倉野信次

日本の野球選手

倉野 信次(くらの しんじ、1974年9月15日 - )は、三重県度会郡小俣町(現:伊勢市)出身の元プロ野球選手投手)、コーチ

倉野 信次
福岡ソフトバンクホークス 
投手コーチ(チーフ)
兼ヘッドコーディネーター(投手) #94
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県度会郡小俣町(現:伊勢市
生年月日 (1974-09-15) 1974年9月15日(49歳)
身長
体重
177 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト4位
初出場 1997年4月10日
最終出場 2006年5月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴

来歴・人物 編集

プロ入り前 編集

宇治山田高校では2年夏の大会で県ベスト8、3年夏には同校史上77年ぶりの全国大会出場を狙って決勝まで進出するが、三重高校にサヨナラ負けを喫し甲子園には出場できず[1]東都青山学院大では井口忠仁澤崎俊和清水将海高須洋介らと共に黄金時代を築く。東都大学リーグ通算41試合登板、17勝7敗、防御率3.17、154奪三振[1]。3年生春に7勝1敗で最優秀投手とベストナインに選ばれた[1]1995年ユニバーシアード福岡大会の代表メンバーにも選ばれた[1]

1996年ドラフト会議で、福岡ダイエーホークスから4位指名を受け、入団した[1]

ダイエー時代 編集

1年目の1997年ジュニアオールスターゲームでMVPを獲得[1]。2年目の1998年、中継ぎで36試合に登板しプロ初勝利を挙げた[1]。しかし、翌1999年から2000年の2年間は低迷。この間、チームはパシフィック・リーグ(パ・リーグ)連覇を達成したが、倉野自身は両年とも1桁登板に終わっている。

2001年、前半は谷間の先発、後半はストッパーのロドニー・ペドラザをはじめリリーフ陣が不調で、終盤大事な場面で登板する機会に多く恵まれ、7勝を挙げた[1]。しかし翌2002年や、チームが倉野の入団後で3回目のリーグ優勝を達成した2003年は再び2年連続1桁登板と低迷する。2004年は中継ぎ・谷間の先発とフル回転。特に先発では負け無しの7連勝を記録するなど9勝1敗、防御率2.55を記録。西武ライオンズとのプレーオフでは1勝2敗と後が無くなった第4戦に登板し、6回無失点の好投で勝利投手となった。しかし、チームは翌日敗れ、リーグ優勝を逃した。

2007年は一軍出場がなく、10月6日に球団から戦力外通告を受けた。12球団合同トライアウト受験後、千葉ロッテマリーンズのテストを受けるも入団には至らなかった。シーズン後のファン感謝祭での退団選手による挨拶の際、「2004年のプレーオフでファンの方々から『ナイスピッチング』より、『ありがとう』の声が多かったことは忘れません。僕のほうこそ皆さんのおかげでいいピッチングができ、お礼を言いたかったのに。本当にプロ野球選手になってよかったな、と思いました」と言い、喝采を浴びた。その後は11月30日付で自由契約公示され、現役引退した。

引退後 編集

引退後は球団のチーム運営部スタッフを経て、2009年、二軍投手コーチ補佐に就任した。背番号は94[2]

2011年からはチームの三軍制導入に伴い、三軍投手コーチに配置転換された。武田翔太千賀滉大を育てるなど[3]手腕を発揮した。

その後、2015年は二軍投手コーチ(チーフ)、2016年は一軍投手総合巡回コーチ、2017年2018年までは一軍投手統括コーチ、2019年は一軍投手コーチ、2020年2021年はファーム投手統括コーチを務め、2021年10月29日に同年限りで退団することが発表された[4]

12月6日、翌年から米国でのコーチ留学に挑むことを表明[5]2022年、2月14日に大リーグテキサス・レンジャーズ傘下のマイナーリーグでコーチ研修することが決まった[6]。背番号は74[7]。レンジャーズの研修終了後に古巣・ソフトバンクの宮崎キャンプを訪問し、11月12日・13日にチームの首脳陣、選手を対象に「夜間特別講義」を開いた[8]

2023年1月19日、前年までコーチ研修をしていたレンジャーズ傘下マイナー投手育成コーチに就任し、MLB初の日本人投手コーチとなった[9]

