全身麻酔
全身麻酔(ぜんしんますい、英: General anesthesia)は、麻酔方法の一つ。手術する部位のみを麻酔する局所麻酔に対し、全身麻酔は脳を含めた全身を麻酔するため意識が消失する。
全身麻酔が薄れるまでの間、患者は異変を訴えることができないため、麻酔科医が患者のそばで注意深く監視・観察する必要がある。局所麻酔や脊髄幹麻酔と比較して、全身麻酔の長所は、あらゆる部位の手術に用いることが出来ることにある。麻酔の4要素として、鎮静(意識消失)、筋弛緩、鎮痛、有害な自律神経反射の抑制が挙げられる。局所麻酔と異なり、全身麻酔はこれらの条件を全て満たすことができる。
歴史
2世紀から3世紀に書かれた『三国志』には、中国後漢末期に華陀が「麻沸散」という麻酔薬を用いて手術を行ったと記載されている。この「麻沸散」は全身麻酔薬であろうと考えられているが、どのようなものであったかは明らかではない。
正確に確認できる全身麻酔の記録としては、文化元年10月13日(1804年11月14日)に華岡青洲が行った乳癌の手術が初出である。このとき用いられた麻酔薬「通仙散」はチョウセンアサガオにトリカブトやトウキなどを配合した薬品であった。西洋では、1846年にアメリカでウィリアム・T・G・モートンが行ったジエチルエーテルによる手術が初の全身麻酔手術となる。エーテルは引火性に難があり、すぐにクロロホルムに取って代わられたが、クロロホルムも毒性のために死者が相次ぎ、使われなくなるのに時間はかからなかった。
1934年に、アメリカのアーネスト・ヴォルワイラーによって開発されたチオペンタールは、現在に至るまで全身麻酔薬として使用されており、WHOのエッセンシャル・ドラッグにも指定されている。
なお全身麻酔のうち、なぜ吸入麻酔が効くのかについては、21世紀に入った今でも完全には作用機序が分からないままである。
手順
以下、典型的な開腹手術を想定して概略を述べる。ただし術前の合併症や、年齢・性別・体重など、患者の状態に応じ、異なる手順が用いられる。
かつては円滑に麻酔を開始するために、手術室入室前に鎮静薬や抗コリン薬などの薬剤投与を行っていた(前投薬と呼ばれる)。現在は麻酔薬そのものの有害作用が軽減し、個人確認や手術部位確認などを手術室内で行う必要性があることから、はっきりと覚醒した状態で手術室に入室することが望ましく、特に成人では前投薬を行わないことが多い。
手術室に入室後、血圧計、酸素飽和度計、心電図モニターを装着し、末梢静脈ルートを確保したのち、必要な場合には硬膜外麻酔を実施する。硬膜外麻酔用のカテーテルは術中だけでなく、術後の鎮痛にも用いることができる。
次に、十分な酸素投与を行う。患者を入眠させるために、おもに静脈麻酔薬であるバルビツール酸系やプロポフォールと、合成麻薬であるフェンタニルやレミフェンタニルを組み合わせて用いる。患者の入眠後はマスク換気により気道確保、人工呼吸ができることを目視および機器で確認し、筋弛緩薬を投与する。筋弛緩薬としてはロクロニウムが用いられることが多い。
筋弛緩薬の効果が得られたら、よりいっそう確実な気道確保のため、気管挿管を行う。その後は人工呼吸関連機器を作動させる。
導入後は、吸入麻酔薬であるセボフルランやデスフルラン、または静脈麻酔薬であるプロポフォールを持続的に投与し、麻酔の効果維持を行う。
手術終了予定時刻もしくは、その進捗が終わりに近づくと、それに合わせて麻酔薬を徐々に減量し、手術終了後に麻酔薬を完全に止める。その結果患者の意識が次第に回復するため、手を握ることができる、深呼吸ができる、目線を動かすことが出来るなど、筋弛緩薬の効果の消失、麻酔薬による呼吸抑制の有無などを確認し、条件を満たすなら気管チューブを抜去する(抜管)。そして十分な確認ののち、病棟へ帰室させる。
