山科家(やましなけ)は、藤原北家四条流公家華族。公家としての家格羽林家、華族としての家格は伯爵家。

山科家
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本姓 藤原北家四条流庶流
家祖 藤原実教
種別 公家羽林家旧家
華族伯爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国山科荘
京都府
著名な人物 山科言継
支流、分家 生駒氏武家)  (猪熊家)
山浦上杉氏武家)(猪熊家)
杉渓家華族男爵))
若王子家奈良華族
凡例 / Category:日本の氏族

家名は家領があった京都山科荘に由来する。家業は装束衣紋で、江戸時代には高倉家とともに装束色目を担当した。

現・当主は29代山科言和(やましな ときかず)。


概要編集

平安時代末期公卿中納言藤原家成の六男・藤原実教徳大寺公親猶子)を初代とする。その後、後白河法皇の近臣、藤原教成が養子となりその跡を継ぐ。教成は法皇の近臣平業房高階栄子(丹後局)の間の子であったが、母が法皇の寵妃となって権勢を得たため、法皇の命により藤原実教の養子となったものである。正二位権中納言まで昇進した[1]

南北朝時代山科教言以後、代々内蔵頭を輩出して朝廷財政を運営した。

山科家は家領として播磨下揖保庄を知行していたが守護赤松氏の家臣佐用氏(赤松氏一門)や播磨島津氏室町幕府奉公衆)に現地の経営を任せ年貢を得ていた(守護請)。幕府の権威があっときは順調に収益があったとされる。しかし戦国時代になると戦国大名赤松氏に横領され年貢が納められなくなり家計が厳しくなった。

また備前国居都荘も知行し薬師寺氏代官としていたが、戦国大名浦上氏に横領され、ここからも年貢が得られなくなった。

戦国時代言継(ときつぐ)は日記言継卿記』を著した。『言継卿記』は、戦国時代の京都を中心とする畿内の情勢を知る上で必要不可欠な一級史料として知られる。

言継の息子言経は、勅勘をこうむり摂津国に下ったため、四辻家から教遠が山科の名跡を継いだとして朝廷に仕えた。

教遠が実家の四辻家を継ぐことになると代わりにそのである教利が山科家を継承した[2]

しかし後に、徳川家康の意向により、言経が朝廷に復帰したため、教利は、猪熊家を別に立て猪熊教利と名を変えざるをえなくなった。

言緒は徳川家康と親しい関係にあり、たびたび冷泉為満江戸へ下向した。

江戸時代家禄300石

明治維新後、華族令施行により言縄(ときなお)が伯爵位を賜る。

上冷泉家とともに、維新後も京都に本拠を置き続けている数少ない旧・公家である。

言泰(ときひろ)は、蹴鞠保存会の会長を務める。2018年平成30年)12月、明治以降は初となる生前継承が行われ、言和(ときかず)が29代目当主となった[3]

系譜編集

幕末の領地編集

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の山科家領は以下の通り。(2村・300石)

脚注編集

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  1. ^ 今谷明『戦国時代の貴族 「言継卿記」が描く京都』 p13
  2. ^ 林大樹 「堂上公家猪熊教利兄弟の経歴と家伝・家譜」(朝幕研究会編 『論集 近世の天皇と朝廷』 (岩田書院2019年令和元年))
  3. ^ 毎日新聞 [リンク切れ]
  4. ^ 平業房の子、猶子。
  5. ^ 四辻公遠の子。
  6. ^ 四辻公遠の子・教遠の弟。
  7. ^ 藤谷為賢の子。
  8. ^ 徳大寺公迪の2男。

参考文献編集

中世山科家の家領経営と家業。