ジャンボ鶴田

日本のプロレスラー

ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本プロレスラースポーツ科学研究者。本名及び旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。

ジャンボ鶴田
Jumbo Tsuruta
プロフィール
リングネーム ジャンボ鶴田
トミー・ツルタ
鶴田 友美
本名 鶴田 友美
ニックネーム 完全無欠のエース
怪物
若大将
身長 196cm
体重 127kg(全盛時)
誕生日 (1951-03-25) 1951年3月25日
死亡日 (2000-05-13) 2000年5月13日(49歳没)
出身地 山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市
所属 全日本プロレス
スポーツ歴 レスリング
バスケットボール
トレーナー ジャイアント馬場
ドリー・ファンク・ジュニア
テリー・ファンク
ルー・テーズ
デビュー 1973年3月24日
引退 1999年3月6日
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獲得メダル
男子 レスリング
全日本レスリング選手権大会
1970 フリー100kg級
1971 フリー100kg超級
1971 グレコローマン100kg超級
1972 フリー100kg超級
1972 グレコローマン100kg超級

全日本プロレスで活躍した。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。

概要編集

1972年ミュンヘンオリンピックレスリンググレコローマンスタイル最重量級日本代表を経て全日本プロレスに入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長する。トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退いた。その後はレスラーとしての活動と並行して桐蔭横浜大学慶應義塾大学、そして母校の中央大学講師を務めるなど、教育者としても活動した。

山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市)出身で、山梨県立日川高等学校を経て、中央大学法学部政治学科卒業[1]。血液型O型。ニックネームは「完全無欠のエース」、「怪物」。座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、鶴田のプロレスの師匠であるジャイアント馬場から継承したものである。

オリンピック出場時の選手名簿には身長196cm、体重110kgと書いてある。

来歴編集

プロ入りまで編集

広大なブドウ農園を営む家に生まれる。生まれた時は3,000gと普通の大きさであった[2][3]。 生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた[4]。兄の恒良の証言によると、幼少期の鶴田は先輩たちの後に付いてチャンバラごっこなどをして遊んだという。この頃はスポーツなどはせず、家の手伝いをして体を鍛えていた[5]。荷物を持って坂道を上り下りする作業がアマレスプロレスで発揮した脚力の源となったとされる。小学生の頃に虫垂炎の手術を経験したが、後の肝炎を除けばこれを除いて大病には縁が無かった。

中学では野球をやっていたが、この頃になると体が大きすぎて履くものに困るようになったため、運動会では運動靴のかわりにゴム草履で走っていた。2年生の夏休みには朝日山部屋に入門。本当は体験入門のつもりであったが新弟子検査に受かってしまったため力士になってしまい、叔父の甲斐錦が慌てて話を付けて新弟子検査を取り消させ、すぐに地元に戻った。そのためか、日本相撲協会には鶴田の記録が残っていない。事情を知らない地元の人からは「相撲がダメで帰って来た」というような目で見られ、この体験が鶴田の心に影を落としたと推測する文献もいくつかみられるが、兄の恒良は「友美もまだ子供でしたからね。本人は何も気にしていなかったですよ」と鶴田の没後に証言している[5]

高校時代はバスの便が悪いこととバスの天井が低くて乗り心地が悪いことから自転車通学をしていた。行きは下りだが帰りはずっと登りであり、しかも道は舗装されていない砂利道であったため、自転車は何台も乗り潰していた。これも鶴田が鍛えられた要因である。中学時代にやっていた野球は受験の影響で目が悪くなったことからボールが目で追えなくなり、それなら大きいボールを扱う方が良いとバスケットボールに転向した[5]。プロレスはというとテレビで見ていたため全く知らないわけではなかった。ちょうど高校時代にはBI砲の全盛時代であり、ジャイアント馬場の姿はインプットされた。高校のバスケットボール部は山梨県下では無敗であり、在学時は3年連続でチームはインターハイに出場。自身は1年生の時こそ半年間野球部に在籍していたのでインターハイには出られなかったが、2年生の時は石川県、3年生の時は広島県で開催されたインターハイに連続出場した。3年生の時には山梨県の相撲大会に出場して3位の成績を収めた[6]。その後、一般入試で中央大学法学部に入学。[7]

大学1年まではバスケットボールの選手であったが、バスケットボールではプロ選手になれないことや、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部したということになっている(ちなみにバスケット日本代表はその後のミュンヘンオリンピックモントリオールオリンピックにも出場しており、鶴田の予想は外れた格好となった)[6]

選手層の薄いレスリングであればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。この時断った側の一人に関川哲夫(ミスター・ポーゴ)がいるが、彼の語るところによると鶴田の格闘技への思いは本物だったということで反省しているようである(ミルホンネット「ある極悪レスラーの懺悔」より)。そこで、自衛隊レスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇(1971年、1972年)するほどの選手となった。大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に石井庄八笹原正三池田三男渡辺長武中田茂男ら金メダリストを輩出した名門中央大学レスリング部へ入部した。レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。

レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督、先輩、マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドンと言われた八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロレスラー入りを決意した。

全日本プロレス入団編集

大学在籍時の1972年10月31日の全日本プロレス入団記者会見にて、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言したことが「全日本プロレスに就職します」と報道される。デビュー当初は本名の鶴田友美をリングネームに用いていた。ニックネームは「若大将」。

入団したばかりの頃、馬場から月10万円の小遣いをもらったり、自分の体のサイズに合うスーツを新調してもらったりと、入団以前まで貧乏学生であった鶴田の生活は一変した[8]。当時日本テレビ全日本プロレス中継」のプロデューサーだった原章(後に運動部長)は「後で思うと、その頃はあまり肉が付いてなくてヒョロヒョロっとして、ひ弱な青年という感じでしたね。ただ、背が高かったから、これからトレーニングして大きくなるだろうという予感はありました。今考えると、アマチュアレスラーの身体だったんでしょうね。体重を絞って、肉を付けていなかったのかもしれません」と入団当初の鶴田の印象を語っている[9]

入団後ほどなくして、テキサス州アマリロザ・ファンクスのもとで修行し、スタン・ハンセンボブ・バックランドとも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった(ハンセンはその味に感動し、鶴田に黙って勝手に食べていたという話も残っている)[10][11]。ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。ハンセンは「身体は細いのに自分より何キロも重いベンチプレスを上げていた」と当時の鶴田のパワーを語っている。