術前評価
患者の状態、手術の内容を吟味し最適な麻酔方法を検討する。
患者のあらゆる状態の評価
手術対象の疾患のみならず、これまでの病歴、合併症、基礎疾患についても家族などに聞き込んで評価し、投薬する麻酔の種類を選出するための判断材料として定めていく。
- 虚血性心疾患、不整脈などの循環器疾患の有無。
- 気管支喘息、慢性閉塞性肺疾患などの呼吸器疾患の有無。
- 高血圧、糖尿病、高脂血症をはじめとする生活習慣病や、喫煙歴、医薬品、酒、薬物の使用歴。
- 体型。特に極度の肥満。
- 気道確保は容易であるか。
- アレルギーはないか。
- 最終飲食は何日の何時頃か。これは緊急手術の場合重要である。
- 各種検査データ(血液検査、心電図)および画像検査(X線写真、CT画像、MRI画像)など。
- 過去に手術や麻酔を受けて、異常が生じた血縁者はいないか。
- 過去の麻酔歴、手術の記録があれば、それも参考にする。
- 手術の方法や手順に不明な点があれば、主治医・術者に確認する。
アメリカ麻酔科学会(en:American Society of Anesthesiologists)では全身状態を6つに分類しており、ASA-PS(ASA physical status)と呼んでいる。手術前のASA-PSと予後は相関することが分かっている。
通常の待機手術であれば十分な時間をかけた術前評価が可能だが、緊急手術では不十分になってしまうことが多い。
麻酔方法の選択
実施する予定の手術方式や患者の状態に応じ、適切な麻酔方法を選択する。全身麻酔単独ではなく硬膜外麻酔や伝達麻酔など、ほかの麻酔方法を併用することもある。合併症、基礎疾患によっては使用できない薬剤もあるためよく検討する。
術前訪問
患者を訪問し、診察や問診、実際に行う予定である麻酔方法の説明などを行う。手術前の患者はいろいろな疑問、不安を抱えている。これらに真摯に耳を傾け、的確な説明をし不安を取り除く。術前訪問は患者の状態を自分の目で確認し情報を得ることのみならず、良好な医師と患者の関係を築く第一歩となる。
麻酔が原因と思われる死亡率 | 麻酔10万件に約1件 |
---|---|
麻酔が原因と思われる心停止 | 麻酔10万件に約5件 |
重大な血圧低下 | 麻酔1万件に約1件 |
重大な低酸素状態 | 麻酔1万件に約2件 |
日本の麻酔説明パンフレットをドイツのものと比較した報告があり[1]、それによると日本の場合は麻酔の併発症による死亡率について記載されている。同文献に例として挙げられている表は、下記のように患者が記憶しやすい1桁の数値を表として自然に注意がいく形になっている。
しかし、日本の麻酔説明パンフレットは、病院によって、頁数やどれだけ多くの数値が記載されているかにばらつきがみられる[2][3]。
前投薬
- 術前の不安を取り除いたり、術中の有害な自律神経反射を抑制したりする目的で行われる投薬のことである。
- かつては、前投薬で鎮静した患者を病棟から手術室へベッドのまま搬送することが多かったが、2022年現在では、前投薬を廃止して、歩行入室する施設が多い[4][5][6]。
- 古典的な方法は鎮静薬と抗コリン薬(アトロピン又はスコポラミン)を入室30分前程度に投与する。鎮静にはヒドロキシジン(アタラックスP)などを用い、鎮痛にはペンタゾシンなど。これらは筋肉注射されることが多い。他には胃酸分泌抑制薬(H2拮抗薬)など。
- 後年、疼痛や合併症を伴う筋肉注射を避けるため、内服のベンゾジアゼピンを用いたり、アトロピンなどは手術室入室後に投与することが好まれた。抗コリン薬は入室後、点滴内から投与しても術中の有害反射を抑制する十分な効果は得られるとされる。
導入
