寺田陽次郎

日本のレーシングドライバー

寺田 陽次郎(てらだ ようじろう、1947年3月26日 - )は、日本レーシングドライバー兵庫県神戸市垂水区出身[1]

ル・マン24時間レースに長年に渡り参戦しており、日本では「ミスター ル・マン」の愛称で知られる[2]。現在はマツダ車専門のチューニングパーツブランドの株式会社オートエクゼ代表取締役社長。娘は声優七緒はるひ[3]。元妻は元タレント、リポーター[4]

人物 編集

実家は神戸で盛んだった子供向け合成樹脂シューズ製造をしている靴メーカーで、住み込みの靴職人が30-40名いる環境で育った。寺田は小学校3年の時に家の庭で初めて自動車の運転を経験した[1]。中学から高校の頃には自動車のレーサーになりたいという気持ちがあり、ホンダが葉巻型ボディに日の丸カラーでF1に参戦している記事を見て、なぜホンダなのにドライバーが外人なんだろう。じゃあ、自分がなってやろうじゃないか。と考えるような少年だった[1]。しかし家では父親が中学3年の時に亡くなっており、母は大学に行って家業を継ぐことを望んでいた。

寺田はレーサーになることを望み上京、知人の紹介でレーサー古我信生弟子入りする。実家は誰も継がなかったため、廃業となった。このため母親とはしばらく口を利くことが無くなったという[1]。しかしレース活動を開始するには資金が必要であり、「4年間大学に行かせるためのお金を全部僕に賭けてほしい」と何度も説得。母は最後には折れ、寺田は「母の大きな愛情だったと思う。ものすごく感謝している。」と述べている[1]

師である古我はホンダ系の人物であり、そのため当初はホンダ関連のクラブで手伝いをして18歳から約4年、母から支援を受けたお金でプライベーターとしてレース経験を重ねた。22歳の時にマツダがレース活動を開始するためにドライバーを募集しているのを知り、マツダオート東京に就職。新たに開設されたモータースポーツ相談室に配属された。社員ドライバーとして、マツダのロータリーエンジンを搭載したプロトタイプカーシグマ・MC741974年のル・マン24時間レースでル・マン初参戦。1979年にはRX-7で参戦した。その後1981年から2008年まで連続してル・マンに挑戦しており、1983年1988年1990年・1996年にはクラス優勝を飾っている。現在まで29回参加しており現役最多出場。

耐久レースに強く、デイトナ24時間レースアメリカ)、ル・マン24時間レースフランス)、スパ・フランコルシャン24時間レースベルギー)の世界3大24時間レースを初めて完走した日本人ドライバー。

2003年には長年ル・マン24時間に参戦してきた功績を認められ、ル・マン24時間の主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)の理事に迎えられたほか、2006年にはACOが制定する「The spirit of le mans award」を日本人として初受賞[5]

2007年10月にACOの日本法人「ACO JAPAN株式会社」(現・株式会社JLMS)が設立されるとその初代社長となった。

国際的なレース活動をしていることから、2010年観光庁の初代スポーツ観光マイスターに任命された。

東北地方の子供達の自立支援プログラムSupport Our Kids活動を積極的に支援。2013年より子供達を毎年ル・マン24時間レースに派遣している。

2023年6月19日、フランス政府より長きにわたるル・マン24時間レースへの参戦と日仏の友好関係強化へ貢献した功績を称えられ、国家功労勲章シュヴァリエを受章した[2]

レース戦績 編集

全日本ツーリングカー選手権 編集

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1990 アートネイチャー フォード・シエラRS500 JTC-1 NIS
8
SUG
Ret
SUZ
8
TSU
2
SEN
22
FSW
4

