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新京阪鉄道(しんけいはんてつどう)は、京都府大阪府に路線を有していた鉄道会社。現在の阪急京都本線系統にあたる鉄道路線を建設した。

新京阪鉄道
Shin-Keihan Raliway logomark.svg
Tenroku Hankyu Building.jpg
旧・天六阪急ビル(旧・新京阪天神橋駅)
2010年に解体
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
大阪府大阪市北区天神橋筋六丁目[1]
設立 1922年(大正11年)6月[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、バス事業
代表者 社長 太田光凞[1]
資本金 37,000,000円[1]
特記事項:上記データは1930年(昭和5年)現在[1]
テンプレートを表示
路線概略図 

京阪に譲渡、京阪京都開業後の1932年の路線[2]
距離の*は十三起点、#は長岡天神・桂起点、その他は淡路起点


uBHFq uSTRq
大阪市電
KBHFa uKBHFaq
3.3 天神橋駅 阪神北大阪線
新京阪線
BHF
2.6 長柄駅
hKRZWae hKRZWae
淀川
BHF STR
1.3 柴島駅
STR KBHFa BHF
0.0* 十三駅
STR STR ABZgl
阪神急行神戸線
STR STR STRl
阪神急行宝塚線
STR BHF
1.8* 南方駅
STR BHF
3.2* 崇禅寺駅
STRl STRq
十三線
BHF
0.0
4.2*
淡路駅
ABZgl STRq
千里山線
KRZu STRq KRZu
城東貨物線
STR BHF
5.1* 下新庄駅
STR BHF
6.4* 東吹田駅
STR KRZu
東海道本線
STR BHF
6.7* 西吹田駅
STR BHF
7.6* 豊津駅
STR BHF
8.3* 花壇前駅
STR BHF
8.6* 大学前駅
STR KBHFe
9.3* 千里山駅
exKBHFa STR
京阪梅田駅
exBHF STR
桜ノ宮駅
exLSTR STR
京阪梅田線
exBHF STR
赤川駅
exSTR tSTRa
exSTRq eABZg+r
城北線
BHF
1.9 上新庄駅
BHF
2.9 吹田町駅
ABZgl STR+r
BHF KDSTe
5.2 正雀駅
BHF
10.5 茨木町駅
BHF
11.9 総持寺前駅
BHF
13.1 富田町駅
BHF
16.3 高槻町駅
BHF
20.6 上牧桜井ノ駅駅
BHF
23.6 大山崎駅
KRZu
東海道本線
STR exKBHFa
1.9# 海印寺駅
eABZg+l exSTRq exSTRr
BHF
0.0#
27.4
長岡天神駅
BHF
29.3 西向日町駅
exSTR+l exSTRq eABZgr
exBHF STR
上久我駅
exBHF STR
城南宮駅
exBHF STR
深草駅
exBHF STR
勧修寺駅
exBHF STR
山科駅
exLSTR STR
京阪六地蔵線
exKHSTe STR
馬場駅
exLSTR STR
名古屋急行電鉄
exKHSTe STR
名急名古屋駅
BHF
30.8 東向日町駅
ABZgl STR+r
BHF KDSTe
33.7
0.0#
桂駅
ABZgl STRq
嵐山線
STR BHF
1.4# 上桂駅
STR BHF
2.8# 松尾大社駅
STR KBHFe
4.1# 嵐山駅
BHF
35.8 西京極駅
exSTR+l eABZgr
exSTR tSTRa
exKBHFe tBHF
37.7 西院駅/左:西院仮駅
uSTRq mtKRZ uBHFq
京都市電西大路線
uSTR+l mtKRZ uSTRq
京都電燈嵐山線
uHST tSTR
umKRZo tKRZ STRq
山陰本線
uKBHFe tSTR
四条大宮駅
uBHFq mtKRZ
京都市電大宮線千本線
tKBHFe
39.1 京阪京都駅

歴史編集

京阪電気鉄道系の会社として、淀川西岸における新路線の敷設を行うために設立された。

大正中期以降、阪神間においては、阪神電気鉄道阪神本線と、阪神急行電鉄(阪急)の神戸線が激しい乗客獲得競争を繰り広げていた。この状況を、阪神急行電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が阪神間新線の免許を申請した時から見ていた京阪電気鉄道は、自社の保有する京阪本線に関する競合線が同様に出現し、利権が損なわれる事態へ発展することを危惧した。

