杉本英世
杉本 英世(すぎもと ひでよ[注 1]、1938年2月16日 - )は、静岡県田方郡小室村(現・伊東市)出身のプロゴルファー。
Hideyo SUGIMOTO | |
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基本情報 | |
名前 | 杉本 英世 |
生年月日 | 1938年2月16日(84歳) |
出身地 | 静岡県田方郡小室村 |
経歴 | |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2015年 |
選出部門 | レジェンド |
2015年12月14日現在 |
息子の英樹もプロゴルファー。
人物編集
父は伊東湾から大島の間を漁場としていた漁師で、イカ釣りやキンメダイ漁で生計を立てていた[1]。杉本も5歳から海に入り、水の怖さを教えられた後は、魚を銛で突くのが日課になる。中学生の頃にはブダイやイセエビをバケツ一杯に捕ったほか、サザエやアワビも食べて育った[1]。3日置きに風呂の水を汲みに行く仕事もあり、天秤棒に通した2つの水桶を担いで、高低差300mの急斜面を3往復した[1]。当時の子供達の遊び場は川奈ホテルGCであり、杉本も木箱の底に竹で2本そりをつけて、斜面を滑り降りる芝そりを楽しんだ[1]。中学進学後は川奈でキャディのアルバイトも始め、伊東高校時代は並外れた体格であらゆるスポーツを手掛ける。ソフトボールでは80メートルもかっ飛ばし、リレー走では5人抜きを演じ、柔道は始めて8ヶ月で黒帯を取得。野球は当時毎日オリオンズの選手兼任監督であった別当薫からプロ入りを勧められるほどであったが、卒業後は川奈ホテルに就職。ホテル業の研修を受けながらプロゴルファーを目指し、玄関のベルボーイ、フロアの清掃係でワックスがけ、客室係でベッドメーキング、夜警の4種類をやらされた一方で、初めて18ホールを回れるようになった。練習はキャディハウスのあった大島コースがもっぱらであったが、富士コースは出勤前の早朝に10番からのハーフのみが許され、川奈で練習していた陳清波から指導を受けた[1]。1959年に我孫子GCで行われたプロテストに合格し、1963年の読売国際でダグ・サンダース( アメリカ合衆国)に次ぐ2位に入ると[2]、同年8月にはオーストラリアのパースへ遠征。カリーニャップ湖ボウルで地元のケル・ネーグルに次ぐ2位と結果を残し[3]、1964年に日本オープンで並み居る強敵に苦戦の末に初優勝を飾る[4]。1965年から1967年にかけて3年連続でワールドカップ日本代表に選出され、9年ぶり2度目の日本開催となった1966年には個人でジョージ・クヌードソン( カナダ)に次ぎ、呂良煥( 中華民国)、ジャック・ニクラス(アメリカ)、アーノルド・パーマー(アメリカ)、ハロルド・ヘニング( 南アフリカ共和国)、ボブ・チャールズ( ニュージーランド)、ブルース・デブリン( オーストラリア)、ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)、ロベルト・デ・ビセンツォ( アルゼンチン)を抑えての2位と健闘。団体では河野光隆とペアを組み、ニクラス&パーマー(アメリカ)、ヘニング&プレーヤー(南アフリカ)、陳清波&呂良煥(中華民国)、デブリン&ネーグル(オーストラリア)に次ぎ、フランク・ファウラー&クヌードソン(カナダ)、ビセンツォ&レオポルド・ルイス(アルゼンチン)、ドナルド・スウェレンス&フローリー・ファンドンク( ベルギー)、バレンティン・バリオス&セバスチャン・ミゲル( スペイン)、ピーター・アリス&トニー・ジャクリン( イングランド)を抑えての5位に入った。1966年の香港オープンではフランク・フィリップス(オーストラリア)の2位に入り[5]、1967年のシンガポールオープンではベン・アルダ( フィリピン)の2位に入る[6]。同年にはマスターズ出場も果たすが、同年11月のハワイアンオープンを寝坊による遅刻で失格。日本プロゴルフ協会から国内試合の1年間出場禁止を言い渡されるが、困った杉本はアメリカPGAツアーのプロテストを受けて見事合格し、日本人プロ初のアメリカツアーライセンスを取得。アメリカツアー挑戦の先駆けとなり、単身参戦で英語辞書を片手に1年間全米を駆け巡る。オービル・ムーディ、チチ・ロドリゲス( プエルトリコ)、リー・トレビノが行動を手助けし、17試合に出場して9試合で予選通過。テネシーオープンでボビー・グリーンウッドの2位に食い込み、『ビッグ・スギ』の愛称が付いた。北海道勇払郡むかわ町にはその愛称を冠し、杉本自身がコース監修を行った「ビッグスギゴルフ倶楽部」[7]があったが、2018年9月の北海道胆振東部地震でコース全体が被害を受け、その改修費用の確保が難しいとして2019年5月末をもって閉鎖されることになった[8]。同年はマスターズ2年連続出場、全米オープン初出場を果たし、チルドレンズナショナルホスピタルプロアマでは4位タイに入る[9]。帰国した1969年には5年ぶり2度目の日本オープンを始め、年間7勝と当時としては驚異的な記録を残し、台湾オープンでアジアサーキット初制覇[10]。日本オープンは大乱戦を切り抜け、 コースレコードで逆転優勝[11]。