MLBシーズン終了後にレンジャーズ傘下マイナー投手育成コーチを退団。他球団からもオファーがあったが[10]、2023年10月31日、2024年から一軍投手コーチ(チーフ)兼ヘッドコーディネーター(投手)として、ソフトバンクに復帰することが発表された[11]。翌11月1日に行われた就任会見で「(日本に)帰ってくるタイミングは探していたけど、正直レンジャーズさんも残って欲しいと(言ってもらった)。けれど、25年間ホークスでお世話になって僕を育ててくれた球団。そんな球団が僕に助けを求めてくれた、その事実が重く感じた。自分勝手に夢を追い求めるよりは、恩を返したいと思って戻る決意をしました」と復帰の思いを語った[12]

指導者として 編集

ソフトバンクコーチ時代は自身が指導した投手の球速が10キロ以上アップするなど劇的に成長する様が、プロ野球ファンの間で「魔改造」と呼ばれる[13]

指導する際は「伝える力」「長所を伸ばす」「成功体験」「アドバイスはシンプルに」「モチベーションを上げる」の5点を大切にしている[13]。その中でも「伝える力」を最も重要視している[13]

「短所を修正させようとすることで長所も同時に消えてしまい、結局何も残らないということが起こりがち」という考えから、短所はできるだけ目立たない程度にするにとどめるなど無理に改善するよう指導しない方針[14]

本人は2022年4月公開の上原浩治の公式YouTubeチャンネルの動画で「新人選手のレベルが落ちている」という主張をしており、最近(2022年時点)の選手の間では地味なことをコツコツやる大切さが薄れてきている、投手の球球だけは速くなったが走り込みが足りておらず体力が自分の現役時代より低下しているため1シーズンに渡ってパフォーマンスを維持することができないとしている。アマチュア球界全体で厳しい練習をしなくなった影響で体力のレベルが落ちている中で、特に大学球界の選手達の体力低下が著しいと嘆いており、(この動画の公開から)5、6年前あたりまでは亜細亜大学出身者が球界を席巻していたことを根拠に「未だに昔ながらの体力を持っているのは亜細亜大学ぐらいじゃないですか?」と評している[15]

自身の現役時代のコーチは「自分の理論に当てはまる人だけ面倒を見て一軍に上げていく」という方針であったため、自身がコーチになった際はそうしたコーチングは理不尽なのでやめようと誓った。同時に選手1人1人に向き合い、二軍の選手は全員一軍昇格を視野に入れて指導するように決めた[15]

上原浩治は、柔和な性格の倉野がプロ野球のコーチを行っていることに意外の念を覚えているが、本人はソフトバンクのコーチで一番怒るのは自分だと主張している[15]

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1997 ダイエー
ソフトバンク
15 2 0 0 0 0 0 0 -- ---- 154 32.2 44 1 17 0 1 23 2 0 18 17 4.68 1.87
1998 36 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 223 51.1 43 4 35 1 2 21 3 1 26 24 4.21 1.52
1999 8 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 85 14.2 30 4 10 1 2 6 1 0 28 23 14.11 2.73
2000 2 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 21 4.1 3 0 4 1 1 3 0 0 1 1 2.08 1.62
2001 34 8 1 0 0 7 4 1 -- .636 388 88.1 83 11 47 1 5 58 3 0 37 37 3.77 1.47
2002 9 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 44 9.1 14 3 2 0 0 8 0 0 8 8 7.71 1.71
2003 6 2 0 0 0 0 0 0 -- ---- 59 13.2 15 3 7 0 0 8 1 0 10 10 6.59 1.61
2004 37 9 0 0 0 9 1 0 -- .900 371 88.1 88 6 27 1 5 37 0 0 32 25 2.55 1.30
2005 15 4 0 0 0 1 1 0 2 .500 136 30.1 39 4 7 0 2 11 0 0 23 21 6.23 1.52
2006 2 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 38 8.1 13 4 1 0 0 1 0 0 9 8 8.64 1.68
通算:10年 164 28 1 0 0 19 9 1 2 .679 1519 341.1 372 40 157 5 18 176 10 1 192 174 4.59 1.55
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

