されたとも言われている[43]

1916年に細川護立と徳川慶久がそれぞれ野澤源次郎から土地を購入した際の登記簿[44]には、現在の田辺レーンや細川レーン付近が大正期の時点で既に「山林」と表記されている。ほかにも昭和初期の雲場池周辺について、"昭和のはじめのころは人家もまばらでモミやシラカバやカラマツがあたりを支配しており、雲場の池より西南はキキョウやナデシコが咲き乱れる草原であった"といった旨の証言もある[45]

1921年に製作・公開されたサイレント映画路上の霊魂』は、大正期の軽井沢が映像として記録されている貴重な資料であるが(リンク先で閲覧可能)、その風景には山林と草原が交互に映し出されている。木々は比較的多く見られ、モミやカラマツは頻繁に登場するほか落葉広葉樹も多く確認でき、現在と比べて植生にそこまでの変化はない。

因みにこの映画は全編を通して軽井沢が舞台・ロケ地となっており[注 7]、当時の旧軽井沢メインストリート草軽電気鉄道の様子なども確認することができる。あるいは舞台として使用された別荘は、かつて旧軽井沢に存在した細川侯爵邸であり、その意味でも貴重な映像となっている。

また歌人窪田空穂は、軽井沢における外国人と日本人の好む環境の違いを以下のように記していた。

その辺一帯の碓氷の支脈寄りの傾斜地帯に彼らは別荘を構えている[注 8]。わが国人の別荘は浅間山寄り、離れ山の孤立した山の山裾に多く、これは平地を択んでいる。建築様式も一目にそれと見分けられるほどに異なっている。更に云えば、軽井沢は漠然と想像されるよりも遥かに広い地籍であるが、その広い地籍は殆ど全面的に、樅、落葉松、松などで蔽われており、加えて西北に緩やかに傾斜してある地盤のこととて、湿気が多く、霧の去来のはげしい地である。総じて陰鬱である。外人は樹木の多い、殊に陰鬱な地に、わが国人はその反対な、比較的明るい地にいるのである。わが国人にはまったくないものである。
窪田空穂『高原に集へる外人たち』[46](1946年)

異国情緒溢れる町編集

 
旧アンドリュース邸[注 9]の重厚な門構え
 
明治後期に「三泉寮(日本女子大学寮)」の大モミの樹の下で行われた野外劇ハーメルンの笛吹き男』(ロバート・ブラウニング作)の様子。
 
同じく明治後期に園田男爵邸の庭で行われた野外劇『ザ・プリンセス英語版』(アルフレッド・テニスン作)の様子。"西洋が舞台の演劇を、西洋人が軽井沢の自然を舞台にして行なっている"という事実は、まさしくこの地のエキゾチシズムの豊かさを表している。

独特な気候風土によって醸し出される西洋的な雰囲気から、日本を訪れる多くの外国人を魅了した。この地に滞在したフランス人は故国のボージュ山脈ドイツ人シュヴァルツヴァルト(黒い森)、もしくはバイエルン州アメリカ人ミシガン州あたりの風景を連想するという[48]

外国人に軽井沢を最初に紹介したのはイギリス外交官アーネスト・サトウであり、1881年のことである[23]。その4年後A.C.ショーとその友人J.M.ディクソンは、この地を偶然訪れた際に(サトウの書籍を読んで訪れたとも言われる[23])気候と風景をスコットランド或いはカナダに思わせ、その後ショーがこの地を生涯の避暑地としたのは、先に述べた通りである。

ケッペンの気候区分トレワーサの気候区分)によれば軽井沢は亜寒帯湿潤気候湿潤大陸性気候)に属し、科学的にはスウェーデンノルウェーなどの北欧の一部、バルト三国などの東欧と同じく分類される。町内の景勝地には、かつて西洋人から親しまれた愛称が現在でも呼び名として残っている(離山:Table Mountain、幸福の谷:Happy Valley、雲場池:Swan Lakeなど)。

当時の在留外国人は、現代の多くの場合(出稼ぎなどを除く)と異なり必ずしも日本に好んで訪れていたわけではなかった。そのため彼らが休暇先に求めていたのは、京都のようなエキゾチックで日本らしい土地ではなく、むしろ郷愁を誘う故国に似た西洋的な土地であった(またそういった土地は概して冷涼であった)。つまり安易に帰省することができなかった当時の彼らにとって、軽井沢は"第二の故郷"となったのである(逆に当時の日本人にとってはこの様相がむしろエキゾチックに感じられたのであるが)。また、日本全国に見られる他の外国人避暑地・別荘地は概してに面した立地であることから、軽井沢は神戸六甲山とともに国内山岳リゾートの草分け的存在でもある。

軽井沢を訪れる外国人の中には、中東アジア南米の人々も少なからず含まれていたが(ただしその多くは大使館員や公使館員であった)、大半は北米ヨーロッパ諸国の中流 - 上流階級白人であった(→#別荘所有者の転換(外国人から日本人へ)に記載されている表を参照)。宣教師お雇い外国人学者教師技術者などが、信仰を大切にし、健康で禁欲的な生活を続けたほか、大使公使などの外交官による、貴族的で華やかな生活も見受けられた[43]。神戸や横浜といった外国人居留地商人らも同様にして軽井沢に集い、贅沢な生活を送った[43]

避暑に訪れていた著名な宣教師としては、A.C.ショーのほか、セオドア・マクネア英語版ヘンリー・ルーミスアレクサンダー・ヘールジョン・ダンロップトーマス・ウィンディビッド・タムソンマーガレット・エリザベス・アームストロングイザベラ・ブラックモーアハンナ・リデルダニエル・ノーマンサムエル・フルトンなどがいる。プロテスタント系、聖公会系、カトリック系など様々であったが、彼らは軽井沢では教派の違いを気にせず生活した。1897年には旧軽井沢に超教派教会堂『軽井沢ユニオンチャーチ』が開設されている。

ショーハウス(復元)、ヘール別荘、ウィン別荘、タムソン別荘、アームストロング山荘(別名「亜武巣山荘」)は現存している。なおウィン別荘は後に歌人片山広子の所有となり、芥川龍之介や堀辰雄、室生犀星らが集った。セオドア・マクネアは、1894年に軽井沢に外国人専用の新築貸別荘「水車小屋の三軒別荘」を建設し、また彼の妻C.T.アレクサンダーは、1889年に日本初の林間学校を軽井沢に開設した。ハンナ・リデルの別荘は現存しないものの、避暑中に亡くなった愛犬プリンスの小さな墓が現在でも別荘跡に残されている。

アレクサンダー・ヘールは1911年夏、息子夫婦とともに軽井沢で避暑中に、浅間山の大噴火によって最愛の息子ジョンを亡くしている。アレクサンダーは悲しみの中で「これは神の御心であり、神の御業のあらわれである」と述べたという[49]。1916年7月には、カナダ人宣教師ウィリアム・キャンベル夫妻が避暑中に日本人の強盗によって別荘で殺害される「キャンベル夫妻殺害事件」が発生している。事件翌日に『軽井沢ユニオンチャーチ』にて葬儀が行われ、300人余が参列し喪に服した。

 
旧軽井沢の英国公使館別荘(1890年代)。フレイザー夫妻が滞在した。この建物が軽井沢における豪奢な別荘の先駆けであり、また外国人社会の頂点に位置するイギリス公使が軽井沢を訪れるようになったことは、軽井沢に"上流階級の社交場"という機能が付け加えられたことを意味していた[43]
 
「三泉寮」の大モミの樹の下で瞑想するタゴールと、彼の教示を仰ぐ日本女子大学の学生ら。

イギリス人語学者・音楽家エドワード・ガントレットは、指揮者山田耕作の姉山田恒子と1895年夏の軽井沢で出会い、結婚に至る[50]。ここで山田恒子は日本の法的国際結婚による初の英国籍取得者となった[50]アメリカの外交官ウィリアム・ジョセフ・シーボルドもまた、1926年夏にイギリス人法律家ジョセフ・アーネスト・デベッカーの娘エディス嬢と軽井沢で出会い結婚に至っている[51]

1916年の夏には、成瀬仁蔵の招聘によって来日していたインド思想家ラビンドラナート・タゴールが軽井沢を訪れ(三井三郎助別荘に一週間滞在)、「三泉寮」の大モミの樹の下で瞑想し「人類不戦」を説いた。駐日米国大使を務めたエドウィン・O・ライシャワー(宣教師A.K.ライシャワーの子)と妻の松方ハル松方正義の孫)は、どちらも幼少期からそれぞれ軽井沢に別荘があり[52][53]、またそのどちらも明治期の建物ながら未だに現存しているため軽井沢に縁の深い夫婦となっている。

外交官としてはほかにも、イギリスのヒュー・フレイザージョン・ガビンズベルギーアルベール・ド・バッソンピエール、アメリカのジョセフ・グルーなどが、戦前の夏を軽井沢で過ごしている[54][55][56]。中でもヒュー・フレイザーは、妻メアリーとともに1890年と1891年に夏季2ヶ月間ほど滞在した。メアリーは別荘を「Palace of Peace(平和の宮殿)」と名付け、ワインなど食料雑貨を東京から運んで来客をもてなしたり、友人を尋ねたりした。その滞在の様子は彼女の手記[57]に詳細に記されており、避暑地草創期の別荘生活を知る貴重な資料となっている。

駐日米国大使のエドガー・バンクロフトは、持病を抱えていたため軽井沢にある新渡戸稲造の別荘を静養先として利用していた[58]。バンクロフトは大使に任命されてから僅か1年後の1925年にその別荘で死去している。新渡戸のアメリカ人妻メアリーもまた、夫の死去後軽井沢に療養し、夫に遅れること5年後の1938年に別荘で死去した。なおこの新渡戸別荘には、生前に冒険家チャールズ・リンドバーグも滞在している。商館としては「セール・フレーザー商会」「レーン・クロフォード商会」「ファーブル・ブラント商会」「アンドリュース・アンド・ジョージ商会」などが軽井沢に別荘を所有し、またその多くは広大な敷地を有する豪勢なものであった[43]

