メインメニューを開く

関西学院大学体育会硬式野球部(かんせいがくいんだいがくたいいくかいこうしきやきゅうぶ)は、関西学生野球連盟に所属する大学野球チーム。関西学院大学の学生によって構成されている。

ユニフォームの表記は「KWANSEI」、帽子は「K」と「G」の組み文字。大学野球では珍しくユニフォームが2タイプあり、1回戦と2回戦で使い分けている。ホームゲームは伝統のグレーのユニフォーム、ビジターゲームは縞のユニフォームを着る。初代ビジターユニフォームは2007年ごろまで使用され、上が紺、下がグレーとなっていた。

創部編集

1899年(明治32年)

歴史編集

旧リーグから通算14回のリーグ優勝を誇る。春の全日本大学野球選手権大会では第1回大会で慶應義塾大学に敗れ準優勝。第8回大会では決勝戦で引き分け再試合の末、早稲田大学に敗れ、2度目の準優勝となった。

関大との伝統の一戦「関関戦」は東の早慶戦と並んで、古くは関西で人気のあった対抗戦であった。特に1949年昭和24年)春から1959年昭和34年)秋の22シーズン中、関学が8回、関大が9回と両校の優勝が大半を占めたこともあり大きく盛り上がった。関学の優勝回数の大半がこの時期に集中しており黄金時代だったといえる。1952年昭和27年)には第1回全日本大学野球選手権に出場し、準優勝。

1954年(昭和34年)にも全日本大学野球選手権に出場。村井(関学高)、佐々木(天王寺高)、吉田(泉陽高)、堤(県尼崎高)の充実した投手陣と安西捕手(西条高)、武内(関学高)、西上(県尼崎高)、全日本に選出された斎藤(灘高)、植村(関学高)など充実した戦力だった。決勝戦で早稲田と対戦。安藤、金沢の投手力と近藤昭仁、木次文夫とプロ入りの早稲田に対して、引き分け再戦で9回裏2死無走者で1点リードするも、失策を機にサヨナラ負け。この時三ゴロを逸失したのが五藤康之氏(広島三原高)。後に三菱重工三原監督から三原市長を務めた。

1964年(昭和39年)、監督が社業で不在となり、やむなく小林秀一主将(阿倍野高)がプレーイングマネージャーに。滝口(生野高)、清水(洲本実業)両投手の活躍と、片岡(同志社)、伊東(関学)、湊(住吉)、五十田(向陽学院)、福良(県尼崎)らの活躍で優勝。全日本でも学生監督で準決勝に進出した。)、

1966年昭和41年)秋のリーグ優勝後、入れ替え戦方式になった旧・関西六大学野球連盟において近大龍谷大および大商大などの戦力アップにともない、優勝から遠ざかることになる。また度々2部落ちも経験することとなり、大学側のスポーツ推薦廃止なども重なり低迷期が長期化。大学側としては1978昭和53年)強化策の1つとして、三菱重工三原で活躍したOBの土屋明生(富田林高)を監督に招聘し、野球部の立て直しに着手。

1981年春、スパルタの指導方法で、スポーツ推薦のない野球部を数年で1部復帰させることに成功。その後、関西学生野球連盟が発足し、固定リーグとなったため2部落ちはなくなったものの近大、同志社立命館の牙城を崩せずにいた。

1991年平成3年)に田口壮が関西学生野球連盟の通算安打記録を更新し、谷村智啓以来21年ぶりとなるドラフト指名を受ける。1992年平成4年)の新入生よりついに20年以上ぶりにスポーツ推薦入試を復活させ、その1期生として今治西高校から入学したエース木原栄一郎(のち三菱自動車京都)の活躍もあり1993年平成5年)春に27年ぶりのリーグ優勝を飾る。優勝を置き土産に土屋氏が監督を退任後、坂田穣監督、本荘雅章監督、現在の清水正輝監督のもと戦力強化ならびに人工芝の新グランド、室内練習場を完成させて環境面の整備を行った。しかし宮西尚生荻野貴司清水誉が揃った時期でも優勝にはあと一歩届かなかった。

大阪桐蔭夏の全国制覇を成し遂げた当時の4番バッターである萩原圭吾(現ヤマハ)が主将となってチームを引っ張り、またエース蒔野健太(現東邦ガス)のふんばりでついに2012年(平成24年)10月14日、19年ぶり(39季ぶり)13回目のリーグ優勝を飾る。2013年(平成25年)秋季リーグでは2季ぶり14度目の優勝を飾る。神宮大会出場を賭ける関西地区代表選では、第1代表決定トーナメントの2回戦で大商大に敗れたが、第2代表決定トーナメントにまわり奈良産業大大阪体育大を下し神宮大会初出場を果たした。

本拠地編集

記録編集

主な出身者編集

外部リンク編集