表彰 編集

記録 編集

初記録
  • 初登板:1997年4月10日、対日本ハムファイターズ1回戦(福岡ドーム)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:1997年4月16日、対近鉄バファローズ2回戦(大阪ドーム)、2回裏に武藤孝司から
  • 初先発登板:1997年8月31日、対近鉄バファローズ24回戦(大阪ドーム)、5回無失点
  • 初勝利:1998年5月2日、対近鉄バファローズ4回戦(福岡ドーム)、9回表1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点
  • 初完投:2001年5月30日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、8回4失点で敗戦投手
  • 初先発勝利:2001年8月28日、対日本ハムファイターズ23回戦(東京ドーム)、7回2/3を1失点
  • 初セーブ:2001年9月25日、対千葉ロッテマリーンズ28回戦(千葉マリンスタジアム)、10回裏一死に7番手で救援登板・完了、2/3回無失点
  • 初ホールド:2005年3月27日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、10回表に5番手で救援登板、1回2/3を無失点

背番号 編集

  • 41(1997年 - 2007年)
  • 94(2009年 - 2021年、2024年 - )
  • 74(2022年 - 2023年)

代表歴 編集

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、202ページ
  2. ^ 倉野コーチの後任としての2021年限りで現役引退した中田コーチを着用したが、2023年に中田コーチがチームの四軍制導入に伴い、四軍投手コーチに配置転換された為、背番号が変更となり空き番となったが、倉野が3年ぶりに球団のコーチとして再び着用することになった。
  3. ^ プロ野球全12球団選手名鑑 2017―全選手写真掲載!オールカラー (COSMIC MOOK)、コスミック出版、2017年、P22
  4. ^ コーチングスタッフの退団について 福岡ソフトバンクホークス球団公式サイト、2021年10月29日
  5. ^ 元ソフトバンク倉野信次氏が米国留学へ「日本一の投手コーチになるために」 日刊スポーツ、2021年12月6日
  6. ^ 元ソフトバンク倉野信次氏、米マイナーリーグでコーチ研修「自分を見つめ直すいい機会に」 日刊スポーツ、2022年2月14日
  7. ^ 倉野信次『第7話 チーム合流』”. 倉野信次オフィシャルブログ「アメリカ便り」Powered by Ameba. 2023年11月25日閲覧。
  8. ^ 【ソフトバンク】コーチ武者修行の倉野信次氏が夜間特別講義 パドレス受け入れに続き米との融合模索”. 東スポWeb (2022年11月13日). 2022年11月16日閲覧。
  9. ^ 倉野信次氏がレンジャース傘下コーチに 千賀滉大ら育成 日本人投手コーチとしては初”. 西日本スポーツ (2023年1月19日). 2023年1月26日閲覧。
  10. ^ ソフトB 3年ぶり復帰の倉野1軍投手コーチ兼ヘッドコーティネーター「僕自身を魔改造してきました スポーツニッポン、2023年11月1日
  11. ^ 新入団コーチのお知らせ 福岡ソフトバンクホークス公式サイト、2023年10月31日
  12. ^ 3年ぶり復帰のソフトバンク倉野投手コーチ「僕に助けを求めてくれた」 新入団コーチが会見 西スポ、2023年11月1日
  13. ^ a b c 武田翔太や千賀滉大を “魔改造” …「選手から『嫌われてやろう』と思って」と投手コーチ明かす”. Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌] (2022年1月16日). 2022年1月18日閲覧。
  14. ^ 地味な投手が150キロ豪腕に変身…「魔改造」の倉野信次とほかのコーチとの決定的違い(3/3ページ) PRESIDENT Online 2021/12/11 12:00 (2022年5月2日閲覧)
  15. ^ a b c 【ズバリ】「新人選手のレベルが落ちている」コーチ歴13年の倉野信次さんが語る若手の体と指導法の変化【あのドラ1投手にガチ説教!?】【ちゃんと野球の話SP③/3】【ソフトバンク巨人】 上原浩治の雑談魂 2022/04/29 (2022年5月1日閲覧)
  16. ^ 第24回日米大学野球選手権大会 オールジャパンメンバー”. 公益財団法人全日本大学野球連盟. 2017年5月14日閲覧。
  17. ^ 第25回日米大学野球選手権大会 オールジャパンメンバー”. 公益財団法人全日本大学野球連盟. 2017年5月14日閲覧。

関連項目 編集

著書 編集

  • 踏み出す一歩 そして僕は夢を追いかけた(ブックダム 2023年10月13日) ISBN:978-4-911160-00-8
  • 魔改造はなぜ成功するのか(角川書店 2021年12月08日) - ISBN コード : 9784041111451

外部リンク 編集