この頃、京阪間の淀川西岸に高規格新線を敷設する計画が複数の企業から出ていたことから、京阪も自社線防衛を目的として敷設特許申請を行った。これは、国鉄線の運営と私鉄の許認可を含む監督業務を行っていた鉄道省の、阪神間のような熾烈な競争を憂慮する考えとも合致した。特許[3]が下りた後、準拠法を軌道法から地方鉄道法へ切り替えた。敷設を行うための子会社として新京阪鉄道を設立、免許[4]が譲渡された。

当初は、梅田に京阪本線(京阪梅田線)と共用の総合ターミナル駅を設ける予定であったが、諸事情があって当面は実現できないと見られたため、十三駅 - 淡路駅 - 千里山駅間の路線を所有していた北大阪電気鉄道を買収し、同社の所有していた免許を利用して天神橋筋六丁目(天六)に大阪方起点を設けることとした。

完成した天神橋駅(現天神橋筋六丁目駅)にはターミナルビルとして、新京阪ビルディング(後の「天六阪急ビル」:2010年に解体)を設けた。これはアメリカのパシフィック電鉄などのインターアーバンのターミナルに範を取った、プラットホームを2階に設ける電鉄駅内蔵型高層ビルの日本における嚆矢となる[要出典]、当時としては破格の高層建築物[5]である。このビルと、ここから新淀川橋梁直前まで続く鉄筋コンクリート造の高架橋のコンセプトや基本設計は、以後日本で開業することになる第2世代の都市間高速電車群の路線計画に多大な影響を与えた。

また、京都側では地下線によって市内に乗り入れる予定であったが、工事には時間と多大な費用を要すること、そして昭和天皇即位大典京都御所で催されることになっていたことから、暫定的に市の外れ、当時葛野郡西院村(1931年京都市右京区へ編入)に駅を設置し、ここから京都市電市バスなどで市街地へアクセスさせることにした。

1928年、天神橋 - 西院間を開業させたが、ほどなく1930年には京阪に吸収合併された[6]。これは昭和恐慌の影響もあり、新京阪のみならず、本体の京阪も各方面への積極的な進出があだとなって多額の負債を抱えており、両社を統合して経営再建を図る目的があった。なお京都市内への地下乗り入れに関しては、合併間もない1931年に京阪京都(現・大宮)までの延伸という形で果たされている。また京阪グループでは、将来名古屋方面までの路線延長を名古屋急行電鉄として計画していたが、これは恐慌の影響で立ち消えとなった。

新京阪鉄道では、車両は当時の最高水準を実現していた。特に1927年から製造した「6番目の旅客車両形式 Passenger car 6」を意味するP-6形電車は、全長19m・重量52t・出力800馬力という、当時日本で最大最強の高速電車であり、最速の「超特急」で天神橋-京阪京都間を34分(表定速度75.3km/h)で結んだ。また国鉄東海道本線特急」を並行区間で追い抜いたという逸話で知られる[7]。新京阪鉄道の沿線は人口過疎地域であったため、都市間輸送に専念するしか乗客獲得が見込めなかったことが、このような高性能電車を生む結果となった。

戦中1943年には京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄(阪急、1973年に阪急電鉄と改称)となった。

しかし戦後の1949年、旧京阪電鉄は京阪神急行からの分離、独立に舵を切り始める。その際に行われた役員会において、旧京阪側は合併前の京阪本線・新京阪線の姿に戻す形で独立し、新会社を発足させたいと主張したのに対し、旧阪急側は新京阪線と、それに属する千里山線・十三線・嵐山線の各線を阪急に譲るのならば分割に応じると主張した。だが、役員の比率において少数であった旧京阪側は多数決で敗北し、やむなく新京阪の路線は阪急側へ割譲されることとなり、それらは京阪分離後阪急京都本線阪急千里線阪急嵐山線となった[8]

なお京阪分離前の1945年からは、新京阪線電車の阪急梅田駅乗り入れが開始されており、これが新京阪線系統の路線が阪急に残存することとなった一要因になったのではないかとも言われている。