1973年3月24日、アマリロにてエル・タピアを相手にプロデビュー。2ヶ月後の5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキにて、ドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に挑戦するという大抜擢を受ける[12]。その後、サイクロン・ネグロゴードン・ネルソンら実力者との対戦を経て、8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦した[13]

凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビューしフォール勝ち。3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。この抜擢については試合前に「たかが半年、150試合のアメリカ修行で一体どれだけ成長出来るというんだ。プロはそんなに甘いものじゃない」と内外やメディアからも猛批判が上がったが、アメリカにて鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている[10]。 60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。

20代の中頃までは若い女性の親衛隊もいたほどの人気であった。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。日本でも日本航空ジャンボジェット機が就航し、一般にもその名称が浸透し始めた時期であり、師匠である馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった[10]。なお、鶴田は「投票の途中経過でジャンボ鶴田がダントツで1位だったので、もうその時点で『ジャンボ鶴田に決まりだな』と思った」そうである[11]

1974年3月から4月にかけて、再びアメリカ遠征に出発。太平洋岸北西部から南部北東部中西部まで各テリトリーを回り、3月23日にはオレゴン州ポートランドにてダッチ・サベージ[14]、3月29日にはジョージア州アトランタにてボビー・ダンカンなど[15]、各地のトップ選手と対戦。4月1日にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンに登場し、ジョニー・ロッズから勝利を収めている[16]。翌日の4月2日にはフロリダ州タンパにてダニー・ホッジ[17]、4月4日にはノースカロライナ州グリーンズボロにてネルソン・ロイヤル[18]、4月7日にはニューメキシコ州アルバカーキにてキラー・カール・コックスと対戦するなど、世界王者級のタイトなスケジュールをこなした[19]

1970年代中盤:ライバル達との出世争い編集

1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、キム・ドクとの抗争や、国際プロレスラッシャー木村との対抗戦、ディック・スレータージャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝などの実績を上げ、1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦が評価され、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞(他の2試合は1976年3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合の鶴田vs木村戦と、1978年1月20日に北海道帯広市総合体育館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合のハーリー・レイスvs鶴田戦)。

この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス[20][9]、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックミサイルキック)を大一番で用いている。

1980年代前半:世界の鶴田へ編集

1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座やAWA世界ヘビー級王座[21]に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を目指した。この当時の鶴田について上田馬之助は「ジャンボはなぁ…あれだけ恵まれた体格をして、才能、瞬発力、柔軟性、運動神経を全て高い次元で持っているのに……ジャンボには何かこう、ガツーンと来るものがないんだよね。全日どころか日本マット界のエースになれる素材なのに。藤波(辰爾)もそうだけど、デビュー当時からの『爽やかお兄チャン』のイメージを、いまだに捨て切れてないというか。まぁ、最近はトランクスを黒に変えて、自分の中の何かを変えようと必死になっているのは分かるけどね」と語っていた[22]。また、この年の秋に訪日していたルー・テーズに、必殺のバックドロップのコツを教えてもらっている。

1983年4月、若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したテーズから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップを今度は本格的なマンツーマン特訓で伝授される。このとき「今の(コーチ料)は100万ドルだな」というテーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている[23]

6月8日にはNWA王者リック・フレアーに挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というルール規定により、世界奪取はならなかった。しかし、フレアーとのNWA戦では1981年の1-2での敗北や1982年のダブルフォールでの引き分け(この試合は一本勝負)に比べるともっとも善戦した[24]。フレアーからは30年の時を経て「日本人でベストな選手を3人挙げるとしたら、ツルタ、テンルームタ[25] とのコメントがある。

米国遠征中の6月17日に、長年就いていたUNヘビー級王座を返上[26]。7月31日にはAWA王者ニック・ボックウィンクルに挑戦をし、反則勝ちをするが、「(三本勝負の場合2本とも)ピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しない」というルール規定により王座移動せず、世界奪取は失敗に終わる。過去のニックとのAWA戦(1978年三本勝負で鶴田の2-1だが3本目が反則勝ち、1980年一本勝負で鶴田の反則勝ち、1982年一本勝負で両者リングアウト、3試合ともニックの防衛)同様、のらりくらりとかわされつつ最終的にダーティなファイトで防衛されてしまう内容だった。

8月31日、蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座ブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームで馬場から「よくやった、今日からお前がエースだ」と祝福され、公式に全日のエースの座を襲名する。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。そして鶴龍コンビも最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1984年、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。インター王座とのダブルタイトルマッチということで、インター選手権のルールも適用され、反則やリングアウトでも王座移動、さらにレフリーの失神等でのアクシデントを防ぐため、主審にテリー・ファンク、副主審にジョー樋口を起用するという万全の態勢で、ニックのダーティーなファイトを防ぎ[27]、「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。この一戦は当時の『土曜トップスペシャル』で放送されるほどのビッグマッチであった[28]

AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに奪取されるまで、前王者ニック・ボックウィンクルをはじめ、ブラックジャック・ランザビル・ロビンソンジム・ブランゼルグレッグ・ガニアブラックジャック・マリガンバロン・フォン・ラシクらを挑戦者に16回の防衛[29]、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇。

これらの活躍により「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは、「バックドロップは相手の受身の技量によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンが「本気でやれ」「手加減するな、殺す気でやれ」という反応を見せ、さらに鶴田が「相手のレスラー生命を終わらせる、もしくは死に至らしめるのがいいレスラーだというのなら、僕は明日にでも会社(全日)に辞表を出す」と反論するなど、良くも悪くも「気は優しくて力持ち」的な鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった[30][要ページ番号]

1980年代中盤:超獣コンビ、ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い編集

「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。相手レスラーからの評価も高く、戦った選手のほとんどは鶴田の運動能力、身体的能力を絶賛している。

新日本のエースで、1984年末から新日本を退団しジャパンプロレスの一員として全日本に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪城ホールでシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わった。鶴田はこの一戦で、リング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し、引退後日本テレビのインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょ」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったもので、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。一方、長州は対戦前には鶴田を「ぬるま湯に浸かっている」「アイツはレスラーじゃない、ただのサラリーマン」と散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら、(俺の)負けだったな」と語り、以降、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。この評価は鶴田戦後長年にわたり一貫しており、2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当にすごい」と、アマレスの先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している[31]。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。

