羽柴秀勝
羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の四男[注釈 1]で、家臣の羽柴秀吉が養嗣子として迎え入れた。幼名は於次(おつぎ)または於次丸(おつぎまる)。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄12年(1569年) |
死没 | 天正13年12月10日(1586年1月29日) |
別名 |
幼名:於次あるいは於次丸 通称:丹波少将、丹波中納言 |
戒名 |
瑞林院殿賢岩才公大禅定門 大善院松貞圭岩大居士 |
墓所 | 大徳寺総見院、知恩寺瑞林院、高野山、阿弥陀寺 |
官位 | 従五位下・丹波守、正四位上・侍従、従三位・左近衛権少将、正三位・権中納言 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 織田信長→羽柴秀吉 |
氏族 | 織田氏→羽柴氏(豊臣氏) |
父母 |
父:織田信長、母:養観院 養父:羽柴秀吉、養母:寧々 |
兄弟 |
異母兄弟:織田信忠、北畠信雄、神戸信孝、秀勝、織田勝長、織田信秀、織田信高、織田信吉、織田信貞、織田信好、織田長次、織田信正 義兄弟:秀勝(石松丸)、豊臣鶴松、豊臣秀頼、木下秀俊、豊臣秀次、豊臣秀勝(小吉)、豪姫、宇喜多秀家、結城秀康 |
妻 | 正室:毛利輝元の養女(内藤元種の娘) |
なお、秀吉の子(養子を含む)には秀勝を名乗る者が3人おり、他の秀勝と区別するため、史家は便宜上、於次丸秀勝(または於次秀勝)と呼ぶことがある。
生涯
編集永禄11年(1568年)、織田信長の4男[注釈 1]として生まれた。生母は養観院と伝えられるが、素性は不明[注釈 2]。童名は「次」[1]。
天正4年(1576年)10月、羽柴秀勝 (石松丸)を亡くした秀吉は、主家との養子縁組を願い出て、於次丸を貰い受けて羽柴家の跡継ぎとすることにした。通説では、これは信長が血族を優遇していたことから、自己の地位擁護の意味もあったと考えられている[2]。他方で、宮本義己は、於次丸を養子に迎えることを希望したのは秀吉ではなく、秀吉の正室おねが信長に懇願した結果ではないかと主張し[3][4]、実子を出産することができなかったおねが主筋の子を我が子として家中の安泰を図ったのではないかと指摘している[注釈 3]。
於次丸が秀吉の養子となった時期ははっきりしないが、石松丸秀勝が亡くなった翌年の天正5年から同6年の間と推定される[1]。天正8年3月の長浜八幡宮の奉加帳に秀吉と於次丸秀勝の連署が見られ、それ以前と考えられるからである[2]。
秀勝の傅役には、お市の方の御供として浅井家に入って、攻囲を指揮していた秀吉の仲介でお市の方と浅井三姉妹を連れて小谷城を脱出して帰参していた藤掛永勝が、信長によって任命された[5]。
秀吉の所領のうち近江北部の長浜領では、天正9年(1581年)2月頃より秀勝発給の文書が増え、長浜支配は秀吉により秀勝に委託されていた[6]。あるいは少なくとも不在時は13歳の秀勝が署名を代行していたことが、文書記録からわかっている[7]。
天正10年(1582年)3月8日、信長の命により秀吉が中国征伐に出征して備中を攻めると、それに従って17日の備前児島の常山城攻めで秀勝は初陣を果たし、4月からの高松城攻めにも参加した。6月2日、実父の織田信長が本能寺の変で突然横死した後は秀吉の中国大返しに同行し、「信長の四男」としての立場で6月13日の山崎の戦いに参加して異母兄神戸信孝と共に弔い合戦の旗印となった。
6月27日、清洲会議の際には、秀吉が織田家の後継者に秀勝を推すのではないかという世評もあったが、秀吉は信長の嫡孫たる3歳の三法師を推して家中の支持を得た。結果として秀吉は、信孝を推した柴田勝家とは不仲になった。織田家領の再分配により、秀吉には明智光秀の旧領で京都にも近い要地丹波国が与えられ、秀勝は丹波亀山城主となることに決まったが、代わりに長浜城を含む近江6万石は勝家の養子柴田勝豊に与えられることになった。勝家は所領の越前への帰路に長浜城の傍を通る必要があったが、羽柴側が城の明け渡しを拒むことも予想され、襲撃を恐れて美濃垂井で立ち止まった。秀吉はこれに怒り、襲撃などしないことを保証するために秀勝を人質として差し出した。勝家は無事に通過した後、すぐに秀勝を送り返したので、秀吉はこれを連れて入京して本能寺跡で信長を慰霊した[8]。