このような歴史的経緯から、京都本線系統の各線は、車両技術・規格や施設面において阪急が自社建設した軌道条例軌道法由来の路線とは多く異なる面があった。そのため現在でも、阪急自身が建設した神戸線宝塚線系統の各路線を「神宝線」と総称し、京都本線系統の各線と区別することがある。

新京阪鉄道設立まで(京阪電気鉄道時代)編集

  • 1918年(大正7年)4月16日 淀川西岸支線敷設特許申請
  • 1918年(大正7年)12月27日 延長線追願(目論見書変更申請)(山崎、長岡、桂、西京極、西院、四条大宮)
  • 1919年(大正8年)7月21日 特許状及び命令書下付
  • 1920年(大正9年)2月21日 城東線一部払下申請
  • 1920年(大正9年)5月20日 鉄道大臣より城東線一部払下内諾
  • 1920年(大正9年)5月24日 払下請書、野江から北区本庄葉村町へ起点変更申請
  • 1921年(大正10年)11月14日 特許から免許に変更申請
  • 1922年(大正11年)4月25日 特許から免許へ変更許可

新京阪鉄道編集

  • 1922年(大正11年)6月28日 新京阪鉄道創立
  • 1923年(大正12年)4月1日 北大阪電気鉄道から鉄道事業を譲受
  • 1923年(大正12年)6月18日 淡路 - 上新庄間敷設免許
  • 1923年(大正12年)9月5日 十三 - 稗島間敷設免許
  • 1923年(大正12年)12月3日 豊津-箕面間支線敷設免許申請(1925年10月22日却下)[9]
  • 1924年(大正13年)5月13日 京都電燈、松尾村 - 新神足村 - 海印寺村間敷設免許。後に新京阪鉄道が譲り受け
  • 1925年(大正14年)6月15日 新京阪鉄道、西吹田から高槻に至る第二の支線計画を申請
  • 1925年(大正14年)10月15日 天神橋 - 淡路間開業[9]
  • 1926年(大正15年)3月22日 新京阪鉄道、第二の支線計画を差換え手続き[9]
  • 1926年(大正15年)7月5日 下新庄 - 正雀間工事着手
  • 1926年(大正15年)9月15日 茨木町 - 高槻町間工事着手
  • 1926年(大正15年)9月27日 京都市と西院 - 四条河原町間地下敷設契約締結
  • 1926年(大正15年)12月1日 高槻町 - 島本村間工事着手
  • 1927年(昭和2年)1月28日 正雀 - 茨木町間工事着手
  • 1927年(昭和2年)9月 大山崎 - 向日町間工事着手
  • 1927年(昭和2年)10月13日 京都電燈より新京阪鉄道に松尾村 - 海印寺村間敷設免許譲渡[10]
  • 1927年(昭和2年)10月18日 大宮 - 河原町間敷設免許
  • 1927年(昭和2年)11月19日 正雀車庫竣工(1928年2月1日使用開始)
  • 1927年(昭和2年)11月29日 京都西院 - 四条大宮間工事施行認可
  • 1928年(昭和3年)1月16日 淡路 - 高槻町間開業。架線電圧を直流1,500Vに昇圧
  • 1928年(昭和3年)2月 桂 - 西京極間工事着手
  • 1928年(昭和3年)5月22日 松尾村 - 海印寺村間免許(洛西線)、桂 - 嵐山間及び東長岡(長岡天神)- 海印寺間に路線分割、起終点変更[10]
  • 1928年(昭和3年)5月25日 桂 - 嵐山間工事着手[10]
  • 1928年(昭和3年)10月20日 桂車庫竣工
  • 1928年(昭和3年)10月30日 向日町変電所竣工
  • 1928年(昭和3年)11月1日 高槻町 - 西院(仮駅)間開業
  • 1928年(昭和3年)11月9日 桂 - 嵐山間開業
  • 1928年(昭和3年)6月15日 京都地下線、西院 - 西大路四条間工事着手
  • 1928年(昭和3年)7月2日 西向日町 - 山科間敷設免許申請[11]
  • 1928年(昭和3年)9月16日 正雀車両工場竣工
  • 1928年(昭和3年)11月6日 西向日町 - 山科間敷設免許[11]
  • 1929年(昭和4年)10月14日 第二の支線計画却下
  • 1929年(昭和4年)2月20日 京都地下線、道路下区間工事準備
  • 1929年(昭和4年)7月1日 京都地下線、道路下区間鉄矢板打ち込み開始
  • 1929年(昭和4年)8月11日 京都地下線、専用区間竣工
  • 1929年(昭和4年)9月14日 千里山-山田間延長線敷設免許申請[9]
  • 1930年(昭和4年)10月11日 東長岡(長岡天神) - 海印寺間、起業廃止許可申請(5年2月22日廃止許可[10]
  • 1929年(昭和4年)10月21日 西向日町 - 山科間工事施行認可申請[11]
  • 1930年(昭和5年)1月20日 京都地下線、道路下区間掘削開始
  • 1930年(昭和5年)4月21日 天神橋 - 西院に超特急運転開始
  • 1930年(昭和5年)6月17日 京阪電気鉄道、新京阪鉄道との合併仮契約
  • 1930年(昭和5年)6月23日 京都地下線、道路下区間構築開始

