長崎市立淵中学校

長崎県長崎市にある中学校

長崎市立淵中学校(ながさきしりつふちちゅうがっこう、Nagasaki City Fuchi Junior High School)は、長崎県長崎市梁川[1]町 にある公立中学校

長崎市立淵中学校
地図北緯32度45分50.5秒 東経129度51分30.7秒 / 北緯32.764028度 東経129.858528度 / 32.764028; 129.858528座標: 北緯32度45分50.5秒 東経129度51分30.7秒 / 北緯32.764028度 東経129.858528度 / 32.764028; 129.858528
過去の名称 淵高等小学校
淵国民学校(高等科)
国公私立の別 公立学校
設置者 長崎市
校訓 自主・協力・創造
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード C142210000142 ウィキデータを編集
所在地 852-8013
長崎県長崎市梁川町21-5
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要 編集

歴史
長崎市立淵中学校は戦前に開校した「淵高等小学校」、「淵国民学校高等科」を前身としている。尋常小学校(6年間)卒業後の2年間学ぶ学校だったので、学制改革の際には、小学校ではなく中学校となった。
校訓
「自主・協力・創造」
校歌
作詞は福田清人、作曲は沖不可止[2]による。3番まであり、校名の「淵中」は3番の最後に登場する。
校区
長崎市立稲佐小学校区、長崎市立城山小学校[3]

沿革 編集

学校行事 編集

3学期制

  • 体育大会は春(5月)に行われている。

部活動 編集

運動部
文化部

原子爆弾の被害 編集

全ての座標を示した地図 - OSM
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淵国民学校は爆心地(北緯32度46分24.8秒 東経129度51分47.1秒 / 北緯32.773556度 東経129.863083度 / 32.773556; 129.863083 (原爆落下中心碑))から南西に1.2kmの場所に位置していた。1945年(昭和20年)5月には教員も生徒も軍需工場へ動員されており、学校教育は完全に停止していた。被爆当日、校内には三菱電機三菱造船所の工場が併設されていて、68名が作業を行っていた。そのうち教職員が2名と工員15名が焼死した。動員先や家庭での職員、生徒の死亡者は138名と推定されている。そして鉄筋コンクリート造3階建ての本館校舎は全焼、体育館は骨組みだけになり、他の木造校舎と平屋の建物も全焼、崩壊した。[5]

制服 編集

  • 男子 
  • 女子 

著名な出身者 編集

アクセス 編集

最寄りの鉄道駅
最寄りのバス停
  • 長崎バス県営バス
    • 淵中前下車後すぐ。
    • 梁川公園前下車後、徒歩5分
    • 茂里町(県営バス)・ココウォーク茂里町(長崎バス)下車後、徒歩5~10分
最寄りの国道・県道

周辺 編集

脚注 編集

  1. ^ やながわ
  2. ^ 読みは「おかふかし」。長崎県立長崎南高等学校長崎県立大村城南高等学校長崎県立西彼農業高等学校長崎県立長崎工業高等学校長崎県立大村工業高等学校等の校歌の作曲も行っている。
  3. ^ 長崎市立小・中学校 校区一覧(PDF) - 長崎市教育委員会ウェブサイト
  4. ^ これ以前に淵高等小学校という名の学校は存在した。1901年明治34年)に就学児童数の増加に伴い淵高等小学校が一旦新設されたが、1908年(明治41年)4月6日稲佐尋常小学校(現長崎市立稲佐小学校)に統合され閉校した。32年ぶりに同じ名前の学校が開校した。
  5. ^ 長崎市平和・原爆 原爆の記録 淵国民学校 - 長崎市役所ウェブサイト

参考文献 編集

関連事項 編集

外部リンク 編集