5年ぶり2度目の出場を果たした日本シリーズは初日に安田春雄と並んで2アンダーの首位となり、2日目は75と崩れて3位に後退したが、舞台をホームコースの東京よみうりCCに移して挽回[12]。3日目69をマークしてトップに返り咲き、2位の安田と内田繁に1打リード[12]。激しい雨となった最終日はこの3人とも76に終わり辛くも逃げ切り、優勝スコアの1オーバー291は大会史上唯一のオーバーパーとなった[12]。なお、この年から各日にベストスコア賞(5万円)が制定された[12]。1960年代後半には細石憲二が日本の唯一のライバルと見なされ、ピーター・トムソンも細石と杉本を日本で最高のゴルファーと見なしていた[13]。同時代に活躍した河野高明、安田と共に「和製ビッグ3」とも称された。1972年にはフィリピンオープンを制し[14] [15]、1973年にはマレーシアオープンでグラハム・マーシュ( オーストラリア)を抑えて日本勢3連覇となる優勝を果たし、3位には3年目の山本善隆が入る[16]。1978年の広島オープンで、プレーオフで尾崎将司に次ぐ2位に入った。第一線を退いてからもコース設計やトーナメントの解説、レッスン番組など幅広く活躍。旺盛な研究心からゴルフ界きっての理論家としても知られ、数多くの優れた解説書を執筆したほか、ゴルフ技術の向上に貢献すると共に後進の指導育成にも力を注いだ。1997年から1999年3月まで日本プロゴルフ協会副会長の要職を務め、2015年12月14日、第4回日本プロゴルフ殿堂のレジェンド部門で殿堂入り[17]。
主な優勝編集
レギュラー編集
- 1964年 - 日本オープン、読売国際オープン
- 1965年 - グランドモナーク
- 1966年 - 関東プロ、ゴールデンマッチ、下関オープン
- 1969年 - 日本オープン、全日本ダブルス(村上隆とペア)、日本シリーズ、愛鷹オープン、ロレックストーナメント、ゴールデンマッチ
- 1970年 - 全日本ダブルス(村上とペア)、全日本トッププロ招待
- 1973年 - 全日本ダブルス(村上とペア)、サントリーオープン
- 1978年 - 東武プロアマ
海外編集
- 1969年 - 台湾オープン
- 1972年 - フィリピンオープン
- 1973年 - マレーシアオープン
主な設計コース編集
- 1974年(昭和49年)
- 「富士ロイヤルカントリークラブ」山梨県南巨摩郡南部町[18]
- 「郡山ゴルフ倶楽部」福島県郡山市三穂田町
- 1975年(昭和50年)
- 「スウェーデンヒルズゴルフ倶楽部」北海道石狩郡当別町[19]
- 1976年(昭和51年)
- 「千成ゴルフクラブ」栃木県大田原市大神
- 「わかさカントリー倶楽部」福井県三方上中郡若狭町[20]
- 1977年(昭和52年)
- 「メナードカントリークラブ・青山コース」三重県伊賀市霧生[21]
- 「ムロウ36ゴルフクラブ」奈良県宇陀市室生向渕[22]
- 「大宝塚ゴルフクラブ」兵庫県宝塚市切畑字長尾山[23]
- 1982年(昭和57年)
- 「千代田カントリークラブ」茨城県かすみがうら市上佐谷
- 1985年(昭和60年)
- 「グランドスラムカントリークラブ」茨城県常陸太田市田渡町
- 「いわむらカントリークラブ」岐阜県恵那市岩村町[24]
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(平成元年)
- 「パーシモンカントリークラブ」福島県伊達市霊山町[26]
- 「鳳琳カントリー倶楽部」千葉県市原市小草畑[27]
- 「愛野カントリー倶楽部」長崎県雲仙市愛野[28]
- 1991年(平成3年)
- 「ナガシマカントリークラブ」三重県桑名市長島町[29]
- 1992年(平成4年)
- 「札幌リッチヒルカントリークラブ」 (1999年(平成11年)閉鎖)北海道樺戸郡月形町
- 1994年(平成6年)
- 「熊本クラウンゴルフ倶楽部」熊本県球磨郡あさぎり町[30]
- 1995年(平成7年)
- 「能代カントリークラブ」秋田県山本郡八峰町[31]
- 1996年(平成8年)
- 1997年(平成9年)
- 「みとゴルフ倶楽部」愛知県豊川市御津町[33]
- 「浮羽カントリークラブ」福岡県うきは市浮羽町[34]
- 1998年(平成10年)
- 「龍の舞ビッグスギゴルフ倶楽部」(2019年(令和元年)閉鎖)北海道勇払郡むかわ町
- 1999年(平成11年)
- 「龍の舞ゴルフクラブ」(2015年(平成27年)閉鎖)福島県白河市表郷
- 2003年(平成15年)
- 「アラン・チャールズゴルフアンドリゾート岡山」(2011年(平成23年)閉鎖)岡山県美作市
出演番組編集
- 現在
- 杉本英世のゴルフクリニック(FMとやま)
- 過去
関連項目編集
脚注編集
注釈編集
- ^ ただし、朝日放送(ABC)制作の『ラークカップゴルフ』(現・マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント)および富山エフエム放送(FMとやま)の『杉本英世のゴルフクリニック』では「すぎもと えいせい」で紹介されている。
出典編集