もっぱら用いられるのは以下の3種類の方法である。静脈麻酔薬としては、プロポフォールや、チアミラール、チオペンタールなどのバルビツール酸系、ミダゾラムなどのベンゾジアゼピンが用いられる。
- 急速導入(Rapid Induction)
- 静脈麻酔薬を用いて入眠させる、通常の麻酔導入方法。
- 緩徐導入(Slow Induction)
- 吸入麻酔薬によりマスク換気で入眠させ、麻酔を深くしたあと、静脈路確保を行う麻酔導入方法。覚醒状態で静脈ラインの確保が困難な小児などに用いる。
- 迅速導入(Rapid sequence induction)
- 以前はCrash Inductionとも呼ばれた。緊急時の手術の場合などで、胃内容物があるような場合(フルストマック)に誤嚥性肺炎の危険性が高いと考えられる場合に行う方法で、十分な酸素化と胃内容物吸引ののち、静脈麻酔薬と筋弛緩薬を一度に投与し、マスク換気を行わずに気管挿管を行う方法。入眠後は輪状軟骨を圧迫して食道を閉鎖して胃内容物の逆流を防ぐ。
導入時に用いられるテクニック
- Priming principle
- 一度に全量の筋弛緩薬を投与するのではなく、前もって少量を投与してから全量を投与し挿管する方法。アセチルコリン受容体の一部をあらかじめ少量の筋弛緩薬で占拠しておくことで、非脱分極性筋弛緩薬でも迅速な効果の出現が得られる。
- Precurarization
- 脱分極性筋弛緩薬の線維束性攣縮による胃内容物の逆流などを防ぐために、あらかじめ少量の非脱分極性筋弛緩薬を投与しておく方法。
維持
プロポフォール、あるいは吸入麻酔薬を持続投与して麻酔の維持が行われる。近年のバランス麻酔では良好な鎮痛と覚醒を得るために、吸入麻酔薬やプロポフォールなどの鎮静薬を少なめにしてオピオイドを主体とした全身麻酔を行うことが好まれる。硬膜外麻酔を併用した場合、鎮痛薬も鎮静薬も少なくてすみ、自己調整鎮痛法のPCA)による鎮痛も非常に良好である。筋弛緩薬も減量できることが多い。2007年(平成19年)に日本で発売されたレミフェンタニルは短時間で作用し、長時間多量に使ってもただちに効果が消失する、理想的なオピオイドであり、これにより麻酔維持がオピオイド主体に変わりつつある。しかし術後鎮痛が新たな問題となっている。基本的には術中はバイタルサインと手術の進行具合を見ながら、麻酔の深度が適切であるのか、鎮静、鎮痛は十分か、出血量はどうか、輸液の量や尿量は適切かといったところを考えながら全身管理をしていくこととなる。
- 吸入麻酔薬
- よく利用されるのはセボフルラン、デスフルランである。かつては、エーテルやハロセンが鎮痛・鎮静・筋弛緩の万能薬と考えられていたこともあったようだが、現在は筋弛緩薬、オピオイドを適切に使い、吸入麻酔薬は鎮静目的でのみ用いる、バランス麻酔が主体である。かつて多く用いられた亜酸化窒素は使用されなくなってきている。
- 静脈麻酔薬
- 2022年現在、麻酔維持に保険適応があるのはプロポフォールとレミマゾラムである。
- 筋弛緩薬
- 体動を防いだり、筋緊張を取り除いて手術操作をしやすくする目的で用いるが、十分な麻酔深度があると判断するとこれ以上は投薬しないことも多い。高濃度の局所麻酔薬を用いて硬膜外麻酔を行っても、良好な腹壁の筋弛緩は得られる。
- 直腸麻酔(注腸麻酔)[注釈 3]
- 直腸に直接、注入する。麻酔効果が強くないが、点滴や経口投与を嫌がる、幼小児における検査や包帯交換、小手術などで用いられる。チオペンタール[7]や抱水クロラールが使用される。
体温
麻酔中は熱喪失の増大と熱産生の低下、および体温調節機構の閾値低下により低体温症になりやすい。周術期における低体温はよくみられる症状であるが、36℃以下になると、出血量・輸液量増加、止血・凝固系の異常、術創部感染率増加(免疫能低下)、心筋虚血発生率の有意な増加などをもたらす。