アメリカの建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1920年に旧軽井沢に自身の別荘「九尺二間(現・「浮田山荘」)」を建設し、新婚生活の夏をその名の通り6坪程度しかないミニマルな山小屋で過ごした[59]。その後も夏には事務所機能のほとんどを軽井沢に移し、建築の仕事に邁進した[60]。またチェコの建築家アントニン・レーモンドは、1933年から1937年まで別荘「夏の家」(現・『ペイネ美術館』)で避暑生活を送り[61]、1961年からは第二の別荘兼アトリエ「軽井沢新スタジオ」で1973年に高齢のためにアメリカへ帰国するまで、毎夏滞在していた(この建物は現在、レーモンドの弟子であった建築家北澤興一が所有している)[61]

雲場池近くにある外国人墓地には、かつて軽井沢を愛した外国人や軽井沢で生涯を終えた外国人らの墓と十字架が並ぶ。その中には経済学ギャレット・ドロッパーズの妻コーラや、宣教師のジョン・ダンロップ、医師のN.G.マンローも含まれている。ドロッパーズ夫人の墓はこの墓地の中で最も古く、1896年に埋葬されている。マンローは、生涯に亘って軽井沢で夏期診療を行ない、また10年近くの年月を軽井沢で生活していたこともあるため[19]、その当地への著しい貢献から、遺骨は晩年を過ごした北海道二風谷に埋葬されるとともに、軽井沢にもその分骨が納められた。"軽井沢の村長さん"と呼ばれ親しまれたカナダ人宣教師ダニエル・ノーマンは、長らく軽井沢に居を構え、当地に骨をうずめるつもりでこの外国人墓地に墓所まで購入していたものの、戦局の悪化により本国への引き上げが勧告され、彼は「日本の土となる覚悟で日本に墓石を建てた私は母国に帰るというのにまったく好まざる他国へ行くと同様な哀しい気持ちである。」と言い残して1940年12月にカナダへ家族と共に帰国、その半年後に故国で死去した[62]

 
万平ホテル』資料館内に飾られている、レノン一家の軽井沢での一コマ。館内にはレノンが好んで弾いていたという1926年製のピアノも飾られている。

ジョン・レノンが音楽活動休止中の1976年から1979年までの4シーズン、オノ・ヨーコの祖父小野英二郎の別荘が軽井沢にあったこともあり、毎夏家族連れで長期間滞在していた(初訪問は1970年であった)[63]。故郷英国リヴァプールに似ていると感じ、行きつけのカフェに立ち寄った際には「この辺りに土地を買い軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという[64]。2012年頃から「ビル・ゲイツが千ヶ滝地区に別荘を建てることを予定している」と噂されたが、未だにその確証はない[65](個人邸としては破格の規模の工事だったため噂された。当の別荘は2017年頃工事機材が撤去され、一応の工事終了となった)。

Karuizawa is a remarkably pretty village, almost hidden in foliage, […] .(軽井沢は、ほとんど葉の茂みに隠れた、ことのほか美しい村である(後略)。)
アーサー・H・クロウ[注 10]『Highways and Byeways in Japan: The Experiences of Two Pedestrian Tourists』[67][68](1883年)
with its comparatively cool summer weather, its cold refreshing nights, its heavy air-clearing showers, its southern aspect, and its position close to some of the most picturesque mountain scenery of Japan, Karuizawa leaves little to be desired as a summer retreat.(その比較的涼しい夏の天候、その冷たく爽やかな夜、その空気を綺麗にする激しい雨、その南方の景観、そして日本の最も絵画的に美しい山の風景のいくつかに近い位置にある軽井沢は、夏の隠れ家としてはほぼ完璧である。)
カーギル・ギルストン・ノット『Notes on the Summer Climate of Karuizawa』[25](1891年)
And now I am writing in the most lovely study in the world. Over my head the pine branches meet in arches of kindly green […] underfoot a lundred layers of pine needles have been weaving a carpet […] .(そして今、私は世界でもっともすばらしい書斎で書いています。頭上にはカラマツの枝が快い緑のアーチをつくっています。(中略)足の下には百層にもなるカラマツの葉が敷物を織りなしています(後略)。)
メアリー・フレイザー『A Diplomatist's Wife in Japan: Letters from Home to Home』[69][70](1899年)
Like all historical places, Karuizawa retains a certain charm, and in summer its ancient groves are the favourite haunt of the nightingale(úguisu), […] .(すべての歴史的な土地と同様にして、軽井沢は特定の魅力を保有していて、夏にはその古代の森がナイチンゲール(ウグイス)のお気に入りの出没地となっています(後略)。)
ケイト・ローソン[注 11]『Highways and homes of Japan』[71](1910年)
ゴルフ場からニューグランドへの、清流に沿うてゆるやかにうねり行く山腹の道路は、どこか日本ばなれのした景色である[注 12]厚朴板谷などの健やかな大木のこんもり茂った下道を、歩いている人影も自動車の往来もまれである。
寺田寅彦『軽井沢』[72](1933年)
ともかくもまだ軽井澤には美しい森があるようだ。そんな森の中に、君に小さなヒュッテを建てて貰って、「喬木林[注 13]」や「晩夏」の中でボヘミヤ地方の美しい森を隅から隅まで描き尽したアダルベルト・シュティフテルのような物語でも書きながら、静かな晩年を送りたいとそんなことを僕に空想させるような、美しい森が、何といったって、すこし奥深く行きさえすれば、まだまだ軽井澤にはあるようだ。
堀辰雄『夏の手紙 〜立原道造に〜』[73](1937年)

戦時下の軽井沢編集

 
A.レーモンドが設計した『軽井沢聖パウロカトリック教会』の内部。堀辰雄は、ポーランド侵攻の翌日にこの教会でポーランド人の少女が故国を想い礼拝している横顔を見て、ドビュッシーの歌曲「もう家もない子供たちのクリスマス」を胸に浮かばせていた[74]

第二次大戦中には東條内閣下の公安当局によってスイス・フランス・イタリアドイツフィリピンなどヨーロッパ、アジア各国の大使館・公使館の疎開先となった[75]。これは当時の使節団の外交高官のほとんどが休暇用の別荘を軽井沢に所有していたためである(もう一つの主要な疎開先は箱根であった)[76]。しかし現在、その歴史が建造物として残されているのは旧軽井沢の三笠地区、前田郷内にある『旧スイス公使館』のみである。

『旧スイス公使館』については、当時の軽井沢の地元の人たちは戦前から外国人居住者と接することに慣れていたため公使館やスイス人コミュニティとも温かく接していたと伝えられている[76]。この公使館から1945年8月10日、ポツダム宣言受諾の打電を連合国側に送ったと言われている[77]。また当時この公使館から、カミーユ・ゴルジェドイツ語版大使らが終戦直前2カ月弱の間に19通も「イミュニテ カルイザワ(軽井沢を爆撃しないでほしい)」という謎の電報を連合国側に送っていたことがわかっている[78]筑波大学教授の花里俊廣は「国体皇室)をつぶすな」の意で使用していたのではないかとの解釈を示している[78]

戦時下は、数多くの外国人が敵性国民の疎開先として軽井沢に移り、事実上の軟禁生活を送った。終戦時には約300人の外交官、2千数百人の一般外国人が軽井沢に滞在していたと言われている。その中には指揮者のヨーゼフ・ローゼンシュトックマンフレート・グルリットピアニストレオニード・クロイツァーレオ・シロタ声楽家渡邉シーリヴァイオリニスト小野アンナ、学者のフリッツ・カルシュテオドール・シュテルンベルク英語版タレントロイ・ジェームス俳優オスマン・ユセフプロレスラーユセフ・トルコ野球選手ヴィクトル・スタルヒン画家ワルワーラ・ブブノワポール・ジャクレー料理人サリー・ワイルジャーナリストロベール・ギランなども含まれていた[29][79]

この時期については、連合国側に中立地帯として正式に通告していたことから空襲に遭う恐れこそなかったものの、軟禁中の厳格な監視下の圧力に加え、戦時中のために食料の供給が十分でなかったことや、軟禁生活の通年拠点が夏仕様の別荘であったことなどから、非常に厳しく過酷な生活であったと伝えられている[80]。特に終戦直前の1945年7月には外国人の強制疎開が強化され、それにより受入大勢が整わぬまま東京大空襲などで首都圏から追い出された外国人が軽井沢になだれ込むなど、現場は混乱を極めた[81]。これらの苦々しい出来事が戦後における外国人避暑客減少の一因とも考えられる。ただし、そのなかでもポール・ジャクレーは戦後もこの地を離れることなく、生涯を終える1960年まで軽井沢に残り絵を描き続けた[82]。なお戦時中のシロタ夫妻の疎開先となった別荘は、1923年に小説家有島武郎が愛人波多野秋子と心中した舞台「浄月庵」[注 14]であった[83]。1945年12月、娘ベアテはこの別荘で憔悴しきった母と4年ぶりの再会を果たしている[80]

1938年8月にはヒトラー・ユーゲント30名が来訪し、近衛文麿が当地で歓迎会を催した。太平洋戦争の機運高まる1941年8月にはオイゲン・オットリヒャルト・ゾルゲも来訪し、町内を視察している。また、近衛文麿、鳩山一郎来栖三郎向井忠晴内田信也伊沢多喜男寺崎英成砂田重政川崎肇東郷茂徳坂本直道といった政財界の重鎮らも外国人とともに数多く疎開し、日夜和平工作に関して私的に会談が行われていた。上皇后美智子もまた、学童疎開により一時軽井沢に疎開、当地で終戦を迎えた。東郷茂彦東郷和彦朝吹由紀子は、母親である東郷いせ朝吹登水子が軽井沢に疎開していたため、戦時中に先述の『軽井沢サナトリウム』で誕生している。