しかし、この時期の鶴田はシングル戦線では苦戦していた。1985年4月[32]と1987年3月[33]にフレアーのNWA王座に挑むが奪取に失敗し、1986年にはAWA王座再戴冠を目指し当時の王者スタン・ハンセンに3度挑むがこれもすべて奪取失敗[34]、同年7月の敗戦では自らのインター王座も奪われるなど(同年10月に奪回に成功)[35]、世界最高峰クラスの王座を奪取した選手としては物足りない戦績であった。

1980年代後半 - 1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い編集

鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍プロレス四天王)との戦いであった。

天龍が繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田も恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神させる、寺西勇アニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発(後述)、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。

1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に龍原砲(天龍と阿修羅・原のコンビ)に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。

1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日に行われた、新日本の東京ドーム大会に参戦した際には敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。この時期、全日本のリングから、かつて鶴田が世界王座戦線で何度も苦杯を飲まされたリングアウト決着、反則決着が徐々に消え、リング内での完全決着が目指されるようになったことも、鶴田には追い風となった。

天龍が新天地を求めて全日本を離脱しSWSに移籍した後、鶴田のライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった(試合後、勝った三沢はリング上で倒れこんだままで、負けた鶴田はレフェリーに抗議している)。だが、三沢は最初で最後の涙をリングで流し、日本武道館の観客が総立ちになるなど、盛り上がる結果となった。三ヶ月後、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢と戦うが、今度は鶴田がジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。

1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。この年は三沢、川田利明スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが全て退けている。1月下旬の後楽園ホール大会では、川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後、鶴田は目の色を変え、大迫力のエルボー(この段階で川田を戦意喪失させ半失神状態に追い込んだが鶴田の怒りは収まらず、無理矢理起こして次の攻撃を続けた)、顎へまともに入るジャンボ・キック、場外でのボディスラム、座面ではなくステンレス部分でのイス攻撃などを川田に繰り出した。タッグパートナーの渕正信が止めに入るものの、渕を突き飛ばし、解説の竹内宏介も言葉が出なくなるほど壮絶な攻撃であった。 和田京平によると、試合後の控え室では「何でボク、あんなにキレちゃったんだろう」と普段のジャンボ鶴田に戻っていたという。この時の鶴田について、和田京平は「あれはお客さんに見せるものじゃない。普段の余裕のジャンボを見せたかった」と自書で語っている。

また10月の大阪府立体育会館での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。鼻を負傷しながらなおも試合を続ける三沢に、鶴田はその鼻に狙いを絞った攻撃を徹底する。鶴田は反旗後の三沢に、「あいつはもっと良い奴だと思っていた」という意味不明なコメントを残しているが、この試合後に「三沢はまだまだ良い奴じゃないよ」と語っており、自分が超世代軍の壁であることを自認していたとも言える。

この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」と発言したことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。対戦したい相手として他に、前田日明、藤波の名も挙げており、一時は新日本への移籍を本気で考えた時期もあったという。タイガー戸口によると、戸口が1981年に全日本から新日本に移籍する際に、鶴田も一緒に全日本を離れようとしていたことが後年戸口の口から明らかにされており、もし実現していればプロレスとの関わりを断ったのではないかと戸口は推測している。1980年代後半に戸口は鶴田から「プロレスを辞めて焼肉屋をやろうかなと思うんだよ」と言われたことがあり、実際に経営に関する本も読んでいたという[36]

ファンやマスコミを中心に実現が期待されていたジャイアント馬場とアントニオ猪木の戦いについては、「全日本に閉鎖的な面もあると思うが、(馬場に偽の挑戦状を叩きつけた)猪木さんは今は良いけど、あと何年かすれば年齢でベストなファイトが出来なくなるのは確実だ。(猪木さんも)そういう状態で挑まれても納得出来ないでしょう?」と第三者として中立的なコメントを残している。猪木が40歳を過ぎた頃に前田日明が、そして1986年に第2回プロレス夢のオールスター戦の企画が上がった際に鶴田がシングル対決希望を表明したが、結局猪木は前田、鶴田の対戦要求に応じることはなかった。

1991年は7年ぶりにプロレス大賞のMVPを三度目の受賞。

最後のタイトルマッチとなったのは、1992年10月7日の世界タッグ選手権で、田上と組み、ゴディ・ウィリアムス組の挑戦を受けた。この年は古傷の左足首の故障で1シリーズを全休したことに加え、1月にはハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われ、チャンピオン・カーニバルでは優勝戦進出を逃すなど、前年の怪物振りと比べると陰りも見えていたが、この年に急成長を見せていたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田をカバーする大活躍を見せる。田上はこの年に開発した喉輪落としでゴディからフォールを奪い、王座の防衛に成功。田上の躍進を見届けた鶴田は、結果的に第一線を退くこととなった。

1992年入院以降編集

1992年11月にB型肝炎を発症し、長期入院を余儀なくされた。公式発表は内臓疾患であり、鶴田保子夫人の著書が発行されるまでは公には伏せられていた。鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることは1985年8月の時点で判明しており、当時の主治医によるインターフェロン療法がうまくいかず症状を悪化させたためと、後に保子夫人が著書で述べている[37]

1993年の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。鶴田自身、その時の様子を「桶に片足を入れた状態」と評している。「一昔前なら棺桶に両足を入れていた(つまり、死んでいた)」とも発言している。メインイベンターとしての鶴田の価値は消え去ったのだが、それでも馬場は鶴田の給料を下げることをしなかったという。入院中に読んだ雑誌に女子プロゴルファーの桝井映里が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となった。並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。ほとんどの試合は馬場と組んでのファミリー軍団としての出場による、6人タッグマッチであった。

1999年1月31日の馬場の死去直後に引退及び全日本取締役辞任の記者会見をキャピトル東急ホテルで行う。この後に「全盛期に前田日明と戦ってみたかった。藤波君が度々対戦要求を出してきたが、マスコミの前のポーズだけで実際の交渉は一切なかった。僕はそれが大嫌いだった」とコメントしたことも話題になった。後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまい申し訳ない」と、FAXで謝罪した。

ただし、鶴田は1990年代のある番組の中で(ファンサービスもあったにせよ)「今年の夢は藤波選手と闘うことです」と発言していた。1987年1月4日、東京スポーツ主催のプロレス大賞授賞式の席上でも、「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」とコメントしており、週刊ゴングによる鶴藤長天キャンペーンのきっかけの一つとなっていた。一方で、全日本プロレスが1998年に初めて東京ドーム大会を開催した際の、藤波の参加に向けた発言とその撤回の経緯が、引退時の鶴田の発言と符合している。

