日本二十六聖人

日本二十六聖人
ウィキペティア.jpg
日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」[1]
(記念碑の建物は日本二十六聖人記念館)
殉教日 1597年2月5日慶長元年12月19日
殉教場所 長崎
処刑方法
崇敬する教派 カトリック教会聖公会
列福日 1627年9月14日
列福場所 ローマ
列福決定者 ウルバヌス8世
列聖日 1862年6月8日
列聖場所 ローマ
列聖決定者 ピウス9世
記念日 2月5日
テンプレートを表示

日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった[2]

目次

経過編集

豊臣秀吉は、1587年7月25日にキリシタン禁教令を発布した。(宣教師たちには追放命令が出された。)秀吉が禁教令を出した理由には諸説あるが、秀吉は国内の政治と宗教のつながりを恐れていたため、特に九州征伐の時にキリシタン大名が同じ信仰の絆で強く結ばれているのを見てキリシタンに対する警戒心が危機感へと発展していったとされる[3][4]。そして、その当時、キリシタン大名キリシタン(信者)によって寺社が焼き払われたり僧侶が迫害されたり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元ではキリシタンが迫害されたりする事件が相次いでいた。さらにポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られている事例が発覚した。ただし、秀吉は南蛮貿易の実利を重視していたため、この時点では大規模な迫害は行われなかった。 黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができたし、キリシタンとなった日本人が公に棄教を迫られる事はなかった。

しかし、1596年10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はイエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。三成は捕縛名簿からユスト高山右近の名を除外することはできたが[5]パウロ三木を含むイエズス会関係者の除外は果たせなかった。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。ちなみに、二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達であった。

24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった[3][6]。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった[7]

厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された(一行は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだという)。処刑当日の2月5日、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも関わらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命した[3][8]のは午前10時頃であった。

処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。1862年6月8日ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑「昇天のいのり」が建てられた[1]。カトリック教会における「日本二十六聖人殉教者」の祝日は2月5日である[7]

26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。

二十六聖人の氏名編集

(以下、二十六聖人記念碑の右側から順に列挙)

フランシスコ吉(きち)
日本人大工。フランシスコ会員の世話をするため、一行に付き添い、道中で捕縛された。
コスメ竹屋
日本人、38歳。大坂で捕縛される。
ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)
日本人、イエズス会員の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛された。
ミカエル小崎(またはミゲル小崎)
日本人、46歳。京都で捕縛。トマス小崎の父。
ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎、市川喜佐衛門、備前屋喜左衛門とも称す)
日本人、64歳。大坂で捕縛。行商者として上阪し商家に奉公した後、イエズス会員として祭壇係および門衛(接待係)に就く。備前国岡山藩津高郡馬屋郷芳賀村(現在の岡山県岡山市北区芳賀)出身。
パウロ三木
日本人、33歳。大坂で捕縛。イエズス会員。
パウロ茨木
日本人、54歳。京都で捕縛。レオ烏丸の兄。
五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)
日本人、19歳。大坂で捕縛、イエズス会員。
ルドビコ茨木
日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
長崎のアントニオ
日本人、13歳。京都で捕縛。父は中国人、母は日本人。
ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ)
スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭
マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
スペイン人、30歳。大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス、本名・フェリペ・デ・ラス・カサス[9]
メキシコ人、24歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士
ゴンザロ・ガルシア
ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
フランシスコ・ブランコ
スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
フランシスコ・デ・サン・ミゲル
スペイン人、53歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
マチアス
日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
レオ烏丸
日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
ボナベントゥラ
日本人、京都で捕縛。
トマス小崎
日本人、14歳。大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)
日本人、40歳。大坂で捕縛。
医者のフランシスコ(またはフランシスコ医師)
日本人、46歳。京都で捕縛。
トマス談義者
日本人、36歳。京都で捕縛。
絹屋のヨハネ
日本人、28歳。京都で捕縛。
ガブリエル
日本人、19歳。京都で捕縛。
パウロ鈴木
日本人、49歳。京都で捕縛。