流人のように惨めな境遇に落とされたにも拘らず、軽井沢に移った当初わたし達は、まことに快適な愉しい気持になれたのでした。(中略)折からの新緑に包まれていた風光は中部ロシアの初夏を憶い出させてくれましたし、東京の騒音、空襲警報のサイレン、それに警察や憲兵の圧迫がないことが何よりわたし達に蘇生の思いをさせてくれ、(中略)たのでした。だが、しかし、まだ喜ぶのはまだ速すぎたのです。それというのはやがて特高憲兵たちもまた大挙して移駐して来たからであります。そして彼らの東京時代に輪をかけたような禁令と監視とが、精神的にも物質的にもわたし達を非常に惨めな生活に陥れて行ったからです。
ヴェ・ブブノーワ[注 15]『戦時下日本での私達』[84](1955年)
われわれの士気にもっと悪い影響を及ぼしたものは、われわれ追放者たちが毎日-そして毎夜-感じていた身の不安であった。戦争が刻々日本へ迫って来るにつれ、特高は増々神経を尖がらせ、誰も彼もが皆容疑者になってしまった。(中略)だが、軽井沢の住人は概していつでも友好的であるか、少なくとも外国人に対しては無関心であったことを強調して置きたい。
ヨーゼフ・ローゼンシュトック『ローゼンストック回想録――音楽 はわが生命(中村洪介 訳)』[85](1980年)

別荘所有者の転換(外国人から日本人へ)編集

1924 - 1925年の軽井沢における避暑客国籍別内訳と別荘数[86]
年次/国籍 日本 アメリカ イギリス ドイツ 中国 カナダ スウェーデン オランダ フランス ロシア イタリア ベルギー その他 合計(人)
1924年 4,357 614 250 113 69 38 19 7 6 4 3 1 11 5,502
1925年 4,522 578 251 129 74 48 22 5 22 18 6 6 27 5,708
別荘戸数(戸) 日本人429 外国人220 合計649(学校及び団体は除外)

1918年以降、別荘用地の外国人から日本人への転換は、年間2名から3名のペースで増加した[43]。その主な要因としては、第一次大戦後の日本経済の伸長(大戦景気)による日本人の購買力上昇が挙げられる。またその反動から、封建領主や新興資本家が避暑客の新たな主導権を握ったことで、宣教師の求める質素で清貧な理想像から軽井沢が乖離していったことや、日本国内の物価が高騰したことにより本国からの送金に依存する宣教師の生活費が目減りし、以前と同水準の生活を送ることが困難となったことも、外国人(中でも宣教師関連の外国人)減少の要因として考えられる[43]

A.C.ショーの妻マリーアンは、ショーの死後も軽井沢に子供とともに避暑に訪れていたが、1921年にカナダへ帰国してしまう。政治家尾崎行雄はそのことについて自身の随筆に「〔ショウの未亡人は〕余程日本が気に入ったと見えて、自分は生涯日本で暮らすと云ふて居ったが、前の大戦以来日本の物価が非常に高くなったので、何を比べてもカナダの方が安いと云ふて、大正10年頃カナダに帰ってしまった」と記している[43]

また尾崎は、1929年の随筆には「例年日光中禅寺に避暑する外人は、外交官か富豪か、いはゆる社交場裡の人が多い。故に社交的往来及び礼式等も多少うるさいが、軽井沢では、宣教師、学校教授、その他質素な知識階級の人が多く来る故に、万事質素で且つ気楽だ」としていたが、1940年頃になると「〔軽井沢は〕今では日本人が大分多くなって、西洋人を漸次駆逐している。金持ちが沢山入り込んで必要以上に広い土地を買い、豪奢な別荘を建て、贅沢な生活を始めたので、物価なども高くなり、俗悪にもなって来たことが西洋人を駆逐した原因であろう」と記しており、彼の軽井沢に対する印象に変化が現れている[43]。小説家の徳田秋声は、その軽井沢が変化しはじめた時期の様子について自身の随筆に以下のように記した。

家でいうならテント生活より少し進化したくらいの建物があの原野の生活にはもっともふさわしいのだし、服装や何かも屋外生活に適当したものを択ぶのが至当である。(中略)不用以上の土地の買占めはもちろん、建築なども制限を加えて、キャムプ生活に毛の生えたようなものにしたい。幸いに軽井沢には大して悪いブルヂヨウア気分はまだ入っていないようであるが、(中略)随分大きな土地を占めているぜい沢な別荘もあるようである。風紀は善良だが、ブルヂヨウア気分が入っていないとはいえない。
徳田秋声『私と避暑』[87](1928年)

また、避暑人口の増加に伴い外国人同士の間でも形式的な雑事が多くなったことや、軽井沢の地理的特性上「水」環境が悪く生活用水源や水辺レクリエーションが限られていたことなどから、先述の要因と併せて、軽井沢の外国人宣教師の一部が、1920年に野尻湖畔に別荘地「神山国際村」を開発して集団で転居する事例が発生している[88]

実際、軽井沢が国内外に避暑地として知られるにつれ、毎夏宣教師が日本各地および東アジア各国から集まり、教派を超えて布教活動や現地情報などを交換する大きな会議が頻繁に開催されていた[43]。野尻湖に移った宣教師の一人であるW.R.マクウィリアムズは 「のきいたシャツを着て、形式張ったお茶会や、1週間に7回もの会議に出席することから逃れるために、浅間山に登る必要がなくなる。野尻湖へ行こう。野尻湖では眉をしかめられることなしに一夏を水着で過ごすことができる。」と述べた[88]

以上のように、大正 - 昭和初期にかけて、日本人界隈においても外国人界隈においても軽井沢はハイソサエティな場所として映りはじめていた。明治期の時点で既に高級ホテル『旧三笠ホテル』が建設されていたほか大使館・公使館や外国商館が少なからず軽井沢に豪勢な別荘を所有していたとはいえ[43]、もっとも現在見られる高級別荘地としてのイメージはこの時期に形成されたと言える。

ただし外国人の数としては、1936年の別荘案内図には未だ外国人名義の別荘が数多く見られ(旧軽井沢に150 - 200軒程度)[89]、その後も戦争に突入すると先述のように疎開によって国際色がより強くなるなど、終戦直後までは軽井沢が未だ異国情緒溢れる特殊な町であったことに疑いの余地はない。本格的に外国人避暑客が減少したのは、戦後に入ってからである。 この変化には、前述したような疎開時の苦々しい経験による軽井沢のイメージダウンや、交通インフラや情報技術の発達による生活様式の変化、あるいはアンノン族の来訪に代表される軽井沢の急激な観光地化など、様々な要因が考えられる。

別荘文化編集

「娯楽を人に求めずして自然に求めよ」と。
これが軽井沢の至る所において叫ばるる言葉であって、唯一の主張また方針である。故にこの主張と方針の下に、避暑地として世に知られてより、今日に至るもなお芸娼妓[注 16]を許さずまたこの種の婦人を容れずして、飽くまでも善良なる風習を保つに腐心するは、これ他の避暑地に誇るべき所以の第一である。
佐藤孝一[注 17]『かるゐざは』[91](1912年)

現代における一般的な別荘の利用方法である週末連休のみの滞在と異なり、かつては初夏になると生活拠点を完全に別荘に移し、秋口にかけて生活していた。つまり避暑客は長ければ半年近くをその地で過ごすことになり、彼らの生活様式が地域に文化として定着するのは決して不思議なことではなかった。

「軽井沢ブランド」の形成編集

軽井沢は、他のリゾート地熱海伊豆箱根、日光、那須等)と同様に「別荘地」「観光地」「居住地」の3つの性質を持つ地域である。ただし一般的な「居住地」としての用途は低く、「別荘地」と「観光地」が主な面である。他のリゾート地と比べ「別荘地」としての都市イメージが非常に高い地域であり「軽井沢ブランド」とも呼ばれている[92]

中でも宣教師がもたらしたキリスト教精神は、「軽井沢ブランド」の方向性を大きく決定づけることになった。自治組織『軽井沢避暑団(現・軽井沢会)』によって1916年に"善良な風俗を維持し清潔な環境を築く"ために制定された「軽井沢憲章」は、現在に至るまで守り続けられている。町内における風俗営業歓楽街の排除は現在でも続けられているほか、かつては避暑外国人の自治会が品物の原価を調べて売値を制限したり、あるいはキリスト教の教義に従って、日曜にはテニスコートを閉鎖したり商店に休業を求めたりもしていたという[43]

またこのキリスト教精神によって、富裕層の来訪はノブレス・オブリージュと結び付けられ、また作家たちがそういった雰囲気を美しく描写したことで、よりいっそう軽井沢が「文化の理想郷」のイメージとして大衆に普及、固定されていった[93]。ちなみに、滞在者たちは軽井沢では"正式な"家族と和気藹々とした時間を過ごすことから、富裕層らの女遊びに対して皮肉を交え、軽井沢が「正妻の町」と呼ばれることもあるという[94]

「同じブルジョアでも軽井沢へ行く人は、ちょっと違うようだな。皆んな変な洋服を着たような奴ばかりで、ぞろり[注 18]とした風をしてるものはいないそうで。芸者だとみると、何なに素人風をしていても追払うんだって。だから子供なんかつれて行くにはいいんです。御父さんなんかにや実に詰んないところだそうだ。是非一度来てみろというから…。」
徳田秋声『暑さに喘ぐ』[95](1926年)
村には数軒の純洋風のホテルがあり、毎週そこで舞踏会が開かれ、あをあをと芝生の起伏したゴルフ・リンクスでは、キャディが球を追ひ駆けてゐる。小川にそった繁みの奥には、静かなサナトリウムがあり、教会では日曜日毎に賛美歌が歌はれる。日曜日には本通りの店屋も、多くは戸を閉め、何時も賑やかなテニス・コートもひっそりとして、村ぢゅうが休憩をする。村を避暑地として開拓した宣教師たちの風習が、謹厳な古風な秩序となって残ってゐるのだ。
丸岡明『生きものの記録』[96](1935年)

一方で理想的な軽井沢を創造していくにあたって、宣教師たちは憂慮や苦悩も経験していたようである。イギリス人宣教師パゼット・ウィルクスは、"軽井沢はキリスト教が布教されやすい土壌であるにも関わらず住民にはほとんど布教されていないこと"、また"軽井沢の住民が外国人向けの商売に専念し宗教に全く興味を示さないこと"などを以下のように悲嘆している。ここに神戸や横浜などの外国人居留地とは異なる、避暑地・別荘地特有の様相を見て取ることができる。