京阪電気鉄道編集

  • 1930年(昭和5年)9月15日 京阪電気鉄道・新京阪鉄道合併
  • 1931年(昭和6年)3月31日 新京阪線の京都地下線、西院 - 京阪京都(大宮)間開業
  • 1931年(昭和6年)12月23日 千里山 - 山田間延長線敷設免許[9]
  • 1932年(昭和7年)10月13日 千里山 - 山田間延長線工事施行認可申請期限延期申請[9]
  • 1932年(昭和8年)10月20日 千里山 - 山田間延長線再度工事施行認可申請期限延期申請[9]
  • 1934年(昭和9年)9月1日 十三 - 京都間直通急行列車運転開始。その後一時休止
  • 1935年(昭和10年)9月27日 千里山 - 山田間延長線起業廃止申請(翌年11月28日廃止許可 [9]
  • 1937年(昭和12年)8月7日 西向日町 - 山科間起業廃止申請(同年9月28日廃止許可[11]
  • 1941年(昭和16年)11月1日 十三 - 京都間直通急行列車運転再開
  • 1943年(昭和18年)10月1日 京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が合併、京阪神急行電鉄となる

これ以降は阪急京都本線阪急電鉄阪急阪神ホールディングスを参照

駅一覧編集

京阪電気鉄道時代、1932年、京阪京都開業後のものを示す[2]。距離は路線図参照。

新京阪線
駅名 接続路線
天神橋駅 大阪市電
阪神電気鉄道北大阪線
長柄駅 大阪市電
柴島駅  
淡路駅 京阪電気鉄道:千里山線・十三線
上新庄駅  
京阪吹田駅  
正雀駅  
茨木町駅  
総持寺前駅  
富田町駅  
高槻町駅  
上牧桜井ノ駅駅  
大山崎駅  
長岡天神駅  
西向日町駅  
東向日町駅  
桂駅 京阪電気鉄道:嵐山線
西京極駅  
西院駅 京都電燈嵐山本線
京都市電西大路線
京都市営トロリーバス無軌条線
京阪京都駅 京都電燈:嵐山本線
京都市電:四条線大宮線千本線
千里山線
駅名 接続路線
淡路駅 京阪電気鉄道:新京阪線・十三線
下新庄駅  
東吹田駅  
西吹田駅  
豊津駅  
花壇前駅  
大学前駅  
千里山駅  
嵐山線
駅名 接続路線
桂駅 京阪電気鉄道:新京阪線
上桂駅  
松尾神社前駅  
嵐山駅  
十三線
駅名 接続路線
十三駅 阪神急行電鉄:神戸本線宝塚本線
南方駅  
崇禅寺駅  
淡路駅 京阪電気鉄道:新京阪線・千里山線

未成線編集

山科線[11]
駅名 接続路線 備考
西向日町駅 京阪電気鉄道:新京阪線  
上久我駅 旧京都市神川出張所北側付近
城南宮駅 京都パルスプラザ付近
深草駅 疏水中郷橋東側付近
勧修寺駅 旧東海道本線山科駅西側
山科駅 京阪電気鉄道:六地蔵線 京阪バス山科営業所付近
洛西線(東長岡 - 海印寺間)[10]
駅名 接続路線 備考
東長岡駅 新京阪鉄道:新京阪線 長岡天神駅
海印寺駅 柳谷登山鉄道(駅間距離約900m) 長岡京市奥海印寺