引退 - 闘病 - 死去編集

1999年2月20日の引退記者会見に続いて、1999年3月6日に日本武道館にて引退セレモニーが行われ、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。なお、勤務先であった桐蔭横浜大学のサイトには「客員研究員として」[38]とある。鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のたった三人であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離があり、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際鶴田は「何かあったらすぐに言って来いよ。俺はミチャワくん(鶴田が三沢を呼ぶ際の愛称)の味方だから、それだけは忘れないでくれ」と告げたと言われる。

この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピンマニラでドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。国立腎臓研究所にて手術が行われたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳で死去。奇しくもこの日は1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日でもあった。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。

没後編集

鶴田の死から1ヶ月後の6月13日、かつて鶴田の付き人を務めていた三沢光晴が全日本社長を辞任し、その三日後の記者会見で新団体であるプロレスリング・ノアの旗揚げを正式発表した。これに伴い全日本の選手が大量離脱したことに対して、彼らが全日本で冷遇されていたことを知らなかった保子夫人は、「ジャンボ鶴田お別れの会」にて「夫は三沢君を支持したと思います。でも、三沢君に全日本を潰す権利は無いです」と話したが、真相を知った後に自身のWebサイトで「三沢君達の気持ちがやっと分かりました」「(馬場)元子さんは許せないです」と語った。

鶴田の突然の死は各方面で大々的に報道され、2000年11月26日には『知ってるつもり?!』(日本テレビ系)で「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」と題した追悼番組が放送された[39]

2014年4月13日、鶴田の故郷・山梨の山梨市民総合体育館に於いてノアの協力により「ジャンボ鶴田追悼記念大会」が開催された。同年11月28日(日本時間29日)、米国プロレス殿堂入りを果たした。日本人では力道山、馬場、猪木に次ぐ4人目の快挙[40]。鶴田が生前親交があった原辰徳も「凄いね、価値あるよ」と祝福した[41]

年表編集

  • 日川高校時代、バスケットボール部で、全国高校選手権大会に出場。
  • 中央大学時代、レスリングで全日本選手権制覇。そのうち1971年のフリースタイルはレスリングでの実績がない選手2人を破っての優勝であり、同年のグレコローマンは他に出場選手がなく不戦勝による優勝[42]となっている。
  • 1971年のレスリング世界選手権にフリー[43]・グレコ[44]両スタイルで出場するが、ともに2戦2敗で敗退。
  • 1972年のレスリング全日本選手権では、同選手権での優勝経歴のある磯貝頼秀山口勇雄を抑えてのフリー・グレコ両部門2連覇をはたしている。
  • ミュンヘンオリンピックで、レスリング グレコローマン100kg超級に出場するも、2戦2敗[45]
  • ジャイアント馬場にスカウトされ、プロレス界入り。
  • 1973年3月22日、アメリカ修行。150戦消化の後、同年10月1日帰国。10月6日、後楽園ホールにて日本デビュー戦。
  • 1975年、馬場と組んでの、インタータッグ選手権。相手はザ・ファンクス。
  • 1976年8月28日、UNヘビー級タイトル獲得。
  • 3月10日 - 1979年1月5日まで、十番勝負。通算成績、4勝2敗4分。
  • 1983年8月31日、ブルーザー・ブロディよりインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。第14代チャンピオンとなった。
  • 1984年2月23日、蔵前国技館においてニック・ボックウィンクルとの、AWA世界ヘビー、インター・ヘビーのダブルタイトル戦を行い、鶴田が勝利しインター・ヘビー級王座防衛ともに、日本人初の第30代AWA世界ヘビー級王者となった。
    その後、AWA王座を同年5月13日にリック・マーテルに敗れるまで16回の防衛を果たした。日米2国間を往復しての世界王座防衛は、日本人初の快挙。
  • 1984年9月23日、元日本航空スチュワーデス・荒牧保子と結婚。
  • 1985年11月14日、長州力とのシングルマッチ。結果は、60分時間切れ引き分け。控え室で完全なスタミナ切れを起こしていた長州を尻目に、鶴田は街へ飲みに繰り出すという伝説を残す。
  • 1988年6月10日、日本武道館にてインターナショナル・タッグ王者・ロード・ウォリアーズに勝利し、PWF世界タッグと王座統一し、初代世界タッグ王者となった(パートナーは谷津嘉章)。
  • 1989年4月18日、東京大田区体育館で三冠統一戦を行いハンセンを破り、インター・ヘビー級・PWFヘビー級・UNヘビー級の各王座を統一し、三冠統一初代王者となった。
  • 1990年4月19日、最後の対天龍源一郎戦。鶴田が勝利し、三冠王座二度目の防衛(天龍戦の通算成績は4勝3敗2分)。天龍はそれまでに日本人レスラーで唯一、馬場にピンフォール勝ち(3カウント勝ち)をしたレスラーで、それまで鶴田とも対等の闘いをしていたが、前シリーズでタッグ決別したハンセンによる試合前の襲撃(ラリアット)のダメージが回復しないまま、鶴田の勝利に終わる。シリーズ終了後に行われた新日本・全日本・WWF共催の東京ドーム大会直後、天龍は突如全日本プロレスを退団。
  • 1992年11月13日、B型肝炎発症を告白、昭和大学病院へ長期入院。
  • 1993年3月退院、同年9月23日、リング上挨拶、同年10月23日復帰戦。
  • 1994年10月28日、筑波大学大学院修士課程体育研究科コーチ学、社会人特別選抜枠で受験し合格。
  • 1996年4月より、慶應義塾大学、桐蔭横浜大学の講師に就任。
  • 1997年3月、筑波大学大学院修了、4月より中央大学の講師となった。
  • 1998年5月1日、全日本初の東京ドーム大会に出場。菊地毅にバックドロップを披露。
  • 1998年9月11日、現役最後の試合。馬場・ラッシャー木村と組み、渕正信、永源遙、菊地組と対戦。
  • 1999年2月20日、キャピトル東急ホテルにて引退記者会見。全日本プロレス取締役の辞任も発表。
  • 3月6日、日本武道館に於いて引退セレモニー。
  • 3月10日、ポートランド州立大学に赴任。
  • 2000年5月13日、マニラにて、肝臓移植手術中にショック症状、出血多量により死去。 (2000-05-13) 2000年5月13日(49歳没)
  • 6月18日、「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」が青山葬儀所でとり行われる。
  • 現在、山梨県の実家近く慶徳寺に永眠している。墓碑には「人生はチャレンジだ!!」と刻まれている。