KARUIZAWA, June 6, 1912. -Here I am in Karuizawa-a village of about 750 people, dirty, untidy, wicked, and irreligious. The one and only temple has been turned into a school ; their god is their belly ; they make all the money they can during the two summer months when nearly 1000 "foreigners" come for their holiday. They spend the remaining ten in gambling their takings. Such a place ought to be an excellent pond for Gospel fishing ; but, alas ! the inconsistencies of us foreign missionaries, many of them real no doubt, but more of them imaginary ; […] .(1912年 6月6日 軽井沢にて。私はここ軽井沢にいます。約750人の村で、〔住民たちは〕さもしく、いい加減で、不道徳で、信心深くありません。唯一の寺院が学校になりました。彼らの神は彼らの食欲です。彼らは、休暇のために1000人近くの「外国人」が来る2つの夏の月の間にできる限りのお金を稼ぎます。彼らは残りの10を賭けに使う。このような場所は、ゴスペル釣りに最適な池になるはずです。しかし悲しいかな ! 私たち外国人宣教師の矛盾、彼らの多くは間違いなく本物ですが、しかしその多くは虚像になっているのです(後略)。)
パゼット・ウィルクス『Missionary Joys in Japan』[97](1913年)

また、軽井沢では飲食店が別荘地内に点在していたり、旅行ガイドブックに掲載されている散歩コースやサイクリングコースが別荘地内を通っていたりと、他の別荘地に比べ混在住宅地の様相を見せている。この構造は、観光客というパブリックな視点が生まれることで住民の生活意識向上、地域のブランド力向上に働く。そのほか観光客へのプロモーション意識が景観維持・都市イメージ維持に貢献するなどの利点がある。

しかし一方では地域文化と観光資源の境界が曖昧なために治安悪化や観光公害、オーバーツーリズムなどの影響を特に受けやすく、大衆化・俗化が進行する恐れがある[98](実際には、上記の利点も寄与することからその作用は拮抗することが多く、軽井沢町も条例を定めるなどの対策を講じ過度な商業化の抑制に努めている)。

別荘の所有率は普通世帯全体のわずか0.7%であり[99]、また年収2000万円以上の世帯においても7.6%という割合に留まりながら[100](前者は2019年、後者は2008年のデータ[注 19])、町内に存在する別荘数は2015年の時点で1,5835戸(学校寮、会社寮を除く)となっており[101]、町内における持ち家数5,717戸[101]と比較すると圧倒的に別荘数の方が多く、明らかに特殊な町となっている。固定資産税の比率も別荘所有者が70 - 80%の割合を占めており、軽井沢町は、別荘とそれに付随する観光で成り立っている町と言えるのである[102]

しかしながら、地域政策の場面において別荘所有者の発言力が限定的になっていることが指摘されており、近年では「軽井沢ブランド」の低下が危惧されている[102]。なお別荘数の推移は、2010年から2019年までのデータでは常に緩やかな上昇を記録している(学校寮、会社寮は共に減少)[101]

別荘コミュニティ
軽井沢には、『軽井沢会』をはじめとした別荘団体が複数活動している。これらはかつての「外国人同士の情報交換の場」から「(サロン的な意味合いを持つ)別荘所有者同士の交流の場」へと変容しており、この別荘コミュニティが「軽井沢を特色づける文化」とされている[103][104][105]。ただし実際には、他の地域においても少なからず別荘コミュニティは存在しているため、歴史の長さ・格式の高さとしての特色が強い。
町内には別荘地が数多く存在し、またその多くは明確に区分されているにも関わらず、町全体を一つの別荘地として認識しコミュニティが形成されているのも他方の特色として挙げられる[106]。その多くが任意団体であるが、会員制や紹介制といった排他的な構造を有するために軽井沢のブランド力向上に一定の役割を果たしている。
また上記の機構から会員は"軽井沢に別荘を所有する者の代表者"的な意味合いを含み、一般的な住宅地でいう町内会としての役割も担っている。オープン外構(塀を造らないこと)は、別荘コミュニティの形成に重要な働きを持つほか、パブリックな視点が生まれることで混在住宅地と同様の効果をもたらす。ただしいずれもかつて宣教師から持ち込まれた[107]プライバシー」という認識が存在するが故に成立するものである。
軽井沢の隣人としては私は西洋人の方が好きである。この高原の習ひとしての色彩でもあるし、井戸端会議的に家のなかを覗かれなくて気楽だからでもある(後略)。
川端康成『高原』[108](1939年)
日本人別荘族
 
大正期に『旧三笠ホテル』で開かれた晩餐会の風景。写る人物は、西尾忠方、近衛文麿・千代子夫妻、徳川慶久・實枝子夫妻、里見弴、有島武郎、毛利高範夫人賢子、徳川義親、山本直良・愛夫妻、黒田長和・久子夫妻。なお彼らのほとんどが血族・姻族の間柄である。
大正期以降皇族エスタブリッシュメント文化人など数多くの日本人に愛され、現在でも通りや小径にその場所にゆかりのある人物の名が付けられている。明治期における日本人別荘所有者としては、八田裕二郎島田三郎末松謙澄小坂善之助今井寿道増島六一郎などがいた[43]
また軽井沢町立図書館に収蔵されている1926年/1930年/1936年の別荘地図[86][109][89]には別荘所有者の名が別荘番号とともに併記されているが、そこには近衛公爵、徳川公爵(慶久)、大隈侯爵、徳川侯爵(義親)、徳川侯爵(圀順)、細川侯爵、前田侯寺島伯爵林伯爵松平伯津軽伯爵藤浪子爵加藤子爵福原男爵、三井男(小石川家)、園田男爵、松井男爵、鳩山氏、田辺氏益田氏正田貞一郎小野英二郎、尾崎行雄、朝吹常吉跡見女史御木本幸吉藤瀬政次郎戸野周二郎山本条太郎神田鐳蔵芳賀博士、新渡戸博士、青山博士長與博士小野塚博士河本博士佐々木博士竹田宮伏見宮など、錚々たる面々が旧軽井沢一帯に名を連ねている。
また水戸市徳川ミュージアムに収蔵されている、大正期に撮影されたと思われる軽井沢でのとある一枚の集合写真[注 20][110]には、三井家(本村町家2代目当主弁蔵・栄子夫妻と弁蔵の弟)、近衛家(文麿・千代子夫妻)、鍋島家(直映と子直泰)、細川家(護立・博子夫妻と子護貞)、朝香宮家(鳩彦允子夫妻と子孚彦正彦)、徳川圀順、前田利為、北白川宮輝久が一堂に会しており、かつての軽井沢における社交界(別荘コミュニティ)の様子をうかがい知ることができる。
中軽井沢の千ヶ滝地区には朝香宮鳩彦王の別邸があったが(1928年竣工)、1947年に西武へ売却され改装の末『千ヶ滝プリンスホテル』として開業された。この出来事が現在全国展開されている『プリンスホテル』の名前の由来となっている[111]。因みに親戚の北白川宮永久王もほぼ同時期に中軽井沢の古宿地区に別邸を建設している[112]
戦後には三笠宮崇仁親王が旧軽井沢の三笠地区に別邸を建設しており(1955年竣工)、2016年に薨去するまで静養先として頻繁に利用していた[113]。なお上皇明仁が御用邸がないにも関わらず頻繁に軽井沢を訪れるようになったのは、彼の少年時代の家庭教師エリザベス・ヴァイニングが軽井沢に別荘を所有していたことが、そのきっかけとして大きい。
政治家の尾崎行雄は、自身のキリスト教入信における洗礼の執行者であったA.C.ショーやイギリス人の母を持つ妻セオドラの影響もあって軽井沢を頻繁に訪れ、1914年には別荘を建設、「莫哀[注 21]山荘」と名付ける[114]。そして1936年の『軽井沢避暑地50周年記念式典』の際には尾崎は名誉総裁を務め、式典会場である『軽井沢ユニオンチャーチ』の広場前でスピーチを行なっている[115]
また上記に述べた以外にも加藤高明佐藤栄作田中角栄三木武夫大平正芳中曽根康弘宮澤喜一などがかつての別荘所有者として挙げられ、歴代内閣総理大臣のほとんどが軽井沢に別荘を所有していたとも言われる[116][94]。『旧三笠ホテル』は、こういった特権階級が集い外国人を交えて舞踏会やパーティーが頻繁に催されたことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも言われた。なおこのホテルでは世界的バレリーナアンナ・パヴロワが踊ったこともあった。
一方で上記に挙げたような特権階級のみに限らず、軽井沢は中流階級にも早期から積極的に開放されていた。貸別荘業の歴史は古く、1893年[23]に鹿島岩蔵が外国人向けに始めたことをきっかけに、1912年には半田善四郎が、1918年には堤康次郎が、1933年には前田栄次郎が本格的に日本人向けの貸別荘業を開始し、別荘購入に手の届かない中流階級に対して軽井沢の別荘文化を発信、リゾート地開発を発展させた。またそもそも避暑地軽井沢を開拓した外国人宣教師は、本国では中流階級に属する階層であった[43]
前田栄次郎が開業した前田郷では、未だ宿泊は1ヶ月からの長期利用のみとなっており、伝統的な西洋式避暑・別荘生活を推奨している[117]。あるいは近年ではタイムシェア型の別荘も増加しており、比較的低価格で別荘所有・長期滞在が可能となっている。箱根園函館大沼でも大規模に展開されている『プリンスホテル』のレンタルコテージも1973年に『軽井沢プリンスホテル』で初めて運用され、別荘生活に近い宿泊方式が提供された。
芸術家としては、古くは有島武郎や山本鼎沖野岩三郎、室生犀星、川端康成、堀辰雄、正宗白鳥、片山広子、与謝野鉄幹晶子夫妻などが軽井沢に別荘を所有していたが(また彼らの多くは『つるや旅館』を初期の滞在先として利用していた)、西條八十河上徹太郎横溝正史阿川弘之遠藤周作辻邦生吉川英治柴田錬三郎小山敬三梅原龍三郎野村胡堂など、戦前から戦後にかけてその数は急増し、枚挙にいとまがない[118]
1920年夏、教育者・芸術家の西村伊作は与謝野鉄幹・晶子夫妻、石井柏亭河崎なつらと避暑中の軽井沢で相談し、翌年東京に文化学院を創立した。その旧校舎の外観は、軽井沢の『ルヴァン美術館』に再現されている。
1921年には星野温泉敷地内の材木小屋で「芸術自由教育講習会」が開かれ、内村鑑三北原白秋巖谷小波弘田龍太郎鈴木三重吉島崎藤村らが教鞭を取った[119]。彼らはやがて隣接する森に別荘を構え、あるいは別荘を借りて、夏は軽井沢で創作に励んだ。その材木小屋が現在の『軽井沢高原教会』のルーツとなっている。因みに星野温泉は、1957年に敷地内の音楽ホールで「二十世紀音楽研究所・現代音楽祭」が開催され前衛音楽家らによる講演・演奏会が行われるなど、数多くの文化活動の拠点となっている。
1955年には、政治家の森清実業家小林利雄御木本美隆月光荘創業者の橋本兵蔵、作曲家の服部良一洋画家脇田和猪熊弦一郎、建築家の谷口吉郎らが資金を出し合い、旧軽井沢に長屋形式の別荘「画架の森」を建設、夏の休暇を家族ぐるみで共に過ごした[120][121]。洋画家の深沢省三紅子夫妻は、堀辰雄の初期の別荘「1412番山荘」を堀の没後、夏のアトリエとして利用していた(軽井沢高原文庫内に移築、現存)。
政治学者であり軽井沢の地主でもあった市村今朝蔵は昭和初期に南原地区を開拓し、「南原友達の村」を構想、松本重治蝋山政道我妻栄ら数多くの学者仲間がその地に別荘を構えるようになる[122]。そのメンバーの一員であり自治組織「南原文化会」の会長も務めた経済史学者の松田智雄は、画家の田部井石南と共に1965年に追分地区に新たに「藤石学者村」を創設、また追分地区には他にも「追分文化村」があり、数多くの学者や芸術家が別荘を所有した。
1907年、歌人の岡本かの子は父とともに追分の『油屋旅館』で避暑生活を送った。そこで同じ宿に滞在していた東京美術学校生と親しくなり、その縁から後に夫となる岡本一平と出会うことになった。1918年には、離山の麓で「軽井沢通俗夏季大学」が開設され、総裁に後藤新平が、学長に新渡戸稲造が就任し、軽井沢に別荘を所有する学者や外国人教師によって講演が行われた[123]。この催しは「軽井沢夏期大学」として現在でも継続されており、2018年には創立100周年、第70回目の開催を迎えた[124]
芸能関係の人物の来訪も戦後増加し、歌舞伎役者や映画俳優・女優、タレント、ミュージシャンらの別荘は数多い。
このように、人種社会階層に関係なくあらゆる"健全な"人々に対して来訪を許容していた軽井沢のその古くからの土壌が「軽井沢ブランド」を確立させたと言え、そしてまたその土壌はキリスト教の自由主義平等思想から生まれたものであった[43]。現在でも、上記に挙げた人物らの子孫や関係者をはじめとして数多くの人々が軽井沢に滞在している。
やがて日本人の贅沢な避暑地となり、外人も大公使館員や商人が入り込むにつれて、宣教師達の山小屋風の別荘は追々日本人の手に買い取られてゆくけれども、秩序と公徳とを尊ぶ宣教師達の美風は残つてゐて、今も割と静かな賑わひである。
川端康成『高原』[125](1939年)