10月になっても信長の葬儀は行われていなかった。そこで天下人の後継者を目指す秀吉は、10日より1週間の大法要を大徳寺(臨済宗)で執り行った。棺の前轅は信長の乳兄弟池田恒興の子池田古新が、後轅は秀勝が持ち、位牌と太刀は秀吉自らが持って喪主を務めた[注釈 4]。三法師の後見人織田信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席しなかった。秀勝は15日の葬礼に出席した後に中座して、丹波亀山城に入った。
同年、秀勝は従五位下・丹波守、正四位上・侍従に相次いで叙任された。時期は不明ながら、毛利輝元の養女(内藤元種の娘)とも婚約している[9]。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも参加し、近江草津に陣を布き、木曽川筋攻撃で活躍している。『兼見卿記』によるとこの頃より体調が悪化して、途中から大垣城に留め置かれた。
同年12月26日、秀勝と輝元の養女の婚礼の儀が、大坂城内において行われた。
天正13年(1585年)7月、秀勝は従三位・左近衛権少将に叙され、ほどなく正三位・権中納言にまでなったが、病床に就き、12月10日、丹波亀山城で病死した。享年18。山科言継の日記によれば、この時、秀勝の母・養観院は存命で、これを看取った。
墓所・木像
編集墓所は、織田信長の菩提寺として秀吉が建立した大徳寺の総見院と、知恩寺瑞林院(浄土宗)、高野山(真言宗)、阿弥陀寺の四ヵ所に存在した。法名は、総見院過去帳では瑞林院殿賢岩才公大禅定門で高野山の過去帳では大善院松貞圭岩大居士[10]。
家臣
編集関連作品
編集- ドラマ
脚注
編集注釈
編集- ^ a b もしくは『天正記』・『 惟任退治記』などでは五男とも言う。史学的推測では勝長(信房)の方が年長であろうという生年の順序の問題のほか、信長の庶長子であるという説がある織田信正の存在を数えるかどうかでも変わってくる。ただ、諸系図の表記では地位の序列が優先されるため、通例四男とされる。
- ^ 養観院は(信長の次女)相応院の母と同一人物であるという説もあり、その場合は蒲生氏郷は於次丸秀勝の義兄弟にあたることになる。
- ^ 信長もおねの真意を察したからこそ、夫の浮気に悩む彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、消息にもかかわらず、あえて公式文書を意味する「天下布武」の朱印が押されている。
- ^ 異説として、信長の八男長丸が位牌を持ったとも言う。
出典
編集- ^ a b 森岡榮一「羽柴於次秀勝について」『市立長浜城歴史博物館年報』1号、1987年。
- ^ a b 渡辺 1919, p.61
- ^ 宮本義己「北政所の基礎知識」『歴史研究』456号、1999年。
- ^ 宮本義己「戦国時代の夫婦とは」『歴史研究』488号、2002年。
- ^ 川口素生『お江と徳川秀忠101の謎』PHP研究所、2010年。ISBN 9784569675633。
- ^ 柴 2011[要ページ番号]
- ^ 渡辺 1919, pp.61-63
- ^ 徳富 1935, pp.135-138.
- ^ 西尾和美 著「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸編 編『西国の権力と戦乱』清文堂出版、2010年。
- ^ 渡辺 1919, p. 72.
- ^ 来夢来人 (2011年6月28日). “特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」テーマ展「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」展”. 歴史~とはずがたり~. 2022年11月19日閲覧。
- ^ 佐久間尊之 (2020年1月29日). “羽柴秀勝”. note. 2022年11月19日閲覧。
参考文献
編集- 柴裕之 著「羽柴秀吉の領国支配」、戦国史研究会 編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年4月。ISBN 978-4-87294-680-2。
- 渡辺世祐「国立国会図書館デジタルコレクション 羽柴秀勝」『豊太閤と其家族』日本学術普及会〈歴史講座〉、1919年 。
- 徳富猪一郎「国立国会図書館デジタルコレクション 淸洲會議の前後」『豊臣氏時代、甲篇』 第4、民友社〈近世日本国民史〉、1935年 。
- 片山正彦 著「豊臣政権樹立過程における於次秀勝の位置づけ」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 ほか 編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年。