- ^ a b c d e あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.40 -杉本英世-
- ^ “Sanders's Tokio win”. The Glasgow Herald: p. 6. (1963年3月26日)
- ^ “Big W.A. golf to Kel Nagle”. The Age: p. 23. (1963年8月26日)
- ^ JGA 日本ゴルフ協会 【2008年度(第73回)日本オープンゴルフ選手権競技】
- ^ “Phillips wins Hong Kong golf”. The Canberra Times: pp. 24. (1966年3月28日) 2021年2月27日閲覧。
- ^ “Arda wins Singapore Open”. The Straits Times: p. 20. (1967年3月6日)
- ^ 「龍の舞ビッグスギゴルフ倶楽部」に改称
- ^ “地震被害、ゴルフ場閉鎖へ むかわ「龍の舞」 復旧費確保難しく”. どうしん電子版. 北海道新聞社. (2019年5月21日) 2019年5月22日閲覧。
- ^ Hideyo Sugimoto Profile - News, Stats, and Videos The official PGA TOUR profile of Hideyo Sugimoto. PGA TOUR stats, video, photos, results, and career highlights.www.pgatour.com
- ^ “Sugimoto wins taiwan open”. The Straits Times (Singapore): p. 22. (1969年4月7日) 2020年3月13日閲覧。
- ^ JGA日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】
- ^ a b c d ゴルフ日本シリーズの歴史 第6回 – GOLF報知
- ^ Thomson, Peter (1968年3月11日). “Top golfer a roly-poly”. The Age: p. 19
- ^ “Sugimoto Wins”. The Glasgow Herald: p. 5. (1972年2月28日) 2019年12月6日閲覧。
- ^ “Sugimoto takes PI golf title by two strokes”. The Straits Times (Singapore): p. 30. (1972年2月28日) 2020年3月24日閲覧。
- ^ “Open to Sugimoto”. The Age: p. 28. (1973年3月19日)
- ^ 杉本英世氏、大迫たつ子氏らが日本プロゴルフ殿堂入り - スポニチアネックス、2015年12月14日閲覧
- ^ 「富士ロイヤルカントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「スウェーデンヒルズゴルフ倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「わかさカントリー倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「メナードカントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「ムロウ36ゴルフクラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「大宝塚ゴルフクラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「いわむらカントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「中条ゴルフ倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「パーシモンカントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「鳳琳カントリー倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「愛野カントリー倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「ナガシマカントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「熊本クラウンゴルフ倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「能代カントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「みとゴルフ倶楽部」、2021年5月7日閲覧
- ^ 「浮羽カントリークラブ」、2021年5月7日閲覧
外部リンク編集
- 日本プロゴルフ殿堂・杉本英世プロフィール
- 杉本英世プロフィール - FMとやま