西洋的な余暇・文化の定着編集

大正期以降外国人避暑客は減少傾向を見せ、それと引き換えにして日本人避暑客の来訪は増加していったが、日本人が増えたとは言っても、軽井沢が当時の日本の中で特殊な場所であったことに変わりはなかった[126]。むしろ軽井沢を訪れる日本人は、既に自分たちの意識の中に固定されていた軽井沢のイメージに従って、ここに住む西洋人と同じような生活を演ずる風にさえ見受けられた[126]。軽井沢は日本にありながら日本らしくない土地であり、非日本的イメージを保ち続けた不思議な場所だったのである[126]

レクリエーション/スポーツ
 
テニスコートでテニスを楽しむ避暑客ら。写真奥の建物はかつて旧軽井沢に存在した『初代・軽井沢教会(現・日本基督教団軽井沢教会)』
 
雲場池[注 22]で水遊びする外国の少女たち
ハイキングやサイクリングは古くから親しまれ、古写真や文学などにその姿を認めることができる。テニスコートは、『軽井沢会テニスコート』が明仁(当時皇太子)と正田美智子(上皇后美智子)が出会った場として知られており[127]、歴史も非常に古い(1892年創設)。
明治期に西洋式余暇を企画・運営していた団体は、そのほとんどが外国人専用であったにも関わらず、軽井沢では日本人にも解放されていた[128]。明治期の「軽井沢テニスクラブ」日本人入部者としては、西尾忠方、黒田長和、松平慶民竹屋春光などがいる。朝吹常吉の妻朝吹磯子は、関東大震災の影響で軽井沢の別荘に逗留していた際、原田武一からテニスの手解きを受けたことでテニスに夢中となり、後に日本女子テニス界の草分け的存在となる[129]
ゴルフ場は、1919年に『旧軽井沢ゴルフクラブ』が創設されて以降開発が進み、1976年には総数147ホールに達した[130]。『旧軽井沢ゴルフクラブ』と共に名門ゴルフコースの一つである『軽井沢ゴルフ倶楽部』では、白洲次郎が理事、理事長を歴任した(1951年に理事、1982年に理事長に就任)[131]。当時首相であった田中角栄が会員ではないために、白洲にプレーを断られたというエピソードがある[132](田中は後に会員となり、白洲と共にプレーしている)。1987年からは、女子プロゴルフ選手権「NEC軽井沢72ゴルフトーナメント」が毎夏『軽井沢72ゴルフ北コース』で行われており、夏の風物詩の一つとなっている。
他にも野球クリケットバスケットボール水泳登山ピクニックなどは、かつての軽井沢では親しまれた。1908年には、これらのスポーツ組織が集まって「軽井沢運動協会」が結成されている。第126代天皇の徳仁は「山好き」として知られているが、人生で初めて登った山は、5歳のとき父・明仁に手を引かれ足を踏み入れた、離山であった[133]
ウィンタースポーツとしては、スケートリンクは1920年代には既に町内でその存在が確認できるものの[86]、スキー場は降雪量の少なさ故に後にも先にも1973年に開設された『軽井沢プリンスホテルスキー場』(人工降雪機を使用)のみである。
移動手段が馬であった頃は駅前に貸馬屋が数多くあり、駅から距離のある『旧三笠ホテル』などに馬車での送迎が行われていた[134]乗馬は、かつての西洋人の娯楽として、また上流階級の嗜みとして、ゴルフやテニスとともに軽井沢では人気のスポーツであった。尾崎行雄や江木欣々の軽井沢における乗馬振りの華やかさは一種の名物であったという[21]。明治 - 大正期から続く歴史のある乗馬クラブなどは現存しないが、現在でも町内に数件ほど乗馬施設がある。なお1964年の東京オリンピックでは、軽井沢で総合馬術競技が行われている。
 
かつて旧軽井沢に存在した近衛文麿別荘[注 23]とその前に佇む高級車イスパノ・スイザ(1940年7月撮影)
道路のインフラが整備されて以降は自動車イベントの開催地としても使われはじめた。軽井沢では大正期の時点で既に付きの自動車やブガッティなどのオープン・スポーツカーが数多く見られたといい[135]、そういった自動車文化と古くから縁のある土地柄から、特にクラシックカーイベントは町内で春から夏、秋にかけて毎年頻繁に催され、その西洋的な情景は人気を集める[136]
政治家の細川護煕によれば、軽井沢に初めて自動車を乗り入れたのは、ハイカラとして知られた父方の祖父・護立であったといい、別荘敷地内にある並木の中を愛車で走り回っていたという[137]。護煕はまた、母方の祖父・近衛文麿の自動車で軽井沢に訪れることも多かったといい、その道中における当時の碓氷峠の道の悪さを冗談交じりに回顧している[137]
白洲次郎は、晩年においても自ら愛車ポルシェ・911を駆り自宅から軽井沢へやってきたという[138]自動車評論家小林彰太郎は、雑誌の取材に対して「クルマのない軽井沢ライフなんて」と述べており、愛車のブガッティ・タイプ23 ブレシアオースチン・7で別荘周辺をよくドライブしていた[136][139]。世界的フェラーリコレクターの松田芳穂もまた軽井沢にガレージを所有し[140]、自身の別荘でフェラーリ社公認オーナーズクラブ(FOCJ)のミーティングが行われることもあった[141]
2019年にイギリスのマイケル・オブ・ケント王子英国王族として初めて軽井沢を訪問した際には、自らアストンマーティンベントレーのハンドルを握り町内をドライブ、そして「軽井沢は、その立地、美しい風景、そして日本でのクラシックカーへの関心の高まりを考えると、コンクール・オブ・エレガンス[注 24]を開催するのに理想的な場所になるだろうと確信しています。」とコメントした[142]
また浅間山麓の高峰高原で毎年開催されている『浅間ヒルクライム』は、星野温泉の初代経営者星野嘉助(3代目)が尽力した二輪レース『浅間火山レース』に端を発しており、現在でも親族の一人星野雅弘が実行委員長を務めている[143]。なお軽井沢の星野家宅には、先述の小林彰太郎や松田芳穂など自動車業界のビッグネームたちが日常的に入り浸っていたという[144]
 