輸送・収支実績編集

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1923 3,088,043 12,079 169,722 93,759 75,963 62,392
1924 3,372,326 47,252 244,695 227,701 16,994 建設費より135,245 償却金120,432雑損482 77,634 181,552
1925 3,744,303 92,752 312,402 281,993 30,409 配当補足金125,514 償却金67,574雑損328 99,555 137,048
1926 6,140,665 83,770 582,350 453,807 128,543 兼業16,665雑損1,297 713,866 99,324
1927 7,718,113 123,163 726,173 569,298 156,875 兼業91,534雑損4,802 489,871 82,655
1928 10,119,437 40,688 981,391 1,022,765 ▲ 41,374 食堂59,515 雑損2,759 742,332 132,592
1929 15,656,008 16,741 3,154,070 2,205,701 948,369 自動車食堂667,140 雑損14,963 1,415,783 91,023
1930 13,134,290 9,508 2,366,101 1,781,475 584,626 自動車669,690 雑損21,144 1,634,051 84,458
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版

車両編集

1943年の阪急・京阪の戦時統合前までの新京阪線に導入された車両を記す。

旅客車編集

 
P-4形(後の京阪・阪急10形)
 
P-6形(後の京阪・阪急100形)
P-1(1形)
北大阪電気鉄道が1921年の開業時に1形として新造[12][13]。1928年の昇圧対応の対象外となり、愛宕山鉄道信貴生駒電鉄に移動した[12]
P-4・P-5(10形)
千里山線用として1925年に登場した小型木造車で、新京阪が最初に新造した電車である[13]。1966年に廃車。10号が保存されている[13]
P-6(100形)
京阪間の本線開通に備えて1928年に登場、長距離高速電車の草分けとなった[14]。1973年に廃車、116号が技術遺産として保存されている[14]
200形
千里山駅で焼失した10形25・55号の代替として1937年に新造、車体は流線形となった[15]。1970年に廃車[16]
300形
千里山線用として1943年に登場、電動車で計画されたが電装品を調達できず制御車となった[17]。1957年に700系に編入、1976年に廃車[18]

機関車編集

 
阪急4301号(元新京阪1号)
1 - 3電気機関車
千里山付近の土砂を大阪市内に運搬する土運車の牽引用で、1924年に新造[19]。数度の改番を経て1964年に4300形となり、1975年の除籍後も1両が正雀工場の入換用に使用された[20]
60・61(蒸気機関車
1927年に国有鉄道より60形蒸気機関車のうち2両を譲受[21]。本線の建設用、千里山付近の土砂運搬用、保線用に使用され、1938年に廃車[21]

貨車編集

51(4輪電動貨車)
1921年製造の有蓋車。1500V昇圧対応はされず1929年に休車、1934年に廃車となり、1955年頃まで物置として使用されていた[20]
52・53(4輪電動貨車)
1921年製造の無蓋車。昇圧対応はされず、1929年に信貴生駒電鉄に貸与され、1940年に返却された[22]。その後は客車に改造され大津線で使用された[20]
1001 - 1014(無蓋車)・1015 - 1020(無蓋緩急車)
1924年製造の4輪無蓋付随貨車で、土砂運搬用である[20]。阪急継承後は保守用の砕石運搬車として神戸線・宝塚線にも配置され、1971年に除籍された[21]
4・5(無蓋電動貨車)
1928年製造の無蓋電動貨車で、1929年に4001・4002に改番された[19]。4001は1949年に長物車に改造され1979年まで使用、4002はほぼ原型のまま1974年に廃車[21]
6・7(有蓋電動貨車)
4・5と同時期に製造の有蓋電動貨車で、1929年に3001・3002に改番された[23]。貨物営業用と事業用に使われ、1956年に廃車、機器は210系に流用された[21]
8(電動魚菜車)
1928年に製造、翌1929年に5001に改番された。中央に魚菜室、両側に客室があり、早朝の新聞や生鮮食料品を輸送した[24]。戦後は救援車となり1964年に4501に改番、1982年に廃車[25]