また、体温をモニターすることで、悪性高熱症を発症した場合、迅速に処置できる[8]。
体温管理法
- 室温の維持:30℃以上にすると、体温低下予防に効果的だが、執刀医の不快感が増大することによる手術行為の中断や失敗の誘因になる可能性があるため、限界がある。
- 輸液・輸血の加温:大量かつ急速に投与する必要がある場合に有効。
- 温水ブランケット
- 温風ブランケット
- 送気の加温と加湿
- 体外循環:体温を急速に変化させることができる。
- 体表のクーリング
- アミノ酸輸液:異化の亢進を防ぎ、熱産生を促す。
測定部位
中枢神経や重要臓器の温度(中枢温)は、体の中心部から血液を導体として運ばれ、さまざまな部位の温度変化が観察できる。いずれの部位も臓器の温度以外にさまざまな影響がある。
- 血液温:正確で感度がよいが、肺動脈カテーテルの挿入が必要で、挿入時は高度の技術が要求される。
- 食道温:食道下部3分の1に留置することで、心臓の温度(血液温)ときわめて高い相関を示す。
- 鼓膜温:非接触型のプローブにより非侵襲的かつ衛生的に、連続測定が可能であるが、プローブと装着部位に隙間があると、低く測定されてしまう。
- 膀胱温:サーミスタつき膀胱カテーテルで測定する。
- 直腸温:排便の影響で中枢温よりも低く測定される場合がある。事前絶食を行っていれば、その影響は小さい。
- 気管温:吸気の影響で中枢温よりも低く測定される場合がある。
- 口腔温:唾液の影響で中枢温よりも低く測定される場合がある。
- 前額深部温:血流が豊富な頭部で衛生的に測定できるが、特殊なモニター機器が必要である。
- 腋窩温:腋窩を3分以上閉鎖腔として測定する必要がある。
麻酔における脳波
以下は特記のないものは『周術期管理チームテキスト』第3版(公益社団法人 日本麻酔科学会、2016年8月10日発行)より[8]。
- 脳細胞の電気活動を頭皮に設置した電極を通して記録する。
- 脳波は覚醒度に応じてさまざまな変化をきたすため、麻酔中の鎮静度の度具合を計る(知る)指標として活用されている。
- 麻酔中は筋弛緩薬が投与されていることが多く、顔面筋の筋電図の混入が少ないことや、振幅が麻酔薬の影響で大きくなるなどにより比較的波形を読みやすい。
部位
前頭部から導出された脳波を利用することが多い。その理由としては、前頭部から導出された脳波は麻酔によって臨機応変に変化し、髪の毛がなく電極を配置しやすいことなどがあげられる。
脳波変化
- 麻酔薬の種類によってその度具合が異なる。
- 揮発性麻酔薬のセボフルランやイソフルラン、および静脈麻酔薬のプロポフォールなどによる脳波変化の度具合は類似している。これらは麻酔薬濃度を上昇させていくと、脳波の振幅は大きくなるとともに周波数は低くなる。つまり、ゆっくりした波が主体となる。さらに上昇させると、平坦な脳波と大きな振幅で速い波が交互に出現する特異的なパターン(burst and supression)となる。さらに上昇させると、平坦な脳波の部分が増加していき、やがて完全に平坦な脳波となる。
- 揮発性麻酔薬およびプロポフォール以外の麻酔薬としては、亜酸化窒素やケタミンが挙げられる。亜酸化窒素は麻酔作用が弱いために単独で用いられることは少ないが、単独で用いると振幅が小さく通常のベータ波よりも周波数の速い波が見られる。さらに高い濃度では、振幅が大きく周波数も非常に遅いデルタ波なども出現する。
- 現在、麻酔中のモニターとしで用いられている脳波モニターで麻酔薬の効果判定が可能なのは、前者のセボフルラン、イソフルラン、プロポフォールなどを用いた場合である。亜酸化窒素やケタミンを投与した麻酔の場合には効果判定が難しいため、慎重な判断が望まれる。
脳波モニター