得意技編集

フィニッシュ・ホールド編集

バックドロップ
この技自体は若手時代から使用していた技なのだが、当時は相手の股へ手を差し込んだ抱え式のバックドロップであった(馬場やドリーのバックドロップと同じ形)。しかし1982年の夏頃から反り投げ式のバックドロップ(現在で言うところの投げっぱなしのスタイル)をフィニッシュに使用しはじめ、そして同年秋にバックドロップの祖であるルー・テーズから「ヘソで小さく弧を描くように投げろ」とアドバイスを受け、自分の頭を相手の脇下にいれ、相手の胴を両手でクラッチしてブリッジを効かせて投げるルー・テーズ型バックドロップに磨きをかけるようになる。1983年4月にルー・テーズ杯のためにテーズが再度全日を訪れた際には本格的なマンツーマン特訓も受け、以後はジャーマン・スープレックスに代わる鶴田の絶対的な切り札となる。身長2m、体重190kgの超肥満体型選手だったワンマン・ギャングも綺麗に投げてみせた事もある。
最初はつま先をマットにつけたまま素早く低く叩きつける低空高速型(渕正信蝶野正洋が使用しているタイプ)だったが、観客の見栄えを意識してか徐々につま先を流しながら高く持ち上げ落下させるスタイルに変化させていく。
相手の受身の力量によって落とす角度を変えており、三沢や川田に対しては、とんでもない角度で落としていた。別名「岩石落とし」。
1980年代前半のある時、「ルー・テーズばりの本物のバックドロップを見せてくれよ」と日本テレビ側からけしかけられたこともあって、対戦相手のハーリー・レイスに危険な角度でバックドロップを行った。受身技術では当時世界最高レベルと評価された[46]ほどのレイスだが試合後鶴田の元へ怒鳴り込んで「お前、この場でもう1回やってみろ」と凄んだ。これに反省したのか鶴田は相手の受け身の角度によってバックドロップで投げる角度を調整するようになったという[28]
バックドロップ・ホールド
つま先をつけたまま低い体勢で素早く叩きつけるスタイルの低空高速式バックドロップは後のバックドロップ・ホールドへと昇華されていく。ニック・ボックウィンクルとのAWA世界ヘビー級戦でバックドロップ・ホールドでフォールしてベルトを奪取して以降、鶴田の代名詞と呼ばれるようになり、また、AWA世界王座奪取の決め手のなったことから「世界を獲ったバックドロップ」とも言われていた。。
パワーボム
天龍との1989年4月20日大阪における三冠ヘビー級選手権で、喉笛へのチョップを何度も食らったために怒りで我を忘れた鶴田が、その天龍に対し放った技。のちに「ジャンボ・リフト」の別名がついたそのパワーボムは超急角度かつハイスピードなもので、頭から垂直に落とされた天龍は口から泡を吹いて失神。
直後に天龍の異変に気付いた鶴田が慌ててフォールし、試合を終わらせている。鶴田は「ちょっとやりすぎた」と述懐している。

投げ技編集

ブレーンバスター
雪崩式ブレーンバスター
前方叩き付け式ブレーンバスター

4種類のスープレックス編集

ジャーマン・スープレックス
フロント・スープレックス
サイド・スープレックス
ダブルアーム・スープレックス
4種類のスープレックスを使いこなしたが、鶴田のジャーマン・スープレックスは1982年のリック・フレアーとのNWA戦を最後に封印される。封印の理由は諸説あり「恐ろしい威力を誇り危険であり調節も難しいため」や、和田京平レフェリー曰く「ハゲるのが嫌だから」などだった。ただし、鶴田のジャーマン・スープレックスはスピードを落として持ち上げて一旦止めてから投げていく、現在でいう二段モーション式ジャーマンを主に採用していたので、結果相手は高角度からほぼ垂直に落下する危険なタイプのものであるのは確かで、第8回チャンピオン・カーニバルの決勝で仕掛けられたディック・スレーターが首を負傷してしまったのは有名。また、ハーリー・レイス戦などで、スピードを落とさない、高速ワンモーションのジャーマンも時折出していたが、円を描くような形で投げ、こちらも落下角度が急になるため危険とされていた。
フロントスープレックスは4種類のスープレックスで一番難しく、本当に受身の上手い選手にしか使わない」とされ[47]、鶴田曰く「ジャーマンは1週間で習得出来たが、フロントは4週間かかったとのこと。また、フロント・スープレックスをフィニッシュにしたレスラーは鶴田が初めてで[47]、(カール・ゴッチは『私は彼(鶴田)が騒がれる前からサルト(フロント)を使用していた』と主張しているが、ゴッチが試合でフロントを使用したという記録は少なくとも現時点では存在していない)[10]ジャック・ブリスコからUNヘビー級王座を奪取する決め手となったのはフロントだった。
サイド・スープレックスについては、長身の馬場を投げきる場面が印象的な映像として頻繁に流されている。
最もよく使われており得意としていたのはダブルアーム・スープレックスで、ジャンピングニー、ボストンクラブなどとともに、80年代前半は大試合で必ず見られるムーブのひとつであった。
ランニング・ネックブリーカー・ドロップ
走りこんで相手の首に腕を掛けそのままマットに相手の後頭部を叩きつける。馬場の必殺技であった。
パイルドライバー
ドリル・ア・ホール式で、相手の頭を股間に挟み込んでリングへ脳天を叩きつける。技の妨害を受ける心配がない場合は挟み込んだ体勢で四方に身体を向けてアピールしてから落とすこともあった。また、ライバルのブロディのパイルドライバー同様何らかの工夫をしていたのか、決まった時の衝撃音が非常に大きかった。
ショルダースルー
この技はほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的なムーブである。相手の攻撃を「引き出す」ための動きだが、鶴田に比較的余裕のある状態で行われるため、やや不自然なものであることが多い。ブルーザー・ブロディとのシングル戦では、双方がショルダースルーに行こうとしては反撃で失敗する「ダブルお約束」的シーンが見られた。
ジャンボ・ホイップ
アトミック・ドロップの要領で抱え上げ、前方へ放り投げる荒技。菊地毅が主な犠牲者。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップに行くことも。第一線を退いた後、田上明がこの技を引き継いだ。