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1974年   マツダ オートモーティブ   岡本安弘
  高橋晴邦
シグマ・MC74-マツダ S
3.0
155 NC NC
1981年   マツダスピード   鮒子田寛
  ウィン・パーシー
マツダ・RX-7 IMSA
GTO
25 DNF DNF
1982年   従野孝司
  アラン・モファット
IMSA
GTX
282 14位 6位
1983年   従野孝司
  片山義美
マツダ・717C C Jr. 302 12位 1位
1984年   ピエール・デュドネ
  従野孝司
マツダ・727C C2 261 20位 6位
1985年   片山義美
  従野孝司
マツダ・737C C2 264 24位 6位
1986年   片山義美
  従野孝司
マツダ・757 GTP 59 DNF DNF
1987年   片山義美
  従野孝司
GTP 34 DNF DNF
1988年   デイビット・ケネディ
  ピエール・デュドネ
GTP 337 15位 1位
1989年   マルク・デュエツ
  フォルカー・ヴァイドラー
マツダ・767 GTP 339 12位 3位
1990年   片山義美
  従野孝司
マツダ・767B GTP 304 20位 1位
1991年   マツダスピード
  オレカ
  ピエール・デュドネ
  従野孝司
マツダ・787B C2 346 8位 8位
1992年   マウリツィオ・サンドロサーラ
  従野孝司
マツダ・MXR-01 C1 124 DNF DNF
1993年   ロータス・スポーツ
  チェンバレン・エンジニアリング
  ピーター・ハードマン英語版
  ソーキルド・サイリング
ロータス・エスプリ S300 GT 92 DNF DNF
1994年   チーム・アートネイチャー   フランク・フレオン
  ピア・デ・トワジフランス語版
マツダ・RX-7 GTO IMSA
GTS
250 15位 2位
1995年   D.T.R.
  マツダスピード
  ジム・ダウニング英語版
  フランク・フレオン
Kudzu・DG-3-Mazda WSC 282 7位 3位
1996年   マツダスピード   ジム・ダウニング
  フランク・フレオン
Kudzu・DLM-Mazda LMP2 251 25位 1位
1997年   Team D.T.R
  マツダスピード
  ジム・ダウニング
  フランク・フレオン
Kudzu・DLM-4-Mazda LMP 263 17位 6位
1998年   クラージュ・コンペティション   フランク・フレオン
  オリビエ・テブナン
クラ―ジュ・C36-ポルシェ LMP1 300 16位 5位
1999年   オートエクゼ・モータースポ―ツ   フランク・フレオン
  ロビン・ドナヴァン英語版
オートエクゼ・LMP99英語版-フォード LMP 74 DNF DNF
2000年   レイチェル・ウェルター英語版   リチャード・バランドラスドイツ語版
  シルヴァン・ブーレイドイツ語版
WR英語版・LMP-プジョー LMP675 266 26位 2位
2001年   ジェラール・ウェルター英語版   ステファン・ダウディドイツ語版
  ジャン・ルネ・ド・フルヌーフランス語版
WR・LMP-プジョー LMP675 245 19位 2位
2002年   オートエクゼ・モータースポ―ツ   ジョン・ファーガスs
  ジム・ダウニング
オートエクゼ WR・LMP-02-マツダ LMP675 5 DNF DNF
2003年   レイチェル・ウェルター   オリビエ・ポルタポーランド語版
  ギャビン・ピカリングドイツ語版
WR・LMP01-プジョー LMP675 235 NC NC
2004年   パトリス・ルーセルポーランド語版
  オリビエ・ポルタ
WR・LM2001-プジョー LMP2 270 26位 2位
2005年   パトリス・ルーセル
  ウィリアム・ビニー英語版
WR・LMP04-プジョー LMP2 233 NC NC
2006年   ビニー・モータースポーツ英語版   ウィリアム・ビニー
  アレン・ティンパニードイツ語版
ローラ・B05/42英語版-ザイテック LMP2 326 13位 2位
2007年   T2Mモータースポーツフランス語版   ロビン・ロンチェカル
  山岸大
童夢・S101 LMP2 56 DNF DNF
2008年   TERRAMOS   加藤寛規
  高橋一穂
クラージュ・LC70-無限 LMP1 224 NC NC

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集