- BISモニター(BIS: bispectral index):BIS値を見るモニター。BIS値は平坦な脳波の場合に0、もっとも覚醒している状態を100として表示する。一般的に、80以上の場合には「覚醒」、60から80の場合には「浅い鎮静」、40から60までの場合には「手術麻酔に適したレベル」、そして40未満は「深麻酔」とされている。
- aepEXモニター(aep: auditory evoked potential):耳にイヤホンを通してクリック音を発生させ、頭部に数個の電極を貼付することによって検査し、麻酔深度を評価する機器。aepEXは、144msecまでのAEP波形を基本情報として算出した数値を表示する。AEPが完全に平坦な時に0、覚醒時には100に近い数値を示す。
BIS値やAEP値は絶対値ではなく推定値であり、現時点での鎮静度の評価のひとつである。それゆえ、実際の鎮静度とは大小なりの乖離が認められることもある。その原因は以下の通り。
鎮静度の乖離の原因
- ノイズの混入:BISモニターは心臓からの電流を除去するフィルターを備えているが、しばしば起電力の大きい心筋電位の混入が問題となる。特に、新生児や心肥大患者で著明となる。また、筋弛緩薬を投与していないときは、筋電図の混入にも注意が必要である。
- 年齢:新生児は、覚醒時から徐波が主体である。小児では振幅が大きく、基本周波数が高い傾向にあるため、BIS値は本来の鎮静度よりも高く表示される。
- paradoxical arousal:麻酔深度が不十分なときに疼痛などの刺激が加わると巨大デルタ波が観察されるため、BIS値が低下する現象。
- β activation:麻酔薬は浅い鎮静レベルではむしろ速波が増える(β activationする)ため、BIS値が覚醒時よりも高い傾向を認める。
- 虚血、心停止、脳血流の低下では、脳波が徐波化する。鎮静レベルが一定にもかかわらずBIS値が急激な低下を認めた場合には、これらを疑う。
覚醒・抜管
麻酔薬を止め、意識が回復し、筋弛緩作用からの回復も十分で、一回換気量、呼吸回数、従命可能であるなどの条件を満たせば気管チューブを抜くことができる。これを抜管(ばっかん)という。ただし、この状態でも筋弛緩薬の効果はある程度残っているため、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬であるネオスチグミンと、ムスカリン作用を抑制するための硫酸アトロピンを投与し、筋弛緩薬のリバース(拮抗)を行う。リバースを行う場合、筋弛緩薬がある程度自然に消退していないと、再筋弛緩が発生するため危険である。抜管後、患者を観察し問題なければ帰室させる。
覚醒の準備
麻酔覚醒により疼痛や低体温などに対する血圧上昇、身震いなどによる体温調整を行う生理現象(シバリング)などの生体反応が顕在化してくる。覚醒させる前に、体温、疼痛管理、呼吸循環状態などが覚醒可能な状態に安定しているかどうかを評価する必要がある。全身麻酔中、体温の保持を積極的に努めないと次第に低下し続ける。それを防ぐために、手術終了に向けて通常の体温保持に加え、室温を上昇させ、さらなる体温上昇を目指す。
- 吸入麻酔
- 吸入麻酔からの覚醒は、導入時の逆順序で、麻酔回路内の吸入麻酔薬供給量を0%にすることで、肺胞内の吸入麻酔薬分圧を血液中より低下させ、血液中、そして脳内から肺胞内への吸入麻酔薬排泄を促進する。脳内の吸入麻酔薬分圧が覚醒レベルに至れば自然に覚醒する。
- 静脈麻酔
- 全身麻酔維持に用いられる静脈麻酔薬は、おもにプロポフォールである。手術終了に合わせて、BIS値を参考にしながら投与量の加減を調節する。
- 筋弛緩薬