関節技編集

拷問コブラツイスト
通常のコブラツイストと異なり、かけた相手の頬・側頭部を上から押さえつける。川田との拷問コブラ合戦は名場面の一つ。また、菊地毅はこの技を文字通り「押し潰される」ように受けた。
逆エビ固め(ボストンクラブ)
キャリア前半では、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎ技として多用していた。キャリア終盤時は体格差のある菊地へ決めた形が片仮名の「コ」に見えることから「コの字固め」とも呼ばれていた。馬場の「試合終了間際に攻めている方が強くみえる」という教えに沿って、残り時間が30秒を切ってから仕掛けることもよくあった。
インディアン・デスロック
試合の前半から中盤にかけて見せていた技で、技をかけながら相手選手に張り手を入れたりもする。天龍らギブアップを取った技でもある。

打撃技編集

エルボー・バット
エルボー・スマッシュ
ローリング・エルボー
鶴田が大きな技へのつなぎ技、反撃の糸口として使うエルボー・バットはエルボー・スマッシュと、体を半回転させて打ち込む、今でいうローリング・エルボーの形に近いものが多かった。どちらもドリー・ファンク・ジュニアの得意技で、ファンクス道場での修業中にドリーから教えられたもの。
ジャンボ・ラリアット
スタン・ハンセンのような一撃必殺技とは行かないが、試合の要所でこの技を使用した。キャリアが中盤になるころから使い出した技。1984年のテリー・ゴディとの一騎討ちあたりから黒いアームサポーターをしごいて放つジャンボラリアットが誕生したと言われる。鶴田のラリアットの打ち方は特徴があり、通常は下から体ごと伸び上がりながらノドを突き上げる。ただし、菊地毅のような小柄のレスラーには肘を曲げて上から体重を乗せるような打ち方をした。いずれにせよ、鶴田の身長を上手く利用した打ち方であった。また、長州力のリキラリアット同様、使用した当初は腕を痛めたポーズをとっていた。
ジャンピング・ニー・バット
ダイビング・ニー・アタック
ダブル・ジャンピング・ニー・バット
一時期「鶴田が相手をロープに振ったら90%この技」といわれた。決まった後は右手を高々と掲げ「オー!」と叫んでアピールする事がほとんど。現在では秋山準が鶴田から直接教わったことを明言して、得意技としている。バスケの経験から得た跳躍力を活かしている。
若手時代は「相手に考慮し」当たる瞬間体を横に向け太もものあたりを当てるようにしていたが、天龍との抗争からそのまま真っ直ぐ飛んで鋭角的な膝を顔面に叩き込むようになった。重要な一戦ではコーナーポスト最上段から放つダイビング式(ダイビング・ニー・アタックと呼ばれた)、ランニング式も使用し、ハンセンを失神させた事もある。
この技のバリエーションとして、同時に相手の脳天に肘を落すジャンピング・エルボ―・ニー・バットや、両膝でジャンプし相手に当てるダブル・ジャンピング・ニー・バットも一時期使用している。
ダブルチョップ
ダブルハンマーとも。頭上から両手を揃えて相手の背中へ張り手の様に放つチョップ。超世代軍相手に放つことが多く、その威力と大きな音で場内がどよめくことも多かった。技自体は単純だが、相手に格の違いを見せ付ける色合いが強い打撃技である。
ドロップキック
新人時代に多用したが、キャリア中盤以降も印象的な場面でしばしば用いた。持ち前のバネを活かした打点の高さ、威力、タイミング、フォームの美しさ、どれも随一で若手時代は「日本人No.1のドロップキックの使い手」と評された。馬場との初対決でこの技を繰り出した時には、あまりに高く飛び上がりすぎて足先が馬場の頭部(2m9cm)を越えてしまったこともある。
ミサイルキック
倉持隆夫アナ(日本テレビ)からはウルトラCドロップキック、もしくはジャンボ・ミサイルキックと呼ばれていた。1975年全日本に参戦したリッキー・ギブスンが公開、ドロップキックを得意技にしていた鶴田はこのミサイルキックを自分のものとした。ジャーマン・スープレックスと共に若手時代の鶴田のフィニッシュだった。スワンダイブ式が全盛の現代と違い、2m近い巨体の鶴田が体を捻りながら蹴るミサイルキックの威力は高く、ミル・マスカラスリック・フレアーといった一流どころからも3カウントを奪っている。
フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)
ジャンプして相手に飛びついて、馬乗りになるような状態で背中から叩きつける。1983年4月、ルー・テーズにバックドロップを習った際に一緒に教わったもの。そのままフォールの体勢になることも多いが、トップロープに自らの喉元を打ち付ける誤爆も多かった。また長身でジャンプ力のある鶴田が使うと勢い余ってヒップドロップの形で落下してしまうこともあった。技の説得力から使用回数の割にフィニッシュムーブとなることが多かった。
タックル
この技も、ほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。コーナーに投げた相手に向かってタックルをかけるべく頭から突進するがキックを食らうかもしくは自爆。決まったことは数えるほどしかない。
場外でのヘッドロックから鉄柱攻撃
この技もまた、ほとんど反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。場外で相手をヘッドロックにかかえたまま相手の頭部を鉄柱に打ち当てるべく突進。頭を抜かれて自分が鉄柱に体当たりする。
キチンシンク
ロープに振り、戻ってきた相手の腹部に膝蹴りを入れる。2、3回ほど行うのが常だった。長州が全日に参戦していた直後から鶴田も使い始めた事から、長州に影響を受けたものと思われる。
レッグ・ラリアット
ブルーザー・ブロディ用秘密兵器、という触れ込みで開発された。木村健吾の同名技とはまったく違い、ジャンピング・ニーバットが横に流れた形。膝ではなく、脛が相手の首にヒットする。見た目がほとんどジャンピング・ニー・バットと変わらないことからあまり評判が良くなかったのか、数回使っただけで封印された。
延髄斬り
相手の延髄めがけてジャンプをしながらハイキックを入れる。天龍が多用していた技でもある。鶴田の場合は軸足を掴まれた状態から放つキャッチ式延髄斬りをここ一番で効果的に使っていた。
ビッグブーツ
相手レスラーに向かってフロントキックをぶちかます。福沢朗アナは十四文キック若林健治アナはジャンボ・キックと呼称していた。ライバルのブルーザー・ブロディが死去したことで折角威力のある技であるし、ファンがブロディを忘れることがない様にと使う様にした。事実、試合でヘビー級レスラーをも吹っ飛ばしていた。1989年4月20日の三冠ヘビー級選手権では、天龍をパワーボムで失神させる前に、この技で天龍の歯をへし折っている。また、馬場とのコンビではダブル・フロントキックをよく使っていた(実況では三十文キックとも呼ばれた)。