別荘の庭で食事会を楽しむ宣教師のノーマン一家とウォーラー一家(大正初期)
ブラッスリートラットリアなどの飲食店パンジャムを販売するベーカリーは観光スポットの中でも特に人気である。初期にこの地を訪れた西洋人たちは、地元の農家に清澄な土地に合ったレタスキャベツといった高原野菜の栽培法を教えた。これらは浅間高原の清涼な気候と風土に適していたため、その生産高は年を追う毎に増大し、それまでのヒエアワなどの雑穀類生産の細々とした農業から、今日ある高原野菜へと転換していった[145]
また同時に自国の料理レシピも彼らから教えられ『万平ホテル』や『旧三笠ホテル』で振舞われることになるが、別荘住民や観光客が増加するにつれて需要は高まり個人的に出店する店が増えていく。そしてこれらの店の多くは宿場町時代の旧道に連なり、商店街(旧軽井沢メインストリート)として隆盛していった。
町内で最も歴史のある店の一つとして1905年創業の『中山のジャム』があり、生前に新渡戸夫妻が贔屓にしていたことでも知られる[146]。ドイツ人実業家のヘルマン・ウォルシュケは、軽井沢を故郷ドイツに似ていると感じ1930年代に移住、戦時中の野尻湖畔での疎開を経て、1950年に、軽井沢に自身の精肉店『ヘルマン』をオープンした[147]。ウォルシュケの身は死後、東京都狛江市のほか先述の軽井沢外国人墓地にもその分骨が埋葬された。
現在でもウォルシュケ直伝の製法を受け継ぐ店『軽井沢デリカテッセン』が軽井沢で営業しており、この例のように外国人から学んだレシピを今日でも受け継いでいる店は少なくない。ジョン・レノンが『万平ホテル』のカフェに英国流ロイヤルミルクティーの製法を教えたことは、近年の逸話として知られている[148]
飲食店の多くは駅前よりも別荘地近辺に多く、またその大半は西洋料理である。日本のフランス料理界を牽引した山本直文辻静雄は、頻繁に軽井沢を訪れ、軽井沢の食文化の発展に貢献した。気候が西洋に似ているとして、材料を自家栽培している店があるほか、都市圏の人々が別荘に来るため、東京などから出店する形を取っている店もある。
価格設定も都市圏と変わらず、巷では「東京24区」「軽井沢値段」とも言われている(別荘住民の金銭的余裕からという理由もあるが、観光的な面からも価格設定は概ね高めとなっている) [149]。近年では逆に、軽井沢で開業した店舗が首都圏に進出する例も多い。他にも最近では、都市圏と同様にカフェも店舗数が増加し激戦区となっている[150]
スペインミシュラン三つ星シェフエネコ・アチャ・アスルメンディは、「軽井沢は自然が美しく、心身がリフレッシュできる場所。食材も豊富でビルバオに似ている部分もあると感じ、チャレンジしてみたいと思った。」とコメント[151]、またフランスの同じくミシュラン三つ星シェフ、ミシェル・ブラスとその息子セバスチャン・ブラスは、「そして、ようやく出会えた地、それが軽井沢です。自然の豊かさ、雑木林そして浅間山と広がる景観は、どこかしら本店のあるフランス・ラギオールに似ています。」と話し[152]、それぞれ2019年と2020年に、軽井沢に新店舗を進出させている。
There are two churches, simple, but well appointed, a tennis club, golf links, stables for horses, and two or three large hotels, which give good accommodation. Grocers, butchers, and other trades- men from Tokyo go up for the summer, and, greatest boon of all, there is generally a dressmaker's establishment in the village.(シンプルですが設備の整った2つの教会、テニスクラブ、ゴルフリンク、馬小屋、2軒から3軒の大きなホテルがあり、宿泊施設が充実しています。東京から食料品店、肉屋、その他の商人が夏に向けて出店し、何よりも恩恵として、村には通常洋裁店が設立されます。)
アーサー・ロイド『Every-day Japan』[35](1909年)
音楽
 
『軽井沢ユニオンチャーチ』の前で談笑する外国人避暑客ら
軽井沢の音楽文化は、宣教師らによるキリスト教音楽クラシック音楽の影響がうかがえる。旧軽井沢にある『軽井沢ユニオンチャーチ』は当時から音楽堂として使用されていた。1930年のジャパンタイムズ紙の記録では、この教会で8月に音楽会(コミュニティコンサート)が3回催されている[153]。演奏者は日本人と外国人が約半々で、またその多くが別荘所有者であった。別荘所有者の子供たちが演奏する機会も設けられていた。
演奏者の中には英国国教会のイギリス人宣教師ジョン・ロスコー英語版とその家族や、朝吹四兄弟堀田伯爵の名も見られる[153]。演目にはストラデッラベートーヴェンリストオッフェンバッハドヴォルザークチャイコフスキードナウディマッケンジーマクダウェルドルドララフマニノフシベリウスなどの名が見られ、黒人霊歌が何曲か披露されているのも興味深い[153]。この建物のある通りは、当時の呼び名から『オーディトリアム通り』と名付けられている。この音楽堂は現在でも夏になると大勢の外国人が集まるといい[154]、定期的にコンサートなども行われている。
堀辰雄は、軽井沢に滞在の際、チェコスロバキア公使館別荘から洩れてくるバッハの『フーガ ト短調 BWV578』(小フーガ)を聞き、小説『美しい村』の形式を思いついたという[155]。また戦時中には、前述したようにヨーロッパの高名な音楽家が多く軟禁されていたが、その内の一人であるレオ・シロタはピアニストの松原緑(後の大賀典雄夫人)に疎開中の軽井沢で音楽のレッスンを行っていた[29]。なおシロタは、疎開する以前から避暑として頻繁に軽井沢を訪れており、ラトビアチェリストローマン・ドゥクストゥルスキーと軽井沢で室内楽の練習を行ったとの記録もある[156]
宣教師の両親を持ち軽井沢を愛したアメリカ人音楽教育家のエロイーズ・カニングハム(1899 - 2000)は、生涯に亘り日本の地でクラシック音楽の啓蒙に努め、1983年には音楽を愛し音楽を学ぶことを目的とした若者たちのために、愛宕山にあった別荘(吉村順三設計。現在は作家下重暁子が所有[157])と土地を売却し南ヶ丘に練習場兼音楽ホール「ハーモニーハウス」を建設した[158](この設計もまた吉村順三)。
ソニー名誉会長の大賀典雄は、別荘所有の機会をきっかけに、妻・松原緑の「音楽が似合う軽井沢には上質なホールが必要」という言葉と大賀の音に対する理想を実現するため、2005年に『軽井沢大賀ホール』を開館した[159]。大賀は「軽井沢が、音楽面でオーストリアザルツブルクやスイスのルツェルンのような町になってほしい」ともコメントしている[160]
或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た。私はその隣りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾けていた。バッハのト短調の遁走曲(フウグ)らしかった。
堀辰雄『美しい村』[161](1934年)

物語が生まれる町編集

山奥にあるヨーロッパ調の小さな村に、夏・秋の特定の期間のみ異国人や上流階級が集まってくるという特殊な環境であったことから、小説、映画など数多くの作品の舞台となり、また実際に、これまで述べてきたように数多くのエピソードが軽井沢で生まれている。軽井沢が登場する小説としては、古くは堀辰雄の『風立ちぬ』(1938年)や三島由紀夫の『仮面の告白』(1949年)、近年では小池真理子の『』(1995年)などが著名である。北原白秋の詩『落葉松』(1929年)は、星野温泉に滞在した際のカラマツ林の光景を描いたものと言われている[162]

深い森や霧の情景に山荘、洋館、教会が点在している様と、避暑客のハイカラで大正ロマンなイメージ像などが相まって、ミステリーサスペンスラブロマンスの舞台としても軽井沢は頻繁に登場する。著名なものに三島由紀夫や横溝正史、松本清張内田康夫らの作品がある。他にもスタジオ・ジブリ作品では、『風立ちぬ』(2013年)に軽井沢が登場している。また『思い出のマーニー』(2014年)に登場する屋敷は、『軽井沢タリアセン』内にある朝吹常吉の別荘『睡鳩荘』[注 25]が初期イメージスケッチの参考になっている[163]

その高原へ夏ごとに集まってくる避暑客の大部分は、外国人か、上流社会の人達ばかりだった。ホテルのテラスにはいつも外国人たちが英字新聞を読んだり、チェスをしていた。落葉松の林の中を歩いていると、突然背後から馬の足音がしたりした。テニスコートの付近は、毎日賑やかで、まるで戸外舞踏会が催されているようだった。そのすぐ裏の教会からはピアノの音が絶えず聞えて。…
堀辰雄『麦藁帽子』[164](1932年)

まちづくり編集

町による『軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例・要綱』や『軽井沢町の自然保護のための土地利用行為の手続等に関する条例及び軽井沢町自然保護対策要綱』、また県による『長野県景観条例』などの各種条例・要綱によって、良好な景観又は風致を維持するためのまちづくりが行われている[165]。そのため建造物の高さや外壁屋根の色彩、屋外広告物の形状や面積、店舗の営業時間など、あらゆる場面で独自の制限が課せられている。

#大規模開発の起こりでも述べたように、軽井沢は寒冷地で元々農耕に適さない不毛な土地であったことに加え、江戸時代が終わると宿場町としての機能を失い歴史的な街並みも消失したことから、いわば明治初期の軽井沢は何色にも染まる白いキャンバス(タブラ・ラサ)状態になっていた[166]。その中で偶然にも一人の宣教師が軽井沢を訪れ、避暑地・別荘地として土地を新たに開拓していったために、まちづくりは特殊な経緯を辿った。

別荘文化という新たな文化が根付き、「日本の中の西洋」と言われるまでに西洋色・キリスト教色の強い町となり、そして町全体が別荘地として開発されていった。現在の軽井沢の風景や観光名所は、その多くが避暑地として見出されて以降、人の手によって造り上げられたものである(雲場池や白糸の滝を含む)。

建築様式編集

明治期は、宣教師の清貧で質素な生活様式を反映した建築物が多く造られた。一般に「軽井沢バンガロー」と呼ばれている[167]。これらの建築物において特筆すべき点は、建物の随所に日本的な装飾が施されていることである。同時期に日本人の設計・施工による純西洋建築である『旧三笠ホテル』が建設されたことなどを考慮すると、ここに文化の調和を目指す双方の意図を汲み取ることができる。

明治後期になると屋根付きテラスが出現し、それに伴い玄関ポーチからテラスに向かって屋根が連なる「カバードポーチ」タイプが軽井沢の典型的な建築様式となった。この屋根付きテラスの出現によって、避暑客は軽井沢に多い雨や霧などの天候を気にすることなくテラスで食事や談笑を楽しむことが可能となった。建物の素材・外壁には板張りや杉皮張りが主流であったが、稀に木骨造が見られた。