- かつては非脱分極性筋弛緩薬を麻酔科医の経験則に基づいて使用していた。覚醒時には、始発呼吸の出現を待って拮抗薬を使用する方法が一般的であった。しかしこの方法では、筋弛緩状態からの回復が不十分である可能性がある。神経刺激装置は、比較的安価で、それを用いて客観的に筋弛緩からの回復を確認して麻酔覚醒をはかることが望まれる。
予想される濃度や時間を超えて意識や反応が回復しない状態を覚醒遅延という。
全身麻酔でよく使われる薬物
ここでは全身麻酔でよく使われる薬を述べる。
麻酔薬
吸入麻酔薬
- 詳細は「吸入麻酔薬」を参照
- 亜酸化窒素(笑気)
- 吸入麻酔薬の中では比較的強力な鎮痛作用を持つが、最小肺胞内濃度が高いため単独で全身麻酔をするのは困難である。以下の吸入麻酔薬と併用して用いられる。しかし現在では全静脈麻酔(TIVA)の普及や、オピオイド主体のバランス麻酔が普及していること、また、術後の嘔気嘔吐の頻度が高まったり、笑気自体が温室効果の原因となるなど、次第に敬遠される方向にある。若手麻酔科医は吸入麻酔を用いる際も笑気をまったく用いない者も多く、使用量は減少している。
- イソフルラン(フォーレン)
- 強烈なエーテル臭と気道の刺激性から、緩徐導入は困難であるが、生体内代謝率の低さから、肝・腎機能の低下した患者の麻酔などで好んで用いられた。調節性がセボフルランやデスフルランに劣るため、近年はあまり用いられない。
- セボフルラン(セボフレン)
- 血液ガス分配係数の小ささと臭いが穏やかなことから緩徐導入に向く。ほぼどんな用途でも用いることができ、現在もっとも頻用されている吸入麻酔薬である。低流量麻酔下(総流量2リットル以下)では、旧タイプの二酸化炭素吸収剤との接触により発生するCompound Aが腎機能障害を起こすとされたこともあるが、現在ではほとんど問題とされることはない。
- デスフルラン(スープレン)
- セボフルランよりもさらに調節性にすぐれた吸入麻酔薬であり、日本においてセボフルランと市場シェアを二分している。気道刺激性があり、緩徐導入には適さない。
静脈麻酔薬
- チオペンタール(ラボナール)/チアミラール(イソゾール)
- バルビツール系静脈麻酔薬。アメリカでは2009年に生産中止[9]。小児にも成人にも使用可能である。重度の喘息には禁忌と添付文書に記載されている。
- プロポフォール(ディプリバン、プロポフォールマルイシ)
- 肝臓での代謝が早く、麻酔の導入にも維持にも好んで用いられるもっとも主流の全身麻酔薬である。疼痛効果がなく、フェンタニルなどの麻薬鎮痛薬や硬膜外麻酔などの局所麻酔と併用する。小児に対する麻酔目的での使用は禁忌ではないが、避けられる傾向にある。これは集中治療分野で、長期間鎮静のために投与された患者にPropofol Infusion Syndromeという重篤な病態が発生した報告があるためである。
- ミダゾラム(ドルミカム)
- 短時間作用性のベンゾジアゼピン。循環抑制がプロポフォールなどよりは軽く、重症患者の麻酔導入や、麻酔前投薬にも用いられる。
- ケタミン(ケタラール)
- 解離性麻酔薬と呼ばれる。視床、大脳新皮質は抑制するが、大脳辺縁系を賦活する。血圧上昇、頻脈などを起こす。呼吸抑制は軽度。体性痛をよく抑え、熱傷の疼痛除去でも好んで用いられる。近年、日本では麻薬に指定され、法的な取り締まり対象となったが、薬理学的には麻薬(オピオイド)ではない。
麻薬
- 拮抗薬にナロキソンがある。
神経遮断薬
筋弛緩薬
- ベクロニウム(マスキュラックス)
- 非脱分極性筋弛緩薬である。拮抗薬にネオスチグミン(ワゴスチクミン)がある。
- スキサメトニウム
- 脱分極性筋弛緩薬である。
- ロクロニウム(エスラックス)
- 非脱分極性筋弛緩薬である。作用はベクロニウムに類似するが、作用発現までの時間が短い(1、2分)。スガマデックス(ブリディオン)で拮抗されるが、ネオスチグミンでも拮抗される。