人物編集

  • 現役時代からフォークシンガーとしてレコードを発売したり、ファンの前でギター片手に歌ったこともある。井上陽水の「傘がない」をテレビで披露したこともある。ただし、付き添った川田曰く「アンコールはなかったね」とのこと。
  • 中央大学へはバスケットのスポーツ推薦でなく、一般入試を受け合格したとされている[11]。しかし鎌田誠[48](中大レスリング部およびミュンヘンオリンピックレスリング代表の同期)やミスター・ポーゴ(中大同級生)は「鶴田はバスケット特待生だった」と明言している。自著の受験指南書『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』では、大学院入試の経験については詳細であるが、大学受験に関しては具体的に語られていない。
  • 1975年頃、新間寿が鶴田を新日本プロレスへ引き抜くことを計画していた。しかしこの計画が、当時東京スポーツの社長だった井上博や、当時の三浦甲子二テレビ朝日専務の怒りを買うことになった。最終的に新間による鶴田引き抜き計画は失敗に終わった[49]
  • レスラー時代はバラエティ番組へも出演した。また日野自動車トラック井関農機コンバイン「太郎」シリーズのCMにも出演経験有。
  • 虫が大の苦手。セミはおろか、毛虫なんかもっての他(夫人談)
  • 家宝は坂本龍馬の像で、プロレスで得たトロフィーなどは無造作に押入れへ保管したり、欲しがる人にあげていたと言う。
  • 若手時代に鶴田の付き人を務めた三沢によると、後輩であっても「君」付けで呼び、先輩風を吹かせたり、無理を言ったりすることもなかったという[50]。リングを降りるとマイペースを貫き、若手選手と飲食店で同席しても特に奢ることは無く、コンビニの袋を抱えて宿泊宿へ戻るなど、プライベートでは鶴田友美として過ごした[50]。生前の三沢と親交があった徳光正行によると、三沢は自身の付き人に対して雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかったが、これは自身が付き人を務めた鶴田が干渉をあまりしない性格だったことが影響しているといい[51]、また三沢も新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという[52]。この「使い分け」は外人選手に対しても同様であったため、テリー・ファンクも1983年の一度目の引退のあと「馬場の次のボスは鶴田ではなく天龍だ」と語っていた。天龍はプロレス転身当初鶴田から気のよさそうな挨拶を受け、後年「ジャンボのおかげでプロレス界にスッと入っていけた。もしあの時、元関取でもプロレスではそうはいかないぞ!みたいなムードを感じていたらその後のプロレスへの取り組み方は変わってしまっていたかもしれない。」と振り返っている。
    • しかし2016年に天龍はインタビューの中で「リングの中で相手を見下したような試合をしたり、リングの外で“プロレスラーの鶴田友美です”というのが嫌そうなジャンボを見て、段々嫌になっていったんだよ」と1987年春の鶴龍コンビに嫌気がさしていた頃の様子を語っている。同じインタビューで天龍はまたリング上で常に余裕のある自分を見せたがっていた鶴田の生前のその姿勢を指摘している[53]
  • 新弟子時代の大仁田厚は、高い具材が入っているちゃんこが道場に用意されても、先輩に具材を取られてしまい野菜しか残らず落胆することがままあったが、鶴田が毎回作っていた鶏の湯豆腐は材料費が安い分だけ肉が沢山あったため、当時新弟子であった大仁田でも肉にありつけた。鶴田は「食べるのは平等だ」と日頃から話していたといい、このように思いやりのある鶴田を大仁田は慕っていた[54]
  • 田上明の証言によると、ひどい悪ふざけをするが後輩の食事は必ず奢ってくれる天龍とは逆で、財布の紐が固く食事を奢ることはしなかったという[55]
  • 佐藤昭雄、「馬場さん、猪木さんのように”俺の会社なんだから、俺が作って、俺が客をいっぱいにしてやる”というのがなかった。結局、ジャンボがリングの中でどんなにいい試合をやって、控室に帰ってきて意気揚々とコメントしても、常に馬場さんが葉巻をくわえて、もっと大きな態度で座ってるわけよ。そこなんだよ、ジャンボに物足りなさを感じたというか、もうひとつ上にいけなかったのは。その後のもう一歩は何かと言ったら、独立してお山の大将にならないと最終段階というのが作れないわけよ。それをジャンボはやらなかったからね」と話している[56]
  • 「ナチュラルな強さ」と言われることが多い。弟子の三沢も「鶴田さんが筋力トレーニングをしているところを見たことがない。おそらく好きなテニスやバスケットボールを楽しみながら必要な筋肉を付けていたのだと思う」と著書の中で述べている[50]。生まれ持った運動基礎能力が格段に優れていたようで、吉田豪曰く「若い頃にただ山道を自転車で走り回っていただけで、自然に超人的な体力がつき、特に練習しないままに、オリンピックに出られた人」である。大学一回生の時に「ずっと打ち込んでいたバスケットボールでは、どうやら五輪に出られなさそうだ」と不安を抱き、バスケットを辞める事を決意する。鶴田は「僕は五輪に出たい。なんでもいい。時間は3年しかない」という強い想いから、各スポーツを検討した結果「アマレスなら、なんとかなるんじゃないか?」と想定してレスリングを選んだ。バスケットボール特待生で大学に入った男が、「五輪に出られないから」という理由でバスケットを辞めてレスリング部に入部希望をするという行為は、レスリング部にとってみれば、意味の分からない行為であった。その為にレスリング部は鶴田の入部希望を受け入れず、即座に追い返した。途方に暮れた鶴田は、自衛隊体育学校では一般人でもレスリングが練習可能と知り、そこで練習を始める。自衛隊学校のコーチは鶴田の非凡な運動能力に気づき、本腰を入れて指導すると、鶴田は経験なしの状態からすぐに「全日本社会人選手権」と「国体」の両大会で優勝を果たした。日本のアマレスレベルは、数多くのメダリストを輩出しているように非常に高く、これは驚異的な事であった。少し前に鶴田が入部を断わられたレスリング部から、逆に「鶴田君、ウチに来てくれないか」と誘われる事になる。鶴田は、当初入部する気はなかったが、自衛隊体育学校のコーチから入部を薦められて、所属するようになる。鶴田は、なんと経験二年余りで、ミュンヘンオリンピック出場を勝ち取った。オリンピック本戦では、経験不足はいかんともしがたく、戦術の乏しさと国際ルールの不慣れに戸惑い、老獪なヨーロッパ選手の敵ではなく、肝心の攻撃がほとんど出来る事なく警告負けに終わった。
  • 1985年夏にB型肝炎のウィルスキャリアが判明してから、本当にハードなトレーニングが出来なくなり、もっぱら趣味のスポーツで体力を維持していた。対して天龍はオフでも週に5日は練習・稽古を欠かさない「稽古の鬼」であったが、ハードトレーニングをしなくても怪物的な強さを見せ付ける鶴田に「コイツと俺らは、持って生まれたものが違うんだなぁ」としみじみ思ったという[30]。三沢も自著で「鶴田さんは持って生まれたものが凄すぎた。レスラーに必要な能力を全て備えていた」と語っている。
  • レスリングでは鶴田よりも身長が13センチ低い[57][58]小柄な磯貝頼秀に一度も勝利することができなかったなど、国内において無敵の選手であったとは言い難い面もある。なお五輪など国際戦では外国人選手に全敗している。ただ、ジャンボ鶴田試練の十番勝負の第7戦目では1972年ミュンヘン五輪レスリングの男子フリースタイル120kg級銅メダリストのクリス・テイラーに勝利している。