大正から昭和初期には、W.M.ヴォーリズやA.レーモンドによる「次期軽井沢バンガロー」とも言える外国人向けのシンプルな西洋建築が多く造られ、そして一方では建設会社あめりか屋などによる日本の上流階級向けの豪華絢爛な西洋建築も散見されるようになる。あるいは別荘地開発が進み、これまで旧軽井沢に密集していた別荘は、西側、南側へと範囲を拡大していった。この時代までの別荘はそのほとんどが夏仕様であったが、寒冷地であるが故に8月の終わりには早くも朝晩の冷え込みが強くなるため、暖炉薪ストーブなどの暖房設備は多くの家に備わっていた。

戦後に入ると、避暑に訪れる外国人は減少し、日本人向けの別荘地・観光地として隆盛した。高度経済成長や別荘ブームの影響もあり、地元建設業者や大手ハウスメーカーによる中価格・高価格帯の別荘が増加した。その中には「軽井沢バンガロー」のイメージを踏襲した建築様式が多く含まれており、特に吉村順三設計の別荘群は著名である。

また企業や大学の保養所や大規模なリゾートマンション、観光客向けのペンションなども多く建てられるようになり、あるいはそれと同時に「建築の実験場」としても機能しはじめ、現代建築やデザイナーズ住宅も散見されるようになった。2017年には、ニューヨークタイムズに軽井沢の独創的な建築群が紹介された[168]

よくある誤解として、高級別荘地というイメージのみが先行し豪邸ばかり立ち並んでいる印象が持たれたり、あるいは逆に宣教師の禁欲的な文化への思慮から"山小屋風の簡素な建築が推奨され、立派な門や塀を造るのは御法度"といった考えが持たれたりすることがある。前者は観光客に、後者は軽井沢の歴史に比較的詳しい別荘所有者などに見られる解釈であるが、これらは歴史的な観点からすればどちらも誤りであり、また正しくもある。

つまりはかつての外国人宣教師と日本人上流階級のように、建築に対して異なる嗜好を持った人々が"健全な生活を求める"という共通意識(宗教観とも言える)のもと同じ地域に混在し同居しているといった捉え方が適切であり、大小様々な建物が森の中に点在している様子は軽井沢の伝統的な風景となっている。

ただしいずれにしても下記に述べる#別荘地づくりのルールに則った建築が求められることは言うまでもない(善良な風俗の維持、清潔な環境の構築)。例えば塀は、"出来る限り設けない。やむを得ず設ける場合は自然景観に調和するよう配慮すること。"とある(『軽井沢自然保護対策要綱』より)。

町は歴史的建造物を保存するため、2016年よりイギリス発祥の銘板制度「ブルー・プラーク」を導入、また有形文化財への登録も積極的に行なっている。しかしながら、ディベロッパーによる歴史的建造物の解体・取り壊しの例は未だあとを絶たない。

別荘地づくり編集

 
典型的な別荘地の風景(旧軽井沢・万平通り)

別荘地づくりの特徴として、1972年に制定された『軽井沢自然保護対策要綱』に準じた建築とともに

  • 道路沿いや敷地の境界に生垣として針葉樹(モミ、カラマツ、アカマツ)を並べ、敷地内には広葉樹ミズナラカエデ、カツラ、シラカバなど)を植樹している
  • 浅間石の石積み(石垣)によって敷地と道路の境界を区別し、また塀としても使用している
  • 門柱には丸太や石積みを使用している

などは、概ねどのエリアの別荘地にも見られる光景である。ただしこれらの特徴は条例などの規定にはなく成立時期も不明なため、軽井沢に伝わる一種の慣習と言える。これらの特徴により町全体に景観の統一感が生まれるため、「軽井沢ブランド」を語る上では欠かせない条件となっている。

特に「石積み」は、別荘地のランドスケープを形成する構成要素の中でも特徴的かつ重要な位置を占めているが、しかし西洋と日本どちらにおいても古来から見られる文化であるため、その出自を特定することは難しい。軽井沢と縁の深いイギリスにおいては石積みは「Wall(ウォール)」と呼ばれ田園地帯では一般的に見られるほか(囲い込みなど)、軽井沢に程近い群馬県甘楽郡付近でも、石垣は明治期以前から民家における一般的な工法として深く根付いている。芥川龍之介の軽井沢の滞在日記には、1925年の時点で既に石垣を積んだ別荘の様子が描写されている[169]

外国人宣教師、鹿島組野澤組西武三井レイクニュータウンなど、別荘地自体はそれぞれ開拓者や分譲業者、管理会社が異なっていながらも、これらの特徴が慣習のみによってそれぞれに継承され景観が統一されていることは非常に特異的であり、「軽井沢ブランド」の影響力を象徴する現象とも言える。またこういった別荘地が町内の大半を占め、そしてそれに付随するようにして商業地域が存在していることから、近代アジア特有の雑多な街並み[170]の様相は他の市町村に比べて呈しておらず、その意味でも西洋的な景観となっている。

文化の継承と発信編集

町の指定管理者であり観光振興を担う『軽井沢観光協会』では、堀辰雄の軽井沢を舞台にした小説から着想を得て、2006年に町の観光ビジョンを「美しい村」に決定し[171]、地域内外に避暑地・別荘地としてのイメージを核とした軽井沢の魅力を発信している。協会の運営する観光案内所『軽井沢観光会館』は、同じ場所にあった明治期の郵便局を模した外観となっており、旧軽井沢メインストリートのシンボル的存在となっている[172]

また1979年より、広川小夜子によって雑誌『かるいざわメイト』が創刊、現在は『軽井沢ヴィネット』に名を変え、軽井沢の歴史や避暑地・別荘地としての魅力を中心に、様々な情報が発信されている[173]。他にも軽井沢の近代史に焦点を絞った書籍は多数出版されており、いち別荘地の情報量としては異例と言える。

この項に関する備考編集

ウィキ内文書を参照しやすくするため、この項ではウィキリンクを新たに貼り直している。各種文献の引用(転載)[注 26]については、著作権切れの作品においては一部旧字体から新字体への改変、ルビの省略など、読みやすいよう適宜修正を施している。なお著作権のある作品については、原文を掲載している。また引用文中の省略記号については、和文では「(中略)」「(後略)」を使用し、「(前略)」は省いた。英文では、括弧あり3点リーダー「 […] 」を省略記号として用い、こちらもまた前略部分は省いている。なお括弧なし3点リーダー「…」は原文の通りである。英文については、著作権切れの作品において主に引用者による和訳を丸括弧によって英文後に併記している。ただし翻訳物の存在を確認できた作品においてはその翻訳を記載している(翻訳の引用元は出典に記載)。また引用文中の亀甲括弧「〔 〕」は引用者による補足として用いた。

広い意味での軽井沢編集

よく知られた地名であるため、周辺の自治体においても「軽井沢」を名乗る場所や施設名が多数存在する。軽井沢町内の「旧軽井沢」「新軽井沢」の呼称になぞらえた表現である。「旧軽井沢」「新軽井沢」以外は軽井沢町内の「中軽井沢」「南軽井沢」を含めてすべて別荘地開発に由来する地名である。