循環器官用薬
昇圧薬、降圧薬(カルシウム拮抗薬)、血管拡張薬、抗不整脈薬がある。
昇圧薬
降圧薬(カルシウム拮抗薬)
- ニカルジピン(ペルジピン)
- ジルチアゼム(ヘルベッサー)
血管拡張薬
- ニトログリセリン(ミリスロール)
- 虚血性心疾患の治療にも用いられる。
- プロスタグランジンE1(プロスタンディン)
- ニコランジル(シグマート)
- 冠血管拡張薬
抗不整脈薬
心拍数のコントロール
徐脈に対して
頻脈に対して
心室性不整脈に対して
バランス麻酔
全身麻酔の3要素として、鎮痛・鎮静・筋弛緩(有害反射の抑制を含めると4要素)があげられる。かつて用いられていたエーテルのような麻酔薬では、単一薬物で3要素を満たしているように考えられてきた。このため、麻酔深度という一言で麻酔レベルが表現されてきた。
しかし、現在の全身麻酔薬は導入・覚醒が速い一方、麻酔の要素のいずれかを持たないか、持っていても弱いことが多い。したがって、単一で全身麻酔の3要素を満たすことは現実的ではない。さらに、深いレベルの鎮静によって手術侵襲に対する循環系の亢進が抑制されていても、サイトカインやカテコラミンなどで表される神経内分泌反応は抑制できないことが判明している。そこで、現在は3要素のそれぞれが至適レベルになるよう鎮静・鎮痛・筋弛緩薬を投与するバランス麻酔が主流になっている。なお、硬膜外麻酔などの神経ブロックを併用することによって強力な鎮痛や筋弛緩を得ることも可能であることから、薬物だけではなく局所麻酔法を併用することもバランス麻酔に含まれている。
麻酔薬を併用する場合には薬物相互作用を考慮する必要がある。揮発性麻酔薬に亜酸化窒素を併用する場合にはMACは相加的であるが、異なる受容体に作用する薬物の併用時、たとえばプロポフォールとオピオイドなどにおいては相乗的に働く。
全静脈麻酔
全静脈麻酔(total intravenous anesthesia:TIVA)は全身麻酔を静脈麻酔薬のみで行う麻酔であるが、広義では揮発性麻酔薬やガス麻酔薬を用いない方法ととらえられており、硬膜外麻酔などの神経ブロックを併用することも含まれている。
TIVAはプロポフォールとフェンタニルの組み合わせで行われてきたが、超短時間作用型オピオイドであるレミフェンタニルや、蓄積性のより少ない非脱分極性筋弛緩薬であるロクロニウムの登場により、施行頻度は上昇している。TIVAに用いられる鎮静・鎮痛・筋弛緩薬はいずれも作用発現が速く、持続時間が短いことに加え、強力な作用を有していることから、全身麻酔薬の調節性が向上した。
TIVAの利点は揮発性麻酔薬などによるオゾン層破壊といった地球環境への影響がないことと、亜酸化窒素使用に伴う腸管膨大作用や閉鎖腔の問題を回避できることなどがある。
NLA[注釈 4]
NLAとはニューロレプト鎮痛(neuroleptanalgesia)またはニューロレプト麻酔(neuroleptanesthesia)の略称である。ニューロレプト鎮痛では神経遮断薬(neuroleptics)と鎮痛薬(analgesics)を併用することにより、患者は周囲に無関心な鎮静状態となるが、意識は消失しない。
ニューロレプト麻酔ではニューロレプト鎮痛に亜酸化窒素を併用し意識を消失させる。NLAには原法と変法があり、原法ではドロペリドールとフエンタニルを用いる。変法では原法以外の組み合わせが用いられ、ベンゾジアゼピンと拮抗性鎮痛薬を併用することが多い。