タイトル歴編集

入場テーマ曲編集

  • チャイニーズ・カンフー
  • ローリング・ドリーマー - リリースした同名レコード曲のインスト
  • T.T.バックドロップ - 1983年8月31日のブロディ戦(リングアウト勝ちによりインターヘビー級奪取の試合)のみの限定使用
  • J(作曲:鈴木宏昌)- 1983年12月から。当初は鈴木宏昌録音のオリジナル音源が使用されていたが、1984年のレコード化に伴いカバー音源が新たに録音され、会場使用音源もカバー音源に変更された。1992年にオリジナル音源に戻され引退まで使用

音楽編集

シングル編集

# 発売日 A/B面 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格品番
CBS・ソニー
1 1980年
3月
A面 ローリング・ドリーマー 喜多條忠 川口真 06SH-737
B面 妹に
ミノルフォン
2 1981年
6月
ローリング・ドリーマー(インスト) - 川口真 伊勢谷丈治 06SH-737
B面 サヨナラは言わないで 鶴田友美
キャニオンレコード
3 1984年
4月
A面 明日があるさ 山田孝雄 幸耕平 南郷達也 7A-0370
B面 なみだ割り

著書編集

  • 『リングより愛をこめて―ジャンボ鶴田のファッショナブル・トーク』(1981年12月1日、講談社ISBN 978-4061277694
  • 『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ―志望校を突破する“七つの必殺ワザ”を伝授しよう』(1996年11月1日、ごま書房ISBN 978-4341017477
  • 『ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル―プロレス流筋力パワーアップ・トレーニングとスーパータフネスの秘密』(1999年3月1日、ナツメ社ISBN 978-4816325335

関連書籍編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 特別対談 ジャンボ鶴田-早川武彦 対談者略歴
  2. ^ 2016年の取材では兄の恒良が農園の主人を行っており、農園には『ジャンボ鶴田園』の名がついていることが明らかになった。ちなみに兄も推定身長190cmと弟に負けず劣らずの高身長である。
  3. ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.40
  4. ^ 『全日本プロレス中継スペシャル』「ジャンボ鶴田と5人のライバル」
  5. ^ a b c 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.41
  6. ^ a b 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.42
  7. ^ 『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』(ごま書房,1996年) ISBN 4-341-01747-0
  8. ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.7
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  10. ^ a b c d 週刊ゴング別冊号 ジャンボ鶴田追悼号(2000年、日本スポーツ出版社
  11. ^ a b c ジャンボ鶴田・編 久堂一・著『熱き若武者の叫び―ジャンボ鶴田“青春マインド”』 (笠倉出版、1983年)ISBN 4905587743
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  19. ^ 『Gスピリッツ Vol.34』P67(2014年、辰巳出版ISBN 4777814165
  20. ^ これは1973年8月6日に日本テレビのロサンゼルス支局がテキサス州エルパソへ取材に行ってきた際に報じたことで注目を浴びた
  21. ^ 当時、NWAAWAWWFの世界ヘビー級王座が世界三大王座と言われていた。
  22. ^ 月刊ビッグレスラー 1982年10月号P114-119 『まだら狼上田馬之助のレスラーぶった斬り』(立風書房
  23. ^ 翌年鶴田はAWA世界王者に就いたが、テーズに本当に100万ドルを払ったかどうかは不明である。ちなみに当時のレートで100万ドルは2億円以上になる[要出典]
  24. ^ 後のAWA王座を奪取するまでの間「鶴田が世界に一番近づいた日」と呼ばれていた[要出典]
  25. ^ 通算64回目!リック・フレアーがご機嫌来日
  26. ^ プロレス選手権変遷史
  27. ^ だが、ニックも鶴田の腕を徹底的に攻めるなど、鶴田に主導権を取らさせず追い詰める試合巧者ぶりを発揮し、それまでの反則やリングアウトで勝利するダーティーなレスラーというイメージを払拭している。
  28. ^ a b 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.35
  29. ^ The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1984”. Wrestling-Titles.com. 2014年12月29日閲覧。
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  46. ^ 月刊ビッグレスラー 1982年10月号・P157 ジャイアント馬場のコメントより(立風書房
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  49. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol.8』P3 - P6(2015年、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4-583-62269-9
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  55. ^ 【レスラーめし】ファンを熱狂させた「四天王プロレス」田上明 壮絶な闘病体験とステーキ屋の話【鶴田と天龍】 メシ通 2020-07-21 (2020年8月10日閲覧)
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  57. ^ Olympics at Sports-Reference.com Tomomi Tsuruta Height:6'4" (194 cm)
  58. ^ Olympics at Sports-Reference.com Yorihide Isogai Height:5'11" (181 cm)

関連項目編集

外部リンク編集