形式称号編集

P-6の3次車P-6Bは527 - 539の13両であり、このうち最初に完成したのは538号である[26]。1929年2月6日に538号の竣工届を監督官庁に提出した際、鉄道省監督局長より形式称号を付与すべきとの照会を受け、新京阪では形式称号についての検討が行われた[26]

1929年6月1日付で形式記号制定届が提出された。内容は以下のとおり[26]

分類 記号 番台 車両番号
小型電動客車 デハ 1 1 - 5(旧番3・5 - 8)
小型電動客車 デロ 10 11 - 30(旧番9・10 → 29・30)
小型付随客車 フロ 50 51 - 56
大型電動客車 デイ 100 101 - 143
貴賓用付随客車 フキ 500 500
大型付随客車 フイ 500 501 - 529
無蓋付随貨車 1000 1001 - 1020
電気機関車 デキ 2000 2001 - 2003(旧番1 - 3)
有蓋電動貨車 デワ 3000 3001・3002(旧番6・7)
無蓋電動貨車 デト 4000 4001・4002(旧番4・5)
電動魚菜車 デハニ 5000 5001(旧番8)

京阪本体との合併後はこの記号は使われなくなったが、「デイ」「デロ」の記号が鉄道ファンの間で浸透している[26]

バス事業編集

新京阪はごく小規模ながらバス事業を行っており、4路線を開設していた[27]

備考編集

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e 『日本全国諸会社役員録. 第38回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 鉄道省『昭和12年10月1日現在 鐵道停車場一覧』鉄道省、東京、1932年、pp. 387-389。(鉄道史資料保存会覆刻(1986年)ISBN 4-88540-048-1
  3. ^ 最終的には大阪市北区本庄葉村町-四条大宮間
  4. ^ 東成郡城北村赤川-四条大宮間。残区間の城北村赤川-北区本庄葉村町は京阪電鉄に残ることになる。
  5. ^ 新京阪の本社機能はここに置かれており、1930年の京阪合併後は代わって京阪の本社機能がここに置かれた
  6. ^ 1930年5月26日付神戸新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  7. ^ 新京阪鉄道P-6形電車#変遷も参照のこと
  8. ^ 当時の労働組合が書いた『斗いの記録 組合十年史』(京阪神急行電鉄労働組合,昭和32年9月10日)において、「太田恒社長はひとりで基本線…新京阪線を阪急が取る代償として、京阪電鉄をスッキリとした形で復活させる…」とある
  9. ^ a b c d e f g h 末尾至行 「幻の鉄道三件」『吹田の歴史』3号、1975年、1-13頁。
  10. ^ a b c d e 若林正博「京阪六地蔵線と新京阪洛西線-昭和初期の京都近郊の鉄道計画-」『資料館紀要』(京都府立総合資料館)第45号、2016年、2-74頁。
  11. ^ a b c d e 若林正博「京阪六地蔵線、新京阪山科線と名古屋急行-行政文書から探る昭和初期の鉄道計画-」『資料館紀要』(京都府立総合資料館)第43号、2015年、158-251頁。
  12. ^ a b 山口益生『阪急電車』69頁。
  13. ^ a b c 『阪急電車のすべて 2010』34頁。
  14. ^ a b 『阪急電車のすべて 2010』38頁。
  15. ^ 『阪急電車のすべて 2010』36頁。
  16. ^ 山口益生『阪急電車』83頁。
  17. ^ 『阪急電車のすべて 2010』37頁。
  18. ^ 山口益生『阪急電車』84頁。
  19. ^ a b 『阪急電車のすべて 2010』94頁。
  20. ^ a b c d 山口益生『阪急電車』85頁。
  21. ^ a b c d e 山口益生『阪急電車』86頁。
  22. ^ 『阪急電車のすべて 2010』93頁。
  23. ^ 『阪急電車のすべて 2010』93頁。
  24. ^ 『阪急電車のすべて 2010』95頁。
  25. ^ 山口益生『阪急電車』87頁。
  26. ^ a b c d 山口益生『阪急電車』88頁。
  27. ^ 鉄道ピクトリアル」2000年12月臨時増刊号(京阪電気鉄道特集)

参考文献編集

  • 山口益生『阪急電車』JTBパブリッシング、2012年。
  • 阪急電鉄『HANKYU MAROON WORLD 阪急電車のすべて 2010』阪急コミュニケーションズ、2010年。

関連項目編集