NLAの特徴として循環抑制作用が比較的軽度であることがあげられるが、脱水患者などでは注意を要する。また、術後まで鎮静・鎮痛作用が持続することや、術中に指示動作が可能な点、ドロペリドールを用いる際には強力な制吐作用を得られる点があげられる。しかし、欠点として、鎮痛・鎮静レベルを推定することが困難であることや、手術侵襲による血圧上昇・頻脈がある。この麻酔法は薬剤添付文書や教科書には記載が見られるが、2018年現在では原法・変法ともにほとんど施行されることがなくなっている。理由としては、ドロペリドールには半減期が長く、錐体外路症状やQT延長の副作用があること、フェンタニルはレミフェンタニルよりも調節性に劣ること、亜酸化窒素は閉鎖腔の内圧を上昇させること、ベンゾジアゼピン系や拮抗性鎮痛薬は調節性に劣ることなどが挙げられる。しかし、意識下挿管時にはNLAはその呼吸・循環抑制の少なさから、よい適応となる場合がある。
関連項目
参考文献
- 麻酔科必修マニュアル 槙田浩史 編 羊土社 2006 (スーパーローテート各科研修シリーズ ISBN 4897063442
- STEP 麻酔科 高野義人監修 海馬書房 2004 (Step series, ) ISBN 4907704275
- イヤーノート内科外科等編 2007年版 メディックメディア ISBN 9784896321500
- 麻酔科シークレット ames Duke [著], 太城力良, 上農喜朗, 辻本三郎 監訳. メディカル・サイエンス・インターナショナル, 2002.11 ISBN 9784895923224
- 麻酔科研修の素朴な疑問に答えます 稲田英一 監修. メディカル・サイエンス・インターナショナル, 2006.5 ISBN 4895924440
- 麻酔の研修ハンドブック 小栗顕二 編著. 金芳堂, 1999.10 ISBN 4765309762
- 周術期管理チームテキスト 第3版, 公益社団法人 日本麻酔科学会(発行), 2016年8月10日発行
脚注
注釈
- ^ 2000年代前半までは、成人に関しては従来のストレッチャー(簡易ベッド)による病棟から手術室への搬送が多く、この間患者の意識は前投薬で低下していても問題なかった。しかし、これ以降は医療従事者への負担軽減、並びに麻酔薬の改良によって前投薬の必要性そのものが低下した事などから、海外が先んじていた歩行入室が日本においても導入された。前投薬で患者意識が低下していると転倒事故のリスクが生じる事から、歩行入室の普及と共に前投薬は廃止したところが多い。
- ^ 作用発現が迅速なロクロニウムの使用が主流となってから、2022年現在、このテクニックはどちらもあまり用いられない。
- ^ 注腸が全身麻酔の維持に2022年現在、日本で行われることはほぼ、ないかと思われる。チオペンタールには全身麻酔に関して保険適応はあるが、抱水クロラールには保険適応はない。
- ^ 日常行われている麻酔法としては、2022年現在、ほぼ絶滅しているが、学生・研修医向けの書籍には残り続けている。神経遮断麻酔を参照されたし。
- ^ 参考文献に挙げられている書籍の大半は15年以上前の研修医や医学生などの入門者向けのもので、これを元に記載された本項の記載は、内容の古さが2022年現在の現状に即していない部分がある。
出典
- ^ 嶋田文彦, 野坂修一「麻酔説明関連文書の比較」『日本臨床麻酔学会誌』第28巻第7号、2008年、993-999頁、doi:10.2199/jjsca.28.993。
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- ^ a b 周術期管理チームテキスト 第3版, 公益社団法人 日本麻酔科学会(発行), 2016年8月10日発行
- ^ Ed Pilkington (20 December 2011). “Europe moves to block trade in medical drugs used in US executions”. Guardian 2016年6月9日閲覧。