池田恒興
池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文5年(1536年) |
死没 | 天正12年4月9日(1584年5月18日) |
改名 | 恒興、勝入(号) |
別名 | 勝三郎、紀伊守(通称)、信輝 |
戒名 | 護国院雄岳宗英大禅定門 |
墓所 |
京都市右京区花園の妙心寺慈雲院 岐阜県揖斐郡池田町本郷の龍徳寺 鳥取県倉吉市の勝入寺 和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院 |
主君 | 織田信秀→信長→信忠→秀信→羽柴秀吉 |
氏族 | 池田氏 |
父母 | 父:池田恒利、母:養徳院 |
妻 | 正室:善応院 |
子 |
元助、せん、輝政、長吉、長政、若政所、天球院、浅野幸長正室、織田勝長正室 養子:七条 |
尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
生涯編集
天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は養徳院。出身地は尾張国・美濃国[2]・摂津国[3]・近江国[4]など諸説あるが、『信長公記』に恒興の与力として尾張国海東郡一色村の者がおり、その付近が有力である。父の恒利は早くに死去したとされる。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。
幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い[3]、美濃攻略[5]などで戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた[3]。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦い[5]などに参陣、天正2年(1574年)には武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして、東濃の小里城に入った[5]。恒興はそのまま織田信忠の付属であったが、天正8年(1580年)に、信長に抵抗し摂津花隈城に籠もる荒木村重を破り(花隈城の戦い)、その旧領を領した。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令された[5]。同年6月2日、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは兵5,000を率いて[4][注釈 1]右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。
織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有した[4]。翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国内にて13万石を拝領し大垣城に入り[6]、岐阜城に池田元助が入った。
天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦した。勝利が成った際には尾張1国を約束されていたという[7]。緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可(恒興の婿)・堀秀政と共に家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手(勝入塚)にて長可と共に戦死。戦死の状況は、永井直勝の槍を受けてのものだといわれている。享年49。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した。
遺体は徳川勢に持ち帰られ一時遠江国新居に葬られたが、後に京都・妙心寺の慈雲院に改葬されている。
系譜編集
- 父:池田恒利(?-1538)
- 母:養徳院(1515-1608) - 池田政秀娘?
- 正室:善応院(?-1604) - 荒尾善次娘。元は織田信時の室で、信時との間に娘(七条)が恒興の養女としてはじめ飯尾敏成、のちに下間頼龍に嫁いだ。池田重利の項目参照
- 生母不明の子女
- 養子
滝川三郎資清 ━ 一益 ━ (旗本家ほか瀧川家など) 滝川三四郎恒利 ━ 池田恒興 ━ 輝政 ━ (姫路藩主、鳥取藩主など)
脚注編集
注釈編集
出典編集
登場する作品編集
関連項目編集
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