日本二十六聖人に捧げられた教会編集

脚注編集

  1. ^ a b 長崎歴史散歩, p. 26-27.
  2. ^ 日本二十六聖人 カトリック高槻教会
  3. ^ a b c 日本のカトリック教会の歴史 3.秀吉のキリシタン禁教令と26聖人殉教 Laudate 女子パウロ会
  4. ^ 結城了悟『日本とバチカン』女子パウロ会、初版、1989年2月20日。59-63頁。ISBN 4-7896-0308-3
  5. ^ 古巣馨『ユスト高山右近 いま、降りていく人へ』ドン・ボスコ社、3刷、2014年7月4日。134-138頁。ISBN978-4-88626-568-5。
  6. ^ 結城了悟『日本とバチカン』女子パウロ会、1989年2月20日。69-73頁。
  7. ^ a b 日本二十六聖人名簿 日本二十六聖人記念館ホーム・ページ
  8. ^ 結城了悟『日本とバチカン』女子パウロ会、1989年2月20日。73-78頁。
  9. ^ フェリペ・デ・ヘスースの生涯

参考文献編集

  • イザヤ木原真 『殉教 天国の希望と喜び 日本二十六聖人と浦上キリシタンの歴史』 み声新聞社、2006年7月。ISBN 4-902000-01-6
  • 岡本良知「日本耶蘇会とフィリッピンの諸修道会との論争――二十六聖人殉教の遠因として」、『キリシタン研究』第3輯、キリシタン文化研究会編、東洋堂、1948年
  • 『キリシタン研究』第8輯、キリシタン文化研究会編、吉川弘文館、1963年
  • 桑原一利 『天使のゼノさん 日本二十六聖人の祈り』 聖母の騎士社〈聖母文庫〉、2002年7月。ISBN 4-88216-230-X
  • 児島みつゑ 『もうひとつの四百年 備前宇喜多領と二十六聖人殉教事件』 手帖舎、2000年8月。ISBN 4-88743-268-2
  • パチェコ・ディエゴ述「殉教の二十六聖人」、『人間と文化 教養講演集』12、新書編纂委員会編、三愛会〈三愛新書〉、1980年12月。
  • 高橋睦郎 『日本二十六聖人殉教者への連祷 二十六聖人帰天四〇〇年記念「舟越保武の世界展」に寄せて』 すえもりブックス、1999年4月。ISBN 4-915777-24-3
  • 永富映次郎 『鮮血の十字架 日本二十六聖人殉教記』 中央出版社、1977年2月。
  • 永富映次郎 『日本二十六聖人殉教記』 サンパウロ、1997年1月。ISBN 4-8056-6521-1
  • 舟越保武 『舟越保武の世界 二十六聖人の祈り』 舟越保武展実行委員会、1997年
  • ルイス・フロイス 『日本二十六聖人殉教記 1597 | 聖ペトロ・バプチスタ書簡 1596-97』 純心女子短期大学長崎地方文化史研究所編、結城了悟 訳・解説、純心女子短期大学、1995年2月。
  • ルイス・フロイス 『日本二十六聖人殉教記』 結城了悟 訳、聖母の騎士社〈聖母文庫〉、1997年8月。ISBN 4-88216-154-0
  • 『日本二十六聖人記念館』 結城了悟 監修、日本二十六聖人記念館、1987年1月。
  • 結城了悟 『長崎への道 日本二十六聖人』 二十六聖人記念館、1987年4月、改訂5版。
  • 長崎県高等学校教育研究会社会科部会 『新版 長崎県の歴史散歩』 山川出版社、1989年、235頁。ISBN 4634294206
  • 結城了悟 『二十六聖人と長崎物語』 聖母の騎士社〈聖母文庫〉、2002年11月。ISBN 4-88216-233-4
  • 結城了悟『日本とバチカン』女子パウロ会、初版、1989年2月20日。186頁。ISBN 4-7896-0308-3
  • 古巣馨『ユスト高山右近 いま、降りていく人へ』ドン・ボスコ社、3刷、2014年7月4日。199頁。ISBN 978-4-88626-568-5

外部リンク編集

関連項目編集