北軽井沢
群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢及びその周辺から嬬恋村大字鎌原・大字大前方面まで、軽井沢町の北側に接する群馬県吾妻郡内の広い範囲で使用されている。北軽井沢の中心部は元々「地蔵川」という地名であったが、軽井沢の北に位置していることから北軽井沢と称するようになった。旅行ガイドブックや観光案内等では北軽井沢も軽井沢の一部として扱われることが多いが、軽井沢町内とは別の地域として独自の歴史を有している。
元は開拓農地であり、現在も牧場が点在しているほか、高原野菜の栽培が盛んな地として知られる。草軽電気鉄道開業後はその沿線の避暑地として軽井沢町内・北軽井沢・草津温泉の三つのエリア分けが行われていた。別荘地としても独自の由来があり、その歴史も旧軽井沢に次いで古い。
軽井沢町内の千ヶ滝(中軽井沢)や南軽井沢同様大正時代には西武資本による開発が進んでいた。このため「中軽井沢」「南軽井沢」同様に大正時代以来地名として使用されており、戦後長野原町の公式の大字名に採用されるに至っている。軽井沢の景勝地として知られる「鬼押出し」はこの地にある。1920年(大正9年)、箱根土地傘下の沓掛遊園地株式会社は、鬼押出し六里ヶ原の国有地80万坪の払下げを受け、観光地として開発に着手した。
翌年の1921年(大正10年)から道路整備を進め、1928年(昭和3年)には将来の高原鉄道敷設(実現せず)を見据えつつバス運行を開始。1933年(昭和8年)8月には軽井沢町内から有料道路鬼押ハイウェーを開通させた(1973年(昭和48年)12月、同じく西武資本が開発を進めていた万座温泉に至る有料道路万座ハイウェーが開通し、鬼押ハイウェーと併せて「浅間白根火山ルート」となった)。
これに対し草軽電気鉄道を傘下に収めた東急グループが嬬恋村内に町有地を持っていた長野原町と提携し、戦後観光開発に参入。嬬恋村を中心に開発を進めていた西武グループと競合している(鬼押出し園鬼押出し・浅間園参照)。戦後のこの地域の大掛かりな別荘地開発は三井不動産によるものである。軽井沢町内に比べ標高が高く、冬は寒さが非常に厳しいが、旧軽井沢周辺にあるような独特の湿気は少ない。嬬恋村は産業別就業者数においてサービス業従事者が最も多くなっている。
西軽井沢
軽井沢町内の大字追分・大字茂沢から西隣の北佐久郡御代田町(旧茂沢村は旧伍賀村を経て1956年(昭和31年)9月30日に御代田町となったが、翌1957年(昭和32年)2月1日、旧茂沢村の一部が御代田町から分離し軽井沢町に編入したため、以後大字茂沢は御代田町と軽井沢町に跨って存在している)方面で使用され、観光施設や事業所などの名称に見られる(西軽井沢ケーブルテレビなど)。大字長倉の借宿・大日向など大字追分に接し比較的後から別荘地開発が始まった地区もこの範囲に含まれる。
追分宿は浅間三宿の中では唯一現在まで宿場町の面影を残しており、旧軽井沢・中軽井沢界隈とは異なる雰囲気である。また追分周辺は軽井沢町内の他地域に比べ標高が高く、寒さが厳しい。気象庁の軽井沢特別地域気象観測所(アメダス。旧称・軽井沢測候所)は追分の山の中にあり、天気予報で使用される「軽井沢の天気」「軽井沢の気温」は追分で観測されたデータが基になっている。
追分には堀辰雄立原道造室生犀星らゆかりの文化人も多いが、別荘地開発は戦後から行われるようになった。商業施設やレジャー施設が少ないことから、追分文化村など未舗装道路を残し自然や鄙びた雰囲気を維持した別荘地が造られている。「西軽井沢」という呼称は1970年代、別荘地開発が追分から御代田町方面に広がった頃から散見されるようになっている。軽井沢町内を含んでいることもあり観光案内等でも用いられている。
1966年(昭和41年)、総武都市開発は茂沢の森泉山北側の土地390ヘクタールを4億2000万円で地元の財産組合から購入し、一帯の別荘地開発に着手。同社は1億2000万円を投じ湯川の峡谷に軽井沢大橋(所在地は御代田町。1969年(昭和44年)6月竣工)を架橋、延長20キロメートルの舗装道路を整備した。1985年(昭和60年)にはゴルフ場の建設計画を公表、1996年(平成8年)に森泉カントリークラブとして開業した。
2007年(平成19年)、総武都市開発は経営破綻したが、別荘地は別の経営者が入って維持されている。森泉カントリークラブはPGMホールディングス系列の会社の手に渡り、「グランディ軽井沢ゴルフクラブ」として存続している。バブル期にはエクシブや紀州鉄道など後発の企業もこの地域のリゾート開発に参入した。
御代田町側にも湯川渓谷・露切峡などの景勝地があり開発が進んだが、軽井沢方面より佐久インターチェンジ佐久平駅のほうが近い別荘地もある。御代田町も軽井沢町に次いで標高が高いが、水利が改善され地味にも恵まれたため軽井沢町に比べ農業に適しており、軽井沢町では行われていないクラインガルテン(「滞在型市民農園」)もある。
東軽井沢
群馬県安中市松井田町方面の別荘地・観光施設等の名称に使用されているが、「碓氷」「妙義」「榛名」など別の呼称も観光用の呼称として併用されている。2001年(平成13年)に開業した碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」では源泉を「東軽井沢温泉ゆたかの湯」と称している。バブル時代のリゾート開発が盛んに行われた頃から見られるが用例は必ずしも多くはなく、松井田町和美峠方面では「東軽井沢」ではなく「南軽井沢」と称した別荘地開発も行われている。
このエリアにおいては明治時代初期に霧積温泉にて温泉旅館が季節営業を始めている。霧積温泉には軽井沢が別荘地として開かれる以前から別荘が建てられ、避暑地として知られた。伊藤博文勝海舟岡倉天心西條八十与謝野鉄幹与謝野晶子夫妻、幸田露伴ら多くの政治家や文化人らも訪れている。ショーも温泉を訪れ、温泉紹介所を開設した。英文の広告を発行し、外国人に霧積温泉を紹介している。
ショーが軽井沢に初めての別荘を設けた1888年(明治21年)より霧積温泉でも本格的な開発が始まり、温泉地・避暑地として栄えた。しかし1910年(明治43年)に山津波が発生し、42軒あった温泉旅館が流され、温泉街・別荘は壊滅。2軒の温泉旅館が被害を免れ、営業を続けたが、避暑地としては終焉を迎えている。
軽井沢町峠町・旧碓氷峠見晴台側から旧中山道(現在は山道のみ)沿いの松井田町峠方面にかけては1970年代に小規模な別荘地開発(見晴台別荘分譲地)が行われ、ペンションなども建てられたが、1990年代には衰退。別荘・ペンションはすべてなくなり、一部は廃墟となって残っている。軽井沢町峠町側には別荘はない。
奥軽井沢
「浅間高原」「嬬恋高原」とも称する。群馬県嬬恋村大字鎌原・大字大前・大字干俣方面の別荘地・観光施設や商品等の名称に見られ、西側は四阿山を挟んで菅平高原に接する。バブル時代のリゾート開発が盛んに行われた頃から見られるが、この地域も北軽井沢エリアの一部であるため、用例は必ずしも多くない。「北軽井沢」の呼称が併用されている例もある。
「奥軽井沢」の呼称は使用していないものの、嬬恋村では「軽井沢」の地名を用いた別荘地開発や温泉掘削などが1920年(大正9年)から西武資本・箱根土地によって行われており、同社の事業においては浅間山北麓一帯を「軽井沢の高原」等と呼んでいる。その後1970年代から1980年代にかけて安達事業グループが大字大前に軽井沢を称するホテルやレジャー施設を開業し、温泉を掘削。源泉名は「奥軽井沢温泉」となっている。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 正式には改名である。発足時は「軽井沢文化人協会」であったが、会員を限定せず多くの人に賛同してもらいたいとして、三笠宮が「人」を取ることを提案した。
  2. ^ 気温に関して補足すると、統計的には1925年から2015年までの100年あたりの気候変動として1.54℃の上昇を記録している[17]
  3. ^ いずれの数値も1981年から2010年までの統計期間における平均値を示している。
  4. ^ 旧軽井沢にある『軽井沢集会堂』のことと思われる。
  5. ^ 旧軽井沢メインストリートに面する『軽井沢郵便局』のことと思われる。当時の局舎は同じ場所には存在しないが、『軽井沢タリアセン』内に移築、現存している。
  6. ^ 柳原白蓮自身のこと。
  7. ^ 原作が西洋文学であることから、国内において西洋的な自然環境を有しかつ西洋文化が定着していた軽井沢が舞台として選ばれた。
  8. ^ 「その辺」とは旧軽井沢のことで、「彼ら」とは外国人のことである。
  9. ^ 横浜山手町の外国商館「アンドリュース・アンド・ジョージ商会」(自動車部品製造メーカー「ボッシュ」と日本で初めて代理店契約を締結するなどの功績を持つ。会社は現存)のカナダ人経営者R.M.アンドリュースの旧別荘。その敷地は非常に広大で、旧軽井沢北東にある「水源地の道」を苔むした高い石垣が400m近く続く。敷地内には別荘番小屋もあり、当時の贅沢な暮らしぶりがうかがえる。コテージの設計はW.M.ヴォーリズによるものであった(1920年竣工)[47]
  10. ^ 生没年不明。英国の商人で、会社を経営していたという。1882年英国王立地理学会の特別会員となる。著作は『日本内陸紀行』のみ。1881年6月1日横浜に到着し、9月18日函館を出港するまでの約3か月、日本を旅行して回った。経済的にも恵まれ、教養も深く、当時の日本で活躍していた外国人たちとも交流があった[66]
  11. ^ イギリス人でJ.M.ディクソンの友人。本著書で300枚以上の写真を用いて明治後期の日本の様子を描写した(本著書の前書きより)。
  12. ^ 「ゴルフ場」とは『旧軽井沢ゴルフクラブ』のことであり、「ニューグランド」とは、かつて雲場池湖畔に存在した、横浜の『ホテルニューグランド』から夏期限定で出店されたホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』のことである。「山腹の道路」は現在の『御水端通り』を指している。
  13. ^ 「高木林」、「雑木林」と同義。
  14. ^ 建物自体は現存しており、元々旧軽井沢の三笠地区にあったが、後に『軽井沢タリアセン』内に移築された。別荘跡には「有島武郎終焉地碑」が建立された。
  15. ^ ワルワーラ・ブブノワに同じ。
  16. ^ 芸妓娼妓、またそういった女性による接待が行われる店のこと。
  17. ^ 旅籠「つるや(現・つるや旅館)」の主人佐藤仲右衛門の長男であり、軽井沢の総合案内である本著書を執筆。当時19歳。軽井沢に生まれ育ち、商社マンとして外国貿易に従事した後、1950年に帰郷し、軽井沢観光ホテル社長を務めている[90]
  18. ^ だらしなく着物を着くずしている様子の意。
  19. ^ ただしこれらの割合は、普通世帯の世帯員が現在居住している住宅又は住宅以外の建物のほかに住宅を所有(共有の場合を含む)している場合のみを表しており、法人名義の住宅は含まれていないため、実際よりも過小な数値になっている可能性がある。
  20. ^ 彼らの服装や背景からゴルフ場で撮影されたと思われる。
  21. ^ 「哀しみのない」の意。
  22. ^ 写真には「七尾池」と記載されているが、池の形状からして雲場池であり、また奥に見える建物はその外見からかつて雲場池湖畔にあったホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』であるため、「七尾池」は当時の雲場池の別名や俗称などと考えられる。
  23. ^ 現在の近衛レーン沿いであり、その別荘跡には未だ「KONOE SANSO」の標識が立っている。
  24. ^ ロンドンハンプトン・コート宮殿で毎年開催されるクラシックカーの世界的祭典。ケント王子は名誉顧問を務める。
  25. ^ 1931年竣工。元々は旧軽井沢の二手橋付近にあったが、朝吹登水子の意思により2008年に移築された。
  26. ^ この項で他者の著作物の内容を数多く羅列(転載)しているのは、そのほとんどが著作権の消滅した文献のためであり、著作権の消滅していない文献については「引用」の規定に則って記載している。

出典編集

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    • 自分はH〔堀辰雄〕やS〔萩原朔太郎〕の妹たちと宿〔つるや旅館〕の前の路へはいった。右側が別荘の塀になってい、左側はやはり石垣をつんだ別荘の庭になっている。
    • アタゴ山〔愛宕山〕の方へはいった。別荘ばかり並んだ小路だ。(中略)男は皆別荘の低い石垣に腰かけて休んだ。
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参考文献編集

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  • 『軽井沢町誌 歴史編 近・現代編』1988年 軽井沢町誌刊行委員会
  • 『軽井沢町誌 民俗編』1989年 軽井沢町誌刊行委員会
  • 『御代田町誌 地誌編』2000年 御代田町誌刊行会

関連項目編集

外部リンク編集